朝8時半。フューチャーリンク広告のエントランスは、もうすでに社員たちの足音で満ちていた。スーツの擦れる音と、ヒールの小さな音。エレベーターのドアが開くたびに、ぴりっとした空気が立ち上る。オフィス街の朝は、いつもこんなふうに始まる。曇った空からは、湿気を帯びた光が差し込んでいた。梅雨入り前の重たい空気。けれど、佐山はその湿度すらも、体の内側で切り離していた。エントランスのガラスは、朝の光を反射している。そこに映る自分の姿を、佐山は一瞥した。黒いスーツ。ネクタイは少し緩め。だが、それは計算の上だった。新入りらしい「まだ慣れていない雰囲気」を演出するための、わざとらしい微調整。髪は整えすぎず、ラフすぎず。目元には、柔らかい笑みの気配を残している。「今日は、舞台に立つ日だ」心の中で、佐山はそう呟いた。高揚感が、皮膚の内側を静かに滑っていく。名札を受け取る指先が、わずかに震えている。だが、それは不安からくるものではなかった。ゲームの開始を知らせる合図だ。震えは、むしろ快感だった。受付嬢がにこやかに「おはようございます」と頭を下げた。佐山は、同じように会釈を返す。だが、心の中では「舞台装置が動いている」と冷静に観察していた。エレベーターに乗ると、他の社員が「今日からですか?」と声をかけてきた。柔らかい表情。新入りに対する慣れた対応。佐山は、その空気に違和感なく溶け込む。「はい。今日からお世話になります」口角を少しだけ上げる。目元もわずかに緩める。だが、内心では全てを俯瞰していた。自分は「懐に入り込むための準備」をしているだけだ。ここでの笑顔も、言葉も、全てはゲームの駒に過ぎない。エレベーターのドアが開くと、フロアの空気が変わった。白い蛍光灯が天井一面に並び、オフィスの机が整然と並んでいる。パソコンのディス
Last Updated : 2025-08-17 Read more