All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 751 - Chapter 760

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第751話

病院。集中治療室へと続く廊下は、長く薄暗い。完璧に仕立てられたスーツ姿の景舟が、長い足を運んでいた。わずかに開いた窓から身を切るような寒風が吹き込み、カーテンを大きく煽っている。今日は珍しく日差しが温かいはずなのに、景舟を照らす光はどこまでも冷たかった。冬の太陽は、温度すら奪い去っていくようだ。景舟が細いフレームの眼鏡を押し上げ、集中治療室の扉へ手を伸ばそうとしたその瞬間――扉が勢いよく内側から開け放たれた。「急いで!蘇生処置の準備!」ウィル医師をはじめとする医療スタッフたちが、血相を変えて渡のストレッチャーを押し出してくる。その後ろを、血の気を失った悠斗がふらふらと追いかけていた。景舟の存在にすら気づかず、足をもつれさせて床に崩れ落ちそうになる。景舟が咄嗟にその腕を掴むと、悠斗は真っ白な顔で振り返り、消え入るような声で震えた。「景舟様……渡様が……」言葉を詰まらせた悠斗の肩を、景舟は力強く握りしめた。二人は手術室の前で待機した。ほどなくして、病院のスタッフがバインダーを抱えて景舟の前にやってきた。「墨田様。黒瀬様は事前にご家族の代理として、お二方の名前を残されておりました。穂坂景凪様と、墨田景舟様です。恐縮ですが、こちらの手術同意書にサインをお願いできますでしょうか」景舟は少しの沈黙の後、内ポケットから万年筆を取り出し、流れるような筆致で自身の名を記した。刻一刻と時間が過ぎていく。景舟はふと腕時計を見下ろした。徹底した合理主義である彼の頭の片隅では、無意識に今日のスケジュールを弾き出している。あと二時間後には、政府の要人とのゴルフが控えていた。手術室のドアの上で点灯し続ける赤いランプを見上げても、どうにも現実感が湧かない。渡との付き合いは長い。彼の過去も内情も、ほぼ全てを知っているつもりだ。常人には想像もつかない地獄のような苦痛を何度も乗り越えてきた男が、今回ばかりはあっけなくくたばるなど、とうてい信じられなかった。景舟が立ち上がり、一旦この場を離れようとしたその瞬間――ランプがふっと消えた。景舟の長身が、ピタリと動きを止める。次の瞬間、扉が開き、ウィル医師が出てきた。マスクを外した面持ちには、隠しきれない疲労と深い敗北感が滲んでいる。悠斗が弾かれたように飛び出した。全身が小刻みに
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第752話

隣でスマホのゲームに没頭していた千代は、手塩にかけて育てたスネークゲームの蛇が自分の尻尾に突っ込んでゲームオーバーになったことで、機嫌が最悪だった。八つ当たり気味に舌打ちをして窓の外に目を向ける。しかし、その視界に飛び込んできたのは――当たり屋のジジイに絡まれている『人が良さそうなターゲット』、墨田景舟の姿だった!ただでさえ目を引く容姿である。周囲の野次馬から浮き上がり、まるで一人だけフィルターでもかかっているかのようだった。無言で立ち尽くす景舟を見て、千代の脳内には瞬時に一つのストーリーが仕上がった。『温室育ちの王子様がお城を抜け出し、下町の柄の悪い連中に絡まれるの巻!』きっと今の彼は、どうしていいか分からず途方に暮れているに違いない!ああいうタイプは、こんな修羅場なんて経験したことがないはずだ!先日の食事会で、千代は彼に好印象を抱いていた。口数こそ少ないが、穏やかで気品のある紳士だ。持ち前の正義感に火がついた千代の目には、今の景舟が『悪者に怯えるか弱きウサギちゃん』にしか見えなかった。「待ってて、今行くわよ!」マスクを引っ掛けた瞬間、千代はバンッと車のドアを押し開けていた。「えっ、ちょ、千代さん!?どこ行くんですか!」咲苗が慌てて止めようとしたが、すれ違いざまに振り切られる。完全装備で飛び出した千代は、背中越しに言い放った。「美女がヒーローを救出してくる!」――一方その頃。野次馬に囲まれた景舟は、表面上こそ無表情を貫いていたが、眼鏡の奥の切れ長な瞳には少しずつ氷のような殺気が満ち始めていた。今日の彼は、機嫌が最悪なのだ。少しだけ、人間の骨が砕ける音を聞いてみたい気分だった。景舟が自らの手を下そうとしたその瞬間、華奢な人影が猛然と飛び込んできた。帽子にマスク姿で顔は全く見えないが、匂いに敏感な景舟は、記憶にある香水の香りをすぐに嗅ぎ取った。千代だ。「ちょっと、おじいさん!あんた当たり屋でしょ!」と、千代はわざとドスを効かせた声で、地べたに座り込む老人を凄まじい剣幕で睨みつけた。相手が若い小娘だと見て、老人も怯まない。「お嬢ちゃん、この兄ちゃんがイケメンだからって適当なこと言って庇うんじゃないよ!この男がわしにぶつかってきて、怪我させられたんだ!」「ふざけんじゃないわよ」千代はチンピ
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第753話

景舟は凍りついたように彼女を見つめ返した。「……大切なものを、失った?」機械的にその言葉を繰り返す。その様子が普通ではないと悟り、千代は心配そうに顔を覗き込んだ。「墨田さん、大丈――」『夫』という言葉が最後まで出る前に。景舟は無言のまま、千代の体を強くその胸に抱き寄せていた。「えっ……」驚いた千代が無意識に身をよじろうとした瞬間、景舟のひどく掠れた声が耳元に降ってきた。震えさえ帯びた、懇願するような声だった。「このままで……あと一分だけでいい……、どうか、お願いだ」千代は呆然とし、突き放そうと上げた手を宙で止めた。迷った末、その手をゆっくりと下ろす。景舟は一言も口にしなかったが、女優としての秀でた共感力が、景舟の抱える深い悲しみを痛いほどに読み取っていた。景舟の内に重く積もっていた感情が溢れ出しそうになり、その重圧が千代までをも丸ごと包み込んでいくようだった。緊張が解け、ぽんぽんと背中を叩いて慰めようとした矢先のことだった。「墨田さん……」声の途中で、景舟は自制心を振り絞るように千代から体を離した。「……ありがとう。不躾な真似を、すまなかった」一分と経たずに、あれほどの悲痛を無理やり心の奥底へ封じ込めてしまうなんて。千代は複雑な面持ちで景舟を見つめた。胸が痛むと同時に、強い関心も惹きつけられる。千代自身など、一度役の感情に入り込むと抜け出すのに随分と時間を要するというのに。一台の黒いセダンが滑るように近づき、目の前に停まった。運転手が後部座席のドアを開け、感情を持たないロボットのように無機質な声で告げる。「景舟様。先ほど三紗子(みさこ)様よりご指示があり、政府の方へ連絡を入れて面会時間を遅らせておきました。今から向かえば間に合います」景舟が答えるより早く、ポケットのスマートフォンが着信を知らせた。画面に表示されたのは、母・三紗子の名前だ。景舟は目を閉じ、深く息を吸い込んでから電話に出た。「母さん」「政府の議員との面会、どうして急にキャンセルしたの?明日も予定が詰まってるのよ。ここから二ヶ月は帰国する暇なんてないんだからね。あなたに一番見合う政略結婚の相手を決め切るまでは……」景舟は静かに耳を傾けた。まるで『感情』をとうの昔に切り離してしまったかのような、あまりにも静謐な佇まいだ。電話越し
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第754話

景舟には最後まで、その袋を開ける勇気はなかった。あれは三紗子からの『教育』だったのだ。その地位に立つ以上、余計な執着を持てば、それは必ず致命的な弱点になると思い知らせるための。景舟はゆっくりと目を閉じ、低い声で言った。「……これから向かう。政府の人間との面会が終わり次第、S国に戻るよ」「ええ、そうしなさい」三紗子の満足げな声と共に、通話は切れた。景舟が車に乗り込もうとしたその時、ふいに腕を掴まれた。振り返ると、千代が彼を引き止めている。「鐘山さん……?」怪訝に眉をひそめる。「墨田さん、この前は私がご飯をご馳走したじゃない?」千代は少し強引に言った。「そのお返しとして、一時間だけ私に付き合ってくれない?」三十分後。景舟は千代に連れられ、薄暗い船着き場にやってきた。人目を避けるように迷路のような道を抜け、最終的にたどり着いたのは、長く放置されていたらしい一隻の廃船だった。だが、崩れかけた外観とは裏腹に、船室の中はとても温かみのある空間に改装されていた。「この船、私が買い取ったの。誰も引き取り手がないし修理もできないから、タダみたいな値段だったわ。ここが私の秘密基地」千代は真剣な顔で言った。「私、辛いことがあるといつもここへ来て、少しだけ過ごすの」小さな窓からは、一面の海が見渡せる。「昔、お母さんが教えてくれたの。どうしても立ち直れないくらい悲しい時は、海を見つめて、心の中でその苦しみを全部海に話してごらんって。これ、結構効くのよ」大切な人を失う痛みを、千代は誰よりも知っているつもりだ。まるでおとぎ話のような優しい台詞に、景舟は千代を見つめ、不意に尋ねた。「どうして、ここまでしてくれるんだ?」「ただ、墨田さんに少しでも笑ってほしくて」千代は微笑んだ。「あなたはいい人だから。もっと幸せになるべきよ」景舟はじっと千代を見つめ返した。幸せ、か。その言葉は、自身の人生とは永遠に交わらないものだと思っていた。千代は気前よく大きく両手を広げた。「もしまたハグが必要なら、今度は特別に十分間貸してあげるわ!」景舟はふっと息を漏らして笑った。さすがに乗ってこないかと思い、千代が手を下ろそうとしたその時、不意に景舟の腕がその体を包み込んだ。「渡だ」耳元で、ひとかけらの嘘もない低い声が響いた。「俺の、唯一の友人
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第755話

虎風島。景凪は全身に銀針を打ち終わると、『変な人』のベッドの傍らで様子を見守っていた。ふと、心臓を鋭く突き刺すような激痛が走り、思わず前かがみに呻き声を漏らす。その時、ベッドから衣擦れの音がした。顔を上げると、白濁した男の瞳と真正面から視線がぶつかった。「……気がついたの?気分はどう?」景凪は声を潜めて尋ねた。「私が言ってること、分かる?」男は何も答えない。ただ景凪の顔を穴が開くほど見つめると、突然、その目に異様な光を宿し、枯れ枝のような手で彼女の腕を激しく鷲掴みにした。骨ばった指が肉に食い込む。「っ……離して!」景凪は悲鳴を上げて身を引いた。『変な人』が口を開くが、そこから漏れるのは獣の唸り声のような音ばかりだ。景凪は後ずさるが、『変な人』は鬼気迫る様子でにじり寄ってくる。その時。背後から、氷のように冷たく、怒気を孕んだ声が飛んだ。「その手を離せ」振り返ると、見張りを倒した潤一が立っていた。彼が手にした銃口は、『変な人』の額にぴたりと突きつけられている。だが景凪の目は、『変な人』の瞳からとめどなく溢れ出す涙を捉えていた。「待って!」景凪は潤一を制し、恐る恐る男に問いかけた。「あなた……私のことを、知ってるの?」『変な人』は滂沱の涙を流しながら、喉の奥からひどくしゃがれた声を絞り出した。その震える口唇が紡いだ名前に、景凪は雷に打たれたように硬直した。「……長楽」間違いなく、亡き母の名前だ。景凪は弾かれたように『変な人』の腕を掴み返した。「私の母を知ってるの!?」「……母?」『変な人』は一瞬呆けたように呟き、さらに激情を爆発させた。干からびた手が、ゆっくりと景凪の頬へと伸びてくる。潤一が眉をひそめ、銃でその手を払いのけようとしたが、景凪が再び制止した。「潤一さん、何もしないで。この人は、私を傷つけたりしない」目の前の『変な人』の涙に濡れた瞳を見つめた瞬間、景凪は直感的に『あること』を悟り、全身の震えが止まらなくなった。目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちる。「あなたは……もしかして」言葉を紡ぎきる前に、『変な人』は震える手で自身の襟元から錆びついた懐中時計を引っ張り出した。まるでこの世で最も尊い宝物でも扱うかのように、おずおずと蓋を開く。そこには、若き日の母・長楽が写った小さ
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第756話

「ありがとうございます。……私も、父を治すために全力を尽くします」ふと、景凪は一つの疑問を抱いた。「そういえば、どうやってあの密室を見つけたんですか?」「実を言うと、不思議なことにな」須藤が答える。「密室のほうから、私の端末に自動で座標が送られてきたんです」「自動で……?どうして?あそこはトムの本拠地なのに……」思考を巡らせていた景凪の言葉が、ゆっくりと止まった。何もかもがおかしい。トムに拉致された時から、父親との再会に至るまで。この一連の出来事は、すべてが不自然なほどに一本の線で繋がっている――もうすぐ、本当の真実が水面から顔を出そうとしている。とてつもない頭痛が景凪を襲った。「景凪さん」潤一が、不意に低く重い声で名を呼んだ。その眼差しには、耐えがたいほどのやるせなさと憐れみが満ちていた。「今、ある連絡が入った。……黒瀬渡のことだ。今ここで聞くか?それとも、本国に戻ってから自分で確かめるか?」「それって……」景凪は引きつるように笑みを浮かべた。「渡が……私にプロポーズする準備でもしてるの?まさか、空港でサプライズを仕掛けて待ってるとか?そうじゃないと……!お父さんを見つけたのも、渡なんでしょう?渡がわざと私をここへ向かわせて、私たち親子を引き合わせてくれた……!」潤一は無言のまま、ただ悲痛な瞳で彼女を見つめ返した。聡明な景凪だ。本当はもう、全て分かっているのだろう。ただ、心がそれを認めることを拒絶しているだけだ。須藤は短くため息をつき、音を立てずに部屋から退出してドアを閉めた。「景凪さん」潤一は長い脚を踏み出し、彼女の正面に立った。「渡が……なぜこんな回りくどい真似までして、全てを仕組んだのか。お前には分かってるはずだ。……違うか?」「知らないっ!!」抑え込んでいた感情がとうとう決壊し、景凪はヒステリックに叫んだ。次の瞬間、目の前が真っ暗になり、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。――夢を見た。大学に入学したばかりの日。教室の教壇に立ち、自己紹介をしている。『はじめまして。穂坂景凪です。景凪って呼んでください――』教室の一番後ろの席。机に突っ伏して眠っていた金髪の渡が、ゆっくりと顔を上げた。視線が交差する。今度は景凪から、自ら彼の方へと歩み寄った。『ねえ。隣、座ってもいい?』渡はふっと笑い、隣
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第757話

黒のGクラスが夜の闇に吸い込まれていく。やがて遠くから、再び賑やかな花火の音が響き始めた。同じ夜空の下。冷え冷えとした寂しげな月明かりが照らす小高い丘の頂に、背を丸めた人影がゆっくりと現れた。目深にかぶったつばの広い帽子が、顔をすっぽりと覆い隠している。顔の向きは、Gクラスが消えた方角へ向けられたままだった。やがて背後から金髪のボディガードが大股で近づき、声を潜めた。「出発の時間です」振り返った男は、手にした白杖で地面を探りながら、ゆっくりと足を踏み出した。だがその扱いはひどく不慣れで、足取りも覚束ない。白杖の先が小石に取られると、あっけなく体勢を崩し、そのまま無様に地面へ倒れ込んでしまった。付き添いのボディガードが反射的に手を伸ばす。だが、事前にきつく言い含められていた命令を思い出し、ぐっと堪えて腕を引っ込めた。倒れた男は、苦しげに身を起こした。背を丸めていても分かるほどの長身は、まるで痩せ細った孤峰のようだ。骨ばった手で手探りに帽子を拾い上げてかぶり直すと、再び白杖で少しずつ足元を確認しながら、じりじりと車へ近づいていく。車まではわずか数十メートル。その距離を進むのに、十分近くもの時間を費やした。想像を絶する苦痛に苛まれているのだろう。数歩歩いては立ち止まり、じっと息を整えている。それでも最後まで、一言の呻き声すら漏らさなかった……気がつくと、景凪は病室のベッドに寝かされていた。ゆっくりと視線を動かすと、点滴に繋がれた手の甲が見える。さらに機械的に首を巡らせると、備え付けのソファで眠りこけている潤一の姿があった。長身の潤一にとって180センチに満たない付き添い用のソファはひどく窮屈そうで、長い手足を器用に折りたたんで窮屈そうに丸まっている。景凪は無表情のまま目を逸らした。窓の外は重苦しい鉛色の空が広がっていて、今の時刻すら判然としない。しばらく窓をじっと見つめていたが、唐突に上体を起こし、迷いなく点滴の針を引き抜いた。足を床に下ろす間もなかった。次の瞬間、覆い被さるように黒い影が飛び込んできて、熱を帯びた大きな手が景凪の肩を力任せに掴む。「景凪!」まだ寝惚け眼の潤一は、肝を冷やしたような形相で怒鳴った。「てめえ、何する気だ!」薄く目を開けた直後、まだまともに頭が働いていない状態で、景凪が虚ろに窓を凝視してい
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第758話

答えを探して口ごもっていると、タイミング良く携帯が鳴った。画面を見ると、須藤隊長からの着信だ。渡りに船とばかりに、潤一は即座に通話ボタンを押した。「隊長」電話の向こうからの指示を聞きながら、潤一はちらりと景凪を一瞥する。「いや、対象は現在あまり状態が良くありません。もう少し待ってください。ここは俺が責任を持ちます」通話を切ると、これで堂々と残る口実ができたとばかりに、潤一は景凪へ向かって告げた。「仕事だ。お前の精神状態が安定するのを待ってから任務を進めろとさ」景凪は黙って頷いた。その口実をひとまずは受け入れたらしい。そしてまた、重い沈黙が降りた。潤一は彼女の薄っぺらい背中を見つめ、ふうと息を吐く。「腹、減ってないか?何か食いたいものは?」景凪は静かに首を振った。「食欲、ないわ」「……消化のいいもんでも見繕ってくる。食欲がなくても、少しは胃に入れろ」潤一は眉をひそめ、踵を返して病室を出た。女を優しくなだめる方法など、まるで分からない。廊下に出てから、少し言い方がきつすぎたかと頭をガシガシと掻いて反省した。ドアの外には付き添いのヘルパーが待機しており、潤一と入れ替わりで病室へ入っていく。今の景凪を、いかなる理由があろうと一人きりにするわけにはいかなかった。景凪はずっと窓辺に立ち尽くしていた。見かねたヘルパーが声をかける。「穂坂さん、少し座ってお休みになりませんか?」返事はない。ヘルパーもそれ以上は口出ししなかった。しばらくして、控えめなノックの音が響いた。ヘルパーがドアを開けると、そこに立っていたひどく痩せ細った老齢の男を見て、思わず言葉を失う。「あの……どちら様でしょうか?」俊介は震える唇を動かし、まるで幼児が言葉を覚える時のように、一文字ずつ必死に絞り出した。「娘……に……会いに……」窓ガラスに反射する影で、背後に誰かが近づいてくるのが見えた。張り詰めていた景凪の体が、ゆっくりと強張りを解いていく。振り返ると、涙でいっぱいに満ちた、老いて濁った目と視線が絡んだ。「景凪……」俊介は、おずおずとすがるような震え声で娘の名を呼んだ。景凪の虚ろだった瞳に、少しずつ焦点が戻る。そして、実の父親のまだ見慣れない顔をじっと見つめ返した。俊介はすでに事の顛末を知っていた。ここ数日間にわたる集
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第759話

景凪は視線を上げ、桐谷の顔をまっすぐ見た。その手元にある書類を受け取る気配はない。ひどく空ろで、なおかつ底知れない深さを含んだその眼差しに、職業柄あらゆる修羅場を潜り抜けてきたはずの桐谷ですら、一瞬気圧されそうになった。「穂坂さん……」「……渡は、私の何だっていうの?」景凪の冷たい声が遮った。「えっ……?」景凪は一歩歩み寄る。「渡は、私の何なのかって聞いてるの!どうして勝手に私の人生を決めつけて、子供たちにまで財産を残すの?あいつに……あいつに、そんな権利なんてないでしょう!」最後には充血した目で、桐谷をきつく睨みつけた。その視線は、まるで桐谷の体を物理的にえぐり取ろうとするほどの凄みがあった。だが、長年の経験から、桐谷にはそれが自分に向けられた敵意ではないことなどすぐに分かった。彼女が自分を睨みつけているのは、ただこの身体を引き裂いてでも、その奥に渡が隠れていないか探し出そうとする執着にすぎない。「穂坂さん、お気持ちはお察しします。ですが、これらはすべて黒瀬様のご意志なのです……私も雇われの身として、言われた通りに手続きを進めるしかありません」桐谷は努めて淡々と言った。「どうか、私を困らせないでください」景凪は目尻に滲んだ涙を乱暴に拭い取った。「結構よ」深く息を吸い込む。「こんなもの……一切いらないわ」桐谷が驚くことはなかった。彼の知る景凪の性格を考えれば、突き返すのが当然だ。そして何より、渡自身も彼女がそう言い張ることなどとうに見越していた。今日の訪問は、単なる想定内のプロセスに過ぎない。「承知いたしました。ですが黒瀬様の遺言により、あなたが受け取りを拒否された場合、資産は一時的にプロの運用チームが管理することになっております。利益はすべてあなたの名義のままです。いつかあなたが受け取る気になった時、すぐに全権を引き渡せる手はずとなっております」景凪は爪が食い込むほど拳を握りしめた。鼻で笑ってやりたかったが、どうしても口の端が持ち上がらない。渡は、永遠に拒否することすら彼女に許さなかったのだ。娘が完全に限界を迎えているのを見て取り、俊介がすっと間に入った。「桐谷さん、娘には休息が必要です。今日はここでお引き取りを」丁寧だが、きっぱりと退室を促す。桐谷は俊介に向けて礼儀正しく会釈した。その際、ほんの
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第760話

「潤一さん。辰希には、まだ仕事が残っているから数日後には帰るって伝えておいてくれるかしら」「……」潤一は文字を打とうとしていた指を宙に浮かべたまま、複雑な表情で景凪を見た。この女は時々、ぞっとするほど勘が鋭い。言われた通りに返信を済ませると、潤一はスマホをしまい、景凪の向かいの椅子を引き出してどかっと腰を下ろした。腕を組み、もくもくと食べ続ける彼女の顔を無言でじっと観察する。景凪はそんな潤一の視線をまるで空気のように無視し、あらかた食べ終えてからようやく顔を上げた。「私が進めなきゃいけない仕事があるって言ってたわね?今聞くわ。あなただって早く任務を終わらせて、珠希ちゃんのところへ帰りたいでしょうに。源造様も珠希ちゃんも、ずっとあなたのことを心配してたのよ」ついさっきまで絶望の淵にいたとは思えないほど、平然と他人の心配までし始める。潤一は数秒間その青白い顔を凝視したが、最後にはため息をついて諦めた。これほど感情に蓋をするのが上手い女を相手に、深層心理を探ろうなど到底無理な話だ。「……鷹野伊雲の件だ」潤一はボイスレコーダーのスイッチを入れた。「お前が伊雲に突き落とされてヘリから落ちた時の状況を、改めて確認したい。できるだけ詳細にな」景凪は自分の手の甲に視線を落とした。そこにはまだ、伊雲にはめていた指輪の尖った部分で力任せに刺された生々しい傷跡が残っている。当時の状況を説明しようと口を開きかけたその時、ドアの向こうから突然激しい言い争う声が聞こえてきた。嫌でも聞き覚えのある男の声だ。深雲の怒声だった。「通せ!景凪に会わせろ!俺はあいつの子供たちの父親だぞ!」潤一は表情を変えずに景凪へ視線を向け、軽く眉を上げる。会うか会わないか、お前が決めろという合図だ。景凪が「帰して」と言いかけたその時、別の声がドアの向こうから響いた。「パパー、私もママに会いたい!」清音の泣きそうな声だった。その声を聞いた瞬間、凍りついていた景凪の表情が微かに揺らいだ。潤一は舌打ちしたい気分だった。子供を盾に使って会おうとするとは……本当に、どこまでも底の浅い男だ。彼の中で、深雲への嫌悪感がさらに数段階跳ね上がった。潤一は椅子から立ち上がり、病室のドアを開けた。外には、組織から派遣された潤一の手下たちが警護に立っている。
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