جميع فصول : الفصل -الفصل 600

699 فصول

第591話

「姿月さんが忙しいなら手伝うわよ。今、私暇だし」伊雲が親切心のつもりで口を挟むと、深雲は苛立ちを隠さず、フォークを乱暴に皿の上に落とした。カチャン、という鋭い音が響き、隣で清音がビクリと肩をすくめる。「しつこいぞ」「なによ、ちょっと聞いただけで……」理不尽に怒鳴られ、伊雲は口を尖らせた。深雲は深い溜め息を吐き出す。「俺たちのことに首を突っ込むな」「はいはい、わかりましたよ」伊雲は不服そうに呟くと、話題を変えた。気になっていたことを確かめる好機だ。「じゃあ教えてよ。潤一さんの隣にいたあの子、何者?」深雲が答えるよりも早く、清音がぼそりと呟いた。「……弥生ちゃん。同じクラスの子」母、景凪が弥生の手を甲斐甲斐しく拭いていた光景が脳裏に焼き付いている。清音は苛立ちを募らせ、言葉を継いだ。「あの子、私の家来みたいなものなの。私がいないと誰にも相手にされないんだから。だってみんな言ってるもん、汚くて親に捨てられた子だって」言葉にするうちに感情が高ぶり、清音の声が大きくなる。「弥生ちゃんなんて、ただの乞食よ!」他人が手放したものを拾うなんて、乞食のすることだ。景凪は私のママだ。たとえ私がママを拒絶したとしても、ママであることに変わりはない。それに、お兄ちゃんだってそうだ。成績の悪い子をあんなに嫌っていたはずなのに、なんであの乞食と仲良くしてるのよ!「清音、なんてこと言うんだ。友達だろう?」深雲がたしなめると、清音は耳を塞いで金切り声を上げた。「友達なんかじゃない!」椅子から勢いよく飛び降りると、顔を真っ赤にして叫ぶ。「もうごはんいらない!お城で遊んでくる!」清音は脱兎の如く走り出し、上の階にあるキッズスペースへと向かった。そこには子供用の遊具や城のセットがある。深雲は頭痛を覚え、追いかけようと腰を浮かせたが、その時スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、深雲の表情が強張る。「伊雲、清音を見ててくれ。電話だ」姪のことは可愛がっている伊雲だ。二つ返事で頷くと、すぐに清音の後を追って席を立った。キッズスペースは子供のみが入場できる決まりだ。四方には監視カメラが設置され、数名のスタッフが目を光らせているため、安全性に問題はない。伊雲は近くの壁にもたれ、スマートフォンをいじり始めた。しばらく一人で遊
اقرأ المزيد

第592話

「違うもん!」弥生は顔を真っ赤にして反論した。「私は乞食じゃない!パパとママは遠いところでお仕事してるだけだもん!」弥生の生い立ちを知ったばかりの景凪にとって、その言葉はあまりに残酷だった。「弥生ちゃん、そんなの嘘よ。気にしちゃ駄目」景凪はしゃがみ込み、弥生を抱きしめて涙を拭う。普段は誰よりも清音を可愛がっている辰希でさえ、妹の腕を振り解き、失望を露わにして弥生の元へ歩み寄った。「清音、どうしてそんなひどいことが言えるんだ」大好きな兄と母に拒絶され、清音は小さな拳を震わせた。悔しさと悲しみがないまぜになり、激情となってほとばしる。「だって本当だもん!弥生なんてパパもママもいないくせに!森屋先生だって言ってたもん、死んじゃったって……」「いい加減にしなさい!」パチン、と乾いた音が響いた。景凪の手が、実の娘の頬を打ったのだ。力任せではなかったが、その一撃は確実に、母子の間に決定的な亀裂を生んだ。清音は呆気にとられ、頬を押さえて立ち尽くす。景凪の胸も張り裂けんばかりに痛んだ。自分の腹を痛めて産んだ、かけがえのない娘だ。けれど、産み落としただけで、まっとうな人間に育ててやることができなかった。「何してんのよ!」騒ぎを聞きつけた伊雲が血相を変えて飛んでくる。清音の無事を確認するや否や、怒りに任せて景凪に殴りかかった。「あんた何様のつもり!?よくも清音ちゃんを!」だが、その手は空を切った。景凪が伊雲の手首を掴み、冷ややかに払いのける。その瞳には、嫌悪と怨嗟の色が浮かんでいた。「清音をこんな風に育てたのは、あなたたち鷹野家の責任よ」「なんですって!?」伊雲が言い返そうとした時、低い声が割って入った。「どうした?」会計を済ませた潤一が大股で近づいてくる。カジュアルなジャケットを着こなした洗練された佇まいに、伊雲の心臓が早鐘を打つ。「児玉さん、聞いてください。この女が清音をぶったんです!」伊雲は景凪を睨みつけ、当てこすった。「いい大人が五歳の子供に手を上げるなんて、恥ずかしくないんですか!」潤一は冷静に答えた。「確か、清音ちゃんは穂坂さんの娘だったはずだが。母親が聞き分けのない我が子を躾けるのは、当然のことじゃないかな」そう言うや否や、視線が弥生の赤く腫れた膝に吸い寄せられた。潤一の温厚な表情が一
اقرأ المزيد

第593話

取り残された清音は、伊雲の服をギュッと握りしめ、瞳を潤ませて去りゆく背中を見つめていた。階段を登ってきた深雲が、一行と鉢合わせた。「児玉さん」深雲が軽く会釈し、その視線は自然と潤一の後ろにいる景凪へと注がれた。一瞬、時が止まったかのような静寂。潤一は口元だけで笑みを浮かべ、皮肉たっぷりに言い放った。「鷹野さん、お宅の教育方針には感服しましたよ」深雲は眉をひそめた。「どういう意味ですか?」「おたくの可愛いお嬢さんと妹さんに聞いてみることですね」潤一はそれ以上語る気はないようだった。深雲の視線が執拗に景凪を追っているのに気づくと、潤一はすっと身を引いて景凪と辰希を先に通し、自らが壁となって深雲の視線を遮った。元夫に接触の隙など与えない、という鉄壁のガードだ。「パパ、さようなら」辰希が小さな手を振る。深雲は去りゆく四人の後ろ姿を見送った。弥生を抱いた潤一と、辰希の手を引く景凪。その姿はあまりに自然で、傍目には幸せな四人家族そのものだった。本来なら、その潤一の場所には自分がいるはずだったのに。「お兄ちゃん!」伊雲が清音を抱きかかえて駆け寄ってきた。怒りで顔を紅潮させている。「なんで教えてくれなかったのよ!あの子が潤一さんの娘だなんて!」「なんだって?」深雲は耳を疑った。「まさか。児玉潤一は独身だぞ。結婚どころか、ここ数年、特定の交際相手すらいなかったはずだ。いきなり娘だなんて……隠し子か?」「絶対にそうよ、隠し子に決まってる!」 伊雲は確信を込めて断言した。だから穂坂景凪はあの子にあんなに尽くしていたのだ。潤一さんに取り入るために、実の娘を平手打ちにしてまで!なんて計算高い女なの。伊雲は地団駄を踏んだ。「ああもう、知ってたらあの子にもっと優しくしたのに!」深雲は呆れてものも言えず、伊雲から清音を引き取って抱き上げた。「お前は名家の令嬢だろう。好き好んで継母になりたいなんて、正気か?」「継母だっていいじゃない」伊雲は唇を尖らせて反論した。「姿月さんだって、辰希と清音の継母みたいなものじゃない」「黙れ」この軽薄な妹と話していると、寿命が縮む思いだ。深雲はため息をついた。清音が小さな腕を彼の首に回し、弱々しく囁く。「パパ、帰りたい……」「そうだな、清音ちゃんは疲れちゃったかな?よし、帰ろう
اقرأ المزيد

第594話

交差点で信号待ちをしている間、深雲は後部座席を振り返った。清音は未だに涙を浮かべ、いじけたように口をへの字に曲げている。深雲は眉根を寄せ、諭すように口を開いた。「清音。ママを拒絶したのは、お前自身だぞ。自分で決めたことには責任を持たなきゃいけない」その言葉は、ブーメランのように深雲自身の胸に突き刺さった。彼とて、かつて自らが下した決断の結果に苦しんでいるのだから。邸宅に到着すると、二人のシッターが待ち構えていた。深雲は車を降りず、清音を彼女たちに託すと、そのまま会社へと向かった。道中、研時から着信があった。スマートフォンの画面を一瞥しただけで、深雲は応答拒否ボタンを押した。一方、病室では研時が携帯を耳に当てたまま、無機質なアナウンスを聞いていた。『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』眉間に深い皺を刻み、再度かけ直すが、今度は電源が切られているとの応答だった。「深雲さん、出てくれないの?」ベッドに身を起こした姿月が、研時の表情から全てを察して尋ねる。「忙しいんだろう」姿月の瞳に涙が滲むのを見て、研時は胸を締めつけられる思いだった。「雲天グループの新たな資金調達が大詰めで、一番大変な時期だからな。明日には顔を出すさ。もし来なかったら、俺が首に縄をつけてでも連れてきてやる」姿月はか細く笑い、うつむいた拍子に涙を一粒こぼした。「研時先輩だけ……昔からずっと、私に優しい」「君にはそれだけの価値があるからだ」研時は低い声で囁いた。姿月は潤んだ瞳を持ち上げ、彼を見つめる。「先輩、私の家のこと……もう知ってるよね?私に対して、偏見持ったりしない?両親があんなだから……」「馬鹿なことを言うな!」研時は思わず声を荒らげ、彼女の頬を濡らす涙を指で拭った。「俺は俺が知っている姿月を信じる。君は優しくて善良だ。親世代の因縁なんて、君には何の関係もない。君は被害者なんだ」さらに言葉を強める。「それに、穂坂景凪はそもそも小林おじさんの実の娘ですらないんだぞ。母親が不義密通して産んだ子だ。おじさんは穂坂家の連中に騙されて、他人の種を育てさせられたんだ。これ以上何を我慢しろって言うんだ?あんなふしだらな女の娘に!」研時は警察内部に顔が利き、既に小林家が起こした事件の全貌を把握していた。確かに、小
اقرأ المزيد

第595話

「送るよ」研時は暮翔の後を追い、エレベーターホールまで来た。暮翔は壁に設置されたボタンを押さず、左右を見回して人気の無さを確認すると、小声で切り出した。「研時、あのさ。姿月ちゃんは深雲の婚約者だよ、わかってる?」「知ってるさ。お前に言われるまでもない」研時は冷ややかな眼差しで返す。「俺と姿月は潔白だ。妹のように思ってるだけだ」暮翔は眉を吊り上げた。「でも、血の繋がった本当の妹じゃない。義理とはいえ、ここで付きっきりで看病してたら、外野がどう思うか想像つくでしょ?」「ここは陸野家の病院だ。外部に情報が漏れることなどあり得ない」「……そうかよ」暮翔は天を仰いだ。研時が昔から姿月に甘いのは周知の事実だ。彼が長年、景凪に辛く当たってきたのも、出自への軽蔑以上に、姿月のための義憤に駆られてのことだった。「だいたい、あの景凪って女が離婚した後も色仕掛けでちょっかい出すから、姿月と深雲の関係がこじれてるんだろうが。婚約破棄だなんだと騒がれるのも、全部あいつのせいだ」研時の景凪に対する嫌悪感は底知れない。暮翔はたまらず、公平な意見を口にした。「あのさ、研時さん。離婚を切り出したのは景凪さんの方だよ。彼女は深雲を振って、連絡先も全部ブロックした。未練たらたらなのは、むしろ深雲の方じゃないか?」「ふん、全部あいつの計算ずくだよ」研時は鼻を鳴らした。「わざと辰希の親権だけ奪って、清音を手放したんだ。深雲が後継者と目される辰希を手放すわけがない。あいつを人質に取れば、深雲をコントロールできると踏んでるのさ」暮翔は言葉を失った。これほどまでに人の善意を信じない男がいただろうか。エレベーターが到着し、扉が開く。暮翔は中に入り、開閉ボタンを押さえながら、去ろうとする研時の背中に声をかけた。「研時、俺の余計なお世話かもしれないけど。今まであんたが景凪さんにやってきたこと、結構エグいよ。これ以上首突っ込むと、陸野家の爺さんにも顔向けできなくなるぜ」暮翔には、もう一つ言いたいことがあったが、それは飲み込んだ。姿月ちゃんだって、見た目ほど無垢なわけじゃないと思うけどな……夜のしじまが街を覆っていた。潤一の車が景凪の住むマンションの入り口、ちょうど外灯の光が届かない木陰に滑り込む。エンジンを切ると、潤一は片手でハンドルを握り、後方を振り返
اقرأ المزيد

第596話

景凪は辰希の手を引き、アパートの入口で潤一の車が滑るように去っていくのを見送った。上階へ向かおうとしたその時、ふと視界の端に違和感を覚えた。通りの角、街灯の光が届かない死角に、一台の黒い車が停まっている。車種もナンバーも見分けがつかない。人影があるかどうかも定かではなかったが、何故か背筋がざわついた。まるで、闇の中からじっと見つめられているような。「ママ、どうしたの?」辰希が不思議そうに顔を上げる。「ううん、なんでもない。さあ、帰ろうか」景凪は無理やり視線を外し、辰希を連れて建物の中へ入った。エレベーターの中で、辰希が憤懣やるかたない様子で口を開いた。「今日の清音、本当にひどかったよ。あんな子じゃなかったのに」確かに清音は甘やかされて育ち、多少のわがままはある。けれど、決して弱い者いじめをするような子ではなかった。むしろ以前は、進んで弥生を庇おうとしていたはずだ。辰希は眉間に皺を寄せた。「僕、あの子とちゃんと話をしてみるよ」景凪は何も答えられなかった。清音の振る舞いは、あまりにも深く彼女の心を抉った。これ以上、冷たくあしらわれるのを承知で機嫌を取り結ぶ気力は、もう残っていない。自分にできることをするだけだ。それ以上の無理はしないと決めた。玄関のドアを開けると、室内は桃子によって整然と片付けられていた。辰希のパジャマも既に用意されている。桃子が辰希のために風呂の準備を始める間、景凪はルームウェアに着替え、パソコンを開いた。資料を検索しながらも、ふと窓の外の深い夜に目を奪われる。あの角に停まっていた黒い車が、どうしても脳裏から離れない。胸騒ぎが止まらないのだ。景凪はおもむろに立ち上がり、部屋を出た。「桃子さん。冷蔵庫の牛乳が少なくなってたから、ちょっと下のコンビニまで行ってくるわ」「まだ半分ほど残っておりますが、景凪さん。私が明日買って参りますよ」「いいの、ついでに少し歩きたい気分だから」「では、お供いたしましょうか」「大丈夫よ。あなたは辰希をお願い」景凪はスマートフォンを握りしめ、エントランスから出た。通りにはまだあの黒い車が停まっている。後部座席の窓から片手が突き出され、指の間には紫煙をくゆらせる煙草があった。骨ばった指と露わになった手首のラインが、街灯の薄明かりに浮かび上がっている。景
اقرأ المزيد

第597話

彼女がすぐそばまで来る前に、渡はドアを開けた。唇の端を吊り上げ、手を差し出す。「手を貸してくれるかい?」景凪は躊躇なくその手を取り、もう一方の手で彼の腕を支えた。渡の手は大きく、景凪の手をすっぽりと包み込んだ。掌はひんやりとしていて、体温は一般の人より少し低い。景凪に支えられ、渡はゆっくりと車を降り、近くのベンチに腰を下ろした。街灯が二人の影を長く伸ばし、寄り添うように重ね合わせる。「どのくらい待ってたの?」「君が帰ってくる五分前だよ」渡は何食わぬ顔で答えた。本当は、ここで夕暮れからずっと、空の色が変わるのを眺めていたことなど、おくびにも出さずに。景凪は渡の手首を取り、脈を診る。視線を外さなくともわかる。渡の瞳が、まるでこの世で最も稀少な宝物でも見るかのように、片時も自分から離れようとしていないことを。景凪は意識を集中させ、指先の感覚を研ぎ澄ませた。おかしいわね……渡の回復力は常人のそれを遥かに凌駕している。この大怪我で、これほどの生命力とは……「知聿に、何か変な薬でも飲まされたんじゃない?」景凪は疑心暗鬼に駆られ、問い詰めた。医療関係者の間で囁かれる噂によれば、体内で免疫細胞を急速に合成し、自己修復能力を飛躍的に高める新薬が存在するらしい。しかし、その副作用は被験者によって千差万別で、極めて危険なため、第一段階の治験で開発中止になったはずだ。「まさか」渡は即座に否定した。「嘘ついてない?」まだ疑り深い眼差しを向ける景凪に、渡はベンチの背もたれにゆったりと身を預けたまま、優雅に微笑んでみせた。その瞳は、深遠な闇のように彼女を映し出す。「つくわけないだろう」その言葉に、景凪はわずかに安堵した。「私が処方した薬、ちゃんと飲み続けてね。あなたを完治させる方法、必ず見つけるから。それまでは無理しないで」「ああ、わかった」「おじいちゃんがたくさん古医書の稀覯本を集めてたのを覚えてるの。家宝みたいにしてて、私にすら隠し場所を教えてくれなかったんだけど……」景凪は小さく息を吐いた。「今のおじいちゃんの状態じゃ、聞き出しようもなくて」渡は彼女の独り言を、ただ静かに聞いていた。夜風が冷たく肌を撫でる。半袖姿の景凪が身震いした次の瞬間、渡の体温が残るジャケットがふわりと肩に掛けられた。「
اقرأ المزيد

第598話

景凪が牛乳を手に自室へ戻ると、ちょうど桃子がベランダから洗濯物を取り込んできたところだった。「景凪さん、ずいぶん遅かったですね」「ええ、下で少し散歩してたの」景凪は持っていた牛乳をキッチンに置くと、桃子を振り返った。「桃子さん、もう休んでいいわよ。明日の朝、辰希の送りをお願いできる?お迎えは私が行くから。昼間、ちょっと出かける用事があるの」「分かりました」自室へ向かいかけた桃子がふいに足を止め、ニコニコと景凪の顔を覗き込んだ。「景凪さん、なんだか雰囲気が違いますね」景凪は思わず自身の頬に手を当て、首を傾げる。「違うって、どこが?」「なんとなくですよ。でも、以前とは違う」桃子は楽しげにそう言い残した。その曖昧な物言いに苦笑しつつ、景凪は彼女の背中を押す。「もう、早く寝て」桃子が部屋に下がったのを見届けてから、景凪は辰希の子供部屋へと足を向けた。ドアの隙間から、細く明かりが漏れている。コンコン、と軽くノックをした。「辰希、入るわよ」ドアを開けると、辰希が慌てて布団の中に手を突っ込むところだった。「ママ……」その声には、明らかな後ろめたさが滲んでいる。布団の下に隠したのはスマートフォンだ。きっと、妹の清音とこっそりテレビ通話をしていたのだろう。そのことを悟りながらも、景凪はあえて気づかないふりをして、努めて優しい声をかけた。「早く寝なきゃだめよ。明日の朝は桃子さんが送ってくれるから。帰りはママが迎えに行くわね」「うん、分かった」辰希は殊勝に頷き、布団を引き上げた。ドアを閉めようとしたその時、掛け布団から顔を出した辰希が小さな声で呼び止めた。「ママ……まだ清音のこと、怒ってる?」景凪は足を止め、少しの沈黙の後、ベッドの端に静かに腰を下ろした。不安げに揺れる息子の瞳を見つめ、穏やかに語りかける。「怒ってはいないわ。ただ、ママにも、ママの人生があるから」言葉を選ぶように、景凪は続けた。「清音がどうしても私を母親として受け入れられないなら、その気持ちを尊重したいの。これ以上、自分から傷つきに行くのは、もうやめにするわ」かつてこの子たちを産むために、一度は命さえ投げ出した。先日の遊園地での出来事が、最後の賭けだったのだ。もしあの子が、ほんの少しでも名残惜しそうな素振りを見せてくれていたら、また心が揺
اقرأ المزيد

第599話

翌朝。桃子に連れられて幼稚園へ向かう辰希を、景凪は玄関先で見送っていた。「行ってきます。ママ、帰りは迎えに来てね」「もちろんよ。気をつけてね、辰希」笑顔で手を振る景凪の視界に、数歩離れた場所に立つ明浩の姿が入った。彼は景凪と目が合うと、きまり悪そうにうつむいてしまう。まるで合わせる顔がないといった様子だ。「お嬢様……あの日は、俺が片時も離れず付いているべきでした。そうすれば、金山や小林母娘にあんな真似はさせなかったのに……」悔恨に満ちた声に、景凪は優しく微笑んで首を振る。「四六時中守ってもらうわけにはいかないわ。それに見ての通り、私はピンピンしてるもの。さあ、気にしないで。辰希と桃子さんを送ってあげて」そう促され、明浩は小さく頭を下げた。桃子が辰希の手を引いて歩き出し、彼もその後に続く。数歩進んだところで、ふと思い出したように明浩が振り返った。「そういえばお嬢様、父から連絡はありませんでしたか?」「いいえ、特にないけれど……お祖父様の身に何か?」景凪の表情が強張る。「いえ、違います!益雄様はお元気です」明浩は慌てて手を振った。「実は昨晩、忘れ物を取りに療養所へ寄ったんですが、旧館の実験室に明かりがついていて……父に尋ねたら、益雄様が一瞬意識を取り戻され、実験室に篭っておられると。鍵をかけて、誰にも邪魔させようとしないそうなんです」「えっ、おじいちゃんが……正気に戻ったの?」驚きと共に、期待で胸が早鐘を打つ。「たまになんです。ごく短時間だけ意識が戻るみたいで」明浩は困ったように眉を下げた。「ただ、意識はあっても記憶が混濁していて……かなり昔の状態で止まってしまっているそうです。父が知らせなかったのは、そんなお姿を見たらお嬢様が悲しまれると思ったからでしょう。余計なことを言いました」「分かったわ、ありがとう。辰希をお願いね」どうにか平静を装って明浩を見送ると、景凪は急ぎ支度を調え、地下駐車場へと向かった。愛車に乗り込み、療養所へとひた走る。以前、祖父の実験室に入った時のことを思い出す。そこはもぬけの殻だった。重要な研究資料や機材は、祖父が倒れた後にすべて運び出されたに違いない。記憶が昔の状態で止まっている……明浩の言葉が頭をよぎる。だが、それは少し違うかもしれない。祖父のような症状の場合、一時的な覚醒時
اقرأ المزيد

第600話

拾い上げてみると、かなり年季の入った古い写真だった。だが、表面が保護フィルムで丁寧にコーティングされているおかげで、被写体である女性の顔立ちは今でもはっきりと見て取れる。すぐには誰だか分からず、写真を裏返してみて、ようやくそこに書かれた文字が目に飛び込んできた。流れるような、力強い祖父の筆跡。そこにはこう記されていた。――『最愛の百合子へ』百合子――それは他でもない、亡き祖母の名前だ。実験室を後にした景凪は、再び病室へと足を運んだ。室内には微かな消毒液の匂いが漂い、床にはモップで水拭きされたばかりの生々しい跡が残っていた。新しく穿き替えられたズボンを見て、景凪は先ほどここで何があったのかを察し、胸をきつく締め付けられた。今のおじいちゃんは、もはや自力で身の回りのことすらできない。もし意識がはっきりしていたら、あんなにプライドの高かった人が、下の世話まで他人の手を借りなければならない惨めな現状に、どれほど尊厳を傷つけられていたことだろう。「おじいちゃん……」景凪は静かに歩み寄り、枯れ枝のように痩せ細った祖父の手をそっと開くと、若き日の祖母の写真をその掌に握らせた。だが、益雄は窓の外を見たまま、何の反応も示さない。景凪はしばらく無言で傍らに寄り添っていたが、やがて目尻に滲んだ涙を指で拭い、足音を忍ばせて病室を後にした。彼女が去って間もなくのことだった。彫像のように固まっていた益雄が、錆びついた機械のようにゆっくりと動いた。虚ろだった視線が下へすべり、掌の中の写真へと落ちる。どんよりと翳っていた濁った瞳の奥に、かすかな光が宿った。「百合子……」皺だらけの震える指先が、写真の中で今も若々しく微笑み続ける妻の顔をそっとなぞる。やがて、枯れた頬を大粒の涙が伝い落ちた。「百合子、私にはもう時間がないんだ……お前はいつになったら、目を覚ましてくれるんだい?」梧桐苑。広大なリビングには、息が詰まるような死んだような静寂が横たわっていた。渡の向かい側のソファには、豪奢な装いに身を包んだ婦人が優雅に腰を下ろしている。現在の黒瀬家を取り仕切る女主人であり、知聿の実母である黒瀬瑠璃子(くろせ るりこ)だ。彼女は冷ややかな目を細め、露骨な嫌悪の色を隠そうともせずに渡を睨みつけていた。目の前に座る男の、不気味なほど整った妖艶な顔
اقرأ المزيد
السابق
1
...
5859606162
...
70
امسح الكود للقراءة على التطبيق
DMCA.com Protection Status