All Chapters of 恋の味ってどんなの?: Chapter 71 - Chapter 80

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番外編 第二話

 私の仕事は、俗に言う風俗だ。 ――といっても、いわゆるお店に出て客を取るタイプではない。 私は個室の中で、ただパソコンの画面越しに男の人たちと話す。それだけ。 ……本当に「それだけ」なのかは、今となっては疑わしいが。 思えば、あの日の軽率なクリックが始まりだった。 前の結婚生活では専業主婦だった私。 家事と育児だけで一日が過ぎ、誰かと話すことも、鏡を見ることすら少なくなっていた。 そんなある日、何気なくスマホを眺めていたときに目に留まった広告――「こっそり副収入」「完全在宅」「顔出しなし」 鮮やかなピンク色のバナーに小さく書かれたその言葉に、指が止まった。 お小遣いが少し増えたら、自分の欲しいものが買える。 美容室に行って、服も買って……。 夫には秘密で、こっそりやればいい。 ――そんな甘い考えが胸をよぎり、私は迷わず広告をタップした。 指定された登録会場は、駅から少し離れた雑居ビルの一角だった。 エレベーターを降りて案内された事務所は、思った以上に明るく清潔感があった。 もっとこう、裏社会の匂いがするような空間を想像していた私は、肩透かしを食った気分で受付に座った。「こちらで登録会を行いますね。お名前と簡単なプロフィールを……」 柔らかい物腰の女性スタッフに誘導されるまま、個室の並ぶ廊下を進む。 廊下の壁には白いペンキが塗られ、ほんのりアロマの香りが漂っていた。 ドアにはそれぞれ番号が振られており、小さな撮影スタジオのようにも見える。「お仕事の内容はですね、パソコンの前に座って男性とオンラインでお話ししていただきます。顔は出さなくても大丈夫ですよ」「……話すだけ、ですか?」「はい。それだけです。服装やメイクは自由ですし、ウィッグやコスプレもあります。お顔を見せない方も多いですよ」 話すだけ――そう言われても、どこか腑に落ちなかった。 けれど、スタッフの女性はにこやかに微笑み、「さぁ、どうぞ」と部屋を案内してくれた。 案内されたのは、まるで女の子の部屋のような可愛らしい内装の個室だった。 淡いピンクの壁紙、フリルのついたクッション、丸テーブルの上には造花が置かれている。 そこだけ異世界のようで、現実感が薄れる。「うーん……でも、さくらさんはもっと大人っぽい雰囲気の方が似合うかもしれませんね。こっちの和室を
last updateLast Updated : 2025-09-10
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番外編 第三話

 今思えば、あの頃の私はまだ何も知らない、小さな世界で生きている女だった。 今ではもう、目の前の画面に映るものを「ただの映像」として処理できるようになったし、見たくもないものに対しても心の奥に無理やり鉄のシャッターを下ろす術を覚えた。相手を観察して、声のトーンを合わせ、時には軽口を叩いて彼らを楽しませる。そんな器用なふるまいをしている自分を、時折、別の誰かのように感じることすらある。 でもあの頃は――まだうぶだった。画面越しに突然さらされる男たちの生々しいものに驚き、戸惑い、逃げ出したくなった。けれど今は、その一つ一つを冷静に眺め、笑顔を貼りつけて値踏みするくらいの余裕すらある。慣れた、というのは恐ろしいことだ。人はここまで順応できてしまうのかと、自分に戦慄する瞬間もある。 ただ、それでも救いのような時間もあった。 中には何も求めず、ただ世間話をしたがるだけの男性たちもいた。「最近寒いですね」「今日の仕事、疲れたな」――そんな、近所のコンビニ店員と交わすような軽い会話に、彼らは安心し、私もまたほっとすることがあった。女子校育ちで、元彼は数人、夫以外の男をよく知らなかった私には、それはむしろ社会勉強になった。 世の中にはこんなに色々な男の人がいるんだな、と知る時間。それが、私をかろうじて人間らしく保ってくれていた。 最初は肌を露出するだけでも頬が火照ったのに、今では一糸纏わぬ姿を晒すのも仕事の一部になった。羞恥心はいつのまにか溶けて消えた。 それが悲しいことなのか、強いことなのかはわからない。 でも――じゃないと、私たちは生きていけなかった。 「最初はほんのお小遣い稼ぎのつもりだったのに」 そう、最初は軽い気持ちだった。ほんの数時間だけの仕事で、欲しいものを買えるくらい稼げたら――それだけだった。 でも次第に、私はどっぷりとそこに浸かっていくことになる。その背景には、明確な理由があった。 ――夫だ。 もともと私は大学を出て地元でOLをしながら、小劇団で舞台に立っていた。決して華やかな劇場ではないけれど、そこで息をするように台本を覚え、誰かの人生を演じていた時間は、私にとって何よりも大切だった。 そんな私に声をかけてきたのが、劇団の先輩、橘綾人だった。舞台の上では王子様のように輝く彼に惹かれた――というよりも、当時の私は親の過干渉に疲れ果て
last updateLast Updated : 2025-09-11
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番外編 第四話

「えっ、愛知……」 「うん。三ヶ月後にはここ退去して、愛知の支社のオーナーの住むマンションに入れてもらえるらしいの」 「そうなんだ……かなり猶予もらったね」 藍里は穏やかに笑った。子どもっぽい甘えを見せることもあるけれど、わがままを言わない子だ。いや、もしかしたら、私の勝手に振り回されてきたから、我慢を覚えただけなのかもしれない――そんな風に思うと胸が詰まる。 「あんたの高校のこともあって猶予もらえたのよ」 「高校は愛知の……?」 「今、編入できるところを探してて、一校だけ返事待ち。シングルで途中からってなると、なかなか見つからないのよ」 私は努めて平静を装いながらも、胸の奥には重い塊がある。もちろん娘には私の今の仕事のことは言えない。他の仕事も探せばあるだろうが、今の収入の額を知ったら、もう後戻りできないのも事実だった。 「私、高校辞めて仕事してもいいんだよ。バイトももっといいとこ探して……」 「ダメよ。今学校辞めたら。せめて大学は出てほしいから、ママは一生懸命働いているの」 「……」 「なんかオーナーさんが言うには、一階にファミレスがあるから、そこでバイトもできるみたいよ」 「……うん、そこならいいかもね」 「今返事待ちしてる高校にも近いから。できれば二年生になってすぐがいいんだけどね……」 「いいよ、いい。無理しなくていいよ」 彼女の小さな声がやさしい。 でもその「やさしさ」が、私をさらに追い詰めることもある。 ――と、その時。 外の窓ガラスに、ぽつり、ぽつりと水滴があたりはじめた。 最初は小さな音だったのに、すぐにそれが連続したリズムになり、やがてザーッという大きな雨音が天井の上から響いてくる。 「……雨」 声が震えてきた。
last updateLast Updated : 2025-09-12
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番外編 第五話

雨の音を聞いて胸の奥がざわつく。背中を誰かに撫でられているような不快感。手のひらの温度が一気に下がり、指先から冷えていく。 朝から頭痛がしていたのも、めまいがするのも、生理が近いせいだと思っていた。でも――違う。これは雨のせいだ。 雨の匂い。空気の湿度。 それら全部が、私の中の「嫌な記憶」を無理やり引っ張り出してくる。 気がつけば、カーテンを握る手が白くなるほど強く握りしめていた。 藍里はいつの間にか部屋に来ていた。この寮にはもう5年近く暮らしている。二部屋に分かれた、風呂とトイレ付きの部屋。あの頃は「贅沢だな」と感じたけど、今ではただの生活の場に過ぎない。 ここも、もうすぐ出なきゃいけない。 愛知――岐阜の実家から少し離れているけど、決して遠すぎる場所ではない。でも、あの「家」はもうない。綾人が売り払ったと聞いた。 そのお金は養育費に充てられ、毎月振り込まれてくる。 綾人と暮らしていたときよりも、経済的にはいくらか余裕がある。でも、まだ足りない。全然足りない。 生活に必要なお金。娘の将来のための貯金。あらゆる計算が頭の中を駆け巡る。 ああ……だめだ、ネガティヴな思考は。 私はポジティブでいなきゃいけないのに。 でも、雨の音は止まらない。 雨脚は強くなり、窓ガラスを叩く音がリズムを失って暴力的になっていく。 その音に合わせて、私の呼吸も乱れていく。 「はぁ、はぁ……」 心臓の鼓動が早くなる。耳の奥でドクンドクンと音がして、目の前の景色が少し歪む。 雨は、私に過去を突きつける。 思い出したくない夜。泣きながら声を殺した日々。閉じ込められた記憶が、音に刺激されて押し寄せる。 雨の音が、声に変わって聞こえる瞬間すらある。 もっと強くなる雨。 胸の奥が裂けそうなほど痛くなる。 「……雨っ、あめっ、あめっ……あああああああっ!」 私は叫んでいた。 衝動的に居間の机を蹴り上げる。重い音を立てて机は壁にぶつかり、その瞬間、壁紙がビリッと裂けた。 ――ああ、壁紙が破れた。 雨が、頭をおかしくする。 私は膝をついて、破れた壁紙を擦る。何をしているのかわからない。補修できるわけでもないのに、ただ、手が勝手に動く。 そうだ、この部屋を出るときにチェックされてしまう。修繕費
last updateLast Updated : 2025-09-13
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番外編 第六話

まだ高校からの連絡がない。 娘・藍里の編入希望先。たった一人のまだ二年生という女子生徒が、学習の機会をこのまま失ってしまうのではないか――そんな焦燥感が胸を締め付ける。 現在通っている高校からも、早めに結論を出してほしいと急かされている。もちろんそれは分かっている。先生方も事情を理解しようとしてくれてはいるが、制度や規則の壁は高く、簡単には動かない。 ――どうか、ひとつでも「はい」と言ってくれる学校がありますように。 祈るような気持ちで、毎日スマホを握りしめてしまう。通知の音に心臓が跳ねるのも、もう何度目だろう。 その夜も仕事終わりに事務所へ向かい、面談を受けた。 疲れで肩が重く、化粧も落としたい時間だったが、休むわけにはいかない。そう答える私に、事務長の男性が面倒くさそうな顔をしながら、書類をめくりつつ口を開いた。 「まぁ……こっちで残留っていう手もあるけどね」 「……」 「正直、厳しくなるよ。ほら、下の子が増えてきてるだろ。若い子の需要ってやっぱり大きいしね」 彼は肩をすくめて笑った。 「まぁ……年上、熟女の需要はあるがなぁ」 冗談めかして笑う顔を見ながら、私は笑えなかった。 ……そう、私はもう四十を超えてしまった。 この仕事を始めたのは、生活のためだった。最初は戸惑いもあったが、今ではなんとかやっている。だが、自分でも分かっている。私を求める人は限られている。指名客が何人かいても、彼らが急に来なくなれば終わりだ。 ――いつまでこの綱渡りを続けられるのだろう。 ふと、かつて同じ職場で働いていた〇〇さんの人生が頭をよぎった。彼女はどこかで突然姿を消した。噂で聞いた話では、借金と孤独に押し潰されたらしい。私も、同じ道を辿るのだろうか。 「ちょっと今週、愛知支店に行くんだ。どうだ? 一週間ついて行ってみない?」 「えっ……」 思わず声が上ずった。 「愛知の方も競争は厳しい。でも一度は現場、入ってみるといい。視野も広がるし」 彼は軽い調子で言う。だが心の中で私はため息をついた。 この仕事はオンライン接客がほとんど。支店がどこであろうと、画面越しに客と接することに変わりはない。それでも、事務長は「愛知」という現場に私を連れていこうとする。 ――何か、裏の思惑があるのかもしれない。 そんな
last updateLast Updated : 2025-09-13
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番外編 第七話

 出張に行くことが決まり、藍里は神奈川で唯一仲良くなれたママ友の家に預けた。 あの人には本当に助けられてばかりだ。彼女もバツイチで、かつて人に救われた経験があるらしい。「だから今度は私が助ける番だよ」と笑ってくれた。 そんな彼女に甘える形で、藍里をお願いした。 娘は友達と遊べるのが嬉しいのか、文句を言わなかった。「ゲームも一緒にできるし、全然平気だよ」と笑った。その笑顔に、私は心の中で何度も謝った。 ――ごめんね。藍里。あなたには私のせいで、もう十分すぎるほど苦労をさせているのに。 でも、今は仕事を優先しなければならない。藍里を守るために、私は働かなきゃいけないのだ。 ……でも、ふと心の奥底から小さな声が聞こえた。 ――本当に、藍里のためだけなの? 頭をよぎるのは〇〇さんの姿。あの人も「子どものため」と言っていた。だけど結局は、疲れ果ててしまった。 まだ雨は降り続いていた。窓の外で、黒いアスファルトが濡れ、街灯に反射して鈍く光っている。 しかも、生理も始まったばかり。最悪だ。体が重い。パフォーマンスは確実に落ちるだろう。なのに、私は愛知へ行く。 部屋に残してきた寮の壁紙は、まだ直せていない。机の脚も歪んだまま。藍里は何も言わずに、その机で宿題をしていた。 ――もし、あのまま我慢して離婚しなかったら? 綾人と暮らし続けていたら? 今ごろ、藍里はどうなっていただろう。 私も、どうなっていただろう。 想像したくない光景が頭をよぎる。胸の奥に黒い靄が広がる。 「ダメ……」 呟きながら、私はバッグの中から薬を取り出した。 白い錠剤を一粒、舌に乗せて、水で流し込む。喉を通る感触がやけに冷たく感じられた。 大丈夫。私は大丈夫。 久しぶりに地元の近くへ行くだけ。 綾人は今、東京にいる。娘は神奈川で守ってくれる人がいる。 だから大丈夫。私はやれる。 ――そう、自分に言い聞かせながら、窓の外の雨を見つめていた。
last updateLast Updated : 2025-09-14
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番外編 第八話

 案の定、ダメだった。 初日から散々だった。 たった場所が違うだけで、こんなにも環境が変わるのか――そう思わずにはいられなかった。 愛知支店の事務所は、まず空気が違った。 個室は新築のホテルのように整いすぎていて、無機質な白い壁に囲まれた空間は「落ち着く」よりも「気を抜けない」という緊張感ばかりを呼び起こした。 壁には余計なポスターや注意書きの類もなく、照明は柔らかいのに隙がない。 スタッフたちは明るい声でテキパキと動いていて、ほとんどが若い女性だ。男性スタッフもいるが、その多くは20代前半くらいで、まるでモデルや俳優の卵みたいな雰囲気の子もいる。 ――綺麗すぎる。 神奈川の事務所はもっと雑多で、古い机や椅子が並んでいた。スタッフ同士の距離感も適当で、裏で交わされる会話はもっと生々しくて気楽だった。 だけどここは違う。お洒落なカフェのようなインテリア、スーツ姿の男性社員、香水や柔軟剤の香りが混ざった清潔な空気。 女の子たちのトーンの高い声が絶えず響いていて、まるで夢の国の裏側に迷い込んだような気分になる。 私は溶け込めず、かえって居心地が悪かった。 それは、神奈川で見慣れた事務長も同じらしい。 普段ならスタッフの肩や腰に平気で手を置いたり、セクハラまがいの軽口を叩く人なのに、ここでは誰も取り合わない。むしろ触れようとすれば、若い男性社員が自然な動きで間に入り、その手を遮る。 彼は借りてきた猫のように大人しく、私の後ろを気まずそうについてくるばかりだ。 ――いつもなら怖いのに、今日は小さく見えるな。 そんなことを思った瞬間、どっと疲れが押し寄せた。 「約束通り、美味しいところに連れていくよ」 彼の声に無理やり笑顔を作る。正直、二人きりで食事なんてしたくなかった。でもせっかく愛知まで来たのだからと、心のどこかで「もったいない」という感情もある。 本当はスタッフ用の簡素な宿泊部屋に戻ってベッドに沈み込みたかった。 出張の半分は生理と重なってしまった。薬を飲んでもだるさは消えない。パフォーマンスは落ち、体は重く、鏡に映る顔色は青白い。 あと何日、こんなふうに笑って働かなければならないのだろう。 ――でも、料亭。 滅多に行けない高級店。事務所の近くで、持ち帰りもできると聞いた。 藍里やお世話になっているママ友へのお土産を買って
last updateLast Updated : 2025-09-15
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番外編 第九話

 「ここは何回か来ててね。一見さんはダメだから。ラッキーだぞ」「ありがとうございます」 一見さんお断りの店に入るなんて、もちろん初めてだ。暖簾をくぐる瞬間、胸の奥がぎゅっと縮まる。藍里には本当にすまない気持ちでいっぱいだった。 店内は凛とした空気に包まれていた。磨き込まれた木のカウンター、規則正しく並んだ器。奥には大将と数人の板前たちが立ち働き、包丁の音や水の音が心地よいリズムを刻んでいる。普段の食堂やファーストフードとはまるで違う。見たことのない世界に踏み込んでしまったようで、背筋が勝手に伸びた。(こんな場所なら、もう少しいい服を着て来ればよかった……) 場違いな気がして、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。事務長も知っていたのなら、そう教えて欲しかった。「ビールは飲む?」 差し出された言葉に、私は一瞬ためらった。本当はお酒は控えるようにと病院で言われている。でも、「少しだけなら」と頷いてしまう。事務長と二人で食事をするのは初めてだった。これまで何度も誘われては、のらりくらりとかわしてきたのに。 五十を過ぎた男。けれど身だしなみはきちんとしていて清潔感もある。見た目だけなら嫌悪感はない。だが、口から出てくるのはセクハラまがいの言葉ばかり。 けれど不思議なことに、彼は相手を傷つけない絶妙なタイミングで褒め言葉を混ぜる。その「可愛いな」「セクシーだな」という調子に、気づけば自己肯定感がほんの少し上がっているのを感じてしまう。 悔しいけれど。 その時、一人の板前が近づいてきた。 周りに比べればまだ若い。私が普段相手にしている二十代に近い三十代、そんな年頃に見える。器を差し出す手は白く、爪も整えられ、丁寧に動いていた。「雨、すごいですよね……」 視線を彼の手元に注いでいた私は、不意に声をかけられ、はっと顔を上げた。「あ……はい、そうですね」「今週いっぱいは降るそうで」「……そうみたいですね」「お好きではないですか? 雨」 初対面でどうしてそんな核心を突くのだろう。驚きで胸がざわついた。手元から顔に視線を移すと、二重のぱっちりした瞳がこちらを見ていた。優しげで、まるで人の奥底を見透かすような目だった。「そうなのよ、この子は雨が嫌いでね。せっかく神奈川から愛知に旅行で一週間泊まりなのに残念だよ」 旅行じゃない。事務長はなぜそんなこ
last updateLast Updated : 2025-09-16
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番外編 第十話

「どうだ、あの男」 「……どうって、どうもしないです」 平静を装ったが、心臓は早鐘のように打っていた。五年もの間、画面越しに若い男たちとやり取りしてきた。だが生身の同年代の男性と真正面から話すのは、緊張でどうしていいかわからなくなる。手のひらには汗がにじんでいた。 「あの彼も君と話していて頬が赤くなっていた。それに一見である君の方しか見ていなかった。それほど魅力的な女性なんだよ。自信を持ちなさい」 半信半疑で彼の方をちらりと見やると、確かに頬が赤いように見えた。いや、照明のせいかもしれない。 「そんなことないです」 「神奈川では若いキャストが増えたけど、客が求めるのは若い子だけじゃない。君みたいに熟した美しい女性を望む人もいるんだ」 「……少ないですけどね」 「体も綺麗だし、声も色っぽい。パフォーマンスもまだ素人さが残っている分、逆に引きつけるんだ」 声のトーンを抑えているとはいえ、こんな高級な料亭で話す内容ではない。私は眉をひそめつつも、何も返せなかった。事務長は私の姿を画面で散々見ている。だから知っているのだ。羞恥を通り越して、息苦しささえ覚える。 それでも出された刺身を口に運べば、驚くほど美味しい。次々と供される料理は目にも鮮やかで、ビールとよく合う。気づけば二杯目を、先ほどの板前に注いでもらっていた。顔を上げるのが恥ずかしくて、ひたすら器を見つめる。 けれど、外の雨は一向にやむ気配を見せなかった。窓の向こうで、黒い水の幕が世界を覆っている。 その時だった。 「おい、ちょっとさぁー」 隣の隣の席から、男の声が上がった。大声ではない。だが刺すような圧と、ねちねちと続く文句の調子。背筋に冷たいものが走る。 心拍数が跳ね上がり、指先が震える。耳が拒んでも、声は確かに届いてくる。 ――そして、外で轟く雨音。 ――別の客が開け放ったドアの音の大きさ。 それらが一斉に胸を突き上げる。 「……ああああああっ!!!」 「橘さん?! ちょっと!」 叫んだ自分に驚く間もなく、私は席を立ち、訳もわからないまま外に飛び出していた。豪雨に叩かれながら。
last updateLast Updated : 2025-09-17
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番外編 第十一話

ネチネチと続くあの言いがかり。器を乱暴に置く、耳障りな硬い音。言葉にならないけれど確かに伝わってくる、無言の圧迫感。そして、容赦なく屋根を打ちつける雨音。外の世界までもが私を責め立てているように響く。仕事の疲れ。アルコールの酔い。生理中のどうしようもないメンタルの揺らぎ。初めての店、慣れない空気。そして、視線――若い男の、生身の眼差し。小さな負担が一つ、また一つと積み重なっていく。それは針のように細く、けれど確実に心を刺し続け、気づけば体も心も、もう限界を迎えていた。――ああ、頑張らなくちゃ。私が頑張らなければ、藍里と二人、生活していけなくなる。でも……どうして。どうして、こんなに辛い思いを抱えてまで。綾人と結婚していた頃に比べたら、まだ耐えられる? まだ我慢できる?でも……でも……。私さえ黙っていれば、波風は立たないの?それで本当にいいの……?頭の中で絡まり続けていた思考の糸が、ぷつりと切れた。ふいに、視界が暗く覆われる。何かが、私を包んでいた。驚くほどあたたかく、心地よいぬくもり。「お客様、どうかされましたか。早く、こちらへ……!」――この声。板前の……。ふわり、と体が浮き上がる。地面から切り離される感覚。えっ……これ……! お姫様抱っこ!?雨音が遠ざかり、下駄が濡れた床を打つ音だけが残る。肌にまとわりつく冷たい湿気。でも、彼の腕の中は確かに温かい。思考が追いつかないまま、私はその腕に抱かれ、屋内の光へと運ばれていった。「大丈夫かしら。つづはらくん、奥のお座敷まで運んで」おかみさんの声が遠くで響く。私はもう抵抗する気力もなく、ぐったりとしたまま布団に横たえられた。柔らかな布の感触。ふと目を開けば、そこにはあの板前がいた。ずぶ濡れのまま、肩で息をしている。「すみません、おかみさんが着替えを用意してくださっています。風邪をひいてしまいますから……僕が体を拭きますね」声は震えていない。けれど、指先は驚くほど丁寧で――やさしい。彼は自分を拭くこともせず、タオルで私の髪を、頬を、濡れた服をゆっくりと拭ってくれる。その温度に、胸の奥がじんわりと揺らぐ。「橘さん!」不意に、事務長が駆け込んでくる。現実へと引き戻されるように心臓が跳ねた。「お薬、飲んだ方がいいんじゃないか」
last updateLast Updated : 2025-09-18
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