襖一枚を隔てただけの向こうで、つづはらさんが衣擦れを立てている。 その気配を耳が勝手に追ってしまい、私は苦笑する。――いったい、何を期待しているのだろう。 私は黒のワンピースに袖を通し、足元がおぼつかないまま立ち上がった。 ナプキンもそろそろ替えなければならない。頭のどこかでそう考えつつも、体はまだ重い。 コンコン、と控えめなノックの音。 襖を開けると、もう着替えを済ませたつづはらさんが立っていた。 濡れた髪がまだしっとりと肩に張りつき、柔らかく石鹸の匂いが漂う。 「……大丈夫ですか? 濡れたお洋服を取りにきました」 差し出されたカゴに衣服を入れる。 私は慌てて、手に持っていたナプキンをポケットへと押し込んだ。見られてはいけない、という羞恥心が一気にせり上がる。 「お手洗い、どこでしょうか?」 「ご案内します。歩けますか? 履き物もこちらに」 そう言って差し伸べられた手に触れる。 その掌は意外なほどに温かく、雨で冷え切ったはずなのに、不思議と安心させられる温度だった。 「……すみません、私のために」 「大丈夫ですよ、さくらさん」 ――えっ。 どうして下の名前を? ああ、そうだ。店に入るとき、名簿に書いたから。 「僕、つづはらと申します。廿原、時雨」 時雨。胸の奥で何度も繰り返す。季節の雨のような、どこか儚くて鮮やかな名だ。 「僕、最後まで店にいますから。帰りは泊まり先までお送りします」 ――泊まり先。あの下宿先を知られるのは……。 「そこまでしなくても――」 そう言いかけたとき、彼が不意に私の手をぎゅっと握った。 「……させてください」 驚いて顔を上げると、彼の目が真っ直ぐに私を射抜いていた。 「……あなたに、一目惚れしました」 胸の奥が、雨に打たれるよりも強くざわめいた。
Last Updated : 2025-09-19 Read more