All Chapters of 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

このところ、UMEのロボットはかなり好評で、注目度もほぼ冬川グループと肩を並べるほどだった。けれど、冬川グループは資金力も規模も桁違いで、その勢いにあっという間でUMEの話題はかき消されてしまった。星乃は宣伝に大金を投じるのをためらい、自分の手で広告を打ち、提携先を探すつもりでいた。今回、登世の寿宴には、瑞原市の名だたる一族や企業家、政界の要人、それに学校や病院など公共機関の関係者までもが顔をそろえていた。これ以上ないほどのビジネスチャンスだった。一度悠真と離婚してしまえば、こんなふうに多くの人脈と出会える機会は二度とない。「本当にやるつもり?」遥生は壇上の悠真に目を向けて言った。「こんなことしたら、悠真を怒らせるかもしれないよ」「怒らせるようなことなんて、もう山ほどしてきたわ。今さら一つ増えたところで変わらない」星乃は淡々と答えた。「そもそも、商売の世界なんて弱肉強食でしょ。大企業が小さな会社を飲み込み、小さな会社は生き延びるために必死でチャンスをつかむ。悠真ほどの人が、そんな単純な理屈もわからないはずがない」そもそも怒らせなくたって、悠真がUMEに手を抜くとは思えない。星乃の中には、もう感情への未練など一片もなく、ただ未来への渇望と、手にできる限りのチャンスを掴もうとする強い意志だけだった。遥生はしばらく黙り、これが良いことなのか悪いことなのか、判断がつかなかった。「遥生」背後から低くよく通る声がした。二人が同時に振り返ると、そこに立っていたのはえんじ色のスーツを着た中年の男だった。厳めしい顔つきで、無言のままでも人を圧する気配がある。星乃はすぐにその人を思い出した。水野家の当主であり、遥生と沙耶の父・水野崇志(みずの たかし)だ。彼の正妻、つまり遥生と沙耶の母が亡くなったあと、崇志は六度も再婚していた。離婚した相手もいれば、病で亡くなった人もいる。そして、どの妻との間にも子どもがいるが、彼は誰もが納得する形で、家族全員をまとめ上げていた。家の中で揉め事が起こったことは一度もなく、外ではたった一人で水野家を支え、内では見事に家を守ってきた。星乃は子どもの頃から、そんな崇志を尊敬していた。――あの出来事までは。数年前、崇志は水野家の利益のために、沙耶と圭吾の政略結婚を強引に決め
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第202話

星乃は少しぼんやりしていて、悠真が何を話したのかも、壇上で何が起きたのかもよくわかっていなかった。けれど、周りの人たちが一斉に拍手をして、しかも自分のほうを見ているのに気づく。理由も分からず、とりあえず笑顔を作って、形だけの拍手を返した。壇上の悠真は、その無関心そうな表情を見て、こめかみの血管がぴくりと動く。さっき、彼がスピーチしていたとき、結衣が不意に彼の頬にキスをした。その瞬間、場内がざわめき、拍手と歓声が湧き起こったのだ。なのに、星乃までが一緒になって拍手をしている。その無反応と茶化すような態度は、怒って食ってかかってくるよりも、よほど彼を苛立たせた。星乃は悠真の胸中など知る由もない。ただ、冷ややかな視線をこちらに向けられても、どこで機嫌を損ねたのか見当もつかなかった。昔なら、彼女はすぐに自分を責め、原因を探しただろう。けれど今はもう、気に留めることもなかった。悠真と結衣のスピーチが終わると、寿宴はダンスの時間へと移った。主催者である悠真と彼のパートナー・結衣が先導して踊り、そのあとに他の人たちが続く形だ。招待された男女が自由にペアを組み、誰でも参加できる。星乃はその隙を見て、名刺を指先で軽くつまみながら人混みの中へと紛れた。照明は少し落とされ、豪華なシャンデリアから柔らかく灯りが落ちる。ゆったりとした空気に、どこか甘い熱が混じる。ステージの上では、悠真が結衣の手を紳士的に取り、子どものころから慣れ親しんだワルツを踊っていた。結衣は片手を彼の肩に、もう一方の手を彼の掌に重ねている。微笑みながら軽やかに舞う姿は、それは蝶の如く、どんな難しいステップでも軽々とこなしてしまう。――星乃とは違って。星乃は基本的な動きしか知らなかった。悠真の頭に、初めて星乃をパーティーに連れて行ったときのことが浮かんだ。本当なら、彼女が覚えたステップだけでも十分通用するはずだった。だが当時、結婚のことで苛立っていた彼は、わざと難しい動きを要求した。星乃が焦って足をもつれさせ、顔を真っ赤にしていたのを何度も見た。一度、混乱のあまり自分の足を踏んで転んでしまったこともある。そのとき、会場中の視線が彼女に向かった。それでも星乃はドレスを整え、再び彼の手を取って最後まで踊りきった。その夜、帰
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第203話

星乃は、壇上で悠真と結衣が見せる動きを、嫌でも目に入れてしまった。それでも気にするそぶりを見せず、人混みの中を行き来しながら、手にした名刺を配っていた。UMEの知能ロボットの性能の高さや、今後の協業による利益の見込みを丁寧に説明して回る。中には、心の中で彼女を見下していながらも、表面上は興味深そうに振る舞い、名刺を受け取ってから、そのまま横の秘書に渡す人もいた。さらに、演技すらしようとせず、目の前で名刺を破ってゴミ箱に放り込む人さえいた。また、彼女に声をかけられても気づかないふりをして、わざと距離を取る者も。星乃はわかっていた。彼らのその行動は、冬川グループに忠誠を示すためのものだ。UMEが少しずつ知名度を上げてきたとはいえ、瑞原市での冬川グループの地位は揺るがない。今の状況では、たとえUMEの技術力や評判が冬川グループを上回っても、彼らは敵に回す勇気がないのだ。けれど、名刺を受け取らせることができただけでも、第一歩は踏み出せた。UMEが瑞原市で発言力を持つようになれば、彼らも態度を変えるだろう。星乃は一通り配り終えると、名刺入れを閉じた。喉がからからだった。水を頼もうとスタッフを探したその時、背後から勢いよく押され、思わずよろめく。振り返ると、そこには嘲るように笑う美優の姿があった。さっき、篠宮家の人たちを見かけていたが、星乃は面倒を避けたくて声をかけなかった。まさか向こうから絡んでくるとは。美優は鼻で笑った。「私だったら、こんなところに来て恥をさらしたりしないわ。だって、自分の夫が他の女と仲良くしてるのを見せつけられるなんて、つらくない?」そう言いながら、壇上の二人を顎で示す。星乃は穏やかに微笑んだ。「私だったら、そんなみっともないこと言わないわ。だって、うちの夫が他の女と仲良くしてたとしても、少なくとも私は一度手に入れた。でも、どこかの誰かみたいに、取れないからって妬むのは、みっともないわ」「なっ……!」美優の顔がみるみる青ざめ、次いで怒りに染まった。しかし、すぐに表情を抑え込む。今日は言い合いに来たわけじゃない。最近の星乃は、まるで人が変わったように強気で、執拗に攻めてくる。自分では太刀打ちできない。だが、代わりにやってくれる人がいる。「お父さんが呼んでるわ。
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第204話

場の空気が一瞬で静まり返り、皆が登世に向ける視線には自然と敬意が宿っていた。冬川家が瑞原市で立ち上がってからまだ日が浅いというのに、今ではすでにこの街で一番の地位を築いている。それは、雅信と悠真の実力が抜きん出ているのもあるが、何より登世が家の基盤をしっかりと固めてきたからだ。だからこそ、七十歳を迎えた今もなお、彼女が冬川家の最大株主であり続けることに、誰一人として異を唱える者はいない。ただ今日は、特別な知らせがなかったにもかかわらず、全員がわかっていた。登世の誕生日祝いが一つの目的で、もう一つは、彼女がその持ち株を譲渡する日だということを。会場の視線が、次第に悠真へと集まっていく。その目には複雑な感情が入り混じっていた。不安、恐れ、驚き、そして媚び。悠真はまだ本気を出していないのに、すでに瑞原市では圧倒的な影響力を持っている。もし登世から株を正式に譲り受けることになれば――そのとき、誰も彼に逆らおうとは思わないだろう。今ここで彼の機嫌を損ねるなんて、自殺行為も同然だった。そう思えば思うほど、さっきまで悠真に逆らおうとしていた星乃に、みな心の中でそっと同情した。中には忠誠を示すため、星乃がこっそり名刺を渡したことをすぐに悠真へ報告する者までいた。さらに、彼女がその名刺を破り捨てた映像を送りつけ、自分は絶対にUMEとは組まないと付け加えて。悠真はその破れた名刺に刻まれた「篠宮星乃」という名前とUMEのロゴを見て、鼻で冷たく笑った。――蟻が大木を揺らそうとするようなものだ。UMEがどれほど将来性を持っていようと、冬川グループが本気を出せば長くはもたない。悠真はちらりと見ただけで、興味を失ってスマホを閉じようとした。ちょうどそのとき、スマホがまた震える。通知を開くと、業界でよく使われている匿名掲示板アプリの投稿通知だった。内容は――賭けだ。1か月前、すでに誰かが賭けを始めており、その内容は彼の「結婚の行方」に関するものだった。こういう妙な賭けは珍しくない。最初はバカバカしくて無視していた。だが覗いてみると、参加者は思った以上に多く、大半が「離婚」に賭けていた。その倍率、九対一。圧倒的な差だった。こんなにも多くの人が自分の離婚を望んでいるのか――そう思うと、さすがの悠
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第205話

撮影した人はかなり離れた場所から撮っていたようで、映像の中の二人の背中はぼやけていた。けれど、まるで「この女は星乃だ」と主張するかのように、動画の中では彼女の指につけられたダイヤの指輪と、首元のネックレスがわざわざ拡大され、細部まで注釈付きで映し出されていた。そのダイヤの指輪は、今も彼女の指にある。ネックレスも変わっていない。少し見ただけで、それが彼女だとわかる。男はカメラに背を向けていたが、よく見れば悠真ではないことも明らかだった。会場の空気が一瞬で凍りつく。ざわざわと、小さなささやき声があちこちで漏れた。「これ、星乃だよね?ほかの男と……信じられない」「ってことは、悠真さんを裏切ったってこと?これは離婚になるだろ」「いや、わからないよ。お互い自由にやってるだけかもしれないし。そうなると、離婚してるのと同じようなもんでしょ」「自由でも、もう少し気をつけるべきよ。今みたいに証拠を掴まれたら、自分の恥どころか冬川家の名誉にも関わる。いくら登世様が庇っても、もう見逃してはもらえないわね」「ほんと、なんて愚かなんだか……」「……」悠真は周囲の声を聞きながら、画面の中で男に抱き寄せられている星乃を見つめた。怒りが一気にこみ上げる。彼は視線を上げ、星乃を見た。星乃はただ、スクリーンの映像をじっと見つめていた。撮られたことに驚いている様子はない。陰で自分を狙う視線はいつだって多かった。離婚を望んでいる人間も、数えきれないほどいる。だから、彼女は最初から覚悟していた。あのとき、彼女が大勢の前で律人に応えた瞬間から、撮られる覚悟はできていた。だから心は特に揺れなかった。ただ、映像の中の自分を見て、思わず息をのんだ。背筋をまっすぐに伸ばし、冷ややかで、どこまでも自信に満ちたその姿。一か月前、空港でガラス越しに見た自分とは、まるで別人のようだった。生まれ変わったみたいに。悠真は、ただ茫然と写真を見つめている彼女を見て、突然の出来事に混乱しているのだと思った。こみ上げた怒りをどうにか押し殺し、心の中でつぶやいた。――今回だけは、助けてやる。悠真はそう心の中でつぶやいた。彼はボディーガードを呼び寄せた。すぐに動画を削除するよう指示を出すと、前に出て言った。「この動画は偽物だ。
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第206話

人々の視線が、声のした方へと向かう。律人が、長身をまっすぐに伸ばしてゆっくりと前に進む。唇の端には、どこか人を惹きつける微笑が浮かんでいた。「登世おばあさん。どうか末永くお元気で、健やかにお過ごしください」律人は軽く頭を下げて挨拶を済ませると、次に結衣の方へと視線を向けた。一言も発さない。結衣はその視線を感じ取ると、すぐに口をつぐんだ。顔色がみるみるうちに白くなる。ついこのあいだ律人にやり込められた記憶が蘇る。あのとき彼に言い返すことすらできなかった。これ以上話しても、また不利になるだけだ。だが、律人の登場は思いがけない幸運でもあった。証拠も証人もそろい、星乃の「不倫」は完全に事実となった。しかも相手がよりによって白石家の人間。これで、星乃と悠真の関係は完全に終わりだ。今度こそ本当に離婚させられる。そう思うと、結衣の唇にわずかな笑みが浮かんだ。視線を上げると、少し離れた場所で怜司がこちらを見ている。怜司は胸を軽く叩き、「OK」のサインを送ってきた。――これでいい。狙いどおりだ。悠真が手を下せないなら、自分が兄弟として手を貸すだけ。星乃がこんな醜聞を起こした以上、登世がかばおうとしても、冬川家の他の人たちは家の名誉を守るために反対するに違いない。二人の離婚はもう決定事項。星乃がいなくなれば、結衣が冬川家に入るのも時間の問題だ。怜司はそんな未来を思い浮かべながら、「やり遂げた」と言わんばかりの表情で悠真を見つめる。そのころ悠真の頭の中は、星乃と律人のことでいっぱいだった。握りしめた拳には青筋が浮かび、怒りが滲む。――やっと分かった。寿宴の前から感じていた不安の正体が。白石家が何か仕掛けてくるとは思っていた。だが、まさか自分と星乃を狙ってくるとは。けれど、相手が遥生ではなく律人だったことで、逆に冷静さを取り戻した。悠真は怒りを抑え、低い声で言った。「星乃。お前が俺に腹を立てているのは分かってる。でも今日はおばあちゃんの祝いの席だ。ここで子どもみたいなことをするな。みんなに謝って終わりにしよう」星乃は、彼がここで自分と縁を切るような言葉を口にすると思っていた。まさか、そんなふうに庇うとは思ってもみなかった。――この状況で「寛大な夫」とでも褒めてほしいの?自嘲の笑みが浮
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第207話

最後の一言を聞いた瞬間、会場がざわめきに包まれた。佳代と雅信は同時に顔をこわばらせる。雅信は素早く動き、登世の手からマイクを受け取った。「お母さん、もう疲れただろう。ちょっと混乱してるだけだ。先に休ませてやってくれ」佳代もすぐに反応し、登世をなだめながらその場を離れようとした。だが登世は動かず、入口の方へ視線を向けた。すると、スーツ姿の弁護士が足早に前へ出てきて、一通の株式譲渡契約書を星乃の前に差し出す。星乃は呆然と立ち尽くした。まさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかった。登世の持つ株は、冬川家全体のほぼ半分にあたる。つまりこの契約を受け取れば、星乃は冬川家の財産の半分を手にすることになる。花音が慌てて駆け寄り、弁護士の手から契約書を奪おうとしながら、星乃に詰め寄った。「星乃、あなた、おばあちゃんに何をしたの?どうして冬川家の株を、よそ者のあなたに渡すの?おばあちゃんに何の薬を飲ませたのよ!」弁護士はあっさりと契約書を持ち直し、淡々とした声で言った。「申し訳ありませんが、花音さん。遺言書の作成時、登世様の判断能力に問題がないことは確認済みです。この遺言書も譲渡契約も、すべて法に基づき有効です」そして、弁護士は再び契約書を星乃に差し出した。「星乃さん」星乃は一瞬ためらい、呼吸が乱れる。「星乃、あんた、私とした約束を覚えてるね?」登世は穏やかに微笑みながら言った。もちろん覚えている。ホテルに来る前、登世に呼ばれて本宅へ行った。そのとき言われたのだ――「今夜、私が何を言っても、素直に従ってちょうだい」と。けれど、まさかこんな重大なことだとは思ってもいなかった。登世が衝動で動く人ではないことは知っている。この契約が今日ここで差し出されるということは、ずっと前から用意されていたはずだ。それでも理由は分からなかった。登世が自分に優しいことは知っていた。でも、なぜ冬川家の半分を託そうとするのかが、理解できなかった。星乃は少し間を置いてから、思い切って尋ねた。登世は静かに言った。「昔、あんたのお母さんがね、私の息子の命を救ってくれたの。彼女がいなければ、今の冬川家もなかった。この何年も、あんたは冬川家で苦労ばかりしてきた。これはその償いよ。あんたが受け取るべきものなんだ」星乃がまだ
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第208話

登世が帰ってからそう経たないうちに、星乃と律人も寿宴の会場を離れた。律人は軽く眉を上げ、からかうように言った。「おめでとう、もうすぐ瑞原市でいちばんの資産家になるんだね」「僕の見る目はやっぱり正しかったな。こんなに綺麗で、しかもお金持ちの彼女を見つけるなんて」そう言って彼は小さく笑い、星乃の手を取って、その手のひらを頬に当てると、わざと擦りつけるようにした。家事をよくするせいか、彼女の手には薄いタコがあるけれど、手のひらは驚くほど柔らかい。キスをしてからというもの、律人はすっかり虜になっていた。星乃の身体には不思議な魔法があるようで、触れたくて仕方がなくなるのだ。さっき壇上にいたときも、つい彼女の手をこっそり握ってしまった。その瞬間、星乃は警告するように彼を睨んだが、その顔さえ愛おしく見えた。「金持ちになっても、僕のこと嫌いにならないでよ?」彼が少し甘えるように言った。星乃の手のひらがくすぐったくなった。もう皆の前で律人との交際を公表してしまったし、今さら隠すこともない。星乃は彼に手を握られたまま、真面目な口調で「慰める」ように言った。「嫌いになんてしないよ。だって、私が金持ちになることはないから。冬川家は私に株なんて渡さないもの」――登世の気持ちは本物かもしれない。でも冬川家には、自分に株を渡さないための手段ならいくらでもある。星乃が署名をしたのも、あくまで時間を稼ぐために過ぎなかった。契約書にサインしたあと、周囲の人の態度が目に見えて変わった。名刺をこっそり渡してくる人までいたほどだ。以前は、皆が星乃と悠真の離婚を確実視して、彼女を切り捨てていた。悠真に取り入るために、どうにかして星乃と距離を取ろうとしていたのだ。けれど今は、登世が冬川家の株を星乃に譲ると言った。となると、彼女を避けるべきか、それとも関係を保つべきか。皆、計算し直さなければならない。律人は小さく笑い、彼女の手の甲にそっとキスを落とした。星乃の肌から、彼女がいつも使っているボディソープのやさしい香りが漂う。「それで、欲しい?」彼は少し目を伏せ、瞳の奥で光を反射させながら言った。「君が欲しいって言うなら、冬川家がくれなくても、僕が取ってあげるよ」星乃は思わず動きを止めた。そのとき、着信音が鳴る。律人がスマホを
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第209話

「星乃、少し話をしない?」結衣の言葉に、星乃はその笑みの裏に潜む棘を見抜いた。「私たちの間に、話すことなんてないわ」立ち止まることなく、星乃は結衣の横を通り過ぎた。結衣はその冷たさを気にも留めず、穏やかな声で続けた。「花音から聞いたけど、今日あなた、冬川家の本宅に行ったんだって?じゃあ、おばあさまが株をあなたに譲るって話、もう前から知ってたんでしょ?五年も耐え続けて、あんなに悠真を想ってるふりをしてたけど、結局は冬川家の財産目当てだったんじゃない?」結衣の瞳にはあからさまな軽蔑が宿っていた。星乃を罠に誘い込むように、言葉を重ねる。少しでも言い方を誤れば、それを口実に責め立てるつもりなのだ。今、冬川グループの取引先の中には、この件を疑っている者も少なくない。もしこの策略がうまくいけば、彼らは自分たちの利益を守るために、必ず登世に遺言を撤回させようとするだろう。登世が冬川家の他の誰の言葉にも耳を貸さなくても、冬川家と取引先が揃って反対したら、さすがに無視はできないはずだ。まだ、巻き返す余地はある。そう考えた結衣は、さらに挑発を強めた。「どうしたの?やったことを認める勇気もないの?」しつこく迫る結衣に、星乃は足を止めた。「株のことは冬川家と私の問題。あなたみたいな部外者が口を出すことじゃないわ」「つまり、それを認めるってことね?」結衣の問いに、星乃はちらりと視線を向けるだけで、答えずに言った。「てっきり、あなたは喜ぶと思ってた。だって、冬川家の妻の座も譲ってあげたし、悠真もあなたに渡した。それなのに感謝するどころか、追いかけてきてまで財産のことを責めるなんて、どういうつもり?」星乃は結衣の顔を見つめ、冷ややかに笑った。「それとも、あなたが悠真と一緒にいるのは、愛じゃなくてお金のため?」「な、なに言ってるのよ!」結衣は慌てて声を上げた。星乃は静かに笑う。その反応は、まさに予想通りだった。結衣は清楚を気取り、金には興味がないように振る舞ってきた。周囲の人々は皆、彼女がお金にも地位にも関心を持たないと信じている。けれど星乃は知っていた。この五年間、悠真が毎月三万ドルを結衣に送っていたことを。結衣が海外で借りていた高級マンションの家賃も、旅行の費用も、すべて悠真が払っていた。結衣が欲しい物をそ
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第210話

白石家。重たい空気が家の中に満ちていた。黒いスーツに身を包んだ数人のボディーガードが、外で息を殺して立っている。律人が扉を押し開けると、リビングの中央に美琴が立っていた。整った顔立ちは氷のように冷たく、その手には黒い長いムチが握られている。パシン――!律人が一歩踏み入れた瞬間、美琴はムチを振り上げ、手前のガラス製のローテーブルを勢いよく叩きつけた。甲高い音が響き、テーブルは粉々に砕け散った。律人は思わず身を引いたが、美琴が本気で自分を傷つけるつもりではないとわかっていた。彼女はただ、威嚇したかっただけだ。律人は何も見なかったふりをして、にこやかに歩み寄る。「うちの美人なお姉さん、どうして怒ってるんだ?そんなもの振り回してたら手を痛めるよ。誰が悪いのか言って、代わりに僕が懲らしめてあげるよ」そう言ってムチを受け取ろうと手を伸ばす。だが美琴はまたムチを振り下ろし、「パシッ」と床を打った。耳をつんざくような音が響く。「跪きなさい!」律人は即座に判断した。こういうときは逆らわないのが得策だ。一切の迷いもなく、きれいに膝をついた。そのあまりに滑らかな動作に、美琴は呆れて笑った。ムチを持ち上げたまま、最後は軽く彼の肩を叩くだけにとどめた。「……あなた、星乃と付き合ってるの?」律人は素直にうなずいた。「前に何て言ったか覚えてる?彼女は悠真の妻で、冬川家の人間よ。白石家と冬川家の関係を抜きにしても、星乃は瑞原市じゅうの笑いもの。そんな相手と一緒にいるなんて、どうかしてるわ」美琴はムチをくるりと巻き取り、軽く彼の方へ振ってみせる。だがすぐに肩を落とし、ソファに戻って座り込んだ。律人の自由奔放な行動には、普段から多少は目をつぶってきた。女遊びも軽いものなら笑って済ませていたが、まさか星乃にまで及ぶとは思わなかった。それも、あんなに騒ぎを起こして。先ほど彼女が見た動画――律人と星乃が一緒にいた映像を見た瞬間、美琴の頭に血が上った。律人はそんな姉の表情を見て、柔らかく笑う。「もう離婚してるんだよ、僕たちの関係はちゃんと合法だ」「それに、星乃が瑞原市の笑いものになったのは、悠真が彼女を愛さなかったせいだ。誰も悠真を敵に回したくないから、みんな彼女の悪口を言う。でも、彼女に非はない」「……あなた、庇
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