彼女しか救わなかったから、息子が死んでも泣かないで のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

100 チャプター

第81話

結衣は星乃を上から下まで見下ろし、嘲るように言った。「星乃、この前、冬川家で見たでしょ?悠真の心には、もうあなたなんていないのよ。それなのにまだ、そんな手を使って近づこうとするなんて……」「もうやめたら?そんな小細工、悠真には嫌われるだけよ」星乃はわざわざ弁解するつもりもなく、淡々と答えた。「言ったはずよ。ちゃんと身を引くつもりだって」だが結衣は、まるで信じていない様子だった。星乃は彼女の態度など気にも留めず、そのまま立ち去ろうとする。すると結衣がバッグから一枚の紙を取り出し、彼女の前に差し出した。「それでもまだ、悠真の気持ちに少しでも期待してるなら……これ、見てみたら?」星乃はその紙を受け取り、目を通す。それは自分の入社申請書だった。すぐに目に飛び込んできたのは――給与欄に記された「15万円」という、まるで皮肉のような数字だった。「冬川グループにいるただの警備員でも、月給30万円はあるわよ?新卒のインターンでさえ、最低25万はもらってるのに」そう言って、結衣は唇を押さえながらクスッと笑った。「それにくらべて、私は少し前に冬川グループの子会社に入って、悠真から提示された年収は1200万。それに会社の株までついてるの」「――これが、どういう意味か分かる?」星乃の給与明細を見つけたのは、偶然だった。最初は冗談かと思ったが、署名欄にはしっかりと冬川グループの社印が押されていた。つまり、本気で彼女を月給15万円で雇うつもりだったのだ。結衣が嬉々としているのを見ても、星乃は特に表情を変えることなく、静かに言った。「つまり、あなたの年収1200万の仕事は、もうすぐ消えるってことね」結衣の顔が一瞬で強ばった。「……今、なんて言った?」「冬川グループには、給与情報を外部に漏らすのを禁じる規定がある。あなたは今、そのルールを破ったのよ」星乃は手にした入社書類をひらひらと揺らしながら続けた。「これは重大な規則違反。解雇対象になるって、知ってるわよね?」結衣の顔から、みるみる血の気が引いていった。指先をぎゅっと握りしめる。だがすぐに何かを思い出したように、落ち着いた表情を取り戻す。「ふん、そんなことで私がビビると思ってるの?悠真が、あなたの言うことなんか信じるわけないじゃない」「じゃあ、録音があっ
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第82話

結衣は自分の言動が悠真の反感を買うのではないかと、内心ひそかに不安を覚えていた。唇の端にひきつった笑みを浮かべ、そっと手を引く。「悪気があって言ったわけじゃないの。ただの忠告よ。気に入らないなら、これでやめにするわ」そう言い残して、結衣は踵を返し、その場をあとにした。星乃は、誇り高く自信に満ちたその背中を見送りながら、ふっと苦笑を漏らす。――ああいうのが、「余裕」ってやつなんだろう。彼女にはわかっていた。この録音を悠真に送ったところで、何の意味もないことくらい。悠真は結衣を盲目的に信じきっている。どれだけ甘やかしているかも、痛いほど知っていた。たとえこの録音を聞かせても、心が揺れるような相手じゃないし、たとえ彼の目の前で結衣が挑発してきたとしても、せいぜい口先で注意するふりをするだけで、本気で咎めることはない。だから、この録音に何かを期待していたわけじゃない。ただ――もうこれ以上、邪魔しに来ないでほしいと、それだけを願った。そろそろ時間も遅い。星乃がタクシーを呼んでUMEへ戻ろうとした、そのとき。悠真から電話がかかってきた。悠真は、機嫌が悪いと料理に文句をつけたり、温度が気に入らないと温め直しを命じたり、ときには何も言わずに料理を下げさせることもあった。今日も、スープに何か言いたいのかもしれない。星乃は少しだけ迷ってから、電話に出た。――これはおばあちゃんが作ったスープだって伝えて、自分で飲むかどうか決めてもらえばいい。そんなふうに考えていた。けれど、電話口から響いてきたのは、想像と違う冷えきった声だった。「前に冬川家で結衣をいじめたときの足の怪我、まだ治ってないのに……どうしてまた彼女にひどいことをする?」非難の言葉に星乃は思わず固まった。「……私は、何もしてない」無意識にそう答えると、悠真は嘲笑を含んだ声で言った。「言い逃れか?顔を上げてみろ」言われるままに顔を上げると、目の前には冬川グループのビルが、空を突くようにそびえ立っていた。一瞬、目眩がしたその中で、彼女は最上階の大きな窓辺に立つ、威圧的な影を見つけた。その頃、悠真は社長室の大きな窓の前に立ち、冷たい眼差しで星乃を見下ろしていた。先ほど受付の人が言っていた。星乃が会社に食事を届けに来て、料理を置いたらすぐに帰ったって。
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第83話

「別に怒るようなことじゃないわ」星乃は淡々とそう言った。次に会うのがいつになるのかも分からない。あと二十日もすれば、離婚届の処理が正式に完了し、悠真とは完全に赤の他人になる。もう会う必要すらないかもしれないのだ。そんな起こるかどうかわからないことで、いちいち腹を立てる必要はない。「もう他に用がないなら、切るわね」星乃は静かにそう言った。その口調に苛立ちを感じなかったせいか、電話越しの悠真も、少しずつ怒りの熱を冷ましていく。「謝罪の件はもういい。今夜、別荘に寄ってくれ」「ごめん、今夜は予定があるの」「どんな予定だ?」悠真は問いかけた「……仕事の予定よ」少し間を置いて、星乃はそう返した。その言葉に、悠真は数日前に誠司から聞いた話を思い出す。星乃が冬川グループからのオファーを断り、他の会社に移ったという件だ。彼はなんとなく不快な気持ちになり、言葉に皮肉を込めて言った。「そうか。なら、好きにすればいい」そう言って、彼は一方的に通話を切った。星乃には、彼が怒っているのがはっきり分かった。けれど、かけ直して宥める気にはならなかった。そのままタクシーを拾い、UMEのオフィスへと戻った。午後、星乃はまず遥生に社員たちの好みや習慣を聞いてから、それを参考にみんなに甘いものを差し入れした。注文したお菓子や飲み物をひとつずつ手渡すと、同僚たちはそれぞれにお礼を言い、先日のような冷たい態度は見られなくなった。その時、智央が一歩前に出て、自分の分のお菓子を彼女の机に戻し、皮肉な笑みを浮かべながら言った。「星乃主任、仕事にもっと力を入れたほうがいいですよ。賄賂なんて、うちでは通用しないから」そう言い終えると、意味ありげにまわりを見回した。そして無言で自席へと戻っていった。一言も発さなかったが、同僚たちは皆、智央の意図を察していた。わずか数十秒後、ひとりの社員が立ち上がり、同じように自分の分を戻してきた。何も言わずに、それだけして立ち去る。その行動に続くように、他の社員たちも次々と自席を立った。中には気まずそうな顔をして、星乃に小声で謝る者もいた。「ごめんなさい、甘いもの苦手で……」「今ダイエット中なの」「この時期は冷たいものは控えてて……あの……常温でもダメで……」「……」そして、星
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第84話

やがて、お菓子や飲み物がそれぞれに行き渡った。遥生は、最後に残った智央の分を手に取り、彼のオフィスへと歩いていった。ドアに入る前に、星乃の方を振り返り、そっと慰めるような視線を送った。ブラインド越しに気配を感じ取った智央は、遥生が入ってくると、あからさまに不機嫌な態度を見せた。彼は遥生の手にあるお菓子と飲み物のセットを一瞥し、皮肉たっぷりに言った。「社長、俺には持ってこなくていいですよ。いらないんで。俺は他の奴らみたいに、甘いもので買収されるタイプじゃないですから」遥生は軽く「あっ」と言って、ストローで封を破り、タピオカミルクティーをひとくち吸い上げた。もちもちとタピオカを噛みながら、くぐもった声で言う。「最初から、君にあげるつもりなんてなかったけど?」智央「……」遥生は何とも言えない表情で彼を見た。「自意識過剰すぎじゃない?世の中のすべてが、君の想像通りに動いてると思わないほうがいい」智央「……」遥生はさらに意味深な口調で続ける。「僕もね、前は甘いものなんて苦手だった。でも一口食べてみたら、案外悪くなかったの。智央監督も、UMEの技術中枢を担ってるんだから、新しいものを受け入れる柔軟さがあってもいいんじゃない?」そう言い残して、遥生はミルクティーを片手に背を向け、すっとその場をあとにした。智央は、怒りと困惑の入り混じった気持ちでその背中を見送った。遥生の言いたいことはわかっている――星乃を受け入れて、もう敵対するのはやめろということだ。だが、どうしても納得がいかない。新しい技術の導入なんて、熟練者である自分ですら、定着に半年はかかる。それなのに、五年間も主婦をしていた星乃が、「一ヶ月以内」なんて平気で言ってのける。そんな大言壮語、信じるのは遥生ぐらいだ。考えれば考えるほど腹が立ち、智央は手にしていたペンを力任せに床に叩きつけ、立ち上がって実験室へと向かった。一方で、遥生が去った後も、誰一人としてお菓子や飲み物を返そうとはしなかった。やはり、遥生の顔を立てる者は多いのだ。智央と星乃の間に確執があるのはみんな知っている。だが、遥生が彼女の後ろ盾になるなら、話は変わってくる。さっきまでは智央に配慮して断っていたが、今返したら逆に遥生と星乃を敵に回す。その空気を察してか、みな一様に気ま
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第85話

正隆は酒を一口飲み、穏やかな笑みを浮かべて答えた。「ちゃんと聞いてあるよ。遥生くんは来るさ」前に空港で、美優が遥生に一目惚れしたと知って以来、正隆は彼の動向をこっそり調べていた。そして、遥生が瑞原市の水野家の人間だとわかるや否や、本気で関心を持つようになった。ところがその後、彼が七年前に水野家と縁を切って独立していたと知ったときは、さすがにがっかりした。もともと水野家と篠宮家は親しい間柄だったが、ある誤解をきっかけに疎遠になっていた。正隆としては、遥生を通じて再び水野家との縁を取り戻したかったのだが――そう簡単にはいかなかった。それでも、彼が水野家の血を引いていることに変わりはない。まだチャンスはあるはずだ。そんなとき、隣にいた綾子も美優に優しく声をかけた。「心配しないで。お父さんの言うことなら、百二十パーセント間違いないわ。もう少しだけ我慢して?」だが、美優の表情は曇ったままだった。そんな空気の中、また一人の男が正隆に酒を注ぎにやってきた。だが、その視線はまるで接着剤のように美優から離れず、じろじろと舐め回すように見つめていた。「正隆さん、このお嬢さん、あなたの娘さん?いや、綺麗だなぁ。この顔立ち、スタイル……芸能人なんかよりずっと美人だね」いやらしい目つきで美優を見つめながら、その男はにやにやと笑う。美優は思わず吐き気を覚えた。綾子も不快さを隠せず、美優をそっと背にかばった。だが正隆はというと、男の言葉をすっかり真に受けたのか、上機嫌で大笑いしていた。「いやいや、幸三社長、それは褒めすぎですよ」田島幸三(たじま こうぞう)は目を細めながら、さらに踏み込んで聞いてきた。「ところで娘さん、ご結婚は?」正隆は首を横に振った。「いえ、まだです。美優は今、大学に通ってましてね」「大学生か、それはいい。若いって素晴らしいなあ」そう言いながら、幸三社長の目はますますいやらしく光り、美優の前に酒を差し出した。「お嬢ちゃん、俺と一杯どう?」「構いませんよ、幸三社長」正隆は即座にそう返した。その瞬間、美優は怒りに満ちた声で言い返した。「お父さん、私、嫌よ!」綾子も眉をひそめて正隆の腕をそっと引っ張ると、すぐに表情を整え、上品な笑みを浮かべて口を開いた。「美優はよまだ成人したばかりで、お酒に慣れていないん
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第86話

髪は丁寧に結い上げられ、白いうなじがひときわ映えていた。その所作のひとつひとつに、育ちの良さがにじみ出ている。だが、その顔を目にした瞬間、美優は怒りで奥歯を噛みしめた。――星乃。なんで、あの女がここに?悔しさを飲み込んで何か言おうとした美優だったが、ふと見ると、正隆の視線は星乃に釘付けになっていた。しかも、その目には複雑な色が浮かんでいる。それは正隆だけではない。そこにいた男たちの視線も次々と星乃へと向けられていた。さっきまで美優にしつこく酒を勧めていた幸三でさえ、まるで魂を奪われたかのように星乃を見つめていた。手にしていたグラスも傾き、ワインがテーブルに滴り落ちる。美優の怒りは頂点に達していた。星乃の存在が自分の注目を奪ったことも腹立たしかったが、何よりも許せなかったのは、彼女が遥生の隣に立っていることだった。――あの女、自分がもう悠真の妻だってこと、忘れたの?怒りに駆られた美優は、綾子に向かって低い声で詰め寄った。「ねえ、お母さん。あの女、あんな堂々と……」しかし、その言葉を遮るように、綾子は人差し指を唇に当てて静かに合図し、そのまま前へと出ていった。傾いたグラスをそっと元に戻しながら、優しく笑みを浮かべる。「幸三社長、あちらにいるのが私の長女、星乃です。いかがでしょう?」幸三は名残惜しそうに唇を舐め、呟いた。「瑞原市に、あんな美人がいたとは知らなかったな……」そう言いながら、わざとらしく正隆の方を見やる。「正隆社長、あんなに美しい娘さんがいるなんて、なぜ今まで紹介してくれなかったんだ?」ようやく我に返ったような正隆だったが、まだどこか呆然としていた。――確かに、あの瞬間、彼には星乃が自分の娘だとは、すぐにわからなかった。記憶にある星乃は、いつも控えめでおとなしく、隅っこにいるような存在だった。今日のように華やかな姿を見るのは、おそらく初めてだった。――まるで、星乃の母親が生きていた頃のようだ。そんな思いが胸をよぎったとき、綾子がにこやかに続けた。「こちらの不手際ですわね。もしご興味がおありでしたら、ご紹介いたしましょうか?」幸三は満足げに顔をほころばせた。「ぜひ、お願いしたい」一方その頃。星乃は部屋に入った瞬間から、周囲の視線を敏感に感じ取っていた。まるで全身を見透かさ
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第87話

律人が海外にいた頃、すでにこんな話を耳にしていた。かつて従兄の白石圭吾(しらいし けいご)が婚約者の沙耶と結婚間近だったとき、星乃が裏でこっそり沙耶を助け、見事に駆け落ちを成功させたというのだ。この一件で圭吾は激怒した。怒りの矛先は星乃だけでなく篠宮家全体にまで及び、その圧力で篠宮家は立ち直れないほどに追い詰められた。それでも星乃は、沙耶の行方を頑として明かさなかった。「ねぇ、姉さん。もし僕が彼女を口説き落とせたらさ、圭吾さんが知りたいあの答え、聞き出せるんじゃない?」律人はにやにやしながらそう言った。美琴は眉をひそめ、真剣な口調で返す。「ふざけないで。彼女はもう悠真の妻なのよ」「知ってるよ。でもさ、もうすぐ離婚するって話じゃなかった?」「ダメなの。どうであれ、星乃は今、悠真の妻なの。あんた、帰国したばかりで瑞原市の事情を何も分かってない。勝手なことはしないで」その言い方は、ほとんど命令のようだった。それを察した律人は、美琴が少し不機嫌になっていることに気づき、すぐに両手を挙げて降参のポーズを取り、にこやかに言った。「分かった、分かった。姉さんの言うこと、ちゃんと聞くよ」その言葉を聞いて、美琴はようやく黙り、静かに階段を降りていった。律人は、彼女の背中を見送ったあと、再び視線を階下に移す。そこには人々と談笑している星乃の姿があった。その切れ長の瞳が、ふと妖しく光る。瑞原市の事情を知らないから軽率だ、か。なら、事情を知ったら、それはもう「軽率」とは言えない。たかが女一人。律人はこれまで、数多くの女性と関係を持ってきた。どんなタイプであっても、落とせなかったことなど一度もなかった。そんな過去の栄光と自信を思い出すと、彼の唇がゆっくりと吊り上がり、挑むような笑みを浮かべた。……チャリティーパーティーの会場に入った後、星乃と遥生はあらかじめの打ち合わせ通り、別行動をとることにした。遥生は水野家との関係が少しギクシャクしており、すでに独立して自分の事業を立ち上げてはいたが、それでも彼は水野家の一員。顔なじみの人たちが次々と挨拶にやって来る。一方の星乃は、悠真との結婚をめぐり、世間から陰口を叩かれていたうえ、普段から顔を出すことはほとんどなかった。しかも今日は、これまでの印象とはまるで違う雰囲気で現
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第88話

男は優雅な仕草で、彼女の動きをそっと制した。「大丈夫ですよ。そんなに緊張しなくていいです。僕も声をかけなかったからね。」そう言いながら、彼はスーツ脱いだ。星乃がふと顔を上げると、ようやくその男の顔が目に入った。整った顔立ちに、金縁の眼鏡がかかった高い鼻筋。落ち着いた気品と温かみのある雰囲気を、全身に自然にまとっている。まさに紳士という言葉がぴったりな人物――けれど星乃は、その目を見つめながら、外見とはどこか噛み合わない内面の気配を感じていた。「白石律人です」彼女の視線に気づいたのか、男はにこやかに笑いながら手を差し出した。白石家の人?星乃の動きが一瞬止まる。すぐに気を取り直し、彼女も手を差し出して軽く握手を交わした。「星乃です」律人は笑みを深めた。「星乃さんの噂は以前から耳にしていました。お会いできて光栄です。瑞原市や海外で数多くの美女を見てきましたが、星乃さんはその中でも際立って印象的でした。とても自然体で、思わず近づきたくなる魅力があります」彼の口調は実に誠実だった。その言葉も、お世辞とは思えなかった。星乃の顔立ちは澄んだ白い肌に、整った彫りの深さがあり、目を引く美しさがあるのに、それをひけらかすようなところは一切ない。今日のドレスともよく合っていて、彼女の魅力をいっそう引き立てていた。大胆さの中に漂う控えめな優しさ――その二面性が不思議なバランスで溶け合って、一人の女性としての魅力に昇華されていた。律人はこれまで数多くの美しい女性を見てきたが、星乃には思わず見惚れてしまうような特別さがあった。「ありがとうございます」そう返すと、星乃は彼の腕にかけられたジャケットに目をやった。「……口座番号を教えてください。クリーニング代、あとでお振り込みします」クリーニング代のことを考えると、心のどこかが少し痛んだ。見るからにオーダーメイドの一着で、家庭で洗えるような代物ではない。けれど律人は、また柔らかく微笑んだ。「クリーニング代なんて結構ですよ。スーツを濡らした相手がこんなに美しい方だったなんて、むしろ光栄なことです」その言葉には、少し冗談めいた軽さがあった。こうしたことは、かつて他の御曹司たちからも言われたことがある。――けれど、律人の口から出ると、不思議と嫌な感じがしなかった。
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第89話

二人は並んで座席へと移動し、腰を下ろした。律人はまずワインをひと口含み、満足そうに小さくうなずいた。「……やっぱり、美人が目の前にいると、ワインの味もずいぶん甘く感じますね」星乃「……」「さて、本題に入りましょうか」星乃が口を開いた。「三つの理由って、なんですか?」律人はようやく真面目な表情になり、言葉に重みを込めた。「まず一つ目です。星乃さんは瑞原市のご出身ですよね。なら、この街の事情もよくご存じのはずです。さっきずっと資金提供を得られないのは、冬川グループの影響です。あれだけの影響力を持つ家に、UMEが協力を拒んでいる限り、今後も出資を得るのは難しいでしょう」星乃はすぐさま反論した。「瑞原市で無理なら、他の都市に行けばいいです。それに、海外という選択肢だってあります」毅然とした眼差しを向ける彼女を見て、律人はふっと笑った。「いいですね。じゃあ仮に、他都市でUMEに出資してくれる企業が見つかったとして……その企業があとから冬川グループの存在を知ったら、どうします?彼らの影響力を恐れて、途中で資金を引き上げるかもしれません。そうなったら、どうなると思います?UMEの研究は、一度動き出したら途中で止めるのは簡単じゃないです。そのときに被る損失は、今よりはるかに大きくなりますよ」その言葉に、星乃は口をつぐんだ。彼女も、それはわかっていた。権力の怖さとは、まさにそこにある。悠真は決して器の小さい男ではないし、根に持つタイプでもない。けれど、冬川グループの持つ影響力は、あまりにも大きかった。かつて彼の友人が、彼のために星乃を敵視したように。他の企業だって、悠真の機嫌を損ねたくない一心で、UMEから手を引くこともあるだろう。星乃がどれだけ正しくあろうと、UMEの運営がどれほど健全であろうと――冬川家に逆らった瞬間、「間違っている」とされるのは、自分たちのほうだった。安定した出資を得たいなら、冬川家を恐れず、あるいは抗える力を持つ企業と手を組むしかない。そんな彼女の思考を見透かしたように、律人が微笑んだ。「僕は白石家の人間です。白石家と冬川家の関係が悪いのは、ご存じでしょう?だからこそ、冬川家に報復されることなんて怖くありません。出資も、途中でやめたりはしませんよ」「……白石家の方なんですよね、投資の決定権をお
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第90話

星乃は遠回しな言い方はせず、率直に訊いた。「悠真を敵に回すの、ほんとうに怖くないんですか?」律人は、ますます明るい笑みを浮かべた。「こんな綺麗な女性を守れるなら、怖いものなんてありませんよ」「……」星乃は言葉を失った。この人はいつも、ちゃんとした話ができるかもと思わせておいて、突然、信用できない雰囲気を漂わせてくる。でももう無理だと思った頃には、また彼の一言が妙に気を引く。もっといろいろ訊いてみようかと思った矢先、ちょうどチャリティーパーティーの本編が始まった。周囲の人々が次々と隣のオークション会場へと入っていく。律人も立ち上がった。「僕はちょっと用事があるので、これで失礼します。すぐに返事をしなくていいので、じっくり考えてください。決まったら、また連絡してくださいね」そう言って、彼は品のある仕草で立ち去っていった。その背中を見送りながら、星乃は少し考え込み、スマホを取り出して律人の情報を検索した。そしてすぐにわかった。律人は、彼女が思っていたような白石家の傍系ではなく、本家筋の人間だった。現当主の次男として生まれた、れっきとした本家の血筋だったのだ。ここ数年は海外で活動していたため、国内ではあまり知られていないが、星乃はある記事を見つけた。律人が十八歳のとき、白石家一族が総出で海外に渡り、彼の成人祝いを盛大に行っていたのだ。それだけでも、彼がどれほど大切にされていたかがよくわかる。この視点で見れば、律人は悠真の他にもう一人、頼れる出資者として申し分ない人物だった。もちろん、星乃は悠真と対立したいわけではない。ただ、自分の将来の道を選ぶうえで、もう冬川家に縛られるような生き方はしたくなかった。そう思い至り、星乃は立ち上がってオークション会場に向かおうとしたが、ふと遠くの会場内に、見覚えのある人影を見つけた。「……なんで、彼女が?」困惑しつつ近づこうとした瞬間、不意に誰かの手が肩に触れた。しかもその手は、あえて露出していた肩口をなぞるように触れてくる。ゾクリと悪寒が走り、星乃はとっさに身を引いて距離を取った。目の前にいたのは、少し腹の出た中年男性。にやにやと目を細めて彼女を見つめている。「おや、星乃さん。そんなに急いで、どこへ?」「あなたには関係ないと思いますけど」相手に見覚えはな
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