All Chapters of 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話

星乃は、朝から沙耶の知らせが気になって仕方がなかった。髪はただ肩に散らしているだけで、きちんとまとめてもいない。オープンカーはスピードを上げ、風が正面から吹きつけて髪を乱した。彼女は両手首を見てからバッグの中を探したが、ヘアゴムを持ってきていなかった。そのとき、すっと骨ばった手が目の前に差し出された。指先には一枚のシルクのスカーフがつままれている。「これ、使うといいよ」律人がそう言った。星乃は遠慮せずにそれを受け取った。「ありがとう」スカーフはひんやりとした手触りで、いかにも上質なシルクだとわかる。けれど彼女は律人にすでに多くの借りがあった。指にはめたこのダイヤの指輪ひとつでさえ、今の自分には返しきれない。後で改めて機会を見つけるしかない。だから、もう少し借りが増えたところで、どうってことない。星乃はスカーフの片端を握り、髪に二度ほど巻きつけて軽く結んだ。髪はゆるく後ろにまとめられた。律人が横顔をちらりと見て、口元を緩めた。「きれいな人がスカーフをつけると、スカーフまできれいになるんだな」その言葉に星乃は少し照れくさそうに笑った。「ありがとう。今日は本当に助かったよ」彼が自分の住まいを知っていたことに、星乃は驚かなかった。瑞原市で人の情報を調べるのは簡単なことだ。まして自分のように、世間の笑い者のように扱われている人間ならなおさらだ。律人は軽く笑った。「彼女に優しくするのは当然のことだろ。お礼なんていらないさ。またあいつがしつこく絡んできたら、連絡して。言っただろ?君をちゃんと守るって。約束は破らないからね」口調は穏やかだったが、その声には真剣さがあった。星乃は深く気にせず、ただ小さくうなずいた。ほどなくして車はUMEの前に着いた。律人は彼女の手の甲に軽く口づけして言った。「仕事が終わったら待ってて。迎えに来る」星乃はうなずき、二人は別れた。会社に着くと、星乃はスマホを開いた。遥生は朝から出張に出ていたようだ。社内は新しい注文の対応で慌ただしく、星乃も社内テストのデータ整理に追われて頭が回らなかった。昼過ぎ、探偵から電話が入り、彼女は受け取る予定だった証拠写真を手に入れた。夜、律人は約束どおり彼女を迎えに来た。幸の里の入口まで送ってくれたが、その夜は別の予定がある
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第222話

恵子はまだ何か言い訳をして、自分の責任を免れようとし、星乃に責任を押しつけたかった。けれど悠真が淡々とその言葉を遮った。「彼女は、そういう人じゃない」恵子は少し驚いた。まさか悠真が星乃の肩を持つとは思っていなかったからだ。けれど同時に、結衣の機嫌がここのところ悪かった理由にも思い当たった。そう思うと、恵子は目を動かし、にやりと笑った。「どうでしょうね、悠真様。結局お金のことですもの。誰だって無関心ではいられませんよ。「だって、前に彼女、あなたの明細を調べていたでしょう?あの時からもう、冬川家のお金は自分のものだって思ってたんじゃないですか?」その言葉に、悠真はふと、星乃が自分の口座を調べたときのことを思い出した。あの時、確かに彼は腹を立てた。明細に何かあったわけじゃない。ただ、星乃がそこまで大胆な真似をしたことに、彼は腹を立てたのだ。だが、思えばその一件を除けば、長年の結婚生活の中で、星乃が金銭面で無茶をしたことなど一度もなかった。離婚のときに出された修正済みの離婚協議書にも、彼女は何も持たずに出ていくと書いていた。そこまで思い出したとき、恵子の軽蔑を含んだような顔が目に入り、なぜか胸の奥が苛立ちでざわついた。恵子が提案するように口を開いた。「悠真様、だったらいっそ、そのお金は結衣さんに……」言い終わらないうちに、悠真の眉がぴくりと動いた。声は冷えきっていた。「恵子、自分の立場をわきまえろ」冷ややかな視線に射抜かれ、恵子はハッとしたように口を閉じる。「星乃は俺の妻で、冬川家の奥さんだ。帳簿を彼女が管理しても何もおかしくない。金を自分のものだと思うのも、俺が許していることだ」悠真の声は氷のように低かった。「次にまた、この家の奥さんのことを勝手に口にしたら……ここにいる理由はなくなると思え」「……」恵子は言葉を失った。以前、悠真が怒りをあらわにしたとき、星乃を「奥さん」として扱っているようには見えなかったのに。だが、これ以上逆らう勇気はなかった。長年の経験で、どこまで踏み込んでいいかくらいはわかる。悠真は軽く手を上げた。「もう帰っていい。給料は後で振り込む」そう言われた恵子は、さっきまでのことなどすっかり忘れたように顔をほころばせた。「わかりました、悠真様。ではお休みなさいませ」恵子
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第223話

星乃は首を傾げて振り返った。夜はすっかり更け、薄暗い街灯がまるで老いた人の息のように、かすかに光を落としている。悠真は白いシャツに黒のベストだけを羽織り、街灯の光に照らされて立っていた。いつもの冷ややかさは少し影をひそめ、どこか柔らかい雰囲気をまとっている。急いで駆けてきたのだろう、息が少し荒い。星乃が振り返るのを見て、彼はようやく歩調を緩め、重い足取りで彼女の前に来た。今日の悠真は、まるで大切なおもちゃをなくした子どものようだった。いつも見てきた彼とは、少し違って見えた。星乃はそんな彼を目にして、心の中で用意していた皮肉の言葉が、すべて喉の奥で消えた。「どうしたの?」思わず、声の調子までやわらかくなっていた。悠真は足を止め、星乃の問いに一瞬言葉を失った。どうしたのか?自分でも、うまく説明できなかった。彼は古びた住宅街を見渡しながら、星乃が借りているあの狭い部屋を思い出した。胸の奥に、理由のわからない痛みが込み上げた。今まで、彼はずっと思っていた。彼女がこんな場所に住むのは、わざと自分の気を引こうとしているからだと。けれど、ついさっき知った。それは駆け引きでも演技でもなく、ただ本当に、お金がなかっただけなのだ。「どうして言わなかったんだ」長い沈黙のあと、悠真は低い声で言った。「別荘の生活費を止めたのは、わざとじゃない。ただ……忘れてたんだ」星乃は小さく笑った。――忘れてた。結衣のことなら、彼は一度だって忘れたことがないのに。彼女のいる国との時差まできっちり覚えて、彼女が寝ていない時間を選んで電話をかけるほどだった。「そうね、興味のないことって、忘れるものよ」星乃は静かに言った。「それで?わざわざその話をしに来たの?」あまりに淡々とした言い方に、悠真の胸の奥がきしんだ。子どものことだって、彼女はいつもこんな調子だった。怒ってくれた方がまだよかった。泣いて、責めて、罵ってくれた方が、ずっと楽だった。今のように、何もかもどうでもいいという顔で、説明の機会すら与えないのが、一番つらい。胸のあたりが締めつけられるように苦しい。「もう二度と、こんなことはしない」悠真は黒い瞳でまっすぐ彼女を見つめた。「星乃、一緒に帰ろう」「帰る?」星乃は笑い出しそうになった。ま
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第224話

星乃はその場に立ち尽くし、目の縁を赤く染めた悠真を見つめながら、その言葉はどう考えてもおかしいと思った。彼に「捨てる」必要なんてない。どうせ、いつも勝手に去っていくのだから。この数年、彼女がよく見てきたのは、彼の背中だった。そう心の中で思いながらも、星乃はこんな堂々巡りのような話を続ける気にはなれなかった。彼女は小さく頷き、はっきりと言った。「そうよ。あなたも、花音も、冬川家も。あなたに関わる、かつて私が好きだったものは、もう全部いらないよ」言い終えた瞬間、悠真の目の縁はさらに赤くなっていった。暗い瞳の奥に、星乃には理解できない何かが渦を巻き始める。怒り。冷たさ。危うさ。怒っているときの彼の表情に似ているようで、でも少し違っていた。そこには、別の何かが混ざっていた。星乃の胸が小さく震え、思わず後ずさる。だがその仕草が、彼を完全に刺激してしまった。悠真の大きな手が彼女の後頭部に回り、そのまま顔を寄せて唇を重ねる。その瞬間、星乃はようやく悟った。――彼の瞳に宿っていたのは、欲望だった。かつて自分がどれほど求めても、決して与えられなかったもの。今の彼女にとっては、恐怖でしかなかった。心臓が跳ね、星乃は反射的に手を上げて唇を塞ぐ。冷たい彼の唇が、その手のひらに触れた。いつもは自分から近づいてくる彼女が、今は必死に拒んでいる。その光景が、悠真の胸の奥に火をつけた。苛立ちを隠そうともせず、彼は乱暴に彼女の手を振り払う。星乃は必死に抵抗した。だが、男と女の力の差はあまりにも大きい。押し返せず、ただ逃げるしかなかった。壁に追い詰められ、もう後ろに退く場所はない。脇に逃れようとしたが、悠真はその隙を与えなかった。柔らかな体が彼の胸元にぶつかり、薄い布越しに熱が伝わる。星乃の怒りと羞恥に満ちた表情を見つめながら、悠真の脳裏に――あの夜の記憶がふとよぎった。胸の奥で、心臓が激しく鳴り響く。さっきまでの衝動は怒りだった。だが今は、それだけではない。悠真は彼女の体を押さえつけ、壁に手をついたまま動きを止めた。荒っぽさを抑えた。動きを止めた彼に、星乃もまた抵抗をやめた。さっきまでのもがきで、体力を使い果たしていたのだ。ただ、怯えた目で彼を見上げる。「誰のために
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第225話

悠真はその言葉の裏にある意味を察した。先ほどまでは深く考えなかったが、今の男の口ぶりからして――相手はもう自分の正体を知っていて、星乃との離婚のことまで把握している?最初から狙って来たのか?……星乃が、自分に対抗するために雇った?悠真が一瞬気を取られた隙に、星乃は力いっぱい彼の腕を振りほどいた。長く息が詰まっていたせいで、足をついた瞬間に視界が一瞬真っ暗になる。体がふらついたその時、悠真は反射的に手を伸ばした。だが彼女はその手を強く払いのけた。まるで毒蛇でも避けるような仕草が、悠真の目に鮮明に映る。彼の表情が凍りつく。――彼女は本気で、自分を嫌悪している?星乃は倒れこんだまま、動きを止めた悠真を見上げ、まだ恐怖に震えていた。まさか、彼がこんなふうに自分に手を出すなんて。結婚して五年。彼と夫婦の関係を持ったことはあっても、彼が彼女に触れるのは、ベッドの上だけだった。外では、彼女に視線を向けることさえほとんどなかった。もちろん、キスや体の反応を見せるなんて一度もなかった。背後から誰かが彼女を支えようとする気配に、星乃はビクッと身を震わせた。振り返ると、そこには見知らぬ男が二人立っていた。「星乃さん、遥生さんからのご依頼で、瑞原市であなたをお守りするよう命じられています」一人が低い声でそう告げた。もう一人も続ける。「すみません、来るのが遅くなりました」遥生の手の者と聞いて、胸の奥に張りついていた恐怖がようやく少し溶けた。二人に支えられ、彼女はゆっくりと立ち上がる。悠真の目には、再びあの冷え切った光が戻っていた。二人の恭しい態度で、彼の中の確信が決定的になる。悠真は小さく鼻で笑い、胸の奥が凍えるように冷たくなる。拳を握りしめ、血管が浮かび上がる。込み上げる怒りを必死で抑えながら、低く言った。「星乃、最後にもう一度だけ聞く。俺と一緒に帰るのか、それとも……」「もう、帰って」彼の言葉を遮るように、星乃が静かに言った。できるかぎり落ち着いた声だったが、そこには一片の感情もなかった。「これ以上騒げば、あなたの立場が悪くなる。冬川グループの株価にも影響するでしょ。登世おばあちゃんも冬川家の人間よ。私はおばあちゃんを悲しませたくないの」そのはっきりした拒絶
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第226話

圭吾がそう言い終えるや否や、そばにいたボディーガードがすぐに男の頭を押さえつけ、もう一人がその口をこじ開けた。男がもがこうが構わず、舌を引きずり出す。瞬く間もなく、刃が振り下ろされた。悲鳴が邸宅中に響き渡る。男は地面を転げ回り、血が芝生を赤く染めた。周囲の見物人の中には、あまりの光景に顔を背ける者もいれば、見慣れた様子で微動だにしない者もいた。その中で最も落ち着いていたのは、邸宅の主である夫婦だった。白髪ながらも目に力のある老夫婦――白石家の祖母・白石良枝(しらいし よしえ)と祖父・白石宗明(しらいし そうめい)は、椅子にどっしりと座り、まるで目の前の惨状など見えていないかのように静かにしていた。宗明は淡々と茶をすすり、茶の表面は揺れることもない。良枝はうつむいたまま、手元のマフラーを編み続けている。そのそばに立つ着物姿の中年の女性が、眉を深く寄せた。やがて堪えきれず、良枝の耳元で小声で言った。「お母さん、圭吾がみんなの前でこんなことをしたら、さすがに……」言いかけて、口をつぐむ。良枝は顔を上げ、微動だにしない瞳で答えた。「好きにさせなさい」美琴がその着物姿の女性の腕をそっと引いて、低く言った。「おばさん、大丈夫です。圭吾兄さんならちゃんと処理します」思い詰めたように美琴を見た叔母・白石恵理(しらいし えり)は、それ以上何も言わず口を閉じた。そして遠くに立つ圭吾を見つめる。その目には不安が宿っていた。圭吾の性格が、どんどん荒くなっている。昔から冷酷ではあったが、それは誰もが知ることだった。人を殺すこともためらわず、やることに容赦がない。だからこそ、圭吾は白石家の次期当主として選ばれたのだ。だが、これまではどんなに残酷でも、家族の前では決してやらなかった。今日が初めてだった。一族の前で、こんな残忍なことを平然とやってのけたのは。美琴は恵理の顔色を見て、彼女の疑問を察したように静かに口を開いた。「沙耶……圭吾兄さんの幼なじみで、婚約寸前までいった人です。圭吾兄さんにとっての逆鱗なんです。彼女のことはおばさんも知ってるでしょう?」恵理は頷いた。あの騒動を、彼女も忘れてはいない。沙耶が瑞原市から突然姿を消したあの日、圭吾は狂ったように探し回った。その後、沙耶を逃がした星乃に対して……
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第227話

その後の二日間は、何事もなく穏やかに過ぎていった。UMEの新型ロボットの内部テストも順調で、たまに細かいデータの不具合はあったものの、すぐに修正された。仕事の合間も、星乃の胸の中には落ち着かない気持ちがくすぶっていた。何度か遥生と連絡を取り合ったが、結局のところ結果は同じだった――沙耶は、あの日海に出てからずっと消息を絶っているという。水野家では人を出して昼夜問わず捜索を続けていたが、手がかりは何ひとつ見つからず、最終的には捜索範囲を広げることになった。待つというのは、想像以上に苦しいことだった。星乃はスマホの通知音が鳴るたびに心臓が跳ね、眠っていても音がすれば飛び起きてしまう。一刻も早く水野家に朗報が届いてほしいと思う一方で、何か悪い知らせが入るのも怖かった。まるでそんな彼女の不安を察したかのように、この日、遥生からメッセージが届いた。【心配しなくていい。沙耶は無事だよ】星乃は、何か新しい情報を掴んだのかと思い、胸を高鳴らせて返信した。【本当?どうしてそう言えるの?】【地元に占いの巫女がいてね。沙耶の生年月日を持って行ってみたんだ。彼女が言うには、沙耶の人生は波乱万丈で、いくつもの試練に遭うけど、どれも致命的なものにはならないって。少なくとも八十までは生きられる運命らしい。それに、この前お寺にお参りしたときに引いたおみくじ、大吉だったんだ】遥生から届いた、どこか真剣味のあるメッセージを見て、星乃は思わず笑ってしまった。【あなた、ずっと科学を信じろ、占いなんか信じるなって言ってたじゃない】【非常時には非常手段だよ】遥生から返事が来た。星乃は昔から、幽霊とか神様とか、そういうものは信じていなかった。でもこのときばかりは、どうかそれが本当であってほしいと願った。張り詰めていた心が、ほんの少しだけ和らぐ。【それより、君こそ気をつけて】と、遥生が続けた。その意味をすぐに察した――圭吾のことだ。圭吾のことを考えると、星乃は少し首をかしげた。彼は自分を最も恨んでいるはずなのに、これまでなら、たとえ手を出せなくても、何らかの圧をかけてきた。けれど今回は妙に静かだった。しかも、圭吾は今朝早く、部下を連れて海辺へ向かい、沙耶の捜索に加わったという。それが星乃には意外だった。そのことを遥生に
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第228話

星乃は、正隆が自分を呼び戻した目的が単純ではないことをわかっていた。それでも今回は、少し迷ってしまった。あのとき、彼女が家を離れている隙に、正隆と綾子は母の遺品をすべて処分してしまった。彼女と母の写真が入ったアルバムさえ、例外ではなかった。あれから五年。母を偲ぶものは、もう記憶の中に残る断片しかない。だからこそ、どうしても母の写真が欲しかった。数分ほど考えたあと、星乃はその思いをそっと胸にしまった。母なら、そんなことで人に頭を下げる娘を望まないはずだ。ずっと、母が悠真との結婚を急がせたのは、娘の気持ちを叶えるためだと思っていた。けれどあとになってわかった。母はきっと、正隆が再婚して自分が篠宮家から追い出される未来を予想していたのだ。財産も受け取れず、家に居場所もなくなると。だから母は、世間からどれだけ非難されても、娘を悠真に託した。登世もまた、星乃が誰かの支配下で苦しむことを望まなかった。だから離婚後、冬川家の持ち株を星乃に渡したのだ。それを最終的に手にできるかどうかは別として、冬川家の名がある限り、もう誰も彼女を軽んじることはない。星乃は、母と登世の思いを無駄にはできない。そう心に決め、この件から目をそらした。ところが会社のビルの前に着いたとたん、正隆からビデオ通話が入った。画面に映った彼は、分厚いアルバムを手にしていた。それを開いてカメラの前に差し出すと、星乃の目に映ったのは、母と自分の懐かしい写真だった。写真の中で、母はベージュの水玉ワンピースを着て、長い髪を優しくまとめている。穏やかで、美しかった。母はしゃがんで、小さな星乃の手をハンカチで拭っていた。彼女の手は白い生地の粉まみれで、頬も鼻も真っ白。隣にはもうひとりの女の子が床に座り、生地をこねている。テーブルの上には、形のいびつなパン生地が並び、奥には焦げついたオーブン。部屋の中は散らかり放題だった。あれは、母の誕生日のとき。星乃と沙耶は一緒にケーキを作ろうとしたが、結局うまくいかず、オーブンを爆発させてしまった。慌てて帰ってきた母は、怒るどころか笑って二人を外に連れ出し、ケーキを食べに行ってくれた。この写真を、星乃は以前、正隆に頼んで探してもらったことがある。でも彼は「捨てた」と言い放ったのだ。溢れるように蘇る記憶。
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第229話

綾子は、美優を政略結婚させたくない。彼には娘が二人しかいない。だから再び望みを、星乃に託すしかなかった。そう思うと、正隆は薄く笑った。「星乃、見たよ。アルバムの中にお前とお母さんの写真がたくさんあった。お前の小さい頃の写真もね。懐かしくて、つい見入ってしまったよ」「お母さんが亡くなって、もう六年以上になるだろう。久しぶりに若い頃のお母さんを見たくないか?」その穏やかな笑顔は、母親が亡くなって間もないころ、綾子を新しい妻として迎えようとしていた時とまったく同じだった。あの頃、正隆は申し訳なさそうに言った。娘の世話を自分ひとりで続けるのは難しい。だから新しい母親を迎えたい。そう言いながらも、彼はどこか困ったように、娘が嫌ならやめてもいいと付け加えた。もちろん星乃は嫌だった。それでも、正隆が本気で再婚したいと思っていることは分かっていた。母を失ったばかりの自分が、あまりにわがままなのもよくないので、結局うなずいた。結果は、この有り様。星乃は短く息をつき、静かに尋ねた。「条件って、何?」「それは、帰ってきたときに話そう」正隆はそう答えた。星乃は鼻で笑った。「私が篠宮家を出ていく時、あなたは言ったわよね。『もう篠宮家とは関係ない』って」実際、星乃は一度も帰ったことはない。 代わりに正隆たちは、何かにつけて「冬川家の妻」の立場を利用し、家のために動かせようとしてきた。他の女は、実家が後ろ盾になってくれる。でも彼女の実家は、彼女を利用して、自分たちの後ろ盾にする。正隆の表情が一瞬止まり、すぐに笑顔を作った。「そんな昔の話をまだ気にしてるのか?俺はお前の実の父親だぞ。どうしてそんなに根に持つんだ」「お父さんと綾子おばさんはね、ただお前に久しぶりに会いたいだけなんだ。一度、顔を見せておくれ」星乃は冷たく言い放った。「そんなこと言ってて、自分でも信じてるの?」正隆の笑みが崩れた。「星乃、もう一度聞く。帰ってくるのか?」「帰らない」言い終えた瞬間、カメラが反転し、画面に火盆が映った。燃え盛る炎が盆の中でゆらめく。正隆はアルバムから写真を一枚抜き取り、手を伸ばして火にかざした。「これが最後の確認だ」正隆の声はもう苛立ちを隠さない。炎の舌がゆっくりと写真に近づいていく。周りの白い縁が、熱で
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第230話

星乃はおおよその事情を律人に話した。彼女と篠宮家のことは、瑞原市ではすでに噂になっていたから、律人が少しでも関心を持てばすぐに知れることだったし、星乃も隠すつもりはなかった。しかも一緒に過ごすうち、彼のこともある程度わかってきていた。律人は上品で穏やかだが、口が達者で皮肉屋だ。人を言い負かすのが好きで、相手が言葉に詰まるのを見るのを楽しんでいる節がある。案の定、星乃の話を聞き終えた律人は、迷いなく頷いて了承した。二人は日時を決め、星乃は会社へ戻った。「星乃が律人を連れて篠宮家に行った?」夕方、冬川家の別荘の書斎。悠真は誠司の報告を聞くなり、机を叩いて立ち上がった。「見間違いじゃないんだな?」誠司は頷き、撮ってきた写真を机の上に置いた。写真には、篠宮家の門の前に停まっている星乃の車がはっきり写っている。数日前に修理に出したばかりの車だ。見間違えるはずがない。そして、並んで門をくぐっていく二人の後ろ姿も、確かに星乃と律人だった。悠真は写真の端をつまみ、二人の背中を見つめながら、目の奥をじわりと冷たくした。胸の奥にぽっかりと空いたような感覚が、また押し寄せた。心のあたりが、微かに痛む。あの日、怒りのままに立ち去ったあと、少しだけ後悔もしていた。たしかに、自分のやり方は少し酷かったのかもしれない。だから彼女にメッセージを送り、素直に謝ったのだ。けれど星乃は、一通も返してこなかった。最初は、忙しくて返信できないだけだと思っていた。でも今ならわかる……――彼女は、新しい彼氏を連れて「両親に挨拶」していたのだ。悠真の指先に力がこもる。悠真の指が写真を握りしめ、次第に力がこもる。「この前言っておいた件、進めてるか?」苛立ちを隠せない声でそう問うと、誠司が慌てて答える。「悠真様、もう星乃さんに電話しました」数日前、悠真が怒りをあらわにして帰宅したあと、誠司を呼びつけ、星乃に連絡を取るよう命じた。さらに、自分が誠司を解雇するつもりでいることを星乃に伝え、彼女に助けてもらうよう頼めと言ったのだ。誠司は迷わず従った。彼は、星乃の流産を悠真に隠していたこと、そして星乃が離婚を切り出したときに止められなかったことに、ずっと負い目があった。星乃が悠真に内緒で離婚できたの
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