All Chapters of 彼女しか救わなかったから、息子が死んでも泣かないで: Chapter 11 - Chapter 20

21 Chapters

第11話

対面から聞こえてきた低くて魅力的な声に、星乃は一瞬ぼうっとした。かつて、結婚を理由に将来有望だったキャリアを手放した彼女に、共に歩んできた先輩・水野遥生(みずの はるき)は失望を隠せなかった。そのことで、ふたりは激しくぶつかったことがある。「星乃、本気でそんな結婚のために、自分の力で築いてきた道を捨てるつもりなのか?」「ちゃんと考えたことはあるのか?悠真はお前を本当に愛してるのか?もし離婚することになって、身ひとつで放り出されたら……そのとき、どうするんだ?」「……」「星乃、きっと後悔するぞ」遥生の声には抑えきれない苛立ちと悲しみが滲んでいた。しばらく沈黙した後、彼はそっと彼女を抱きしめ、深く息を吐いた。「もういい……もし、いつか後悔したら、いつでも戻ってこい」あの頃の彼女は、迷いなく悠真との未来を信じていた。悠真の心は、いつかきっと手に入れられる、そう思っていた。――悠真もまったく気持ちがなかったわけじゃない。母を亡くし、十八歳の誕生日を迎えたあの夜。継母と父に家を追い出され、行き場を失い寒空の下で震えていた彼女を、悠真はそのまま自宅に連れて帰った。誕生日だと知ると、遅い時間にもかかわらず、ケーキを買ってきてくれた。ある時期には、街の灯がともる夜、彼女のためだけに灯る明かりがあった。星空の下、煌めく花火の一瞬の光のなかにも、彼女のためだけに咲いたひとひらがあった。だからこそ、あのときは思ってしまった。この人になら、すべてを託してもいいかもしれない――と。けれど、今の彼女はようやく気づいたのだ。キャリアを捨ててまで追いかけた「愛」なんて、所詮は幻想にすぎなかったと。「ちゃんと話したい」星乃は彼がどうして離婚のことを知っているのかを、問いただすこともせず、スマホを握る白い指先を見つめながら静かに言った。「……帰ろうと思ってるの」……華やかな灯りが揺れる高級クラブの個室。悠真はソファにもたれ、片腕で頭を支えながら、もう一方の手でグラスを漫然と揺らしていた。長く伸びた脚をテーブルに投げ出し、その態度はあまりにも退屈そうだった。一言も発していないのに、不機嫌なのは部屋に入ってきたときから明らかだった。その空気を読んで、誰も軽々しく声をかけようとはしなかった。怜司はしばらく黙ったまま様
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第12話

それでも、どれだけ時が経っても、星乃は変わらず、楽しげに悠真のまわりを飛び回っていた。怜司も、彼女がそう簡単に離婚に応じるとは思っていなかった。そして悠真が不機嫌なままでいるのが気がかりで、何か慰めの言葉でもかけようと口を開きかけた――そのとき、ふと気づいた。悠真の目が細められ、先ほどよりもいくらか機嫌がよさそうに見えたのだ。「なるほど、そういうことか」そう呟いた悠真は、鼻先で軽く笑った。さっきまで抱いていた疑念が、すっと腑に落ちた気がした。そうだ。あれほど自分に執着していた星乃が、自ら離婚を言い出すなんて、どう考えてもおかしい。どうせ結衣が戻ってきたと知って、自分に捨てられるのが怖くなったのだろう。それで押して引くなんて、小手先の駆け引きをして、こちらの気を引こうとしたに違いない。つまり星乃は、自分が「彼女なしではいられない」と思い込ませたいのだ。だが、そんな手に、今さら心を動かすとでも?そんなことで離婚に応じないとでも?悠真の目元にわずかな笑みが浮かんだのを見て、怜司は首をかしげた。――おかしいな。たしか、星乃が自ら二番手になろうとしてるって話を聞いたはずが、どうして悠真は怒るどころか機嫌がよくなってるんだ?そんな疑問を抱えたまま、怜司が口を開こうとしたそのとき、ふんわりとした優しい女性の声が響いた。「やっぱり、ここにいたのね、悠真」個室の入口に現れたのは結衣だった。花柄のロングワンピースに身を包み、すらりとしたその姿には、どこか儚げな雰囲気が漂っていた。少し前まで体調を崩していたせいか、頬にはまだかすかに青白さが残っていて、まるで病弱な美人をそのまま絵に描いたかのようで、守ってあげたくなるような雰囲気を漂わせていた。「結衣さん!」その場にいた数人の男たちは、彼女の姿を見た瞬間、姿勢を正して、にこやかに挨拶をする。さっきまでタバコを吸っていた男は慌てて火を消し、深く息を吸い込んで、煙の匂いを消そうとしていた。けれど悠真は、そんな周囲には目もくれず、まっすぐ結衣のもとへと歩み寄った。その声は、いつもとは違い、優しかった。「どうして来たんだ?」結衣は怜司が位置情報を送ったのと言わず、怜司が彼の様子を心配していたことも触れなかった。代わりに手にしていた車のキーを軽く揺らしてみせる。「なんと
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第13話

静まり返った夜、どこかでスマホの着信音が鳴った。星乃は目を閉じたまま、無意識に枕元の携帯を手探りで探し当てた。我に返って、悠真からの電話だと気づいたときには、すでに遅く、知らず知らずのうちに通話ボタンを押していた。星乃は自分の反射的な行動に、心の中でため息をつく。ここ数年、悠真の実家にいたころ、佳代が彼女が電話に出ないと、すぐに訪ねてきては「話し合い」と称して圧力をかけてきた。そのせいで、星乃は四六時中、すぐに電話を応答する癖がついてしまっていたのだ。また、悠真が海外で結衣の世話をしている時などは、夜中に電話がかかってくることも少なくなかった。話の内容はたいてい些細なことで、例えば女の子の生理痛の対処法や、どのブランドのナプキンがいいかといったこと。あるいは栄養スープの美味しい作り方や、トマトと卵の炒め物はどちらを先に炒めるのが正解かなど。星乃は、真夜中に夢の中から無理やり引き戻され、悠真が結衣のために丁寧に世話を焼くための知識を、自分から学ぼうとしているのを聞かされてきた。最初は寝ぼけた頭がまったくついていけず、混乱するばかりだった。けれど次第に、そんなことにも慣れてしまった。そして――そのせいで、彼の心の中で自分と結衣がどれほど違う存在なのかを、嫌でも理解することになったのだった。眠気の残る目で、星乃は繋がってしまった通話画面をじっと見つめた。たぶんまた、結衣のことだろう――そう思いながらも、いまさら後悔しても遅い。彼女は諦めたようにスマホを耳に当て、いつもの調子で尋ねた。「どうしたの?何かあった?」一方の悠真は、あまりに素早く応答したことで少し眉をひそめた。まるで、彼女が自分からの電話を待ち構えていたかのような早さだったからだ。「全部の部屋の電気をつけろ。玄関の鍵も開けてくれ」短く、まるで命令のように告げる。星乃は状況が飲み込めず戸惑いながら答えた。「もう寝てたんだけど……」「玄関のパスコードは変わっていないし、照明の配置もそのままだろう」時計を見ると、夜中の三時を過ぎていた。手を伸ばせばできることを、なぜわざわざ自分にやらせるのか。もしかすると、星乃を呼び出すことが、悠真の癖になっているのかもしれないと考えた。しかし、すぐに理由がわかった。「結衣はもう寝ている。だから手が足り
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第14話

「酔い覚ましのスープ、作って持ってきてくれ」二分ほど経った頃、悠真が二階のドアを開け、見下ろすようにして星乃に命じた。さっきぶつけた身体の痛みはもう麻痺して、今では何も感じなくなっていた。星乃は無言のまま台所へ向かい、スープを作ってから、そっと彼の部屋の前まで運んだ。ちょうどドアに手をかけようとしたそのとき、部屋の中から女性の声が聞こえてきた。結衣が目を覚ましたようだった。星乃は一瞬だけ迷い、スープを静かに床に置き、軽くノックする。「スープ、ここに置いとくね」そう声をかけた。「……うん。分かった」悠真の返事からは、何の感情も読み取れなかった。部屋の中では、結衣がうっすらと意識を取り戻し、辺りを見回していた。「君ずいぶんと飲んでたんだ。鍵も川に投げちゃって、とりあえずここまで連れてきたんだ」不思議そうにしていた結衣に、悠真はそう説明を加える。ふたりは車で瑞原市の街を一回りしたあと、なぜか昔話をし始めた。そんな中、結衣が車に酒を積んでいると言い出し、川辺で少しだけ飲もうと持ちかけたのだった。最初、悠真は断るつもりだった。でも彼女の表情には、どこか切なさがにじんでいた。過去に縛られているようなその顔を見て、たとえふたりの別れの原因が自分の家にあったとしても、自分自身にも少なからず原因がある――そう感じていた。だからほんの少しだけ、結衣に付き合って杯を交わしたのだった。結衣が酒に弱いのは知っていた。けれど、まさかたった二杯で意識を失うとは思ってもみなかった。家まで送ろうとしても、彼女は鍵を江に投げ捨ててしまい、ろくに会話もできないほど泥酔していた。彼女の自宅の暗証番号も知らず、この状態の女性をホテルに置いていくわけにもいかず、結局、自宅に連れて帰るしかなかったのだ。「ほんと、ごめんね。あなたの前で、こんなみっともない姿に……」結衣は酔っていたときの記憶を辿るように額に手を当て、苦笑した。「気にするな」悠真はそれだけ言って、特に気にした様子もない。「でもね、君、本当にお酒弱すぎる。次からは気をつけな。もし――」そこまで言って、言葉を切った。だが結衣には、彼が言おうとしたことが伝わったらしい。微笑みながら目を細める。「もしかして、心配してくれてるの?」悠真は口をつぐみ、何も答えなかった。
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第15話

書斎では、悠真の助手である東條誠司(とうじょう せいじ)が背筋を伸ばして立ち、丁寧に報告していた。「社長、やはりおっしゃった通りでした。競合していた鈴木グループの戦略は失敗に終わり、すでに破産を発表しています。一時間前に、社長のご指示通り、当社から買収の正式提案を出しました。ですが、あちらの社長からは、さらに20億の上乗せを求められています」悠真はオフィスチェアにゆったりともたれ、手元の資料をめくりながら余裕の表情を浮かべている。まるでこの要求を予期していたかのようだった。「上乗せはしない」「あと二日ほど放っておけば、向こうから頭を下げてくるだろう」その言葉に誠司は深く一礼した。目の前の悠真は、年齢は自分とさほど変わらないが、常に先を読み、冷静さを失わず、全てを掌握している――誠司はそう確信していた。彼が大学を卒業してすぐに、悠真の直属助手として入社した。それ以来、数えきれない企業間の競争、まるで静かな戦場を共にくぐり抜けてきた。そのたびに悠真は相手の弱点を的確に突き、致命的な一手を繰り出し、驚くほど低い価格で相手企業を買収してきた。まさに商戦の「神」だと、誠司は本気で思っている。わずか三年で一族の事業を三倍にまで拡大し、揺るぎない地位を築いた男を、誠司は他に知らなかった。だからこそ、悠真が向こうから折れてくると言えば、それは必ずそうなるのだ。「ほかに何かあるか?」悠真はふと視線を上げ、誠司がまだその場にいるのを確認すると尋ねた。「……実は、もうひとつございます」誠司は一瞬ためらったが、やがて口を開いた。「篠宮家から連絡がありまして、新規事業立ち上げにあたり、出資の検討をお願いしたいとのことです」その言葉に、悠真の黒い瞳がわずかに陰りを帯びた。誠司は内心、冷や汗がにじむほど緊張していた。悠真にとって、これまで唯一と言っていい「敗北」に近いのが、この篠宮家への出資だった。どの案件も出資後、1年も経たずに失敗に終わった。だが篠宮家は星乃の実家であり、悠真の義理の親族でもある。そのため悠真が出資を打ち切ろうとすると、篠宮家は必ず迂回策をとり、悠真の祖母のもとに話を持ち込んでくる。誰もが冬川家が星乃を好んでいないことを知っていた。悠真本人も星乃を好んでいなかったが、悠真の祖母だけは、
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第16話

まさか星乃が本当に承諾するとは、悠真も思っていなかった。彼の記憶では、星乃の母が亡くなったあと、父親はすぐに再婚し、継母とともに星乃を冷たく扱っていたはずだった。彼の表情を見て察したのか、星乃はそれ以上何も言わず、静かにうなずいた。「もう決まったことだし、引き延ばしても仕方ないから」離婚はすでに覆せない決定事項だった。星乃はあいまいで宙ぶらりんな状態を嫌っていた。「じゃあ、最近の行動も……全部そういうことだったのか?」悠真の頭にここ最近の星乃の不思議な言動がよぎる。彼女は、自分が篠宮家への出資を拒むのを恐れて、わざと駆け引きをしていたのか――そう考えると悠真は思わず笑みをこぼした。星乃は意味をすぐには理解できなかったが、彼の表情が和らぎ、機嫌が悪くなさそうなのがわかった。たぶん、このまま離婚すれば、ようやく結衣と一緒になれる――そう思っているのだろう。星乃の胸には、冷たい笑みが浮かんだ。口では離婚しても何の影響もないと言いながらも、心の奥では自分との離婚を待ち望んでいた。それは、彼が結衣と結びつくためだった。星乃は何も言わず、その沈黙を了承の合図と受け取った悠真は、これ以上言葉を交わさず、協議書と離婚届にあっさりとサインした。「明日、一緒に……」役所という言葉を言いかけて、悠真はすでにマイナンバーカードを取り出し、星乃の前に差し出した。「俺は忙しい。あとは自分でやれ」「どうしてもわからないことがあったら、誠司に聞け」その冷たい口調に、星乃はかすかに苦笑した。結婚したときも、悠真は自分の代わりに誠司を役所に行かせていた。そして今回も――五年にわたる婚姻生活の幕引きですら、彼は自分の大切な時間を割く気はなかったのだ。こんな結婚、思い返すのも虚しい。けれど、以前よりは少しだけ、彼女の心は強くなっていた。行かなくていい。「この離婚協議書は?一応弁護士に見てもらったほうがいいんじゃない?」星乃がたずねる。「必要ない」悠真は淡々と答えた。「一度決めたことだ。あとはお前が後悔しなければいい」白熱灯の淡い光が斜めに彼の顔を照らし、深みのある立体的な顔立ちの輪郭を際立たせている。星乃はその横顔をじっと見つめた。ふと、昔見たあの少年の顔が重なった気がした。悠真と初めて出会った
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第17話

星乃はスマホを取り出し、画面に表示された「悠真」の名前を見た。一瞬ためらいながらも、応答しようとしたが、着信音はふっと途切れた。思わずかけ直すと、コールが二秒鳴ったところで切られてしまった。すぐにメッセージが届いた。「ごめんね、星乃。結衣だよ。さっきの電話、私がかけたの」「ちょっとパジャマを借りようと思ったんだけど、もう大丈夫よ。悠真が、自分のを貸してくれたから」何気ないようでいて、明らかに挑発を含んだそのメッセージに、星乃はふっと微笑んだ。不思議と、胸の奥には何の感情も湧いてこなかった。結衣からこうしたメッセージが届くのは、今回が初めてではなかった。どれも一見すると他愛のない内容でありながら、その行間には、どこか挑発的な棘が潜んでいた。かつて一度だけ、星乃はそれを悠真に打ち明けたことがある。けれど、ほんの少しでも結衣の意図を疑おうとした途端、悠真は決まって「被害妄想だ」と星乃を責めた。もうすぐ、そんな悠真とも正式に別れる。二人の未来のため――星乃は自ら身を引くことをした。人ひとり譲ることに比べれば、服の一着くらい、どうだっていい。「わかった」とだけ返信し、星乃は画面を閉じて、手続きを再開した。窓口で応対していたのは、若い女性職員だった。事務的な口調ながら、「本当に、よろしいんですか?」と声をかけてくる。星乃は無言のまま、数枚の写真を差し出した。そこには、悠真と結衣が一緒に写った姿が収められていた。すべて、結衣やその周囲の人たちから送られてきたものだ。写真の中の悠真は、いつものように無表情――けれど、星乃にはわかる。彼は、心から楽しんでいた。星乃もかつて、悠真に一緒に写真を撮りたいと頼んだことがあった。でもそのたびに面倒だと拒まれ、いざカメラを構えると、彼は決まってフレームの外へと立ち去ってしまった。結婚のときでさえ、二人はウェディングフォトを撮らなかった。悠真が自分を愛していない証拠なんて、数えきれないほどある。もし職員に時間があるなら、三日三晩かけても話し尽くせないかもしれない。星乃が話したのは、そのうちのほんの一部だけだったが、それだけで職員の表情は明らかに変わった。そして、それ以上、何も言ってはこなかった。手続きは順調に進み、最後に職員が丁寧に説明した。「書類の確認と
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第18話

星乃は十六歳のときに、初めて生理が来た日のことをよく覚えている。あのとき、父・正隆はひどく慌てて、彼女を連れて病院へ駆け込んだ。ただの生理現象だと医者に告げられた後、二人して何とも言えない気まずい空気になった。だからこそ、最初の頃は父が再婚したことも、星乃なりに理解しようとしていた。たとえ美優が自分に敵意を向け、いつもおもちゃや服を奪い取ろうとし、そんな美優を父が甘やかして自分に譲るように仕向けていたとしても――星乃は不満を胸にしまい込み、大人しく従っていた。家の平和を守るためには、自分が我慢すればいいと思っていたからだ。だが、すべてが変わったのは五年前。口論のさなかに美優がうっかり漏らした言葉から、星乃は真実を知った。綾子は「再婚相手」などではなく、ずっと父が外で囲っていた愛人だった。そして美優もまた、綾子の連れ子ではなく、正隆の隠し子――つまり星乃と同じ血を分けた娘だったのだ。その事実を知った日、星乃は怒りと裏切りに打ちのめされ、泣き叫びながら二人を家から追い出すよう父に迫った。しかし次の瞬間、父の鋭い平手打ちが彼女の頬を打ち、その無言の一撃がすべてを物語っていた。かつて自分を何より大切にしてくれた家族は、もうどこにもいなかった。母の死とともに、父の「愛」もとうに消え去っていたのだ。今の家は――美優の家であり、星乃はそこにいるただのよそ者だった。かつての彼女は、父を困らせまいと美優にすべてを譲っていた。だが今はただ、生き延びるためにそうしているだけだった。「ねぇ、美優。この人、誰?」隣に立っていたのは、どこかのお嬢様らしい女性だった。星乃を見て首をかしげると、すぐに思い出したように意地悪な笑みを浮かべた。「思い出したわ。前に見たことある。あなた、悠真さんの奥さんでしょ?」美優は冷たく嘲った。「そうよ。しつこくつきまとって、無理やり悠真さんと結婚した女。うちの家まで巻き込んで、恥をかかせてくれたわ」実際には父や母が言っていた通り、星乃の結婚は篠宮家にとって、何の迷惑もかけていなかった。むしろ悠真との関係で、少なからず恩恵を受けたほどだった。結局、この結婚は星乃と彼女のすでに亡くなった母親が仕組んだことだと、誰もが知っていたのだ。だが、美優は納得していなかった。当初、自分だって悠
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第19話

美優は星乃に言い返されるとは思っておらず、顔を真っ赤にして怒りを露わにした。「誰があんたと同じ血を引いてるって?」「そうね」と星乃は軽く頷いた。「確かに違うわ。だって、誰かさんの体に流れているのは、愛人の血なんだから」「なっ……!? 私のお母さんのことをよくも……星乃、あんた頭おかしいんじゃないの!?」美優は絶叫すると同時に、手を振り上げて星乃に平手打ちを浴びせようとした。しかし星乃は素早く彼女の手首を掴んで止めた。「私、何か間違ったこと言った?あなたの母親が愛人だなんて、一言も言ってないわよ」「もしかして、自分のことだと心当たりはあるの?」その言葉に美優は言葉を失った。隣にいた令嬢も呆然と二人のやりとりを見つめていた。彼女は美優が篠宮家の娘だということしか知らず、美優の本当の出自については何も知らなかったのだ。星乃の言葉を聞いてからというもの、美優を見る目にわずかな変化が現れた。そして乾いた笑みを浮かべ、慌てて自分の荷物を美優から受け取った。「美優……今日はここまでにしましょう。急用を思い出したの」そう言うと、美優の引き留めにも構わず、足早に立ち去った。「待って……」遠ざかる彼女の背中を、美優は呆然と見送った。怒りと悔しさが入り混じり、今にも泣き出しそうな表情だった。星乃はそんな美優に目もくれず、そのまま踵を返して立ち去った。「こっ……このっ……星乃!よくも私をいじめたわね!絶対に許さないから! 今すぐお父さんとお母さんに言いつけてやるんだから!」美優は地団駄を踏みながら叫んだ。背中を見せて去っていく星乃に対し、羞恥と怒りが募るばかりで、どうすることもできなかった。帰ろうとしたその時、不意に足が止まる。ふと目に入ったのは、すぐ近くの建物に掲げられた役所の看板。――役所?そういえば、星乃はさっきあそこから出てきたような……一体何をしに来たんだろう?……星乃は駐車場に戻り、車に乗り込んだものの、しばらく茫然としていた。結衣がまだ別荘にいるのかは分からない。でも今は帰るべきじゃない気がした。母を亡くしてから、かつての親戚たちとの縁も徐々に薄れていった。結婚後は友人らしい友人もほとんどいない。このまま私は、どこへ向かえばいいのだろう。そんな思いに沈んでい
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第20話

星乃は、悠真の前ではいつも立場が弱かった。その投資の失敗も一つの原因だった。正隆の企みに気づいた瞬間、星乃は冷ややかに笑った。「もう意味ないわ。私と悠真は、離婚したの」「今や、篠宮家と冬川家は『親戚同士』でもなんでもない」「……なんだと?」電話の向こうで正隆が言葉を失い、しばらくしてから険しい声を絞り出した。「お前たち、離婚したって?」「ええ」「いつの話だ」「ついさっきよ」「悠真が言い出したのか?」「私からよ。彼はあっさり承諾したわ」「ふざけるなっ!」バンッ、と机を叩く音がスマホ越しに響いた。そこにいなくても、星乃には正隆の顔が目に浮かんだ。きっと、いつものように怒り狂っているに違いない。もし今、自分が彼の目の前にいたら――一族の裏切り者でも見るような目で、睨みつけてきただろう。でも、その目を美優に向けたことは一度もなかった。たとえ美優がわがままを通して、会社に何千万もの損失を出そうとも、正隆はため息をひとつついて、甘やかすような口調で、いつになったら大人になるのかと穏やかに問いかけるのだった。星乃は皮肉げに笑ったが、何も言わなかった。電話の向こうで、正隆の声が冷たくなっていく。「お前の母さんが命懸けで繋いだ縁だぞ。それを簡単に壊して……母さんに顔向けできるのか!?」「天国からお前の母さんが見てたら、どう思うと思ってるんだ!あの人の想いを、そんなふうに踏みにじって!」「命令だ、すぐに謝りに行け!」星乃は冷ややかに笑った。もし母が本当に天国から見ているのだとしたら――もうとっくに、すべてに絶望しているはずだ。言葉を返す間もなく、電話は一方的に切られた。篠宮家。正隆は電話を叩き切ると、顔色が悪くなっていた。「もう怒らないで。前から言ってたじゃない、あの子、もう私たちのことなんて、家族と思ってないのよ。たぶんね、悠真の家の力だけ利用し尽くして、将来の道を固めたかったのよ。私たちはそのための邪魔な存在だったの」綾子は、赤いドレス姿でリビングへと優雅に歩いてきた。彼女は、正隆が星乃に助けてもらえず怒っていると思い、そっと手を伸ばして彼の胸を優しくたたいた。「もう一度、悠真のおばあさまにお願いしてみたら?」その艶めかしさに一瞬目を奪われた正隆は、少しだけ表情を
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