夕方六時を過ぎると、オフィスの空気が微妙に変わる。昼間の喧騒は一段落し、フロアには小さな打鍵音と、紙をめくる音だけが残った。佐山は、デスクの上で手帳をめくるふりをしながら、視線を滑らせる。視界の端に、美咲の姿が映る。白いブラウスの肩口、揺れる髪の先。その仕草一つまで、佐山の脳は正確にトレースしていた。「佐山くん、ここの資料、お願いね」美咲が声をかけてきた。その声音には、自然と「上司の余裕」がにじんでいる。だが佐山は、それをあえて崩させない。従順な笑みを浮かべて、すぐに立ち上がった。「はい。分かりました」声は柔らかく、敬語も崩さない。ただ、ほんの一瞬だけ、目を細める。その目線が「信頼と甘え」を同時に含んでいることを、佐山は知っていた。資料を受け取るとき、わざと美咲の指先に触れた。かすかに、ほんの一瞬だけ。美咲の肩がぴくりと動くのが分かった。だが、彼女はすぐに笑顔を貼り付け直す。「佐山くん、ほんと素直で助かるわ」「ありがとうございます。美咲部長に教えてもらうと、すぐ覚えられるんです」自分の声が、柔らかく相手の耳に入り込むのを、佐山は意識していた。男が部下に向ける「従順さ」に、わずかな色気を混ぜる。その匙加減が、最も効果的だと分かっている。美咲は、表情を変えずに資料を渡し終える。だが、手のひらに薄く汗が滲んでいることを、佐山は見逃さなかった。「俺に触れられると、体温が上がるんだな」心の中で、淡々と確認する。表面は柔らかい笑顔のまま。だが内側では、冷静な観察者として「次の手」を計算していた。数分後、佐山は資料を持って営業部のフロアに向かった。そこには、佐伯がいる。「佐山、来たか」佐伯は、机から顔を上げた。その顔には、営業部の「頼れる先輩」の笑みがある。だが、佐山はその奥にある疲労を見逃さなかった。
Terakhir Diperbarui : 2025-08-27 Baca selengkapnya