All Chapters of 彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで: Chapter 191 - Chapter 200

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第191話

答えはもう、はっきりしていた。結衣の唇の端に、少し得意げな笑みが浮かぶ。悠真は、わずかに沈黙した。結衣が帰国したばかりの頃、怜司や花音は何度もよりを戻すよう勧めてきたが、悠真は本気にしなかった。けれどその後、結衣が冬川グループのために新しい開発プロジェクトを成功させ、会社が知能ロボット業界に参入できたことで、周囲から「復縁」を望む声が一気に高まった。結衣自身も、隠すことなく気持ちを示してきた。だからこそ、悠真も真剣に考えざるを得なかったのだ。確かに、考えた。だが結論は――「離婚は、してない」悠真が低く言った。「星乃が、俺との離婚に応じるわけがない」結衣の笑顔が、一瞬だけ固まる。けれどすぐに、もっと明るい笑顔に変わった。「いいの、待てるから」……でも、たぶん長くは待たなくて済む。結衣は穏やかな湖面を見つめた。さっき彼女は、わざと星乃の胸を蹴り、水草の茂るあたりへ突き飛ばした。悠真が星乃を引き上げたとき、あのあたりはもう静まり返っていて、今もまだ彼女の姿は見えない。結衣は本気で星乃をどうにかしようと思っていたわけじゃない。ただ、どんな時でも悠真の最初の選択は自分だと、星乃に思い知らせたかった。そうして、自ら身を引かせるつもりだった。そのとき、悠真も異変に気づいた。星乃が、あまりにも長い間出てこない。たとえあのダイヤの指輪を探していたとしても、こんなに長く息を止めていられるはずがない。次の瞬間、ひとつの記憶が脳裏をよぎった。――星乃は泳げない。昔、誰かにプールへ突き落とされたとき、まるで溺れる小鳥みたいに必死でもがいていた。まさか……悠真の瞳孔がきゅっと狭まる。彼は踵を返し、湖へ向かって駆け出そうとした。だがその足が止まった。湖面に、ひとつ。いや、ふたつの影が現れ、ゆっくりとこちらへ泳いでくるのが見えた。湖畔の街灯が辺りを照らしているが、光は湖の中央までは届かない。暗い水面の上、かすかな月明かりだけが影を浮かび上がらせていた。悠真は、星乃の姿を見つけた。細い身体が、淡い月光に包まれながら、少しずつ岸へと近づいてくる。何度も体が傾きそうになり、そのたびに隣の誰かが支えている。その影が遥生だと思い、悠真の足が止まり、全身に冷たい気配が広がっていった。
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第192話

星乃は地面に倒れ込み、悠真の目に浮かぶ嫌悪の色を見た。彼が結衣をかばうことには、もう慣れていた。別のことなら譲ってもよかった。けれど、今回だけは違う。自分の命がかかっている。星乃は引き下がらず、立ち上がると同じように冷ややかな目で彼を見返し、結衣を指さした。「さっき、彼女が私を殺しかけたのよ」悠真は鼻で笑った。「お前を殺しかけたのはお前自身だろう。忘れたのか?飛び込んだのは自分だ」彼の視線が星乃の手に移る。そこには、あの眩しいほどのダイヤの指輪が、再びはめられていた。その瞬間、悠真はふと、自分がなんだか滑稽に見えた。あのとき、星乃が湖に飛び込んだ瞬間――俺は、助けに行くべきじゃなかったと、そう思った。星乃が何か言おうとしたとき、ずっと黙っていた律人が静かに口を開いた。「さっき悠真さんが飛び込んだのは、人を助けようとしたからだとしても……じゃあ、結衣さんが飛び込んだのはどうしてですか?」その声で、悠真と結衣はようやく、そこにもう一人男がいることを思い出した。さきほど星乃を湖から引き上げた人物――律人だった。二人の視線が同時に彼へと向かう。律人は胸ポケットから濡れたハンカチを取り出し、丁寧に絞ってから、鼻梁の金縁眼鏡を外し、静かに水滴を拭った。優雅。その仕草が、妙に優雅だった。誰もがびしょ濡れで、乱れた姿の中――結衣は弱々しく、悠真は怒りに満ちている。なのに、彼だけがまるで別世界の人のように、穏やかで上品だった。まるで今の今まで人を助けていたのではなく、自宅のプールでひと泳ぎしてきただけのように見える。星乃は彼に深く感謝していた。彼がいなければ、今ごろ自分は湖の底に沈んでいたかもしれない。「お前は誰だ?」悠真が冷えた声で尋ねる。律人は眼鏡をかけ直し、軽く微笑んだ。「名乗るほどの者ではありません。どうせ、そう何度も顔を合わせることもないでしょうから」「白石家の人間か?」悠真が問い詰める。律人は否定しなかった。そして、再び結衣に視線を向ける。穏やかな笑みを浮かべたまま。「結衣さん、まだ僕の質問に答えていませんね」結衣は唇を噛み、彼を見た。微笑みは柔らかく、眼鏡の奥の瞳は知的で落ち着いていた。けれど、目が合った瞬間、背筋がひやりとした。何か、底の見えない危うさを感じる。
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第193話

結衣は、律人の落ち着いた、けれど見透かすような視線を受けて、呼吸が少し乱れた。さっき星乃に手を上げたときは、意識のすべてが悠真と星乃に向いていて、まわりのことなんて一切目に入っていなかった。だから、律人がいつ現れたのかも、彼が言っていることが本当なのかも分からない。星乃を殺しかけたことなんて、絶対に認められない。けれど否定すれば、律人の手に本当に証拠があるかもしれない。そうなれば、悠真の信頼は完全に失われてしまう。くそっ。この律人って一体何者?どうして星乃の味方をするの?結衣は強く歯を噛みしめた。数秒後、ふっと唇を押さえて笑い、律人の言葉には答えず、視線を二人のあいだで行き来させながら、ゆっくりと言った。「星乃って人気者なんですね。こんなに助けてくれる人がいるなんて。でも、私が本当に彼女に触れたかどうかはともかく、その場に居合わせた誰かが『たまたま証拠を持ってる』なんて、できすぎてると思わないですか?」星乃はすぐに悟った。結衣の言いたいことは、自分を陥れようとしている、ということ。それは結衣がいつも使うやり口だった。星乃は、自分に向けられた視線を感じた。顔を上げると、悠真の黒い瞳が律人から離れ、自分に向けられているのが見えた。夜の光の中、その顔はひどく冷たく沈んでいる。言われなくても分かる。また、疑われている。星乃の胸の奥に、冷たい嘲りがひと筋走った。何か言おうとしたその瞬間、律人が先に口を開いた。「結衣さん、話をそらさないでください。僕たち白石家の人間は、誰かに指図されて動くようなタイプじゃないんですね。今日のことも、ただ単に困ってるきれいな人を放っておけなかったってだけです。それに、そんなに言い訳ばかりして……本当は自分のしたことに覚えがあるんじゃないですか? じゃあ、いっそ答えを見せましょうか?」そう言って、律人はポケットからスマホを取り出した。画面をスライドしながら、何気なく呟く。「へえ、けっこう長く録れてるな。水に飛び込んで助けるところまで、しっかり映ってる。さて、結衣さんの姿はあるかな」「……」律人が本気で動画を探しているふうに見せるその様子に、結衣は手のひらをぎゅっと握りしめた。心臓がうるさいほどに跳ねる。思わず悠真のほうを見た。けれ
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第194話

さっきの結衣の反応で、すべてがはっきりした。星乃は、悠真がもう理解したのだと気づいていた。それが自分の生死に関わることでも、彼は追及しようとはせず、まるで何でもないことのように、いつも通り軽く流してしまおうとしている。星乃は小さく笑い、彼の手を振り払って距離を取った。「もういいわ。あなたが送ってくれなくても、道くらい自分でわかる。だから、本当に必要としてる人を送ってあげて」そう言って視線を少し先に向ける。そこには結衣がいた。ちょうどその瞬間、結衣もまた星乃を見ていた。さっきまで律人の前で言い訳を並べて必死に取り繕っていた彼女は、もうすっかり落ち着きを取り戻していて、口の端をわずかに上げて挑発的に笑っている。その目が、まるでこう語っているようだった――結局、悠真が選ぶのは自分よ、と。星乃は肩をすくめ、穏やかに笑った。――いいの。返してあげただけ。結衣はその笑みと、どこまでも静かなその目に、一瞬だけ息をのんだ。どれだけ取り繕っても、目だけは嘘をつけない。けれどなぜか、星乃の瞳からは、ほんの少しの悲しみさえ読み取れなかった。演技?それとも、本気?それとも、自分が気づかないだけで、まだ何か打ち手があるのだろうか。悠真もまた、星乃の言葉の裏を感じ取っていた。彼は振り返り、結衣の方を見やった。夜の空気はさらに冷たくなっていく。濡れた服が肌に張りつき、体温を奪っていく。風が吹き抜け、結衣は両腕を抱いて胸元を押さえ、かすかに咳をした。その顔が青ざめているのを見て、悠真は唇を引き結んだ。結衣の気持ちはわかっている。星乃が自分に見捨てられたように感じ、傷ついていることも。しばらく考え込み、彼は深く息を吐くと、ポケットに手を入れた。中には、婚約指輪の入った小箱がある。何か言おうとした、そのとき――「寒いし眠いしさ。ねえ綺麗なお嬢さん、着替えに行こうよ。こんな格好で誰かに見られたくないし」律人が大きなあくびをして、軽口を叩いた。星乃は彼を見て、すぐに笑う。「いいわ」そう言って、悠真の方を一度も見ずに、律人と並んで歩き出した。悠真は遠ざかっていく星乃の背中を見つめた。ふと、前よりも少し背が高くなったような気がした。けれど、それも曖昧な記憶だ。昔、星乃と一緒にいた頃は、いつも彼の
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第195話

そう言い終えると、悠真は彼女の蒼ざめた顔などまるで見えないかのように、ためらいもなく手を振り払って、そのまま彼女をすり抜けて出て行った。星乃はロビーまで戻ってようやく立ち止まり、律人に向かって言った。「ありがとう」もし律人がいなかったら、さっき本当に命を落としていたかもしれない。偶然なのか、それとも運命なのか。律人が現れるのはいつも、星乃が一番みじめで、一番助けを必要としているときばかりだった。それに、まさか律人が結衣の嘘を暴いてくれるとは思わなかった。彼の印象といえば、女同士の揉め事には関わらないタイプで、前にトラブルのとき助けてもらったときも、どこか他人事のように冷めていた。だから今回も、てっきり見て見ぬふりをすると思っていたのだ。そんな星乃の疑問を察したように、律人は眉をわずかに上げて言った。「女ってさ、みんな可愛い生き物だと思うんだよ。ケンカしたって所詮は小競り合い。今日あたり派手に殴り合っても、明日にはブランドのバッグひとつで仲直りして、手をつないで買い物に行くんだ。君たちの思考回路はよくわからないから、僕が口を出すことでもない。でも今日は違う。君とあの子は違うんだ。とくに、君たちの間には悠真がいる。だからさっきのは『ケンカ』じゃない。あいつらが組んで、君をいじめてたんだ。僕、女の子がいじめられるのは見過ごせないんだよ」そう言いながら、律人は冗談めかして星乃の頬を指でつまんだ。冗談だとわかってはいたけれど、星乃は少しだけ息をのんだ。その視点で見るなんて、これまで一度も考えたことがなかった。けれど、確かに理屈は通っている。「でも……さっき、悠真が本当にあの動画を見ようとしたらどうしてたの?」星乃は尋ねた。実を言うと、最初は律人が本当に録画していたのか疑っていた。彼の口ぶりがあまりに真に迫っていたから、つい信じてしまったのだ。ところが、画面を差し出された瞬間、ただの真っ黒な画面で、星乃は思わず冷や汗をかいた。まさか結衣が自分から認めるとは思わなかった。「見ないよ」律人は言った。「悠真みたいにプライドの高い人間は、他人の差し出した証拠なんて信じない。だからわざわざ見るまでもないんだ」そう言いながら、ポケットからスマホを取り出し、軽く振ってみせた。「やっぱり、CMで言ってる『防水仕
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第196話

「いいわ」星乃は小さくうなずいた。その声は落ち着いていて、冗談の気配は一切なかった。律人はそのあまりにあっさりした返事に、一瞬だけ目を見開く。「考える時間とか、いらないの?」「だって、悠真と離婚したばかりで僕と付き合うってなったら、周りが何言うかわからないだろ」と、軽く笑う。星乃もつられるように笑った。「悠真と離婚したあと、独りなら独りで噂されるし、恋人ができたらできたで噂される。今付き合っても言われるし、少し経ってから付き合っても、きっとまた掘り返されてあれこれ言われるわ。結局、みんな私のことを面白がりたいだけなの。だったら、誰と付き合うかなんて、どうせなら一番いい人を選んだ方が得じゃない?あなたみたいに、顔もよくて、優しくて、女の子を楽しませるのが上手で、しかも白石家の人。お金子猫もあって、地位もある。もし噂になったとしても、きっと嫉妬される方が多いと思う」星乃のその言葉に、律人の口元が抑えきれずにほころんだ。「でも、本当は考えるべきなのはあなたの方だと思う」星乃は真っ直ぐに彼を見つめた。「私のまわりには厄介ごとが多い。私と一緒にいたら、あなたまで巻き込まれるわ」律人は指先で顎をなぞり、くすりと笑った。「それを『厄介』って思うのは、無力な奴らだけさ。僕にとっては、恋のスパイスみたいなもんだよ」「じゃあ、恋愛を楽しもう」星乃は手を差し出した。律人はその手を見つめ、微笑んだ。視線が彼女の淡いピンク色の唇に落ちる。湖でキスしたときは、仕方なくそうしただけで、感情なんてなかった。けれど今は、胸の奥で子猫がひっかくようにざわめいていた。彼はゆっくりと顔を近づけた。しかし動く前に、星乃の方が手を伸ばし、彼の眼鏡を外した。そのまま首に腕を回して――勢いよく唇を重ねた。温かく柔らかな感触が胸の中に落ちてきて、律人の瞳が一瞬、強く揺れる。三分ほどして、ようやく二人は唇を離した。星乃は荒い息をつき、濡れた髪が頬にはりついていた。その水気が湖のものなのか、汗なのかももう分からない。悠真は滅多に彼女にキスをしなかった。もししても、顔を隠して侮辱するようなやり方ばかりだった。だから星乃は知らなかった。キスって、こんなにも息が苦しくて、こんなに長く感じるものなんだと。息が切れて、ほんの少し、死ん
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第197話

花音は悠真に呼ばれて休憩室へ向かったとき、あまりに突然のことに少し驚いた。部屋へ入ると、悠真の表情は氷のように冷たく、結衣の顔色もよくなかった。胸の奥がきゅっと締めつけられる。――こんな空気、ずいぶん久しぶりだ。昔、悠真と結衣がまだ別れていなかったころ、二人はたまに言い合いをしていた。回数は多くなかったけれど、喧嘩のあとはいつもこんな息苦しい空気になっていたのを思い出す。何があったんだろう?また喧嘩でもした?そんなはずない。最近は二人ともすごく仲が良かったのに。けれど、花音はすぐにその理由に思い至った。――星乃。きっと、また彼女のことだ。でも、呼ばれた理由は何?考える間もなく、悠真が切り出したのは、以前彼女が薬を盛られた件だった。思いもよらない質問に、花音は一瞬言葉を失った。どうして今になって、その話を?視線を結衣へ向けると、結衣がどうしてこの件を悠真に話したのか、まるで見当がつかない。女の子にとっては、できることなら触れたくない出来事だ。佳代も気を遣って、彼女の父・雅信には何も言わなかったくらいなのに。花音の視線を受けて、結衣はそっと彼女の前に立ち、手を握りしめた。「花音、ごめんね。あのこと、どうしても許せなかったの。何もなかったふりなんて、私にはできなくて……だから、あんなことをしてしまったの」そう言って、結衣は星乃を水草の中へ突き飛ばした一件を、短く説明した。花音はようやく事情を理解した。結衣が自分のためにやったと知って、胸の奥がじんと熱くなる。「結衣さん、そんなことまでしなくてよかったのに……逆に星乃の思うつぼになっちゃうよ。あの人、私とお兄ちゃんを離そうとしてるんだから」星乃に惑わされている兄を思い出すと、どうしても苛立ちが込み上げる。正直、兄が彼女をどう思っているのか、もうわからなかった。「本当に星乃の仕業なの?」と悠真が問いかけた。花音はむっとして顔をしかめた。「お兄ちゃん、星乃にどれだけ騙されてるの?今度は自分の妹まで疑うの?私が彼女を陥れようとしてるとでも思ってるの?」悠真は、花音が星乃を嫌っていても、こんなことで嘘をつく子じゃないことは分かっていた。けれど、どうしても納得がいかない。「彼女がそんなことをする理由は?」「決まってる
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第198話

今夜、ホテル全体が冬川家によって貸し切られていた。上の三階は一般の客向けのラウンジで、それより上の階は、各家族ごとに個別の控室が用意されている。冬川家の控室は最上階にあった。悠真が星乃のために用意したドレスも、その部屋のひとつに置かれている。エレベーターで上がり、扉が開くと、星乃はすぐに遥生の姿を見つけた。彼は廊下の壁にもたれ、両腕を胸の前で組み、一方の手で肘を支えながら、もう一方の親指を唇に当て、軽く噛むようにしていた。こんな遥生を見るのは、ずいぶん久しぶりだった。昔も、難しい問題に直面したときや、人付き合いで緊張するとき、彼は決まってこの仕草で気持ちを落ち着けていた。――何かあったのだろうか。星乃が声をかけようと一歩踏み出したとき、遥生は何かを決心したように手を下ろし、その場を離れてエレベーターへと向かった。そして顔を上げた瞬間、ふたりの視線がぶつかった。目が合ったまま、遥生の足が一瞬止まる。「UMEで何かあったの?」星乃が尋ねる。「いや、何も」遥生は短くそう答えると、星乃の濡れた服に目を留めて眉をひそめた。「その格好、どうしたの?」星乃は視線を落とし、自分の服がすっかり濡れているのに気づいた。けれど、彼の前でみっともない姿を晒すのは、もう慣れてしまっている。彼女は隠すことなく、さっきの出来事をそのまま話した。悠真との離婚のこと、彼が突然指輪を投げ捨てたこと、結衣に突き落とされかけて、律人に助けられたこと――すべて。「でも、たいしたことにはならなかったよ。私は無事だし、母の形見もなくしてない」星乃は手の中の指輪をぎゅっと握りしめながら言った。思い返すだけで、まだ少し震えが残っていた。遥生はその指輪に視線を落とし、少しの間黙ったあと口を開いた。「それ……おばさんの形見なの?」星乃は頷いた。その瞬間、遥生はすべてを理解した。――悠真から贈られたものではない。――他の誰かのものでもない。胸の奥でかすかに安堵が広がったのも束の間、ふいに思い出したのは、さっきロビーで見た光景だった。「さっき、律人と一緒にいるのを見たんだけど……」彼は言葉を探すように少し間を置いた。星乃はすぐに意図を察した。もともと、いずれ話すつもりではあった。だから彼が切り出したのを機に、素直
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第199話

怜司はグラスを口に運び、わざと意味ありげに言った。「それがね……」怜司がわざと間を伸ばすと、周りの数人が一斉に耳を傾けた。「離婚はすると思うけど、いつどうやってするかは悠真次第だな」つまり、彼にもわからないということだ。全員が同時に「なーんだ」とため息をつき、白い目を向ける。「悠真とお前に仲がいいのに知らないってことは、まだ離婚できてないんだな」誰かがそう言ってから続けた。「でもさ、離婚するかどうかなんて、もう悠真の意思だけじゃ決まらないんじゃない?」「どういう意味だ?」誰かが興味深そうに尋ねると、さっきの男は声をひそめた。「だって、登世おばあさんはあんなに星乃のことを気に入ってるだろ?登世おばあさんが許さない限り、悠真が勝手に離婚できるわけないよ。それに登世おばあさん、もう七十歳だし……」周りを一度見回して、聞かれていないのを確かめると、さらに小声で続けた。「悠真は、登世おばあさんが亡くなるまで待つつもりなんじゃないか?」沈黙が落ちた。言葉こそひどいが、考えてみれば妙に筋が通っている。怜司もハッとしたように目を見開いた。最近、悠真に離婚のことを探りを入れても、いつもはぐらかされるばかりだった。一時はもう離婚する気がないのかと思っていたが、少し前に結衣から「悠真にダイヤの指輪を贈られた」と聞いた。それでようやく確信した。気持ちはまだ結衣にある。だが、それならなぜ離婚しないのか――その理由がようやく見えてきた。確かに、登世は二人の離婚を止めている最大の壁だった。しかも悠真は昔から登世を心から敬っている。彼女を悲しませるようなことは絶対にしない。「でも、いつまで待つつもりなんだ?」誰かが問う。「待つしかないさ。あと数年ってとこだろ」そう言った男が小声で笑う。怜司はグラスを置いた。彼は登世の健康診断の結果を見たことがある。確かに体は強くないが、命に関わるほどではなかった。十年、いや二十年は生きられるだろう。――それってつまり、悠真は十年以上も結衣と結婚できないってことか?「じゃあさ、おばあさんが離婚を認めるようにする方法ってないのか?」怜司が尋ねると、男はにやりと笑い、怜司の肩を軽く叩いた。「怜司、いい質問だ。実はさっき、ちょっと面白いものを撮っちゃったんだ。見るか?」星乃
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第200話

周囲の視線が、一斉に星乃へと注がれた。驚き、動揺、そして羨望……星乃は、全身に刺さるような無数の視線を感じ取った。一瞬だけ動きを止めたが、考える間もなく、悠真の低く落ち着いた声が、ふたりだけに聞こえるような小さな音量で届いた。「終わったら、控室で待っていろ」その言葉に返事をする間もなく、悠真はもう背を向け、結衣のいる方へと歩き出していた。人々の注目を集めながら、恥じらいを浮かべる結衣の手を取って、会場の中央の円形ステージへと進む。その光景に、周囲の人々の顔には「やっぱりね」と言わんばかりの表情が広がり、ざわざわと囁き声が飛び交った。ときおり悠真と結衣の方を見ては、また星乃に視線を戻した。「最初から悠真はこの結婚に反対してたし、毎年のように結衣を探してたんでしょ。結衣が戻ってきたなら、そりゃ彼女を選ぶに決まってるわ」「でもさ、さっき星乃のところに行ったのはなんで?」「まずは恥をかかせたんじゃない?自分の『本命』が五年間も外で苦労してたのは、あの人のせいなんだから」「かわいそうに」「どこが?あの結婚だって、もともと他人の婚約を壊して手に入れたものでしょ。自業自得よ」「……」星乃はそんな聞き慣れた皮肉の声を無視して、手元のデザートを口に運んだ。人間だから、もちろん何も感じないわけではない。胸の奥に小さな痛みはあった。昔は、こういう言葉を聞くたびに立ち直るのに時間がかかった。けれど、何度も経験してきたせいか、それとももう気にしなくなったのか。一口デザートを食べ終える頃には、気持ちはすっかり落ち着いていた。周囲の人たちは、誰もが「修羅場」を期待していた。夫に裏切られた妻が、怒りや悲しみで取り乱す姿を見たい――そんな好奇心で息を潜めていた。だが、一分経っても星乃は黙々と食べ続けている。その姿に、「強がってるだけじゃないか」と思いながら、さらにもう一分見守る。星乃はデザートを食べ終え、ようやく立ち上がった。「始まるぞ……!」誰かが小声で囁いた瞬間、周囲の空気がぴんと張り詰めた。視線が一斉に星乃へと注がれる。隣の人を肘で突き、見逃すなと促す者もいる。そのとき、悠真もまたざわめきを耳にして、思わず顔を向けた。星乃がこちらに向かって歩いてくるのが見えて、眉をひそめた――まさか騒ぎを起
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