All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 641 - Chapter 650

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第641話

理恵はそのまま弾んだ調子で、景凪をクラスの保護者専用グループチャットへと招待した。何しろ辰希は、この特別進学クラスの中でも抜きん出た「天才」だ。その実母である景凪が参加したとあって、画面の中は瞬く間に歓迎のメッセージで埋め尽くされた。その熱烈な反応に、景凪が少し圧倒されていると、担任の松岡先生が教壇に立った。今日の親子レクリエーションのメイン会場は校庭だが、その前に教室でウォーミングアップの時間を設けるという。集まった保護者たちの緊張をほぐし、親睦を深めるための趣向だ。一般的なクラスなら伝言ゲームや合唱といったところだろうが、そこは特別進学クラス。用意されたのは、知力と瞬発力が試される「知能クイズ対決」だった。隣同士の親子がペアとなり、先生が出題する難問に早押しで答えていく。正解すれば一点加点、不正解なら一点減点。最も得点の高かったペアには、ささやかな景品が贈られるというルールだ。ルールを聞くやいなや、啓明は満面の笑みを浮かべた。「母さん、僕たち絶対に優勝できるよ!」それを聞いた理恵も、これ以上ないほど明るく笑う。「やったわ!私、学生時代から『一番』なんて一度も取ったことないのよ。うちの夫は頭がいいんだけど、機密組織だかなんだかにいて、こういう場には顔を出せなくてね。この知能クイズ、息子の足を引っ張るんじゃないかって冷や冷やしてたの。でも、私たちのペアには本物の天才が二人もいるじゃない!もう勝ったも同然だわ!」理恵と啓明は、期待に満ちたキラキラとした瞳で景凪と辰希を見つめた。景凪は思わず吹き出し、微笑み返した。「……ええ、足を引っ張らないように頑張ります」松岡先生が用意した問題はジャンルも幅広く、難易度も徐々に上がっていく形式だった。最初はどのペアも勢いよく手を挙げていたが、後半になるにつれて挙手する親子の数は目に見えて減っていった。そんな中、理恵と啓明はすっかり応援団に回り、景凪と辰希に手で風を送りながらエールを送っていた。結果は言うまでもなく、景凪と辰希の圧勝だった。手堅く得点を重ねトップを独走した彼らのおかげで、理恵たちは文字通り「何もしないまま」優勝をかっ攫った。景品として配られた小さな金メダルを受け取り、理恵はホクホク顔でスマートフォンを取り出した。「ああ、嬉しい!私も特別進学クラスで金メダルを取るお
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第642話

だが、そこに弥生の姿はない。室内を見渡すと、教室の隅にポツンと立っている彼女を見つけた。弥生の隣にあるはずの保護者用の椅子は、ぽっかりと空いている。他の子にはみんな親が付き添っているというのに。その孤独な姿に、景凪は胸が締め付けられるような思いがした。その時、何かに気づいたように弥生が顔を上げた。廊下に立つ景凪を見つけた瞬間、沈んでいた幼い顔がぱっと明るくなる。彼女は嬉しそうに大きく手を振った。景凪も優しい微笑みを浮かべ、弥生に応えるように手を振り返す。「景凪!」背後から聞き覚えのある声がした。景凪の動きが止まる。振り返る時には、口元の笑みはすでに消えていた。そこには、清音の手を引いた深雲が立っていた。担任の森屋先生も一緒で、景凪の姿を認めると、先生は驚いたように声を弾ませた。「鷹野さんの奥様!今しがた鷹野さんにも、今日はどうして奥様がいらしてないのかとお聞きしていたところなんですよ」その「奥様」という響きに、景凪はすべてを察した。深雲は自分たちが離婚した事実を、あえて伏せているのだ。景凪は淡々とした表情で森屋先生に向き直り、静かに告げた。「先生、私と鷹野さんは随分前に正式に離婚いたしました。これからは穂坂と呼んでいただけますか」「えっ、あ……そうでしたか……」予期せぬ言葉に、森屋先生は気まずそうに言葉を濁した。「そんなに前のことじゃないだろう」遮るように深雲が口を開いた。「今の規定なら、復縁さえすれば今回の離婚はなかったことにできるはずだ」深雲は景凪の反応を伺うように、じっとその瞳を見つめた。だが、景凪は一瞥もくれず、まるで聞こえなかったかのように彼を無視した。森屋先生に軽く会釈を済ませると、景凪の視線は清音へと向かう。意外だったのは、清音が今日、かつて自分が買い与えたワンピースを着ていたことだ。偶然か、それとも彼女なりの意志か。「清音」景凪が微笑みかけ、言葉を続けようとした時だった。清音はあからさまに視線を逸らし、父親の腕を催促するように引っ張った。「パパ、早く行こう!もうすぐ私のグループの椅子取りゲームが始まっちゃう。私、リーダーなんだから!」清音の心は、激しい反抗心で波立っていた。さっき笑いかけたのは、どうせ弥生に会いに来たからに決まってる。あんなに弥生がいいなら、あの子のママにでも
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第643話

それだけ言い捨てると、景凪は迷うことなく教室の中へと足を踏み入れた。深雲はその背中を見送りながら、深い無力感に苛まれた。だが、清音を抱きかかえて近づいてくる姿月に視線を転じた瞬間、その目は殺意にも似た憎しみに変わった。一方の姿月は、清音を離そうとはしなかった。この子が盾になっていれば、深雲も人前で手出しはできないはずだ。「深雲さん、私……」「清音、先に入っていなさい」深雲は姿月の腕から強引に娘を引き剥がすと、怒りを押し殺した声で言った。「大人だけで話があるんだ」清音は不満そうに父を見上げた。「えー、パパ……」「言うことを聞け!」冷徹な響きに、清音は思わず首をすくめた。「わかった……姿月ママ、早く来てね。もうすぐ私の番なんだから」清音の姿が教室に消えるのを待って、深雲は姿月の腕を掴むと、人気のない階段室まで引きずっていった。「姿月、お前は言葉が通じないのか」深雲は怒りに声を震わせ、彼女を壁際に追い詰めた。「この街から消えろと言ったはずだ。それなのに、よくも図々しく学校まで現れたな」姿月の瞳が、じわりと涙に潤む。「深雲さん、嘘をついたことは謝るわ。でも、あなたと清音ちゃんを思う気持ちに嘘はなかった。……ええ、街を出るつもりよ。でも、今日の親子レクリエーションには行くって清音ちゃんと約束したの。あの子との約束だけは、破りたくなかった」かつて、姿月の涙は深雲の心を揺さぶる特効薬だった。しかし今の彼にとって、その悲劇のヒロインを気取った姿は吐き気を催すほどに疎ましかった。「一体、何の立場でここへ来た」深雲の瞳に冷徹な嫌悪が宿る。彼は姿月の喉元を掴み、乱暴に壁へと押しつけた。「いいか、姿月。お前はどこまでいっても、日陰者の愛人に過ぎないんだ」呼吸が止まるほどの苦痛の中、姿月は抵抗するどころか、自分を絞める深雲の手に自らの手を重ねた。そして、窒息寸前の歪な笑みを浮かべる。「そうね、私は愛人よ。あなたの愛人。……でも、深雲さん。私を自分のベッドに招き入れ、清音ちゃんに『ママ』と呼ばせたのは、他の誰でもない、あなた自身の甘やかしがあったからじゃない?」「黙れ!」深雲が力を込めるほど、姿月の笑みは狂気じみて深く、醜く歪んでいく。目尻からは一筋の涙がこぼれ落ちた。「深雲さん……私たち、似た者同士の同罪なのよ……」
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第644話

弥生が慌てて起き上がったときには、彼女が座るはずだった場所に、すでに清音が収まっていた。清音は隣の席の子とハイタッチをして盛り上がっており、困惑して立ち尽くす弥生には、一瞥もくれなかった。「弥生ちゃん!」景凪は脱兎の如く駆け寄り、弥生の様子を確かめた。案の定、小さな手のひらは赤く擦りむけている。突き飛ばした子の親が慌てて駆け寄り、申し訳なさそうに頭を下げた。「ごめんなさい、弥生ちゃんのママ……うちの子、わざとじゃなかったと思うんですけど、大丈夫かしら?」景凪には分かっていた。あの子は明らかに意図的に突き飛ばした。しかも、突き飛ばした直後、顔色を窺うように清音の方を見ていたのだ。清音が裏で手を回したことは明白だった。今のクラスにおいて、清音の影響力は弥生より遥かに強い。かつて二人が仲良くしていた頃は周りも弥生に優しかったが、今や清音が弥生を嫌えば、取り巻きの子供たちも一緒になって弥生を蔑ろにする。「おばさん、私、痛くないよ」弥生は健気にもそう言ったが、掌からは血が滲んでいる。景凪は弥生を抱き上げると、清音を厳しく見据えた。「清音、自分が何をしたか分かっているの?」清音は一瞬、後ろめたそうに視線を泳がせたが、彼女が口を開くより早く、姿月が割って入った。「あら、清音ちゃんは何もしていないんじゃなくて?」景凪の冷徹な眼差しが、遮るように姿月を射抜いた。「あなたに口を挟む権利なんてないわ」「景凪、落ち着いてくれ。清音がそんなことを指示するはずがない……」深雲が取り繕うように割って入るが、景凪は一顧だにせず、彼を突き放すようにしてその場を去った。もはや言葉を交わす価値さえ感じていない。大勢の保護者や子供たちがいる手前、これ以上騒ぎを大きくするつもりはなかった。景凪は声を潜め、担任の森屋先生に向き直る。「すみません、先生。弥生はこの後のプログラムを欠席させます。救急箱はありますか?手のひらを擦りむいてしまって」「ええ、奥の休憩室にあります。ご案内しますね」森屋先生は別の教諭にその場の進行を任せると、景凪と弥生を連れて教室を後にした。休憩室に入ると、先生は手際よく救急箱を差し出した。「穂坂さん」森屋先生は、諭すように、それでいて言葉を選びながら切り出した。「今日はあくまで親子レクリエーションの日ですから。大
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第645話

姿月が這い上がってくる前に、景凪と理恵は急いでトイレを抜け出した。念には念を入れ、外の取っ手に清掃用具の柄を差し込み、中からドアを開けられないように封鎖する。初めて「愛人への制裁」に加担した理恵は、まだ興奮冷めやらぬ様子だった。「あー、スッキリした!ああいう性悪女には、これくらいお灸をすえてやらなきゃね!」だが、ひとしきり溜飲を下げた後で、彼女は景凪の身を案じるように声を落とした。「ねえ、景凪さん。あの女が後で元旦那さんに泣きついたら、あなたに火の粉が降りかからないかしら?」噂をすれば影、とはまさにこのことだ。景凪が答えるより早く、前方の廊下に深雲の姿が現れた。景凪は背後のトイレをちらりと一瞥する。おそらく、姿月を迎えに来たのだろう。この男に対する嫌悪感は、もはや筆舌に尽くしがたい。姿月が裏でどんな卑劣な真似をしてきたか知っているくせに、それでもあの女を庇い、あろうことか清音に近づくことすら容認しているのだから!「理恵さん、先に戻っていてください」景凪は、無関係な彼女をこれ以上巻き込むまいと促した。「でも、一人で大丈夫なの?」理恵は心配そうに眉をひそめる。景凪は陶器の人形のように色白で華奢だ。対する深雲は、身なりばかりは立派で、男としての体格も力もある。「平気です」景凪は安心させるように微笑んだ。「啓明くんと辰希が待っていますよ。私も後ですぐ合流しますから」理恵は後ろ髪を引かれる思いで、何度も振り返りながら歩き出した。万が一、あのクズ男が愛人のために元妻に手を上げるようなことがあれば、即座に飛び蹴りを食らわせに戻るつもりだった。だが、予想に反して事態は一瞬で動いた。すれ違いざま、深雲が何かを口にしようとしたその瞬間――景凪の腕が鋭く弧を描いた。――パァンッ!鼓膜を打つような、容赦のない平手打ちの音が廊下に響き渡る。振り返った理恵は、思わず目を丸くして立ち尽くした。景凪さん、優しくてお淑やかそうなのに、すっごい武闘派……!一方、思い切り頬を張られた深雲は、怒り狂うどころか、ただ黙ってその痛みを享受するように立ち尽くしている。彼が一切反撃に出ないのを見届け、理恵はようやく安心してその場を後にした。「気が済んだか?」深雲は微かに痺れる片頬の感覚を味わうようにしながら、薄っすらと怒りを滲ませる目の前の元
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第646話

景凪は腕を組み、目の前に並ぶ大きな男と小さな男の子をじろりと見比べる。「二人でこっそり約束してたの?私に内緒で」辰希と渡が、いつの間にここまで親しくなっていたのか、景凪は全く知らなかった。「ママ、怒らないでよ。ママをびっくりさせようと思っただけなんだ」辰希は景凪に甘えるのがすっかり上手になっていた。大きくて澄んだ瞳で見上げ、長い睫毛をパチパチと瞬かせる。こんな顔でお願いされては、どんなに硬い心も一瞬でとろけてしまう。景凪は、怒ったフリを続けることすらできなくなってしまった。傍らで見つめる弥生は、まだ幼く感情を隠す術を知らない。辰希と景凪の親子のやり取りを見つめるその瞳には、羨望の色がはっきりと浮かんでいた。それに気づいた景凪は、優しく話題を変えるようにしゃがみ込んだ。「弥生ちゃん、渡おじさんがきっと、一番欲しかったぬいぐるみを勝ち取ってくれるからね」「うん」弥生はこくりと頷いた。次の競技は、くじ引きで対戦相手が決まる。同じ色のリボンを引いたペア同士が戦うルールだ。弥生は渡の手を引き、くじを引くために森屋先生のところへ向かった。身長差のある二人が手を繋いで歩く後ろ姿がなんとも微笑ましく、景凪はたまらずスマホを取り出してその姿を写真に収めた。少し離れた校庭の隅で、深雲は暗く沈んだ瞳でその和やかな光景を睨みつけていた。喉の奥に、苦い泥を丸飲みしたような不快な味が広がる。「パパ……」清音が深雲の手を揺さぶり、辺りをきょろきょろと見回した。「姿月ママはどこ?」「先に帰ったんだろう」深雲は上の空で適当に答えた。「そんなぁ……」ただでさえ機嫌が悪かった清音は、姿月がいなくなったと聞いてすっかり顔を曇らせた。だが今の深雲には、あの女を気遣う余裕など微塵もない。トイレで永遠に干からびていればいい。あいつが突然しゃしゃり出てきたりしなければ、今日、景凪がここまで冷たい態度をとることもなかったはずだ。ましてや、俺への当てつけのように、黒瀬渡などという男と仲睦まじく見せつけることも!「パパ、あの男の人は……あの人の新しい旦那さんなの?」景凪が自分ではなく弥生ばかりを可愛がっているのを見て、清音は意地を張り、もはや彼女を「ママ」と呼ぶことすらやめていた。清音の言う「あの男の人」とは、もちろん渡のことだ。「違う」深雲はきっぱり
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第647話

その頃、校庭では景凪が小さくため息をついていた。深雲と渡がよりによって同じ組を引き当てるなど、夢にも思わなかったからだ。しかし、対戦相手が決まってしまった以上はどうしようもない。辰希は、般若のような顔で歩いてくる父親と、涼しげに立つ渡を交互に見比べ、一体どちらを応援すべきか完全に固まっていた。「お兄ちゃん!」清音が大きく手を振って彼を呼ぶ。「お兄ちゃん、早く来て!私とパパの応援してくれないの?」「…………」板挟みになった辰希が下した決断は、「どちらの陣営にもつかない」という見事な逃げの一手だった。「啓明くんが僕を探してるから、一回クラスに戻るね!清音、また後で来るから。パパ、ママ、渡おじさん、じゃあね!」早口でそれだけ言い残すと、辰希は脱兎のごとくその場から逃げ出した。無理もない。まだほんの子供の彼にとって、この修羅場で大人の顔色を窺いながらうまく立ち回るなど、到底不可能なミッションなのだ。「渡おじさん、がんばってね!」残された弥生は、小さな両手でぎゅっと拳を握り、懸命に渡に声援を送った。「ああ、任せて」渡は優しく頷いた後、ふと視線を上げ、弥生の後ろに立つ景凪をじっと見つめた。「で……俺への応援は?」「まるで子供ね」景凪は思わず吹き出しそうになった。なぜだか、今の素直に甘えてくる渡が、従順な大型犬のように見えたのだ。彼女は少し背伸びをして手を伸ばし、その頭をぽんぽんと撫でた。「頑張ってね、渡さん」にっこりと微笑んで手を引こうとした瞬間。渡がその勢いを利用して腕を引き、景凪の体をすっぽりと自分の胸の中に閉じ込めた。彼は傍らにいる弥生に視線を落とす。「弥生ちゃん、ちょっと目をつぶっててくれる?」弥生は素直に両手でしっかりと目を覆った。景凪が状況を呑み込むより早く、目の前に渡の端正な顔が迫った。唇にふわりと温かな感触が走る。彼は景凪の唇を軽く甘噛みすると、その瞳の奥で楽しげに笑った。「よし、もういいよ」「……っ!」渡がこんな大胆な行動に出るとは思わなかった。校庭には大勢の人がいるというのに。景凪は耳の先まで真っ赤にして、彼の胸を軽く押し返した。「あなたって人……こんなに図々しいところがあったのね」渡はさらに甘い笑みを深めた。「景凪、君は俺の恋人だろう?これを図々しいとは言わない。こうい
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第648話

弥生の手を引いて戻ってきた景凪の耳にも、その口論ははっきりと届いていた。清音の顔は怒りと悔しさで限界まで朱に染まり、大きな瞳には今にも零れ落ちそうな涙がいっぱいに溜まっている。「絶対に謝らない!あの汚い子のパパとママが死んだからって、何が偉いの!?私のママとお兄ちゃんを奪ったあの子なんて、一生大嫌い!」「清音!」辰希が声を荒らげる。清音は小さな拳を固く握りしめ、怒りに任せて辰希を突き飛ばして駆け出した。その視線の先には、しっかりと手を繋ぐ景凪と弥生の姿がある。清音は真っ赤に充血した目で二人を睨みつけると、その繋がれた手の間を乱暴に割り込むようにして突き抜け、そのままどこかへと走り去ってしまった。一瞬、景凪は思わず後を追おうとした。だが、すぐに深雲と辰希が慌てて追いかけていくのを見て、ぐっと足を踏みとどまる。「おばさん」ふいに、弥生が彼女の手をそっと引いた。「私のパパとママは……もう、本当に帰ってこないの?」その悲痛で純粋な瞳を前に、景凪はどう向き合えばいいのか分からず、言葉の代わりにその小さな体をきつく抱きしめた。物心ついた頃から耐えることを覚えてしまった女の子は、決して声を出して泣こうとはしなかった。だが、景凪の首筋に押し当てられた小さな顔からは、止めどない涙が静かに、ただひたすらに染み込んでいく……渡は景凪のすぐ傍らに佇み、その痛切な悲しみに、ただ静かに寄り添っていた。今のこの状況では、これ以上レクリエーションに参加し続けるのは無理だ。景凪は森屋先生に事情を話し、早退して弥生を児玉家へ送り届けることにした。邸宅には優しそうな家政婦が二人おり、弥生の世話をしてくれるため、景凪としても心配はなかった。帰り際、景凪は清音に代わって弥生に頭を下げた。「ごめんなさい、弥生ちゃん。私がちゃんと清音を叱ってあげられなかったせいで……」「ううん、いいの」弥生は泣きはらした赤い目をこすり、胸が締め付けられるほど聞き分けの良い笑顔を向けて、真剣な口調で言った。「清音ちゃんは悪い子じゃないよ。私を守ってくれたし、いつも一緒に遊んでくれたもん。……清音ちゃんはただ、私が景凪さんを取っちゃうのが怖かっただけなんだよ」弥生は腕の中の大きなシロクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、ぽつりと呟く。「私、清音ちゃんがすっごく羨ましいな。だって
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第649話

そのくぐもった声を聞いた瞬間、景凪の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。込み上げる感情をぐっと堪え、彼女はさらに言葉を紡ぐ。「清音、よく聞いて。あなたがどう思っていようと、私はあなたを産んだたった一人の母親だし、辰希はあなただけの本当のお兄ちゃんなのよ。誰にも私たちを奪えやしない。……弥生ちゃんはね、とても可哀想な子なの。あの子はもう二度と、自分のパパやママに会うことはできないんだから」清音は車の後部座席でうつむいたまま、黙り込んでいた。景凪は静かに語りかける。「あなたが悪気があって弥生ちゃんをいじめたわけじゃないってことは、ママも分かってる。ただ、これまでは誰もあなたに教えてくれなかっただけなの。この世界にある素敵なものが、すべてあなたのものになるわけじゃないってことを。世界があなたを中心に回っているわけじゃないってことを。弥生ちゃんは、あなたと何も変わらない普通の女の子よ。もしパパやママが生きていたら、あの子だって、ご両親にとっての何よりも大切な宝物だったはずなのよ」清音は決して根っからの悪い子ではない。そうでなければ、弥生を守るために男の子たちと喧嘩したりするはずがないのだ。ただ、怒りをどう表現すればいいのか、自分は決して特別で偉い存在ではないのだということを、誰も教えてくれなかっただけだ。景凪はずっと、その役目を自分が担いたいと願っていた。けれど、娘は何度も彼女を突き放してきたのだ。「清音」景凪は涙を拭い、静かな声で紡いだ。「あなたのなかで小林姿月がどれだけ大切な存在でも、ママはちゃんと言っておかなきゃいけない。あの人は、とても残酷で自分勝手な女よ。ママの命を奪おうとしたし、あなたのことも傷つけた。あなたに渡した匂い袋の中に、意識を失わせる薬を仕込んだりもしたわ。だからもう、あの人には会わないで。あの人から何も受け取らないで。……約束できる?」姿月ママは、すっごく悪い人なの?「…………」清音の脳裏に、記憶が蘇る。確かに姿月から匂い袋をもらったことがあった。それに、パパたちの目が届かないところでは、ふいにひどく怖い顔になり、またすぐに優しい顔に戻ったりしていた……電話が切れ、清音は沈んだ様子のまま、車のシートに小さく丸まった。「清音、ママは何て言ってたんだ?」ハンドルを握りながら、深雲が尋ねた。「パパ。姿月ママは
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第650話

ライリーホテル、プレジデンシャルスイート。「姿月、一体どういうことなの? 清音ちゃんを喜ばせるために、学校の親子レクリエーションに行くって言ってなかった?なんでこんなボロボロになってるのよ。鷹野社長は?なんで守ってくれなかったの!」彼女を迎えに行き、連れ帰ってきた真菜は、疑問で頭がいっぱいだった。豪華な室内をぐるりと見渡し、さらに畳みかける。「それに、なんであの人と一緒にいないで、こんなホテルに泊まってるの?」真菜がずっと姿月におべっかを使ってきたのは、別に本心から彼女のことが好きだったわけではない。単に姿月の実家が裕福で、何より彼女が深雲にとっての「特別な存在」――つまり、未来の社長夫人だったからだ。姿月の実家が没落したあとも、深雲の彼女に対する扱いは手厚かった。だからこそ、真菜は呼び出されればいつでも駆けつける便利な人間関係をキープしていたのだ。以前、姿月はこう言っていた。『実家の不祥事がグループのイメージダウンに繋がるのを深雲が心配して、表向きは婚約解消ってことに広報しただけなの』と。だが……「最近、深雲さんとは喧嘩ばかりで……彼、私にすごく怒ってるみたいなの。本当はこの街を出て行くつもりだったんだけど、最後にどうしても清音ちゃんの顔が見たくて。そうしたら案の定、景凪さんに鉢合わせちゃって……」姿月は自嘲気味に、苦々しく笑ってみせた。「穂坂景凪があなたを殴ったってわけ!?しかも頭から汚水まで浴びせて!?」真菜は勢いよく立ち上がり、歯痒そうに声を大にする。「ちゃんと社長に言いなさいよ!いくら怒ってたって、長年あなたがあの人に尽くしてきたのは事実でしょ!見捨てられるわけないじゃない。姿月、あんたお人好しすぎるのよ。ずっと引いてばかりいてさ!」「いいの。大学時代、私が一時の気の迷いでひどいことをして、景凪さんを傷つけたのは事実だから。彼女の気が済むなら……私が耐えればいいだけの話よ」姿月は痛ましげに、自分を責めるように言った。だが――彼女の視線の端は、寝室の半開きになったドアからちらりと覗くバスローブの裾を、しっかりと捉えていた。今の言葉は、決して目の前の真菜に向けたものではない。他でもない、奥にいる研時に聞かせるための見え透いた芝居だったのだ。「そんな大昔のことで、いつまで根に持ってんのよ」真菜は呆れたように鼻で笑い飛ば
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