All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 671 - Chapter 680

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第671話

深雲は目を閉じてシートに身を預けた。隣に座る少女から、ラベンダーの香りの柔軟剤の匂いがふわりと漂ってくる。その甘い香りに、ふと昔の景凪の記憶がフラッシュバックした。景凪の体からは、いつも微かに薬草のような香りがしていた。それが何の匂いなのか具体的に言葉にするのは難しいが、嗅ぐだけで不思議と心が落ち着く、そんな香りだった。深雲は時折うっすらと目を開け、ルームミラー越しに隣の様子を窺った。ミラーには玲凪の膝から下だけが映っている。彼女は両手を膝の上にきちんと揃え、ひどく行儀よく座っていた。再びまぶたを閉じ、そのまましばらく揺られていると、車が駅の入り口で停車した。「鷹野社長、ありがとうございました」降り際にお礼を言う玲凪に対し、深雲は目を開けることもなく、疲労の滲む声で「ああ」とだけ返した。パタンとドアが閉まる音がして、車は再び走り出し、鷹野家の本邸へと向かった。本邸の地下ガレージに到着し、車が完全に停まると、深雲はゆっくりと目を開けた。降りようとしたその時、ふと隣のシートに何かが落ちているのに気がつく。手を伸ばして拾い上げてみると、それは大学の図書館の利用証だった。【唐沢玲凪。長華大学医学部、三年】証明写真の中で花のように初々しく笑う少女の顔を見つめ、深雲はすべてを悟ったように鼻で笑った。――なるほど、ずいぶんと小賢しい真似をしてくれる。深雲はその利用証を無造作にコンソールボックスに放り込み、車を降りて屋敷へと向かった。玄関を抜け、リビングに入ったところで、こそこそと外へ抜け出そうとしていた伊雲と鉢合わせた。「お兄ちゃん……」伊雲は気まずそうに目を泳がせた。「こんな夜更けに、どこへ行くつもりだ?」深雲が咎めるように問いただすと、伊雲は強がって言い返してきた。「どうしても眠れないから、友達と遊びに行くだけよ」妹の性格を誰よりも熟知している深雲が、そんな見え透いた嘘を信じるはずもない。彼は有無を言わさず伊雲のバッグをひったくると、中を探り、案の定パスポートを引きずり出した。「夜遊びに行くのに、パスポートが必要か?」深雲は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。「また児玉潤一を追いかける気か!?あいつはもう任務に発ったんだぞ!」「知ってるわよ。バンダ地区に向かったんでしょ?今回の任務はすごく安全だって聞いたわ
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第672話

翌日の夕方、深雲は自ら幼稚園へ清音を迎えに行った。だが、そこに景凪の姿はなかった。辰希を迎えに来ていたのは、桃子さんだった。その後二日間も、同じ状況が続いた。たまらず、深雲は桃子さんに探りを入れた。「……景凪は、最近仕事が忙しいのか?」桃子さんは意図的に話を逸らし、とぼけたように口を開いた。「いやあ、日増しに寒くなってきましたねえ。深雲様、もっと着込んだ方がいいですよ。カッコつけるために薄着して風邪でも引いたら元も子もありませんから。それに……ぶっちゃけ言うほどカッコよくないですしね。景凪さんの今の彼氏の黒瀬さんの方が、深雲様よりずっと男前ですよ」深雲は微かに眉をひそめた。「……黒瀬渡は、よく家に来るのか?」桃子さんは彼をジロリと上から下まで値踏みするように見て言った。「深雲様、元夫の立場でそこまで詮索するのは、いかがなものかと思いますけどね?」「…………」深雲は痛いところを突かれ、言葉に詰まった。ちょうどその時、辰希と清音が楽しそうに笑い合いながら並んで出てきた。清音の後ろを歩いていた弥生が少し遅れをとると、清音は「遅いよ」とでも言うように振り返り、彼女の手を引いてやった。どうやら、二人の女の子はすっかり仲直りしたらしい。「パパ!」清音は満面の笑みで深雲の胸に飛び込んできた。一方、弥生は深雲に対して強い警戒心を抱いていた。まだ幼いながらも、深雲と景凪の離婚が円満なものではなかったことを薄々感じ取っており、彼を「悪い人」だと認識しているのだ。弥生は辰希と清音に別れを告げると、迎えに来ていたシッターと一緒に車へ乗り込んで去っていった。桃子さんは、辰希が深雲に別れの挨拶をするのを待ってから、逃げるように彼の手を引いて足早に車へ乗り込んだ。家に着くと、桃子さんは驚いた。いつもなら書斎にこもって仕事をしているはずの景凪が、珍しくキッチンに立ち、家庭料理を何品か作っていたのだ。「景凪さん、お仕事は一段落ついたんですか?」と桃子さんが尋ねる。「ええ、グリーンウォール計画のプロジェクトが明日には片付きそうなので」景凪は答えた。「ここ最近は桃子さんに苦労をかけっぱなしだったから、今日は私が腕を振るって労おうと思って」桃子さんは慌てて手を振った。「いやいや、それが私の仕事ですから。ご飯を作って掃除をしてるだけなのに、
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第673話

「ごめんなさい、希音先輩。また後でね」景凪は希音に申し訳なさそうな笑みを向けると、教授の部屋へと向かった。「教授、お呼びでしょうか?」車田教授は景凪を中へ招き入れた。「ああ、まあ座りなさい」教授は景凪に茶を淹れて隣に腰を下ろすと、穏やかな笑みを浮かべて切り出した。「実はだね、グリーンウォール計画の君の担当分も無事に終わったわけだが……これからの予定について聞かせてもらえないかな?」景凪は少しの間考えを巡らせてから、静かに、だが決意を込めて答えた。「……どうしても果たさなければならない、大切な私用があるんです」「ほう、そうかね……」教授は鼻梁にのった眼鏡を指で押し上げ、それ以上深くは追求せず、思慮深く頷いた。「教授、どうか回りくどい言い方はなさらず、率直におっしゃってください」景凪は手の中の湯呑みをそっと包み込み、隠しごとのない瞳で前を見据えた。車田教授は小さく頷き、言葉を継いだ。「ここしばらく君の働きを見てきたが、その能力はやはり本物だ。……実は先日、蘇我教授とも話をさせてもらってね。君なら本来、卒業と同時に国内最高峰の研究所に入り、最先端の医薬研究に携わっていたはずだ。それが、あんな……いや、返す返すも惜しいことだ」教授が漏らしたため息に対し、景凪はむしろ憑き物が落ちたような、晴れやかな笑みを浮かべた。「人は誰しも、若さゆえの過ちには相応の代償を払わなければならないものです。今はもう、それを受け入れていますから」「過ぎたことは、もう言うまい。では改めて聞くが、もし再起のチャンスがあるとしたら……君は再び研究の世界に身を投じ、人類の未来のためにその知見を役立てたいと思うかね?」「はい。もちろんです」景凪は深く、重みのある頷きを返した。それはかつて少女だった頃の夢であり、一度は捨てかけながらも、心の奥底で決して消えなかった情熱だった。その答えに満足したように、教授は目尻を下げて微笑んだ。「よろしい。現在、国際科学研究会が『英才プログラム』を実施していてね。世界中から最も優秀な若手専門家を百名選出するんだが、私と蘇我教授の連名で君を推薦しておいたよ」「……私が、ですか?」景凪は驚きのあまり、言葉を失った。「光栄ですが、教授……私には、この数年間これといった実績がありません。そんな私が選ばれるなんて」「君の実力は
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第674話

鶴真は鷹野深雲の顔は知っていたが、目の前の男については全く面識がなかった。しかし、景凪に向けるそのあまりにも刺々しい態度を見て、鶴真はスッと半歩前に出ると、容赦のない口調で言い放った。「陸野さん、でしたっけ?うちの景凪は単に教授から推薦されただけの顧問じゃありませんよ。お宅の陸野家が、何度も何度も泣きついてようやく引っ張り出してきた『専門家』なんですがね」研時は目が全く笑っていない張り付いたような笑みを浮かべ、嫌味たっぷりに言い返した。「へえ、穂坂サンも随分と偉くなったもんだな」人を小馬鹿にしたようなその態度に、鶴真の苛立ちは跳ね上がった。「てめえ……!」「鶴真先輩」景凪はそっと鶴真の腕を引いて制止すると、車内の研時を冷ややかな目で見据えた。「陸野さん。あなたが本気で提携を望んでいるのなら、私としてもビジネスはビジネスとして、完全に公私を分けて対応するつもりです。ですが、もし今後もそのような態度を取り続けるおつもりなら――私たちには、協力し合う必要など一切ないと思いますけど」研時は見下すような視線を向け、何か嫌味を言い返そうと口を開きかけたが、その時彼のスマートフォンが着信を告げた。「親父……」電話に出た研時は、受話口の向こうから聞こえる声に忌々しそうに景凪を横目で見やり、不満げに答えた。「ああ、本人は確認したけどよ……」景凪は彼とこれ以上無駄な時間を過ごす気になれなかった。鶴真に目配せをすると、二人はきびすを返して歩き出した。一方、車内の研時は父親の源三に向かって文句をぶちまけていた。「親父、悪いが顧問なら別の奴に変えてくれ——」だが、その言葉は鼓膜を震わせるほどの怒号によって遮られた。「ふざけたことを言うな!わしがどれだけ頭を下げて、車田教授に一番の専門家を紹介してもらったと思っとるんだ!お前が何を考えているかは知らんが、その穂坂先生を連れてこられなかったら、二度と会社の敷居を跨げると思うな!」「親父!」ツー、ツー……電話は一方的に切られてしまった。「くそっ……!」研時は屈辱に顔を歪めてスマホを握りしめると、窓の外で遠ざかっていく景凪の後ろ姿を睨みつけた。結局、彼は荒々しく車のドアを押し開け、大股で後を追いかける羽目になった。「おい、待て!」景凪は立ち止まらなかった。研時はさらに歩幅を広
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第675話

「穂坂さん、どうぞ」研時は、いかにもビジネスライクな、うわべだけの笑みを浮かべてみせた。どれほど景凪を忌々しく思っていようと、今は彼女の力が必要なのだ。利益の前では永遠の敵など存在しない――それが業界に身を投じて彼が最初に学んだ教訓だった。景凪は研時たちに案内されるまま、開発センターを視察した。そこで現在、彼らが最も注力している二つの重要プロジェクトについて説明を受ける。一つは、がんの早期発見を目的としたバイオセンサー。体液からがん罹患のリスクを精密に検知する技術だ。もう一つは、小児がんの一種である神経芽腫を対象とした標的治療薬。がん細胞のみを狙い撃ちし、正常な細胞へのダメージを最小限に抑えることを目指している。プロジェクトチームのメンバーは皆、極めて優秀だった。研時という男は人間性こそ褒められたものではないが、経営者としては有能なのだろう。人材への投資を惜しまず、国内最高水準の給与と最先端の研究設備を整えていた。景凪は、この二つのプロジェクトに強い関心を抱いた。第一段階の薬物成分を精査していた彼女は、その成分の配合にいくつかの懸念点を見つけ、プロジェクトリーダーとの議論を始めた。その専門的なやり取りに、傍らに立つ研時は口を挟むことすらできない。それどころか、二、三言聞いただけで内容がさっぱり理解できなかった。一方の景凪は、自らの専門領域において淀みなく言葉を紡いでいく。仕事に打ち込む彼女の姿を、研時は初めて目の当たりにしていた。相変わらず地味な女だと思っていたが、今の彼女には、かつての卑屈さや自信のなさは微塵も感じられない。静かでいて、それでいて揺るぎない知的なオーラを纏ったその瞳は、一点の曇りもなく専念していた。「陸野さん」鶴真が不意に、研時の視線を遮るように立ちふさがった。「景凪はまだしばらく彼らと話し込むようです。よろしければ、私を先の方へ案内していただけませんか?」丁寧ではあるが、どこか牽制するような笑みを向ける。研時はハッと我に返り、景凪から視線を外した。「……ああ、わかった」景凪の議論は一時間以上にも及んだ。ふと顔を上げると、いつの間にかプロジェクトチームのメンバー全員が彼女を取り囲んでいた。中には小さなメモ帳を手に熱心に書き留めている者までおり、まるで講義を聴く真面目な学生のようだった。向かいの
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第676話

会社のエントランスを抜けた瞬間、景凪の目に渡の車が飛び込んできた。車から降り立つ渡。無駄のない仕立てのスモークグレーのコートは、ごくシンプルなデザインのはずなのに、彼が着るとまるでランウェイを歩くトップモデルのように洗練されたオーラを放っていた。景凪がふわりと微笑んで小走りで駆け寄ると、渡は両腕を広げ、その華奢な体をすっぽりと胸の中に受け止めた。「穂坂先生、お疲れ様」渡がわざとらしく、かしこまった口調でからかう。後ろから歩いてきた鶴真は、その光景を目の当たりにして完全に呆気にとられていた。「黒瀬さん!?それに、お前……!お前ら……」景凪は渡の腕にぎゅっとしがみついたまま、あっけらかんとした笑顔で紹介した。「鶴真先輩、改めて紹介するね。私の彼氏の、渡よ」鶴真はさらに目を丸くし、危うく自分の舌を噛みそうになった。渡は自分からスッと手を差し出し、穏やかに微笑んだ。「こんにちは。景凪がいつもお世話になっています」鶴真は引きつった笑いを浮かべながらその手を握り返した。「黒瀬さん、どうも。いや、ご丁寧なことで……俺にとって可愛い後輩ですから、面倒を見るのは当然ですよ」そう言いながら、鶴真は景凪に向かって意味深な視線を送った。「……お前、随分とでかい隠し事をしてたな!」景凪は困ったように肩をすくめる。「本当は今日、みんなに打ち明けるつもりだったの。でも急に顧問の仕事が入っちゃって、タイミングを逃しただけよ」そんなやり取りの最中、不意に鶴真の顔色がスッと険しくなった。二人の斜め後ろを睨みつけ、忌々しそうに呟く。「……げっ、最悪だ」「え?」景凪が振り返ると、そこにはこちらへ向かって歩いてくる深雲の姿があった。だが、深雲の冷ややかな視線は景凪ではなく、彼女の傍らに立つ渡へと真っ直ぐに向けられていた。距離を詰めた深雲は、口元だけで冷笑を形作り、渡に声をかけた。「黒瀬の次男坊、久しぶりだな」わざとらしく次男坊という言葉を強調するその口ぶり。それは紛れもなく、渡の出自への当てつけだった。黒瀬という名門の姓を背負っていようと、所詮は日陰者の私生児にすぎないという冷酷な念押しだ。深雲が挑発的に右手を差し出すと、渡は漆黒の瞳をスッと細めた。二人の視線が激しく交錯し、周囲の空気までもがバチバチと火花を散らしているかのようだ。
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第677話

料理の乗ったトレイを手に立ち尽くしていた玲凪は、フロアチーフの矢崎の鋭い叱責にビクッと肩を揺らした。「いえ、なんでもありません」玲凪は慌てて我に返り、頭を下げた。「すみません、矢崎さん。すぐにお客様のところへお持ちします」だが、急いで歩き出そうとした玲凪の行く手を矢崎が遮った。黒縁メガネの奥の目が、不快感を露わにして玲凪を睨みつけている。「玲凪、一言忠告しておくわ。ここへ食事に来るお客様方はね、確かに私たちと同じ空間にはいるけれど、住む世界がまったく違うの。身の程知らずな妄想は、いい加減捨てなさい」「……」玲凪はギュッと唇を噛み締め、うつむいたまま何も言い返せなかった。矢崎はふんっと鼻を鳴らし、そのまま冷ややかな足取りで立ち去っていった。配膳を終えてフロアに戻ってきた玲凪の隣で、同僚のウェイトレスが慰めるように小声で話しかけてきた。「矢崎さんの言うことなんて気にしないで。どうせ更年期の八つ当たりよ。若くて可愛い子が目障りなだけなんだから。特に玲凪ちゃんみたいに、高学歴なのに生活費のためにバイトしてるような子には、余計に風当たりが強くなるのよね」玲凪は小さく微笑んだ。「大丈夫です。気にしてませんから」その時、支配人が足早にこちらへ向かってきた。「フロントのパソコンの調子がおかしいんだ。誰かパソコンの操作に詳しいやつはいないか?ちょっと見てやってほしい」玲凪はスッと手を挙げた。「支配人、私やります。大学でコンピューターサイエンスを副専攻していますし、同級生のパソコンを修理したこともありますので」「おっ、そうか。じゃあ頼む」フロントのパソコンの前に座り、状況を確認する玲凪。原因は単なるメモリの過負荷による軽いフリーズという些細なものだった。彼女は手際よく復旧作業を進めながら、周囲の目を盗み、上階にあるVIP用個室の予約状況を素早くチェックした。その中の一つ、格式高い「水雲の間」の予約者名に『鷹野』の文字を見つける。鷹野社長……玲凪は、その部屋番号と名前を頭の中にしっかりと刻み込んだ。一方その頃、渡の運転する車で大型スーパーマーケットへとやってきた景凪は、夕食の買い出しを楽しんでいた。渡がショッピングカートを押して後ろを歩き、景凪が前を歩きながら好きなものを次々と放り込んでいく。カゴの底はあっという間に彼女のお気に
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第678話

景凪は渡から体を背けるようにして、通話ボタンをタップした。「……知聿さん。何かご用ですか?」電話の向こうから、知聿の少し掠れた、人を食ったような声がゆっくりと鼓膜を打つ。「いやはや、穂坂さんは本当に魔法使いだね。あの狂犬のような僕の弟が、君の前ではすっかり飼い慣らされている。こうして人混みに紛れていると、まるで『まともな人間』みたいじゃないか」その言葉に、景凪は弾かれたように背筋を強張らせ、鋭い視線を周囲に走らせた。そして見つけた。スーパーのガラス扉の向こう側――車椅子に乗った知聿と、その後ろで彼を押す瑛執の姿を。知聿は片手にスマートフォンを当てたまま、もう片方の手を上げて、景凪に向かってひらひらと軽く振ってみせた。景凪は慌てて背後を振り返る。渡はレジでの支払いに集中しており、こちらには全く気づいていない。「……何のつもりですか?」景凪は声を極力押し殺して問い詰めた。知聿は喉の奥でくくっと笑う。「そんなに僕を怖がらないでよ。僕の方が、渡よりずっと温厚な人間なのに。それに、今の僕は君の患者なんだから、もう少し優しく気遣ってくれてもいいんじゃないか?」景凪は彼の戯言に付き合う気など毛頭なかった。「最近の容態は安定しているはずです。新しい薬は明日そちらへ届けますし、その時に改めて詳しい状態を診ます」彼女は声に冷たい警告の響きを込めた。「ですが、知聿さん。私との約束は忘れないでください。私があなたの治療をする代わりに、あなたは二度と渡を傷つけないと」知聿は可笑しそうに笑い声を漏らし、それが軽い咳き込みに変わった。彼はガラス越しに景凪の肩越しへと視線を滑らせ、人混みの中に立つ渡の姿をじっと見つめた。数秒の沈黙の後、意味ありげに呟く。「……どうやら君は、僕が思っていた以上に、あの『狂人』を大切に思っているようだね」「言葉を慎んでください!」景凪は語気を強めてピシャリと言い放った。渡を貶めるような言葉は、たとえ一言であっても聞きたくなかった。どんな形であれ、彼をあらゆる悪意から守り抜く。今の彼女には、その強い覚悟があった。「安心しなよ。君が約束を果たすなら、僕も当然約束は守る。今日電話したのは、明日のことでちょっと念押ししておきたくてね。僕には大事な予定があるから、会う場所を変更させてもらう。瑛執に迎えに行かせるよ。もし怖い
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第679話

玲凪は全身を強張らせた。両手をきつく握りしめ、手の中は緊張でじっとりと汗ばんでいる。至近距離には、欲望と未練に溺れる深雲の顔があった。彼から放たれるむせ返るような濃い酒の匂いが、唇の隙間から一気に流れ込んでくる。それは玲凪の脳髄まで達し、全身の神経を痺れさせていくかのようだった。ほんの一瞬、玲凪自身もその熱と酒の匂いに当てられ、酔わされたような錯覚に陥った。だが、深雲の肩越しに、こちらを探しに来た男の姿が目に入ったことでハッと我に返る。「深雲?」見覚えのある後ろ姿に、研時が探るように声をかけた。その声に、深雲は弾かれたように目を見開いた。充血した瞳が揺らぐ。玲凪はまるで矢を射られた小鳥のようにビクッと跳ね上がると、思い切り彼を突き飛ばした。そして口元を震える手で覆い、目元を真っ赤に腫らしながら、逃げるようにその場を走り去っていった。少し離れた場所にいた研時からは、小柄な玲凪の姿は深雲の大きな体にすっぽりと隠れて見えなかったのだ。状況を把握した研時は呆気にとられ、数秒遅れてようやく事態を飲み込んだ。重なり合う男女の影。何が行われていたかなど、火を見るより明らかだ。それに、あの女……研時は逃げ去る女の後ろ姿を見送った。身につけていたのは、この店のウェイトレスの制服だった。彼は眉をひそめ、大股で深雲に歩み寄った。「どういう状況だ?あの女は……」「……人違いをしただけだ」深雲は吐き捨てるように言い、明らかにその話題を避けたがった。研時はそれ以上深くは追及しなかった。今の深雲は独り身だ。彼の地位と財力、そしてあの容姿があれば、すり寄ってくる女など星の数ほどいる。研時はポケットからティッシュを取り出し、深雲に差し出した。口元にべったりとついた口紅を拭き取らせるためだ。「まあ、いいんじゃないか。たまにはそうやって息抜きするのもな」研時は慰めるように言った。「早く穂坂のことは忘れるんだな」深雲は彼を一瞥しただけで何も答えなかった。ティッシュで口元を乱暴に拭うと、それをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てる。「少し気分が悪い。俺は先に帰る。中の連中には適当に謝っておいてくれ」「おい、大丈夫か?俺の運転手に送らせようか?」研時が心配そうに声をかける。深雲は煩わしそうに軽く手を振った。「いや、自分で代行を呼ぶ」レ
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第680話

深雲はふっと笑いを漏らし、シートの背もたれに気怠げに寄りかかりながら、窓の外に立つ玲凪を見下ろした。それは年齢と社会的地位が彼にもたらす、圧倒的な優越感のせいかもしれない。この瞬間、深雲は玲凪のことなど、自ら進んで祭壇に上がる供物を値踏みする『神』のような気分で見下ろしていた。生かすも殺すも、すべては自分の気分次第だと。玲凪が心細げに返事を待っていると、やがて、男の微かな酔いを帯びた気怠い声が降ってきた。「……本当に、俺を送る気があるのか?」「はい!」彼女に迷いはなかった。「どこへ行くとしてもか?」「……はい、どこへでも!」彼女には這い上がりたいという強い欲望と野心があった。上へと続く千載一遇のチャンスが目の前にぶら下がっているのだ。これに縋りつかない馬鹿はいない。深雲は目を閉じて短く笑った。「乗れ」玲凪の宙に浮いていた心臓が、ようやく本来の位置へとストンと落ちた。それでも胸の鼓動は激しく打ち鳴らされている。彼女は車に乗り込み、数千万円は下らない高級車のステアリングをしっかりと握りしめた。「私たちはどちらへ向かいますか?」彼女は極めて無邪気な顔をして、「鷹野さんはどちらへ」ではなく「私たちはどちらへ」と尋ねたのだ。深雲が薄く目を開けると、ルームミラー越しに玲凪とピタリと視線がぶつかった。その瞬間、玲凪は自分の下心までをすべて見透かされたような感覚に陥り、思わず緊張でステアリングを強く握りしめた。事実、深雲は彼女の浅はかな計算などとうに見抜いていた。だが、彼は自分の前で賢ぶってみせるこういう女が嫌いではなかった。容易に見透かせる程度の小賢しさでありながら、決して男のプライドを脅かすことはない、その計算された従順さが心地よかったのだ。もし景凪にもこういう可愛げがあれば、俺たちはこんな結末を迎えずに済んだのだろうか――?深雲はふたたび目を閉じ、静かに口を開いた。「……とりあえず、車を出せ」「はい」玲凪は大人しく車を走らせながら、ルームミラーで何度も後部座席の深雲を盗み見た。彼は目を閉じ、酔いでほんのりと顔を赤らめながら、まるで眠ってしまったかのようだった。しかしその時、深雲が唐突に口を開いた。「……運転、上手いな」「ありがとうございます」玲凪はふわりと笑った。「時間がある時、運転代行の
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