翌日、美咲はいつもより少しだけ早めに出社した。
いや、正確には「早く出社せざるを得なかった」という方が近い。昨日の夜、自宅の洗面所でスマホを握りしめていたときから、心のどこかでそれは決まっていた。会わないわけにはいかない。顔を合わせないと、余計に意識してしまう。だから、普通に振る舞う。それが一番の正解だ。オフィスのドアを開けると、誰もいなかった。
窓から差し込む朝の光が、まだ空気の温度を変える前。美咲は自席に荷物を置き、鏡を見なくても分かるような整った笑顔を作った。「大丈夫。いつも通りでいればいい」
そう自分に言い聞かせた。
数時間後、昼前の資料確認の時間がきた。
会議室に入ると、佐山が既に席についていた。白いシャツの袖を軽くまくり、机の上に資料を並べている。その手の動きは、どこかしなやかで無駄がなかった。美咲は、意識的に足音を立てて椅子に座る。「資料、持ってきた?」
「はい、もちろんです」
佐山はにこりと笑った。
その笑顔は、昨日と同じように柔らかい。でも、目は動かない。視線の奥で、何かを測っているようだった。「じゃあ、確認しましょうか」
美咲は資料をめくり、ペンを持つ。
自分の手がかすかに汗ばんでいるのを感じた。それを悟られないように、わざと資料の上を指でなぞる。「ここ、直しておいたので」
佐山が資料を差し出した。
そのとき、彼の手が自分の手元に重なった。ほんの一瞬。だが、確かに触れた。「……」
心臓が跳ねた。
思ったよりも大きな音で。耳の奥で自分の鼓動が鳴る。どうしてこんなことで、こんなに反応するのか。美咲は眉一つ動かさずに、資料を引き寄せた。「……うん、いいわね」
声だけはいつも通りを装った。
でもタクシーのドアが重く閉まると、外の雨音がいっそう遠ざかった。室内は暖かく、窓の外では街の灯りが滑らかな帯となって流れていく。フロントガラスのワイパーが静かに動く音が、時折、車内の静けさに切れ目を入れた。美咲は深く息をつき、背もたれに身体を預ける。雨に濡れた髪が首筋に張りつき、ささやかな不快感とともに、妙な高揚が心の底に湧き上がる。窓ガラスには自分の横顔が淡く映っていた。街のネオンと重なり合うように、佐山の姿もぼんやりと重なる。ふたりだけの小さな密室。見えない何かが、じわじわと空気を占めていく。佐山の太腿が、思いがけず近くにあった。ドライバーの目を気にしながらも、二人の間の距離はごく自然な流れで縮まっている。ほんの少し膝が触れただけで、美咲の内側に小さな電流が走る。その感覚が、じわじわと太腿の奥にしみ込んでいくのを、美咲は誤魔化しきれない。「寒くないですか」佐山の声が柔らかく、少しだけ低く響いた。美咲は一瞬、何と答えるべきか迷い、咄嗟に微笑みだけを浮かべてみせる。佐山の目が一瞬だけ細くなり、唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。「大丈夫よ。冷えているのは外だけ」そう応じた自分の声が、思いのほか落ち着いていることに、美咲自身が驚いた。内心では、指先が微かに震えていた。手のひらを膝の上にそっと置き、わざと落ち着いた仕草を心がける。けれど、そのすぐそばに佐山の手が伸びてくる。何気ない動作のはずなのに、その指先はしっとりと暖かく、美咲の肌の上をゆっくりと滑った。ほんの一瞬、手と手が重なった。お互いの体温が指先から伝わり、微かに滲む湿度の中で、心拍が跳ね上がる。美咲は「偶然」と自分に言い聞かせながらも、その温度を忘れることができなかった。佐山の指がさりげなく美咲の手の甲を撫で、またすぐに引く。その行為があまりにも自然で、かえって美咲の胸はざわめきを増すばかりだった。「雨、止みそうにないですね」「そうね。今夜はずっと降り続くみたい」何気ない会話が続く。でも、その言葉の裏側で、互いの体温と呼吸が交じり合う気配があった。美咲は意識的に窓の外に視線を向ける。窓ガラスには自分と佐山の顔がぼんやりと重なっていた。雨粒が光を反射し、ふたりの輪郭を曖昧に
グラスの中で氷が静かに溶けていく音が、美咲の耳に心地よく響いていた。大理石のテーブルに置かれたワイングラスの脚を指で弄びながら、彼女は窓の外に視線を投げる。ネオンの明かりがぼやけて滲み、ガラスには細かな雨粒がいくつもついていた。平日の夜だというのに、店内は賑やかさから離れ、二人のためだけに時が緩やかに流れているようだった。美咲は肩をほんの少しだけ落として、心地よい疲労感に身を委ねる。長い一日が終わったばかりの解放感と、これから始まる何かへの予感が、胸の奥で密やかに共鳴していた。向かい側の佐山は、普段と変わらない柔らかな笑みを浮かべていた。けれど、その目元には夜の光をひとしずく落としたような翳りがあった。時折、彼の瞳がグラス越しに美咲の唇や、指先にさりげなく落ちる。その視線を意識しないふりをしながらも、美咲の胸には小さな火種がふっと灯る。「ワイン、お口に合いますか」静かに佐山が訊ねる。その声はいつもより少しだけ低く、やわらかな波紋のように美咲の耳に届く。「ええ、おいしいです」美咲は、自然な笑みを作って答える。ほんのわずかにグラスを揺らし、ルビー色の液体の波を見つめた。こんなふうに誰かと食事をすることは、仕事柄珍しくもない。だが今夜の空気は、どこか違っていた。普段なら何でもない会話にも、微かな緊張が紛れていることを美咲は自覚していた。「佐山さん、今日はよく飲みますね」「はい、今日はちょっと、飲みたい気分で」笑いながらそう答える佐山の声は軽い。だがその返事の奥に、何か沈んだ響きが隠れている気がした。美咲はその色を読み解こうとするが、彼の顔がグラスの向こうでゆらりと揺れるだけだった。美咲は意識的に背筋を伸ばし、仕事帰りの女の余裕を纏う。会社の部下と飲みに来ただけ。それ以上でも以下でもない。自分は上司だ。彼に遊び半分の期待など抱かせてはいけない。そう理性で自分を戒めながらも、彼女の心には期待と罪悪感が同時に渦を巻いていた。店内にはジャズピアノの静かな旋律が流れている。美咲はふいに佐山の指が自分のグラスに触れそうになるのを見て、わずかに手を引いた。その仕草さえも、まるで何かの合図のように心臓が跳ねる。佐山の瞳は一瞬
翌日、美咲はいつもより少しだけ早めに出社した。いや、正確には「早く出社せざるを得なかった」という方が近い。昨日の夜、自宅の洗面所でスマホを握りしめていたときから、心のどこかでそれは決まっていた。会わないわけにはいかない。顔を合わせないと、余計に意識してしまう。だから、普通に振る舞う。それが一番の正解だ。オフィスのドアを開けると、誰もいなかった。窓から差し込む朝の光が、まだ空気の温度を変える前。美咲は自席に荷物を置き、鏡を見なくても分かるような整った笑顔を作った。「大丈夫。いつも通りでいればいい」そう自分に言い聞かせた。数時間後、昼前の資料確認の時間がきた。会議室に入ると、佐山が既に席についていた。白いシャツの袖を軽くまくり、机の上に資料を並べている。その手の動きは、どこかしなやかで無駄がなかった。美咲は、意識的に足音を立てて椅子に座る。「資料、持ってきた?」「はい、もちろんです」佐山はにこりと笑った。その笑顔は、昨日と同じように柔らかい。でも、目は動かない。視線の奥で、何かを測っているようだった。「じゃあ、確認しましょうか」美咲は資料をめくり、ペンを持つ。自分の手がかすかに汗ばんでいるのを感じた。それを悟られないように、わざと資料の上を指でなぞる。「ここ、直しておいたので」佐山が資料を差し出した。そのとき、彼の手が自分の手元に重なった。ほんの一瞬。だが、確かに触れた。「……」心臓が跳ねた。思ったよりも大きな音で。耳の奥で自分の鼓動が鳴る。どうしてこんなことで、こんなに反応するのか。美咲は眉一つ動かさずに、資料を引き寄せた。「……うん、いいわね」声だけはいつも通りを装った。でも
風呂場から上がり、バスタオルで髪を拭きながら、美咲は洗面台の鏡を見た。湿気を含んだ髪が肩に張り付く。首筋から鎖骨にかけて、うっすらと汗が浮かんでいる。化粧はもうすっかり落としていた。クレンジングオイルのぬめりを流したあと、何度もタオルで顔を押さえた。「……こんな顔で、帰ってきた?」鏡の中の自分に問いかける。でも答えは返ってこない。目元は赤く、唇の色も薄い。ただ、それだけのはずなのに、どこか表情が違う気がした。「今日はただの業務。部下と上司のやりとりよ」自分に言い聞かせる。会社の女上司と、年下の部下。たまたま顔がいい部下に頼られた、それだけ。自分が動揺するはずなんてない。美咲はリップクリームの蓋を開け、唇に当てた。だが、途中で手が止まる。鏡越しに、自分の目が揺れているのが見えた。「バカみたい。なに焦ってんのよ」口元で笑った。でも、その笑い方が少しぎこちなく感じた。目尻にシワが寄るはずの場所が、少しだけ引きつっている。「私は余裕なの。主導権は私にある」そう繰り返した。だから、これは遊び。ちょっと気が緩んだだけ。明日には何事もなかったように仕事をする。そうやって、いつも通り過ごせばいい。リップクリームをキャップで閉めるとき、手がかすかに震えた。スマホの通知が一つ鳴った。洗面所の棚に置いていた画面をのぞくと、佐山からのLINEだった。「今日はありがとうございました」ただ、それだけのメッセージ。なのに、胸の奥が妙にざわついた。「……普通じゃない、こんなの」美咲はタオルを肩にかけたまま、スマホを握りしめた。何気なく返信しようと、文字を打ち始める。「こちらこそ、お疲れさま」打って、消した。なん
「すみません、これ……自分、こういうの苦手で」佐山の声は、わざとらしいほど控えめだった。膝の上で資料を持つ美咲の肩越しに、佐山がそっと覗き込む。距離が近い。息が耳にかかった。微かに湿った空気が、耳の裏をくすぐる。美咲は無意識に肩をすくめそうになり、慌ててそれを押さえた。「これ、何度も説明したわよね」「はい。でも、どうしてもここだけが……」佐山の指先が、美咲の手元の資料に滑るように近づく。ページの隅を押さえたその手が、自分の手に触れる寸前で止まった。指先がわずかに震えているように見えるが、それは演技だと美咲は分かっている。「この子、絶対にわざとやってる」心の中でそう呟きながら、口元だけは微笑みを作る。部下に頼られるのは悪い気はしない。しかも、これが佐山だ。美咲は、自分が「選んだ男」に懐かれることの優越感を、胸の奥で確かに感じていた。「仕方ないわね」資料を持つ手をわざとゆっくり動かし、佐山の指にわずかに触れた。だが、その瞬間、自分の指先がピクリと反応してしまったのを、美咲自身が一番よく分かっていた。「……ここよ。ここの計算式が、前のページと連動してるから」「すごいですね。やっぱり、部長って頭いいな」佐山は、小さく笑った。口角だけを上げて、目は笑わない。その目は、完全にこちらの動揺を観察している。「……お世辞はいいの」「本気ですよ」吐息がまた耳にかかった。美咲は資料から目を離さず、視線だけを下に落とした。唇の内側を、歯で軽く噛む。これ以上、顔に出したら負けだ。「年下の男が、こうやって女を翻弄するのは知ってる」だから動じない。余裕でかわしてやる。自分は部長で、あの子はただの部下。
会議室の空気は、いつもよりわずかに重かった。エアコンの送風口から、一定のリズムで微かな風が流れているはずなのに、美咲の肌にはなぜかそれが届かなかった。目の前には、佐山が座っている。ガラスのテーブルに資料を広げて、ペンを持つ手元を整えている。伏せ目がちに、長い睫毛が影を作る。ときどき顔を上げるたびに、美咲は意識的に視線を逸らした。「ここなんですけど、資料番号がズレてるみたいで…」佐山が、柔らかい声で言った。そのトーンは、完全に「無害な部下」のものだった。だが、美咲には分かる。その目の使い方も、声の柔らかさも、計算されたものだ。「ええと…」美咲は資料に目を落とし、数字を確認する。でも、数字は頭に入ってこない。口紅が少し乾いてきているのに気づき、舌先で唇を舐めた。「部長、ここですよ」佐山が資料を指さす。その指が、美咲の手の甲のすぐ近くまで滑ってきた。「……分かってるわよ」美咲はわざと軽く咳払いをして、資料を引き寄せた。だが、心の奥で小さく何かが鳴った。これは「誘いの空気」だ。分かっている。男が、年上の女を落とすときによく使うやり方。「ふうん、こういう手を使うわけね」美咲は心の中でつぶやいた。でも、表情は崩さなかった。自分は会社の上司。社長の娘としても、簡単に動じてはいけない立場だ。「資料、直しておきますね」佐山がそう言ったとき、ふと美咲の目を見た。その目は、伏し目がちのくせに、瞬間的にまっすぐ射抜いてくる。「……お願いね」美咲は、なるべく淡々と答えた。だが、口元の端がわずかに引きつる。「これ、完全に遊ばれてるのかしら」そう思いながらも、どこかで優越感があった。「私が年上だし、立場も