All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

断頭台の刃が落ちるかのような深雲の冷ややかな声に、姿月は無意識のうちに研時を激しく突き飛ばしていた。血の気を失った顔で慌てて振り返る。「深雲さん……!」咄嗟に突き放された研時は一瞬呆然とし、その瞳の奥に複雑な色がよぎった。「どうして、ここが……?」二人の男の間に挟まれ、姿月は激しく動揺して視線を泳がせた。「私……あの……」「今日中に、この街から出て行け!」深雲は弁解など一切聞こうとせず、姿月の細い腕をきつく掴むと、乱暴に引きずって行こうとした。強い力で引かれ、よろけた姿月が床に倒れそうになる。それを見ていられなくなった研時が、すかさず前に進み出て深雲の腕を遮った。「深雲、お前が怒る気持ちは分かる!だが、姿月が嘘をついたのはあの輸血の件だけじゃないか!これまでの数年間、彼女がお前や清音、辰希に注いできた愛情に嘘はなかったはずだ!」それを聞いて、深雲は思わず鼻で笑った。目の前で必死に姿月を庇う研時の滑稽な姿を見て、彼はようやく理解したのだ。かつて景凪が、なぜあんなにも呆れ果てたような、ひどく冷めた皮肉な目で自分を見ていたのかを――「愛情、だと?」深雲は冷ややかに鼻で笑うと、きびすを返し、姿月を部屋の奥へ引きずり戻してソファに乱暴に投げ落とした。「姿月!」研時は顔をしかめて声を荒らげた。「深雲、いい加減にしろ!この数年間、姿月がどれだけお前に尽くしてきたか分かっているのか!お前と結婚して辰希と清音の良き母親になるためだけに、自分の子どもを諦める手術まで受けたんだぞ!」「自ら手術を?」深雲の口角が深く吊り上がり、底知れぬ嘲りを含んだ声が響いた。「へえ、こいつはそんなふうにお前に語っていたのか?」予想外の反応に、研時は怪訝な顔をした。「……どういう意味だ?」深雲は氷のような視線で姿月をねぐりつけた。「姿月。自分の口から吐くか、それとも俺がいちから丁寧に説明してやろうか?あの日、お前がなぜ病院にいて、俺の命を救った景凪の功績を平然と横取りできたのかをな」その言葉を聞いた瞬間、か弱くすすり泣いていた姿月の体がピクリと硬直した。そして、誰の目にも明らかなほど激しく狼狽しはじめる。この数年間、彼女がずっと記憶の奥底に押し込めていた「あの日の真実」が、濁流のように脳裏を支配していく……「言えよ!」深雲が喉の奥から怒
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第652話

ついに、姿月は完全にパニックに陥った。「待って、深雲さん、私の話を聞いて……!」しかし、深雲の凍りつくような顔を見上げ、彼女は悟った。彼が今回ばかりは絶対に自分を許すつもりがないのだと。「研時先輩、先輩は私にそばにいてほしいって言ってくれたじゃない!」姿月はすかさず矛先を変え、藁にもすがる思いで研時の手にしがみつき、ボロボロと大粒の涙をこぼした。「私、行きたくない!私は……!」だが、その先の言葉は喉の奥に引きつって消えた。すがりつく自分の指を、研時が一本、また一本と容赦なく剥がしていったからだ。研時はひどく見知らぬ他人のような目で、信じられないものを見るように彼女を見下ろしていた。おそらく彼は今まで、この女の本当の姿など何一つ見えていなかったのだろう。深雲は心底軽蔑しきった声で言い放つ。「研時、ゆうべ同じベッドで寝たんなら、必ず病院に行って検査を受けておくことだ」そう最後に言い残すと、深雲は姿月の腕を掴んで強引に引きずり出した。廊下やロビーでの周囲の好奇の目など一切意に介することなく、泣き喚く彼女を車のシートへと乱暴に押し込んだ。運転席の海舟に、「港へ向かえ」と深雲は短く命じた。「承知いたしました」海舟はルームミラー越しに、涙で顔をぐしゃぐしゃにした姿月を一瞥した。そこに同情の余地など欠片もなく、むしろ胸のすく思いだった。ここ最近、社長からの指示でこの女の身辺調査を続けてきた海舟は、次々と浮上するおぞましい事実に危うく吐き気を催すところだったのだ。まったく、とんでもない女だ!人前とそうでない時の顔が違いすぎる。これまで会社で顔を合わせるたび、どうにも彼女のことが気にくわなかった理由がようやく分かった。最初は泣き喚き、必死に許しを乞うていた姿月だったが、深雲の凍てつくような態度は決して崩れることはなかった。彼女が喉を枯らすほど泣き叫んだ末に、彼が冷たく言い放つ。「いいか。大人しくこの街から消えろ。二度とA市に足を踏み入れたり、ましてや俺の前に姿を現したりすれば、お前を刑務所に叩き込む手段などいくらでもある!」「…………」姿月は座席の隅に丸く縮こまり、窓の外を睨みつけながら、その瞳の奥にどす黒い憎悪の炎を揺らしていた。やがて車は港に到着した。岸壁には一隻のモーターボートが待機している。車から引きずり
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第653話

「嫌っ!」目の前に突きつけられた真っ暗な銃口に、姿月は半狂乱になった。「待って、黒瀬さん!人を殺したら、犯罪に……っ!」カチッ――虚しい金属音が弾けた。渡は薄い唇を吊り上げた。「一」姿月は悲鳴を上げ、その場にぐしゃりと崩れ落ちた。「殺さないで!お願いだから殺さないで!もう行くから、大人しく出て行くから、二度と戻らないから……っ!」「二」無慈悲に二度目の引き金が引かれる。再び空撃ちの音が響く。だが、姿月の震えは尋常ではなくなっていた。この男、狂ってる!本当に私を撃ち殺す気だ!しかも、裏社会に君臨する黒瀬家の彼なら、私一人を殺したところで、その痕跡をこの世から綺麗に消し去る方法などいくらでも持っているのだ――!「黒瀬さん、お願い……!」姿月は這うようにして渡の足元にすがりつき、恐怖に顔を引き攣らせて命乞いをした。「死にたくない、見逃して!なんだってするから、どうかお願い……」渡は冷ややかな目で睥睨し、わずかに身をかがめると、握っていた銃口を彼女の額にぴたりと押し当てた。眉間に銃口を突きつけられ、姿月は小刻みに震えた。それでも強烈な生への執着が彼女を突き動かし、思わず渡の手に握りすがる。だが、触れた瞬間、まるで氷の塊でも掴んだかのような悪寒が走った。人間の体温が、どうしてここまで冷たくなれるのだろうか……しかし次の瞬間、すげなく蹴り飛ばされた彼女は、甲板に激しく叩きつけられた。全身に冷や汗がにじむほどの激痛。全身の骨が砕けたのではないかと思うほどの衝撃だった。この男、どこまで容赦がないの……!「命だけは助けてほしいか?なら、いいだろう」渡は無造作に一つの小さな薬瓶を彼女の前に放り投げ、氷のような声で告げた。「中の錠剤を、全部飲み込め」姿月は戸惑いを見せた。「これ……何なの?」だが、渡から射抜くような冷酷な視線が突き刺さり、ためらっている余裕などなかった。深雲などよりも、目の前の男の方がよほど底知れず、恐ろしい。彼女は震える手で瓶の中身をすべて口のなかに流し込み、無理やり喉の奥へと呑み下した。渡は薄い唇に笑みを浮かべた。「人に薬を盛るのが好きだったよな。だから、お前のために特別に用意してやった。それは神経系を侵食し、神経細胞を破壊していく薬だ。最初は激しい頭痛が襲い、次に記憶がボロボロと
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第654話

「景凪、最近はどう?元気にしてる?」電話口の典子は案じるような声色だったが、どこか恐縮しているのが伝わってくる。景凪と深雲が離婚して以来、典子は合わせる顔がなくて景凪に連絡できずにいたのだ。二人の関係がここまでこじれたのはすべて深雲の自業自得であり、結局のところ、鷹野家が景凪に対して申し訳ないことをしたのだと、彼女自身が一番よく分かっていた。「ええ、おかげさまで。今日は何かご用件でしょうか?」景凪の応対は、これ以上ないほど丁寧でありながら、決して踏み込むことを許さない冷ややかな線を引いていた。典子は少し口ごもりながら切り出した。「景凪、数日後に本家で宴席を設けるのだけれど。あなたと辰希も……」景凪は穏やかな声でその言葉を遮った。「文慧さんの誕生日のお祝いですね。彼女は辰希の祖母にあたりますから、孫の顔を見る権利はあります。当日は桃子さんに辰希を連れて行かせますね。そして夜になったら、また迎えに行かせますから」典子は小さくため息をついた。「景凪、私はあなたに会いたいのよ。一度だけでいいから、顔を見せに来てはくれないの?」「…………」景凪は一時、言葉に詰まった。確かに、鷹野家の人間の中で、唯一彼女に少しでも本心を向けてくれていた人がいるとすれば、それはおそらく典子くらいのものだろう。だが、彼女もあくまで鷹野の人間だ。いくら景凪を気にかけてくれたところで、それは鷹野家という立場からの、ほんの少しの哀れみに過ぎないのだ。景凪は音もなく微苦笑を漏らし、静かに答えた。「典子さま、最近は仕事が立て込んでおりまして。またの機会にでも」「またの機会」――それは大人の世界における、明確な拒絶のサインだ。人生の機微を心得ている典子は、その一言で景凪の確固たる意思を悟った。「……わかったわ。仕事も大切だけれど、体には十分に気をつけるのよ」「はい。それでは、特に用件がなければこれで失礼します。典子さまも、どうかお元気で」プツンと切れた通話音を聞きながら、典子はスマホを下ろし、長いため息をついた。そばに控えていた花子さんが歩み寄り、典子の膝にそっとブランケットをかける。典子が何か口を開きかけたその時、再びスマホが震えた。深雲からの着信だった。典子は仕方なく電話に出たが、こちらが口を開くより早く、向こうの
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第655話

可哀想なほど小さくなっている娘の姿を見て、景凪は不意に鼻の奥がツンと痛むのを感じた。自分の産んだ子を心底憎める母親などが、この世にいるはずもないのだ。しかし、彼女がすぐに言葉を返せずにいた沈黙は、清音に「本当に自分は不要なのだ」という大きな誤解を与えてしまった。「わたし……ちゃんと弥生ちゃんに謝るから。だから、もう怒らないで……」清音はうつむき加減で、どう甘えればいいのか分からずに、ぽつりと強がりのような言葉をこぼした。「……もし、どうしてもママが まだ怒ってるなら、わたし……もう、どっかに行くから……」その言葉が終わるよりも早く、景凪は娘をぎゅっとその腕に抱きしめていた。清音は一瞬きょとんとした後、小さな両手を伸ばして、夢で見たままの甘く優しい匂いがする母親の背中にしがみついた。ママからは、いい匂いがする……「ママのいるここはね、いつだってあなたたちが帰ってこられる家なのよ」景凪の心は春の雪のように柔らかく溶けていたが、視界の端に深雲の姿を捉えた瞬間、ある程度のところで感情にブレーキをかけ、静かに清音から体を離した。「さあ、もう時間よ。早く鷹野の家に帰って、おばあさまをお祝いしてあげなさい」「ママ、バイバイ!」辰希と清音は景凪に向かって小さな手を振り返した。二人が後部座席に乗り込むと、景凪は車のすぐ外に立ち、満面の笑みで子供たちを見送った。しかし、その視線ははじめから終わりまで、運転席にいる深雲をただの一度も見向くことはなかった。深雲はきつく唇を引き結んだ。「景凪……夜になったら、俺が辰希を送り届けるよ」その声を聞いた途端、景凪の顔からふと笑みが消え、ようやく彼女は彼を真っ直ぐに見た。「結構です。時間が来たら、桃子さんから明浩に迎えに行かせるよう連絡させますので」ただそれだけを言い残し、景凪は冷たく背を向けて屋敷へと戻っていった。深雲はその華奢で美しい背中が扉の向こうに消えるまで、深い絶望を湛えた瞳で見つめたまま、長い間ピクリとも動くことができなかった。見かねたように、後部座席に乗り込んでいた桃子さんがため息交じりに促す。「深雲様、そろそろ出ましょう。これ以上あそこで待っていたところで、景凪さんがあなたをお茶に誘ってくれることなんてありませんよ」「…………」
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第656話

「すみません、伊藤先生の診察をお願いします」伊藤は、彼女が昏睡状態だった頃の主治医である。待合室の長椅子に腰を下ろし、一時間ほど待った頃、ようやく看護師の声が響いた。「十九番、穂坂景凪さん」その名前を耳にした瞬間、デスクに向かっていた伊藤は弾かれたように顔を上げた。診察室に入ってくる景凪の姿を認めると、明らかに狼狽した様子を見せる。「鷹野の奥様……」景凪は彼の向かいの椅子に静かに腰を下ろした。「もう離婚したんです、伊藤先生」「ああ……」伊藤はさして驚いた風でもなく、すぐに呼び方を変えた。「穂坂さん。今日はどこかお加減でも?」「伊藤先生、少しお時間をいただけますか。個人的なことでお聞きしたいことがあるんです」拒絶される前に、景凪はたたみかけた。「今日教えていただけないなら明日来ます。明日が駄目なら明後日……先生が口を開いてくださるまで、毎日通い続けるつもりです」その声色はどこまでも穏やかだったが、有無を言わさぬ芯の強さが滲み出ていた。「……」伊藤は困り果てたように息を吐き、視線で看護師に退室を促した。パタンと扉が閉まり、室内には二人きりになった。伊藤は眼鏡を外し、疲れたように顔を覆う。景凪は、凪いだ水面のような静けさで切り出した。「伊藤先生。私が目を覚ましたのは、決して『医学の奇跡』なんかじゃありませんよね?」彼女の頭の中では、すでにすべてのピースが組み上がっていた。最初は確かに、一切の意識がない完全な植物状態だったはずだ。それがいつからか――ふと周囲の音が聞こえるようになり、身の回りの気配を感じ取れるようになった。ただ、目を覚ますことだけができなかったのだ。景凪自身、それを神様が哀れんで与えてくれた奇跡なのだと思い込んでいた。だが今ならわかる。自分をずっと守り、生かしてくれていたのは、神様なんかじゃない。他でもない――「……黒瀬渡、ですね?」その名前をそっと口にした瞬間、心臓を電流が駆け抜けたように、胸の奥が微かに震えた。伊藤は額に滲んだ汗を拭った。「穂坂さん。私は、何一つ言っていませんからね」――あなたがご自身で辿り着いた答えですよ。その言葉の裏には、確かな無言の肯定が込められていた。景凪は伏し目がちに視線を落とした。やがて、ぽつり、ぽつりと水滴が床に落ちる。低く掠れた声で、彼女は
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第657話

梧桐苑の本邸に着くと、玄関のドアは少しだけ隙間を開けて待っていた。彼女のためにわざと鍵を開けておいてくれたのだ。中に入りリビングを抜けると、キッチンに立つ渡の大きな背中が見えた。柔らかな白いニットを着ており、その艶やかな黒髪がひときわ鮮やかに目に映る。景凪はゆっくりと歩み寄り、背後からそっと彼の腰に腕を回した。渡はとっくに彼女の足音に気づいていたようで、されるがままにしていたが、抱きつかれた瞬間にだけ、トントンと動いていた手元がピタリと止まった。「いい子だから離れてろ。今、包丁を使ってるんだ」困ったような口ぶりだが、その低く温かい声には、彼女をひたすら甘やかすような深い愛情が滲み出ている。「ん……」景凪は短く応えると、彼の広い背中に顔をうずめ、さらにきつくしがみついた。彼女のただならぬ様子に気づき、渡は包丁を遠ざけてシンクに置いた。「どうした?」「どうした?」「なんでもない」景凪は彼の背中で小さく首を振った。「ただ、ちょっと疲れただけ」「仕事で何かあったのか?」景凪が黙っていると、渡はそれを肯定と受け取った。「何日か休め。お前が言い出しにくいなら、俺から向こうの責任者に話をつけてやる」そう言うなり、渡は濡れた手をタオルで拭き、スマホを取ろうと動き出す。彼が一本電話を入れれば、確実に自分に休暇が与えられる。それを知っている景凪は慌てて彼を引き止め、パニックになりながらその腕にすがりついた。「あなたの顔を見たら、疲れなんて飛んじゃったから」景凪は決して甘え上手なタイプではない。だからこそ、ふとした瞬間に見せるそんな姿は、凄まじい破壊力を持っていた。たとえそれが明らかな嘘だと分かっていても、彼にそれを暴く気など一切起こさせないほどに。渡は視線を落とし、彼女を見つめた。深い光を宿した黒曜石のような瞳は、まるで心の奥底まですべてを見透かしてくるようだ。ふいに心臓がざわめいて、景凪は思わず数歩後ずさった。背中がアイランドキッチンの滑らかな縁にコツンと当たる。逃げ場を失った彼女の脇に、渡はトンと両腕を突き、その腕の中にすっぽりと景凪を閉じ込めた。顔が近づくと、彼から漂う柔軟剤の香りがふわりと鼻をかすめる。冷涼でありながら、どこか深みのある落ち着いた香り。「……見るだけで十分か?」身をかがめてからかうよ
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第658話

どこからか漂ってくる、食欲をそそる美味しそうな匂いに鼻をくすぐられたのだ。重い瞼を開けると、真っ先に飛び込んできたのは渡の背中だった。彼は手作りの料理をトレイで運び、部屋のローテーブルに並べているところだった。ラフな部屋着姿のその広い背中を見ているだけで、どういうわけか不思議なほど心が落ち着く。景凪は枕を抱きしめたまま、ぱちぱちと瞬きをした。「渡……」無意識に名前を呼んだ自分の声は、ひどく掠れていて、甘い気怠さを滲ませていた。途端に、先ほどまでの甘く濃密な記憶がフラッシュバックする。景凪はカッと顔を熱くして、慌てて布団を頭まで引き上げた。振り返った渡の目に入ったのは、布団から覗く大きな双眸だけだった。彼がベッドへ近づいてくると、少しはだけた襟元から、彼女自身がつけた赤い痕がちらりと見え隠れしている。「ベッドまで運んでこようか?」彼が尋ねる。景凪はふるふると首を横に振った。「お水が、飲みたい」渡がミネラルウォーターを注ぎに部屋のカウンターへ向かった隙に、景凪はベッドを抜け出し、そこにあった彼の大きなシャツをすっぽりと被るように羽織った。長めの裾が、ちょうど彼女の太ももを隠すくらいの丈になる。グラスを手に戻ってきたときには、彼女はすでにローテーブルの前のソファに陣取り、並べられた料理を前に目を輝かせていた。渡はその隣に腰を下ろすと、極めて自然な動作で彼女の剥き出しのふくらはぎに手を伸ばし、傍らにあった薄手のブランケットをふわりと掛けた。「これからは、お前の着替えも少し用意しておかないとな」彼が何気なく口にした『これからは』という言葉。それがあまりにも自然で、当たり前のような響きを持っていたから――この先もずっと彼と過ごす長い未来が本当に待っているのだと、危うく錯覚してしまいそうになるほどだった。「渡」「ん?」顔を上げた彼の、その漆黒の瞳の奥には、どこまでも深く静かな優しさが湛えられている。景凪はそっと手を伸ばし、彼の頬を撫でた。「今抱えている仕事が片付いて、知聿があなたの薬の臨床試験を終えたら……私、ここへ引っ越してきて一緒に暮らしてもいいかな?私があなたの体調を管理して、ちゃんとお薬を飲むように見張ってあげるから」渡は頬に添えられた彼女の手をそのままそっと握りしめ、ためらうことなく即答した。「ああ、わかった」
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第659話

見れば、潤一自身の手にも同じように食べ物の入った袋が提げられている。渡は微かに眉を動かしただけで、「ご苦労なこった」と冷淡に吐き捨てた。潤一の言葉など気にも留めず、さっさと背を向けて病院の中へと歩き出す。一方、病室では。景凪が目を覚ましたばかりの弥生に付き添い、熱で苦しそうに歪む小さな顔を濡れタオルで優しく拭ってやっていた。「おばさん……」熱に浮かされた弥生が、とろんとした目で呟く。「私、まだ夢を見てるのかな……?」「夢じゃないわよ。ほら、触ってみて」景凪は弥生の小さな手を取り、自分の頬にそっと当てさせた。弥生はふにゃりと目尻を下げて、嬉しそうに笑った。「本当だ。おばさん、本当に来てくれたんだね!」だがすぐに、その顔に申し訳なさそうな翳りが落ちる。「ごめんなさい、こんな夜中に……お休みの邪魔、しちゃったよね?」幼い頃から他人の家で肩身の狭い思いをして育ってきた弥生は、この年齢の子供からは想像もつかないほど敏感で、周囲の顔色を窺う癖が染みついていた。景凪は痛む胸を隠してその頬を撫で、どこまでも温かい声をかけた。「そんなことないわ。弥生ちゃんが私を必要としてくれるなら、いつだって飛んでくるわよ。こうしてそばにいられて、おばさんも嬉しいの」「ほんとに……?」弥生がおずおずと確認する。景凪は柔らかく微笑んだ。「本当よ。指切りしましょうか。これから先、あなたが私を呼べば、絶対に駆けつけるからね」その言葉に、弥生はようやく安心したようにパッと花が咲いたような笑顔を見せた。「うん!」ちょうど病室の入り口に到着した渡と潤一の目に飛び込んできたのは、そんな二人が指切りをして笑い合う光景だった。静かな間接照明の下で繰り広げられる、この上なく温かで穏やかな情景。潤一が思わず目を細めて見とれた、次の瞬間だった。ガンッ!と足の甲に鋭い痛みが走る。渡が容赦なく潤一の靴を踏みつけ、そのまま強引に病室の中へ踏み込んだのだ。「……悪いな」渡は振り返り、言葉の上だけで謝罪した。しかしその冷ややかな眼差しには、微塵も悪びれた様子などない。潤一は呆れたように鼻で笑った。やれやれ。相変わらず、すさまじい独占欲だな。足音に気づいて振り返った景凪は、歩み寄ってくる渡と、さらにその後ろから病室に入ってきた潤一の姿に驚き、思わず立ち上がった。
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第660話

「弥生ちゃんの、ご両親?」景凪は思わず虚を突かれて瞬きをした。「ああ。当時、あの二人の身分はあまりにもデリケートすぎてね。現地の政府は自国の国際的なイメージを保つために、政治的な圧力をかけて彼らが殉職した事実を揉み消したんだ。だから、遺体すら連れ帰ることができなかった」そこまで言うと、潤一の顔に暗い影が落ちた。「ただ、今年は国際情勢に少し動きがあってね。俺も色々とコネや裏ルートを使って、なんとか彼らの遺骨を取り戻すことができたんだ。でも、俺には彼らのためのお墓を探して、きちんと供養してやる時間が残されていない」景凪を見つめる潤一の瞳には、いつものような飄々とした軽薄さは微塵もなく、ただ切実な祈りのような色が浮かんでいた。「この件を、君に託したいんだ。弥生ちゃんが誰よりも懐いている君になら、あいつらも安心して娘を、そして自分たちの最期を任せられるはずだ。二人が故郷の土に還れるよう手配してやるには、君が一番適任なんだよ」景凪の戸惑いを察したのか、潤一はさらに真剣な声音で畳みかけた。「君以外に、こんなことを安心して頼める相手はいないんだ。もちろん、費用はすべて俺が持つから心配しないでくれ」「お金の問題じゃありません……」景凪は慌てて首を振った。ただ、事の重大さに躊躇してしまったのだ。本来であれば、遺骨の引き取りや埋葬は親族が執り行うべきことだろう。しかし、弥生のあの親族という名の吸血鬼たちの顔が脳裏をよぎる。お金のためなら幼い子供さえ平気で虐待し、利用するような連中だ。ましてや、喋ることのない二柱の遺骨が彼らの手に渡れば、どう扱われるか分かったものではない。少しの沈黙の後、景凪は静かに決意を固め、頷いた。「分かりました。引き受けます」潤一はふっと肩の力を抜き、安堵の笑みを浮かべた。「恩に着るよ」無意識のうちにポケットから煙草の箱を取り出すと、手慣れた仕草で一本抜き取り、唇に咥える。火をつける寸前で動きを止め、ちらりと景凪の方へ視線を向けた。「吸っても構わないかな?」「……お体に障りますよ」景凪は控えめに、だがはっきりと難色を示した。潤一は小さく苦笑いを漏らし、あっさりと煙草を箱に戻した。「分かった。じゃあ、今は我慢しておこう」「そういえば、お願いは二つあると仰っていましたよね。もう一つは?」景凪が促すと、その
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