All Chapters of 恋の味ってどんなの?: Chapter 51 - Chapter 60

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第五十一話

 餃子はさすがに食べ切れなかった分をバットに移し、ラップをかけて時雨が冷凍庫へ仕舞い込んだ。「あとで焼いても美味しいからね。冷凍しておけば、またみんなで食べられる」 と笑う時雨の声には、ほんの少し安堵の響きが混じっている。作り過ぎてしまったのは事実だが、それはただ料理に夢中になっただけではない。さくらの仕事のことを考えて胸がざわつき、それを打ち消すように黙々と包み続けた結果でもあった。「もうこんな時間じゃない。後片付けはうちらがやるから、宮部くんは今日は帰りなさい」 さくらがそう促す。時計の針はすでに夜の十時を回り、台所には餃子とニンニクの香ばしい匂いがまだ漂っている。「すみません。けど……本当に美味しかったです。餃子もサラダも卵スープも、全部。時雨さんにコツまで教えてもらえたし……それに、四人でこうして食卓を囲めて楽しかった」 清太郎は軽く頭を下げ、少し言いよどんでから続けた。「……あ、それと」 声の調子が変わったので、藍里もさくらも顔を向ける。「さくらさん。今週末はよろしくお願いします。ほんの少しだけでもいいんで、うちの母に会ってください」 これで三度目の打診だ。 病院で、食事の最中で、そして今。 清太郎の真剣な眼差しを前に、さくらは短く息を呑み、しばらく口を閉ざしたまま考え込む。だがやがて、静かに頷いた。「……わかったわ。あの時、話を聞いてくれたお礼もあるし。心配しないでって直接伝えるのも大事よね。仕事は夕方前に終わりそうだから、時間決まったら連絡ちょうだい」「ほんとですか……! ありがとうございます」 清太郎の顔がぱっと明るくなる。藍里もつい笑顔を浮かべた。「よかったね、清太郎。私もおばさんに会うの楽しみ。……て言っても、里枝さんにはほぼ毎日会ってるから、あんまり久しぶりって感じしないけど」「……確かにな」 冗談めかして言う清太郎に、さくらと藍里は顔を見合わせて笑った。「じゃあ、そろそろ帰ります。また明日からもよろしくお願いします……あ、見送りに」 立ち上がろうとした清太郎の腕を、時雨が伸ばしかけた時――「いててて!」 と声を上げる。さくらが遠慮なくその腕をぐいっと引っ張ったのだ。「ほら、藍里。玄関まで見送ってきな」「えっ……あ、うん」 半ば背中を押されるように、藍里は清太郎と二人きりで玄関へ。 ドアを閉
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第五十二話

ふぅ、と余韻を噛みしめつつドアを開けると――玄関にはあたふたしている時雨とさくらが立っていた。あまりにも不自然な距離に、藍里はすぐに悟る。 「……覗いてたでしょ」 「い、いや、別に……覗き見とかじゃなくて!」 「そうそう、ただ心配で……でも、案の定キスしてたから」 視線を泳がせる二人。どう見てもドアの覗きスコープから覗いていたのは明らかだ。藍里は真っ赤になって叫ぶ。 「もぉ! なにやってんのよ!」 「ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだって!」 と必死に手を振る時雨を、さくらが肩で小突きながら宥める。 「藍里、片付けしよ。時雨くんはもう休んでていいから」 「いや、僕もやるって。さくらさんだって明日仕事でしょ」 だがさくらは静かに首を振った。その横顔は少し真剣で、どこか決意めいたものがあった。 「もうね、これからは私もやることにしたの。あ、ちゃんと家賃分としてお金払うけど」 「いや……むしろもう、お金なんかいらない。それより、さくらさんも弁当屋で一緒に働こうよ!」 時雨が必死に言うと、さくらは呆れ顔で彼の額を指で弾いた。 「まだ給料も貰ってないのに、何言ってるのよ」 「い、痛っ」 「それに私だって、これからはちゃんと家事もやるし。仕事は今の方が効率いいけど……まぁ弁当屋のことは考えておくわ」 時雨の顔に一瞬、影が落ちる。それでも無理に笑って頷いた。 「……そっか」 「はいはい、じゃあ時雨くんは先にお風呂。私と藍里で片付けるから」 「うん、わかった。二人とも、よろしくお願いします」 頭を下げて部屋へ消える時雨。その背中を見送り、藍里とさくらは二人だけで台所に立った。流し台の前に並ぶのは、実に初めてのことだった。 藍里は洗った皿を受け取り、水を切ってマットに並べていく。時雨の横で手伝うときは、彼の手際の良さに圧倒されつつただ付いていくばかりだったが、さくらは違った。ささっと乱暴に洗ってはどんどん藍里に渡してくる。その様子に、昔綾人が「雑だ」と指摘していた姿がふと脳裏をかすめたが――今はもういいか、と胸の中で流した。 ふと横顔を見る。ノーメイクの母の表情は、どこか昔よりも若返ったようにも見える。 「なぁに、人の顔じろじろ見て。ちゃっちゃとやって風呂入って、早く寝なさい」 「うん……なんかね、マ
last updateLast Updated : 2025-08-21
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第五十三話

 週末。 さくらは昨晩から泊まり込みの仕事に行っている。家に残った藍里と時雨は、土曜日なのにまだ外が薄暗い午前四時半に起き出し、顔を洗い、パンと卵だけの簡単な朝食を並んで食べた。小さな食卓に二人だけ。眠気でまぶたが重いのに、今日は不思議と身体が軽い。 名古屋での大学展を見に行く予定が、胸の奥をわくわくさせていたからだ。 食器を片付け、制服に着替えると二人は自転車を並べて弁当屋へと向かう。朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白く見える。店に着く頃には空が白み始め、商店街のシャッターが一枚、また一枚と上がっていく。 昼までの仕事を終えたら、その足で名古屋に行く。それだけで、いつもの仕込みや販売の作業もどこか楽しく感じられた。 今日は天気もそこそこ良く、弁当を買って近くの動物園やレジャー施設へ出かける家族連れも多いらしい。 藍里は清太郎と並んで、店先で声を張り上げた。「いらっしゃいませー!」 春休みの人出もあって、朝早くから弁当が飛ぶように売れていく。 そんな折――。「すいませぇーん」 聞き慣れた声が耳に届いた気がして、藍里は振り返る。 すると清太郎が嫌そうな顔をして、店内へと引っ込んでいくところだった。 ――まさか。 嫌な予感がして追いかけると。「里枝姉さん、清太郎ー。お義兄さん、おじゃましますー」 店の入り口に立っていたのは、里枝を少しスリムにしたような女性――清太郎の母・路子。そしてさらにスリムで、化粧っ気の少ない分だけ若く見える女性――清太郎の姉・清香。 藍里は一瞬、言葉を失った。「もしかして……清太郎の……」「いや、もしかして! あらまぁ、藍里ちゃんやないのぉおおお!」 路子の声が店内に響く。藍里は肩を竦めるしかない。「清香、覚えてるでしょ。清太郎が小さい頃から好きやって言ってた、あの藍里ちゃん!」「えっ」 藍里は耳を疑った。「母さんっ!!」 清太郎が慌てて引き返してきた。顔が真っ赤である。「……好き好き言うてて、いなくなった時めっちゃ泣いてたやん、清太郎」 と今度は清香が冷静な口調で追い打ちをかける。表情はほとんど動かないのに、なぜか余計に重みがある。 藍里は、思わず清太郎をじっと見つめた。「……」 視線に耐えきれず、清太郎は観念したように頭を掻く。「……まぁ、昔から好きだったよ。藍里のこと」 観念の
last updateLast Updated : 2025-08-22
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第五十四話

もちろん、清太郎が恋人で、時雨はさくらの恋人だということはわかっている。 けれど――藍里にとって、いちばん自然に寄り添える相手は、今目の前で笑っている時雨なのだ。 その時。 「……こっちに逃げてきたわ」 清太郎が弁当を持ってやって来た。背後からは路子と里枝の賑やかな声が響いてくる。 「大学展、俺も行きたいよ……」 清太郎は机に突っ伏すようにして言った。 「夕方までなんだから、それさえ終われば帰れるでしょ」 「まぁな、ああああぁぁぁ……」 「ほら、元気出して。はい、トンカツあげる」 藍里は彼の弁当にひと切れ落とした。 「……弁当にもう入ってる。でもありがと」 思わず笑ってしまう。清太郎もつられて笑った。時雨は二人の様子を黙って見守る。 「そうだ、藍里。大学はある程度目星つけたか?」 「うーん……実はあんまり。家から通いやすいとしたら〇〇女か△△大かなぁ。でも……」 「たくさんあるから悩むよな」 「うん。でも文系ってことだけは決めた」 「ざっくばらんだなぁ……なんなら、俺についてくるか?」 清太郎があっさりと言う。彼は東京の大学を受ける予定だ。 「……東京」 「うん。同棲してもいいし」 カチン、と音がした。時雨が箸を置いた音だった。 「……ど、同棲?」 「いや、もしもの話だよ。無理して俺の人生についてくる必要はないけどな」 清太郎の言葉に、藍里の心はぐるぐると回り出す。 さくらを支えるために地元の大学、と考えていた。けれど「近いから」という理由だけ。それなら清太郎と一緒に新しい環境に飛び込んでもいいのではないか――。だが、今の彼の曖昧な物言いが胸をざわつかせる。 「今日はヒントをもらうつもりでさ。気楽に観に行こう」 「……うん。そうだよね。まだ何になりたいかも見えないし、まずは見てから、だよね」 藍里の答えを、時雨は静かに受け止めた。だが清太郎の瞳には、藍里と時雨の間にある「何か越えられない壁」の影が映っていた。 「清太郎ー! ねぇ、〇〇百貨店ってどの駅から行けばいい?」 清香が顔を覗かせる。地元の大学に進んだ彼女は、滅多に名古屋に出る機会がなく、この日を心待ちにしていたのだろう。 「ああ、教えるから待ってて」 「大学展の近くだよね、〇〇百貨店」 「そうだな……夕方の食事場所から
last updateLast Updated : 2025-08-23
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第五十五話

 昼ごはんを食べ終え、片付けも終わったところで藍里と時雨は店を出た。 店の奥から出てきた清太郎が心なしか暗そうに見えたが、それでも「気をつけてな!」と笑って声をかけてくれる。その顔がほんの少し寂しげに見えたのを、藍里は気になりながらも、口元に笑みを浮かべて大きく頷き返した。胸の奥にじんわりとした小さな罪悪感が同時に広がる。 時雨と二人きりでここまで遠出をするのはもちろん初めてだ。 電車に揺られるのも久しぶりで、窓の外を流れていく景色に気持ちが浮き立つ。けれどどこか落ち着かなくて、バッグを抱えた腕に自然と力が入っていた。隣の時雨はスマホで路線図を確認しながら、どこか余裕のある表情をしている。そんな姿に「大人だな」と思いながら、ほんの少しだけ安心した。 名古屋駅に着いた瞬間、藍里は思わず目を丸くした。 人、人、人。休日の駅は、まるでお祭りのように賑わっている。背の高い人の群れに埋もれてしまいそうで、思わず足が止まりそうになる。そんな藍里の腕を、時雨が軽くとって「大丈夫?」と覗き込む。人混みに押されただけなのに、心臓が跳ねてしまい、慌てて「だ、大丈夫」と首を振った。 大学展の会場は想像以上に広大だった。大きな体育館をいくつもつなげたようなホールの中に、所狭しと並ぶ大学のブース。立て看板や横断幕が鮮やかで、パンフレットを配る学生や職員たちの声が響き渡る。空調の効いた会場は少しひんやりしているのに、人の熱気でむっとするほどだった。「わぁ……すごい……」 藍里は圧倒されて立ち止まる。どこを見ても知らない世界ばかりで、目が回りそうだった。 そんな中、ふと横に視線をやると、時雨が別の方向へ歩き出していた。出店コーナーに並ぶ学生たちの姿に興味を惹かれたらしく、屋台のような小さなテーブルを覗き込んでいる。「ここで弁当売ったらめっちゃ売れそう」 いかにも商売人らしい言葉に、藍里は思わず笑ってしまった。「時雨くん、お仕事終わったのにまたそんなこと考えてるんだ」「ついつい商売柄ね。昔もさぁ、こういうイベントで出店したことあるんだよ。学生時代も専門学校だけど模擬店やったし、楽しかったなぁ」 どこか懐かしそうに語る時雨。その表情が普段より柔らかく見えて、藍里は胸の奥がふわっと温かくなる。 しかし、気づけば少し離れてしまっていた。慌てて追いかけようとしたそのとき――
last updateLast Updated : 2025-08-24
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第五十六話

 藍里が検討していた〇〇女や△△大学は、やはり人気の高いポピュラーな大学だけあってブースの前は黒山の人だかりだった。 受付のスタッフに声をかけても「今日は予約の方のみとなります」と冷たく告げられるばかりで、ようやく手に入れたパンフレットもほとんどが「満席」「締め切り」の文字で埋め尽くされている。「やっぱり午前中から行かないとダメか」 藍里がため息をつくと、隣の時雨が肩をすくめた。「しょうがないよ。オンラインでもかなり前から予約いっぱいだったしさ……」「〇〇女は内部生が多いだろうなぁ」「内部生?」「うん、ここは幼稚園から大学まで一貫校だから。大学から入る子もいるけど、昔からずっと通ってきた子が多いんだろうなぁ」 昨晩、さくらから「〇〇女は私立でもさらにお金がかかる」と聞かされていたことを思い出す。近いからという理由だけで考えていたが、それだけではどうにもならない現実が立ちはだかる。「でも女性の生徒だけだから、さっきみたいな怪しい合同サークルに誘われたりはしないだろうし、学校内の単独サークルに入れば安心だな」「……かなぁ」 会場を歩くと、見たことも聞いたこともない大学の名前がずらりと並んでいた。 藍里は、自分がいかに世間を知らなかったかを思い知らされる。これまでほとんど家にこもり、ネットも人との交流も少なく、テレビですらあまり見なかった。 さくらとも必要最低限しか会話しなかった日々。まるで暗闇から急に広場へ引きずり出されたような感覚だった。 ふと企業ブースの前を通りかかると、スーツ姿の社員が熱心に説明をしていた。「……大学行かずに就職する手もあるのかなぁ」 ぽつりとつぶやいた藍里に、時雨は立ち止まって真顔になる。「まぁ、それもあるよ。何も考えずに四年間過ごすよりは、仕事を選ぶのも一つの道だと思う。でもやっぱりね……高卒と大卒だと給料差は出るんだ。今は共働きが当たり前だから、女の子でも大学出たほうがいい。専門学校出の僕でも、それは身にしみてわかる」 言葉に重みがあった。藍里は「なるほどねぇ」と納得しつつ、胸の奥で別の不安が膨らむ。(もし清太郎と結婚したら……彼は銀行員になるって言ってたけど、私は何をするんだろう) 「働く」とは思う。けれど何を? どうやって? 考えるほど答えは見つからず、頭がぐるぐると回る。 人混みと寝不足の疲れ
last updateLast Updated : 2025-08-25
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第五十七話

 二人はスタンプを押してもらい、会場の外へ出る。 看板の前に立つと、胸の奥から言葉が漏れた。 「……お父さん」 時雨はその隣に、もうひとつ立て看板があるのに気づいた。 「『橘綾人 娘役オーディション会場』……? このホールの5階でやってるみたいだ」 「えっ……」 「募集してたけど、もう始まってたんだ」 思い返せば、テレビや雑誌で見かけたことがあった。クラスでも話題になったし、藍里自身も心のどこかで引っかかっていた。それが、今まさに目の前で行われている。 「もう書類選考に通った子たちが受けてるんだろうね」 時雨がつぶやくと、藍里は俯いた。 「……娘役だなんて。確かに、この事務所は私が昔子役でいた頃の大手だし。もしスカウトされればチャンスはあるかもしれない。でも……私は全然ダメだった」 「ダメだなんて……」 「じゃあ、私が出た番組とかCMとか知ってる?」 時雨は答えられなかった。 「何にもないんだよ。名前も出なかった、ただのその他大勢」 その時―― 「藍里! 藍里!」 聞き慣れた声がして振り向くと、クラスの三人組が駆け寄ってきた。少し遅れてアキも息を切らしてやって来る。 「……あれ、宮部くんは?」 「今日はお母さんたちと名古屋観光だって」 「その人は?」 時雨を指差す視線に、藍里は言葉を失った。 「彼氏?」 「その……」 否定もできずにしどろもどろになる。結局、時雨は藍里の「彼氏」ということになってしまった。 なつみとゆうかが顔を見合わせ、アキを押し出す。彼女はためらいながら口を開いた。 「……藍里、ごめん。私、勝手に応募しちゃったんだ」 「えっ?」 アキのスマホの画面には、藍里の名前。なつみが代わりに説明する。 「今日、このあと一時間後に藍里がオーディション受けることになってるの。書類選考もう通ってる。担任の同意も必要だったけど、うまく誤魔化して……」 「えええっ……」 渡された案内書を手に、藍里は時雨を見た。困惑と動揺で頭が真っ白になる。 「もし受かったら推薦金は全部藍里に渡すよ。進路で悩んでたし、藍里可愛いから絶対受けてほしいと思って」 「……でも、どうしよう……」 藍里の戸惑いを見て、時雨は案内書をひったくるように受け取り、藍里の手を握った。 「行こう。まだ一時間あ
last updateLast Updated : 2025-08-26
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第五十八話

なつみはアキの肩を叩く。「……受かるといいね」「そうだね。でも推薦金全部あげるのはほんと?」「少しはもらえるよね、たぶん」「そいや高校生は保護者も付き添いでとか書いてあったけどよかったよねー。彼氏さん下手すりゃあ保護者でも通じるよね」「……多分さっきの人は見た目30前半くらいかなー年上好きだなんて意外」「意外かどうかわからないけどね」 ふとゆうかが看板を見つめる。「ってさ、なんかこの綾人ってさ……藍里が真顔の時に似てない?」「嘘だーっ、いつものイケメンフェイスじゃない」「気のせいかー」 会場のフロアに近づくと、すでに熱気のようなものが漂っていた。 すれ違う女の子たちは皆、顔をこわばらせている。「受かるかなぁ……」「書類審査で結構落としたって聞いたけど、こんなに呼ぶんだ」「生の綾人さん見て泣いちゃった子いたよ」 漏れ聞こえる声は、藍里の耳をざわつかせる。けれど彼女はすぐに気づいた。そうやって大声で話している人は、だいたいが芸能経験のない素人だ。 ――本当に事務所に所属している子は、オーディション内容を軽々しく外で喋ったりしない。 息を切らしながら会場前に着いた二人。「……この中に、お父さんが」 藍里の声は小さいが、芯の震えが隠せない。「今日……本人が来てるってことは、本気なんだな」 時雨が短く答える。 野次馬が押し寄せていたが、スタッフが厳しく制止している。そんな中で、藍里もその一人と勘違いされた。「オーディションの方ですか?」「はい」 確認を終えたスタッフが隣の時雨に視線を移す。 「お隣の方は……」「ほ、保護者です」 背筋を正した時雨に、スタッフは頷いた。「同意書は百田さくら様となっていますが、あなたはご主人ということですね。お父様で」「……はいっ」 一瞬の迷いも見せずに言い切った時雨に、藍里は思わず顔を赤らめた。 通された控室には、緊張で顔をこわばらせる少女たちが並んでいた。親と座っている子、マネージャーと打ち合わせをする子、一人で必死に台詞を口にしている子。 それぞれの緊張が空気を張りつめさせている。「……マネージャーでもよかったのに」「そうかもね。でも名刺とか求められるし、その場で嘘は通じにくい。保護者のほうが自然だ」「……は彼氏じゃなくてよかった」 二人はかすかに笑った。 スタ
last updateLast Updated : 2025-08-27
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第五十九話

 順番に扉を開けて中へと入っていく。 控室のざわめきとはまったく違う、張り詰めた空気がそこにはあった。足を一歩踏み入れた瞬間、藍里はまるで冷たい水の中に沈んでいくような感覚を覚える。 先に入った一般参加の女の子たちや保護者が小さく息を呑み、思わず声を上げているのが聞こえた。理由は言うまでもない。 ――橘綾人が、そこにいたからだ。 後ろを歩く時雨の方が、むしろ緊張に押しつぶされそうなほど挙動不審になっている。肩が硬直し、視線が泳ぎ、落ち着きのない足取り。まるで自分がこれから審査を受けるのだと錯覚しているようだ。 藍里もまた、胸が早鐘のように鳴っていた。壇上に設けられた長机の背後に、五人の審査員が横一列に並んで座っている。照明に照らされるその姿は、ひとりひとりが異なる色の緊張を放っているようであった。 中年の男性、柔らかい雰囲気を漂わせた女性二人――そして、その中央に座る一人の男。 明らかに、そこだけ違う空気が流れていた。 橘綾人。 五年ぶりに目にした父の姿は、記憶の中の彼よりも遥かに洗練されていた。 輪郭のはっきりした顔立ち、きちんと整えられた髪。鍛え抜かれた体つきはスーツの上からでもわかり、皺ひとつないブランド服がその存在感をより際立たせていた。サングラス越しで瞳ははっきり見えないはずなのに、視線が合ったことを藍里は確信した。 その一瞬、綾人は明らかに動揺した。机上の書類を慌てて探り、藍里のエントリーシートを引き寄せる。そして再び顔を上げ、じっと娘を――いや、オーディションの参加者を見据えた。「綾人さん、綾人さん……」 隣にいた中年男性が小声で促す。綾人ははっとして、軽く咳払いをしてから取り繕うように笑った。「は、はい。すみませんね……あまりにも皆さん魅力的で、つい見入ってしまいました」 相変わらずの調子の良さ。 口先だけで整える癖は、五年経っても変わらないのだと藍里は胸の奥で冷めた感情を覚えた。 進行役の女性が場を仕切るように声を張る。「本日はお集まりいただきありがとうございます。今回のオーディションは橘綾人さんの新作で“娘役”を演じるキャストを探すものです。まずは右側の方から順に自己紹介をお願いします。演技は全員の自己紹介が終わった後に行います」 藍里の番は最後から二番目だった。順番を待ちながら、前に立つ参加者たちの声に耳
last updateLast Updated : 2025-08-28
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第六十話

藍里は背筋をまっすぐに伸ばし、まずは綾人を真っすぐに見つめ返す。 「自己紹介を、どうぞ」 隣の女性が促す。藍里は視線を綾人から外し、言葉を探すように口を開いた。 「百田藍里です」 そのとき、再び綾人と目が合った。瞬間、喉が詰まりかけたが、必死に視線を逸らして続ける。 「……生まれてすぐに△△テレビアカデミーの子役部門に入り、途中までレッスン生として活動していました」 会場がざわついた。エントリーシートには書かれていなかった経歴。審査員たちが顔を見合わせる中、ただひとり綾人だけが冷静に見つめている。 「昔子役をやっていたと……たしか、うちの事務所でね」 横から呟いたのは綾人ではなく、女性審査員のひとり。藍里は記憶を掘り起こす。確かに当時、事務所にいた事務員の顔だ。 母のさくらとも顔を合わせたことがある。しかし、子役の数が多すぎて、彼女は自分の存在を鮮明には覚えていないのだろう。 「……はい。エントリーの時点では記載しませんでしたが、いずれ知られることになるだろうと思い……」 ざわつきはさらに大きくなる。 「なるほど。現在は所属していないのですね。この推薦者の方は、その経歴をご存知だったのですか?」 「いいえ。転校したばかりなので知りません。ただ、彼女には本当に感謝しています。彼女が推薦してくれなければ、私はここに立つことはありませんでした。実は先ほど会場で偶然再会したばかりなんです」 その一言に、綾人のサングラス越しの視線が鋭く刺さる。 「転校を二度……ご家庭の事情があったのですか?」 突っ込んだ質問に、後列の時雨は椅子の上で思わず身を乗り出した。やめてくれ、そこまで聞くな――心の中で叫ぶ。 「はい……岐阜を離れ、神奈川で母と二人で暮らしました。その後、再び東海地方に戻ってきて。愛知に来てからは少し落ち着いたと感じています。岐阜ではないけれど、懐かしい匂いがあって……幼馴染と同じクラスになれたこともあって……」 言葉がまとまらない。呼吸が浅くなる。 「なるほど。……後ろにいる方は、彼氏さんですか?」 綾人の問い。凍りつく時雨。かつて刑事役で数多くの犯人を追い詰めたその眼光が、真正面から突き刺さる。 藍里ははっきりと首を横に振った。 「母の……恋人です」 場の空気が一瞬止まった。綾人は無表情のまま
last updateLast Updated : 2025-08-29
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