All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

景凪は思わず言葉を失った。冗談を言っているようには見えなかった。潤一の鋭い眉が険しく沈み込み、いくつもの戦場を潜り抜けてきた者だけが纏う、硝煙の匂いが立ち込めるような威圧感があたりを支配する。彼は本気で、伊雲の身勝手な振る舞いに堪忍袋の緒が切れているのだ。景凪が何か口を開こうとした、その時だった。鼓膜を突き刺すような、女の鋭い叫び声が夜の静寂を切り裂いた。「潤一さん!私は命懸けであなたに会いに行って、弾丸からだって守ろうとしたのに!帰国して私には目もくれないで、どうして病院でこの女と会っているのよ!」伊雲がそこに立っていた。景凪を睨みつけるその瞳には、今にも食らいつかんばかりの憎悪が燃え盛っている。彼女は、戦火の絶えない異国まで潤一を追いかけていった。彼のために食事を作り、服を洗い、甲斐甲斐しく尽くすつもりだったのだ。彼に危険が迫っていると聞けば、なりふり構わず駆けつけた。彼のためなら盾にだってなれる、そのつもりだった。それなのに、この男は彼女を一瞥だにせず、部下に命じて自分を拘束させ、無理やり飛行機に押し込んで強制送還させたのだ。自分への無慈悲な仕打ちなら、まだいい。時間をかけて彼の心を溶かしていけばいいのだから。けれど、なぜ景凪なのだ。彼女にその価値があるというのか。伊雲は怒りに狂い、そのまま景凪に掴みかかろうと突進した。だが、潤一は表情ひとつ変えず、景凪を背に庇うようにして立ちはだかった。「いい加減にしろ。少しは自分の立場を弁えたらどうだ。鷹野家の家訓には『恥を知れ』という言葉はないのか?そもそも、許可なく戦地まで追いかけてくること自体、俺にとっては迷惑以外の何物でもないんだよ」潤一は本来、女性に対しては紳士的に振る舞う性分だが、伊雲のような救いようのない愚か者は、彼の逆鱗をこれでもかと踏み荒らしていた。「潤一さん、私が無鉄砲だったのは分かってる……でも、どうしてもあなたに会いたかったの!あなたが無事か心配で、居ても立ってもいられなくて……」伊雲は悔しさに瞳を潤ませ、縋るように潤一の腕を掴もうとした。だが、彼は苛立ちを隠そうともせず、その手を冷たく振り払う。「君が会いたいと言えば、俺が応じるのが当然だとでも思っているのか?」射抜くような冷徹な視線が彼女を貫く。「随分と自分に自信があるようだが、自惚れるのも
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第662話

景凪の顔には一切の感情がなく、ただ氷のように冷ややかな声だけが静かな夜の空気に落ちた。「……何か用かしら?」深雲は渇いた唇を舐め、絞り出すように口を開いた。「……体の具合でも悪いのか?他意はないんだが、もし君が風邪でも引いているなら、子供たちはしばらく俺のところで預かろうかと思って」今や、彼が景凪とまともに言葉を交わすための口実は、子供のことしか残されていなかったのだ。「私は平気よ。弥生ちゃんが熱を出したから、付き添いで来ただけ」景凪は淡々と答えた。「そうだったのか」深雲の表情から、ふっと強張りが抜けた。なるほど、潤一がここにいるのも景凪に会うためではなく、あの女の子のためだったというわけだ……少し安堵したのか、深雲はさらに一歩踏み込んでくる。「清音と辰希は、今日は俺の家に泊まらせる。ただ、明日どうしても清音が君の家に泊まりたいと言うから承諾したんだが……君の家の方は、都合は大丈夫か?」傍らで聞いていた潤一は、危うく吹き出しそうになるのを必死に堪えた。同じ男として、深雲が遠回しに何を探りたがっているのか手に取るように分かる。要するに、彼女の家に「他の男」が出入りしていないか気になって仕方ないのだ。「その点は心配しなくていいわ」景凪のそっけない返事に深雲が密かに胸を撫で下ろそうとした矢先、容赦のない言葉が続いた。「渡はむやみに私の家に来たりしないし、私たちのお付き合いが子供たちに悪影響を与えることはないから」「…………」深雲の顔つきが、みるみるうちにどす黒く沈み込んだ。それでも彼はどうにか引き攣った笑みを貼り付けた。「……分かった。それじゃあ、明後日、清音を迎えに行く」景凪はそれには応えず、無言のまま背を向けて歩き出した。彼女の後ろ姿が廊下の角に消えるまで見送ってから、深雲は固く握りしめていた拳をゆっくりと解き、険しい顔つきのまま病院の出口へと向かった。ちょうどその時、海舟から着信が入った。「深雲様……」「何だ」苛立ちの収まらない深雲は、ぞんざいな声で応じた。「小林姿月と、連絡が取れなくなりました。急いで調べたところ、彼女が乗った船は、我々が手配したものではなかったんです!」電話越しの海舟の声には、明らかな焦りが滲んでいた。「もしかして……別の恨みを持った連中に攫われたんじゃありませんか?深雲様、
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第663話

深雲は呆れ果てて言葉を失った。氷のように冷たい顔で吐き捨てる。「お前、景凪と自分を比べてどうする気だ」「だって、景凪がお兄ちゃんを落とせたなら、私だって潤一さんを落とせるはずでしょ!」伊雲は腕を組み、ぷいっと窓の外へ顔を向けた。「私、生まれてからこんなに本気で男の人を好きになったのは初めてなの!あの人が私に微塵も感情がないなんて、絶対に信じない。もしそうなら、どうして二回も私のことを助けてくれたのよ!」深雲はズキズキと痛み出したこめかみを、指の腹で強く揉みほぐした。「あいつが傭兵稼業に身を置くプロだからだ!異国の修羅場において、お前はただの同郷の素人でしかない。あいつがお前を助けたのは、自分なりのルールとプロとしての矜持を全うしただけのことだ!」「お兄ちゃん!」伊雲は納得がいかずに声を荒らげた。深雲はそれ以上取り合う気力をなくし、「車を出せ。本家に戻るぞ」と前方の運転手に低い声で命じた。伊雲はしばらく窓の外を睨みつけながらふくれっ面をしていた。だが、深雲が一切無視を決め込んでいると、たまらずに振り返って尋ねた。「ねえ、お兄ちゃん。そもそもどうして今夜、景凪と潤一さんが一緒に病院にいたわけ?」深雲はスマートフォンの画面をスクロールしたまま、視線も上げずに答えた。「別に、最初から一緒にいたわけじゃない。潤一が引き取った弥生という子が熱を出してな。景凪はその子に随分懐かれているから、付き添いで様子を見に来ていたんだ。潤一の方は、途中で駆けつけてきただけだ」「子供……?」伊雲は小さく息を呑み、ハッとした。以前、レストランで景凪と潤一が一緒に食事をしているところに鉢合わせた記憶が蘇る。あの時、清音がその子供を突き飛ばし――景凪は、その子供を庇って清音に手を上げたのだ。「そういうことだったのね……!」伊雲はギリッと憎々しげに奥歯を噛み締めた。景凪のあの性悪女。表向きは潤一さんに何の興味もないようなフリをしておいて、裏では子供を利用して同情を引く作戦に出ていたというわけだ!車内には重苦しい沈黙が漂っていた。やがて鷹野家の本家に到着する頃には、深雲の胸中で煮え滾っていた怒りもすっかり鳴りを潜めていた。なんだかんだ言っても、幼い頃から目に入れても痛くないほど甘やかしてきた、たった一人の妹なのだ。危険と隣り合わせの物騒な異国ま
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第664話

一方、元々眠りが浅いタチである景凪は、渡に抱き上げられた瞬間、微睡みの中で一度かすかに警戒して身を強張らせていた。だが、彼特有の香りに包まれると、途端にふっと安心し、再び深い眠りの底へと身を委ねた。その後、車の助手席にそっと寝かせられた時になって、景凪はぼんやりと重い瞼をこじ開けた。「もう少し寝てていい。家に着いたら起こすから」渡の底知れぬほど優しい声と、車内を包む心地よい暖房の風に誘われ、彼女は抗うことなく再び目を閉じた。車はひどく滑らかに走り出した。景凪はシートに身を預けたまま首を傾け、薄目を開けて運転席の男を見つめた。真剣に前方を見据えるその横顔のラインは、まるで精巧な彫刻のように息を呑むほど美しい。「渡……」微かな声で、その名を呼ぶ。「ん?」――私、あなたのことが、どんどん好きになっていくみたい……。渡は数秒待ったが、次の言葉は返ってこなかった。ちらりと助手席へ視線をやると、景凪はすでにすうすうと規則正しい寝息を立てている。彼は声を出さずに小さく笑い、片手をハンドルから離すと、彼女の肩からずり落ちそうになっていたコートの襟をそっと掛け直した。やがて車は、深夜の梧桐苑へと到着した。渡は景凪を抱きかかえて寝室のベッドに寝かせると、一人で書斎へと向かった。戸棚から薬のボトルを取り出し、数粒を手のひらに出して一息に飲み込む。椅子に深く腰掛け、目を閉じてじっと薬が効くのを待つ。やがてゆっくりと目を開けると、一瞬、視界が泥のように濁って何も見えなくなった。数回のまばたきを繰り返し、数秒が経過して、ようやく周囲の輪郭が徐々にピントを結び、元の鮮明さを取り戻していった。書斎のデスクで、パソコンの画面にビデオ通話の着信がポップアップした。白髪をきっちりと撫でつけたウィル医師のアイコンを一瞥し、渡は血の気のない唇の端をわずかに歪めて、通話ボタンを押した。画面に映し出されたウィルはまだ自分のオフィスにいるようだった。時差のせいで、彼の背後にある窓の外は一面の夕焼けに染まっている。「ミスター・クロセ、突然の連絡で申し訳ない。だが、ここ二日間のあなたの身体データがこちらに同期されていないんだ」ウィルは厳格な顔つきで眼鏡のブリッジを押し上げた。「約束したはずだ。あなたは、少なくとも今年いっぱいは生き延びると……」「ウィ
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第665話

翌朝、目を覚ました景凪の視界にまず飛び込んできたのは、自分の腰に回された男の手だった。すらりとした長い指。色白の皮膚のすぐ下には青い血管が微かに浮き出ており、そこに脈打つ生命力がえも言われぬ色気を醸し出している。骨の節々まで、ただただ美しく整っていた。ふと、記憶が蘇る。長い眠りから覚めて初めて渡と出会った時も、最初に目に入ったのはこの手だった。あの時、彼女はぼんやりと思ったのだ。こんな手と繋ぐことができたら、きっと温かくて、どれほど安心できるだろうかと。景凪はその手にそっと自分の手を重ね、手のひら同士をゆっくりと密着させた。以前の渡は、まるでストーブのように熱い体温を持っていたはずだ。けれど今の彼は、彼女よりも少しだけ体温が低い。だから自分の手のひらから、深く刻まれた彼の手相を伝って、少しずつ熱を分け与えるように。わけもなく鼻の奥がツンとした。あの空白の数年間、渡の血がこうやって絶え間なく自分の体へと流れ込んできたのだと、その重みが痛いほどに伝わってくるような気がして。愛おしむように撫でていたその大きな手が、不意に力を持った。彼女の小さな手をすっぽりと包み込むように握り返してくる。同時に首筋に重みを感じたかと思うと、すぐ耳元で、寝起きの気怠さを孕んだ低く掠れた声が響いた。「……起きたか?」景凪は彼の腕の中で寝返りを打ち、少しだけ顔を上げる。見下ろしてくる渡の長い睫毛が、目の下に濃い影を落としていた。彼女は少しだけ背伸びをするように首を伸ばし、彼の唇にそっとキスを落とした。その眼差しは、どこまでも甘く優しい。「おはよう、渡」渡は一瞬だけ虚を突かれたように瞬きをし、それから景凪を強く抱き寄せた。胸の奥が、これ以上ないほどの満ち足りた幸福感でぎっしりと満たされていく。だからこそ――やがて必ず訪れる残酷な未来への恐れが、あまりにも重く、彼の心を締め付けていた。ほんの束の間の沈黙の後、渡は彼女の長い髪にそっと唇を落とし、穏やかな声で尋ねた。「何が食べたい?」景凪は少し考えてから答えた。「あなたが作ってくれるものなら、なんでも」彼の作る料理は、いつだって彼女の口に合った。渡が彼女の好みを忘れるはずがないのだ。もっと早く気づくべきだった。彼が「適当に買ってきた」と言うものが、見事に彼女の好きなものばかりだったなんて、そん
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第666話

景凪のために車のドアを開けながら、渡の視線は車の屋根越しに、遠くの街角へと向けられていた。路肩に停まった黒いミニバンのヘッドライトが、物陰からわずかに覗いている。渡は無表情のまま視線を外し、車を出発させた。一方、そのミニバンの車内では、黒瀬瑠璃子がゆっくりと双眼鏡を下ろしていた。その隣には安藤医師が座っている。瑠璃子は冷ややかな、それでいて底意地の悪い視線を安藤に向けた。「つまり、最近あの野良犬は、うちの知聿の治療に協力的じゃないってこと?」安藤は言葉を選ぶように、慎重に答えた。「瑠璃子様、治療のペースを落としても構わないと仰ったのは、知聿さまご本人の意思なのです。それにここ最近は、穂坂さんから送られてきた薬も服用しておられますし……」「穂坂景凪の薬ですって?」瑠璃子は蔑むような冷たい目で安藤の言葉を遮った。「あんな女が一体何様だっていうの?うちの知聿の治療に口出しするなんて、身の程知らずにも程があるわ」「ですが瑠璃子様、これは知聿さまご自身のご意思で……」瑠璃子は忌々しげに眉をひそめた。「知聿も困ったものね……こんな大事な時期だというのに、あんな連中のお遊びに付き合うなんて!それで、手術はいつできるの?」安藤は頭の中で日数を計算した。「知聿さまの現在の体調を鑑みますと、準備に最短でもあと一ヶ月は必要です。それが済めば、全身の血液を入れ替える手術が可能になります」安藤は瑠璃子の顔色を窺いながら、恐る恐る言葉を継いだ。「この数年間、私たちは投薬や実験を繰り返し、渡と知聿さまの適合率を最高水準まで引き上げてきました。ご安心ください、手術の成功率は間違いなく九十五パーセントに達しますし、知聿さまに苦痛を強いることもありません」「九十五パーセントですって?」瑠璃子は鋭い視線で安藤を睨みつけた。「私はね、息子の『百パーセントの無事』を求めているのよ!」どんなに簡単な手術であっても、成功率が百パーセントなんてあり得ない。安藤は心の中でそう毒づいたが、もちろん口に出せるはずもなく、ただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。瑠璃子は目を閉じ、こめかみを指で揉みほぐしながら冷酷に言い放つ。「いざという時は、あの穂坂という女を抑えなさい」その声は底冷えがするほど暗かった。「あれは渡を飼い慣らすための、とびきり上等な首輪になるわ」……渡は
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第667話

車が景凪の目の前で停まると、運転席から深雲が降りてきた。彼は景凪に一瞥をくれ、そのまま無言で後部座席のドアを開けた。辰希はすぐにひょいっと車から飛び出してきたが、清音はぐっすりと眠りこけている。深雲は片腕で清音を抱きかかえ、空いた手で彼女のリュックと日用品の入った袋を提げていた。景凪が歩み寄って娘を受け取ろうとしたが、深雲は腕の力を緩めず、わずかに体を引いて彼女の手を避けた。「俺が中まで運ぼう。この子は寝起きにぐずりやすい。下手に動かせば起きてしまうからな」深雲はそう言って言葉を区切り、景凪の背後にそびえる、明かりの灯った邸宅へと視線を向けた。「……家に上がっても、都合は悪くないよな?」「…………」紳士的な気遣いを装いながら、遠回しに『あの男(渡)』がいないかを探ってくるその態度に、景凪は心底うんざりした。だが、子供たちの前で波風を立てる気にもなれず、反論を呑み込んで辰希の手を引いて歩き出す。深雲は清音を抱いたまま、その背中についてきた。夜空には明るい月が浮かんでいた。月明かりが景凪の影を長く伸ばし、深雲の足元へと落としている。深雲はふと目を細めると、長い脚を活かして、わざと歩幅を広げて半歩だけ距離を詰めた。地面に落ちた影は、まるで仲睦まじい四人家族のように一つに重なり合って見えた。「景凪さん!辰希坊ちゃんと清音お嬢様がお帰りですか?ちょうどスープを……」テラスの庭からジョウロを手にした桃子が、弾んだ声で小走りにやってきた。しかし、景凪の後ろから平然と入ってきた深雲の姿を認めた途端、あからさまに顔をしかめた。「辰希、桃子さんが美味しいものを用意して待っててくれたみたいよ」景凪は空気を変えるようにそう言って辰希を桃子に預け、深雲を二階へと案内した。この家に越して来た時、景凪はすでに二階の一室を清音のためのお姫様のような部屋に整えていた。辰希の部屋とは隣り合わせになっており、部屋の間には自由に行き来できる小さな内ドアが設けられている。これなら二人が一緒に遊ぶこともできるし、ドアを閉めればそれぞれのプライベートな空間を保つこともできるという造りだ。深雲は清音をベッドにそっと下ろし、丁寧に布団を掛けると、その額に優しくキスを落とした。その横顔は、娘を溺愛するよき父親そのものだ。しかし景凪はそんな彼に、冷ややかな声で退去
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第668話

目の前で自分を冷笑する景凪を前に、深雲は何か言い返そうと微かに唇を開いたが、言葉は無惨にも喉の奥でつかえてしまった。景凪のこの反応は、彼の計算を完全に狂わせていた。深雲は当初、もっと卑劣な立ち回りを想定していたのだ。もし景凪が、姿月の排除に渡が関わっている事実を知らなければ、厚かましくも自分の手柄として恩を着せるつもりだった。そうすれば、彼女の氷のような態度もわずかばかりは軟化するだろうと踏んでいた。百歩譲って、仮に渡が裏で手を下した事実をすでに知っていたとしても、それはそれで好都合なはずだった。彼の知る景凪の性格からすれば、感謝よりも、むしろ渡のやり方に対する恐怖や嫌悪感が勝るだろうと予測していたのだ。なにしろ、深雲の記憶にある彼女は、誰よりも善良で道徳観念の強い女性だ。権力に物を言わせて一人の人間をいとも簡単に「消し去る」ような、渡の黒に近いグレーな手法は、間違いなく景凪の倫理観に反し、致命的な地雷を踏むはずだと思っていたのに――「景凪」深雲は眉をひそめ、渡という男の偏執的で恐ろしい本性をどうにか彼女に分からせようと説得を試みた。「確かに今、渡は君に熱を上げていて、君のために姿月を排除してくれたかもしれない。だが、もし今後奴が君に飽きたら、一体どんな手を使って君をいたぶるか分かったもんじゃない。姿月の悲惨な末路は、明日の君の姿かもしれないんだぞ!」「君が優秀な研究者で、大勢の専門家や学者が後ろ盾になっているのは知っている。だが、もし渡が本気で君を潰そうとしたら、誰一人として君を守りきれる人間なんていない!景凪、君と渡とでは住む世界が違いすぎるんだ!自分の身はどうでもいいとしても、子供たちのことぐらい考えろ!」深雲は心底案じているかのように言葉を繋いだ。「渡のような狂人が、何をしでかすか分かったもんじゃない。もしあいつの矛先が辰希や清音に向かったら……」「黙りなさい!」景凪は必死に感情を押し殺そうとしたが、全身の震えを止めることができなかった。その瞳からは、今にも爆発しそうな怒りの炎が噴き出している。「小林一家が地獄に落ちようが、私にとっては願ったり叶ったりよ!それにね、自分が自己中心的な恩知らずだからって、世の中の男がみんなあなたと同じだと思わないで!あなたなんて、渡の髪の毛一本にすら及ばない。たとえ世界中の人間が私を裏切ったとしても
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第669話

深雲はしばらく無言だったが、やがて身を翻して研時の方へと歩き出した。殴りかかりでもするのかとヒヤリとした暮翔が慌てて後を追おうとしたが、深雲が研時の隣にどっかと腰を下ろし、彼のグラスに自分のグラスをコツンと当てたのを見て、ようやく安堵の息を吐いた。実際のところ、暮翔の言う通りだった。所詮は一人の女に過ぎない。姿月の本性を知ってからの研時の見切りは早かった。今となっては、彼女の名前を口に出すことすら自身の恥だと感じているくらいなのだ。研時は深雲を横目で見て、容赦なく図星を突いた。「穂坂のところから直行してきたって顔だな?」深雲が不快げに眉をひそめると、研時は鼻で笑い、グラスの酒を煽った。「親の仇でも見るような不機嫌面だ。どうせあいつのところで、また冷たくあしらわれたに決まってる」「……黙れ」深雲は忌々しげに吐き捨てた。研時は手元のボトルを軽く揺らした。「お前もつくづく滑稽な奴だよな。昔はあんなに冷遇してたってのに、いざ離婚した途端、あの手この手でまとわりついてるんだから。なんだ? 今さら未練たらたらでヨリでも戻したいのか?」深雲は無言でグラスの酒を喉に流し込んだ。しばらくして、アルコールの混じった重い息を吐き出しながら絞り出すように言う。「……納得がいかないんだよ。あいつは何年も俺だけを見てきたし、俺の子供だって二人も産んだ。離婚してからまだ大して経ってもいないってのに、もう黒瀬渡とデキてやがる。景凪の奴、なんであんなに簡単に全部忘れられるんだ?」ボトルを揺らす研時の手がピタリと止まり、その眉間に皺が寄った。「……穂坂が、本気で黒瀬とくっついたって?」「はっ、とっくに同棲までしてるよ」研時は数年前、海外で初めて渡という男を目の当たりにした時の凄惨な光景を思い出し、不吉なトーンで呟いた。「だったら、せいぜい黒瀬のあいつへの興味が長続きすることを祈るんだな。もし今後別れるようなことになったら、絶対にすがりついたりするなと穂坂に忠告しておけ。黒瀬渡のあの狂人は……本気で人を殺すぞ」研時は見たことがあるのだ。たった一度きりだったが、その異常な光景は脳裏にこびりついて離れない。「……今、なんて言った?」深雲は弾かれたように姿勢を正した。アルコールで少し赤らんだ顔で研時を睨みつけ、訝しげに問い詰める。「お前、黒瀬の奴が何だって…
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第670話

深雲は目を細め、目の前の若い娘をじっと見下ろした。目元に漂うあどけなさは、確かに二十歳の頃の景凪を彷彿とさせる。だが、その瞳の奥には、隠しきれない野心や打算のようなものがちらついていた。もうすぐ三十路を迎えようという大人の男からすれば、二十歳の小娘の魂胆など、底の浅い泉も同然だ。どこに岩が潜み、どんな水草が揺れているかまで、すべてが透けて見えている。深雲は興味を失ったように背もたれに寄りかかり、薄く笑いながらその名を反芻した。「玲凪か。いい名前だ……」褒められたことで、彼女の下心はさらに分かりやすく顔を出した。「鷹野社長……」だが深雲は、懐から紙幣の束を取り出すと、彼女の目の前に無造作に放り投げた。「チップだ。ご苦労だったな、もう下がっていい」玲凪の表情が一瞬だけ強張った。だが、彼女もそのあたりの立ち回りはわきまえている。大人しく紙幣を拾い集めて立ち上がると、「ありがとうございます、鷹野社長」とだけ言い残し、そそくさと個室を後にした。研時が面白がって深雲をからかった。「お気に召さなかったか?それとも、別れた穂坂のために貞操でも守るつもりか?」深雲は冷ややかな顔のまま、研時のすねを軽く蹴り飛ばした。その後、もう少しだけグラスを傾けてから、深雲は上着を手に取った。暮翔に軽く声をかけ、帰る準備をする。「おい、深雲」ドアに向かう背中越しに、研時が呼び止めて釘を刺した。「黒瀬渡の件は、聞かなかったことにしろよ。あいつには近づくな。たかが元妻のために、あの狂人を敵に回すのは割に合わないぞ……」深雲は振り返ることもなく、適当に手をひらひらと振って、そのまま部屋を出て行った。外へ出ると、冷たい夜風が火照った体を冷やし、アルコールの気配をだいぶ散らしてくれた。それでも念のため運転代行を手配し、車のそばに寄りかかって到着を待つ。ふと猛烈に煙草が吸いたくなり、ケースを取り出して慣れた手つきで一本くわえた。だが、ポケットを探ってもライターがない。個室に置き忘れてきたらしい。その時、横からすっと細く綺麗な手が伸びてきた。カチッと小気味よい音を立ててライターの火が灯り、彼の口元の煙草に差し向けられる。深雲が顔を向けると、そこにいたのは玲凪だった。グレーのコートに、草緑色のマフラー。すでに制服から私服に着替えている。化粧はすっか
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