最初の音が、そっと空気を震わせた。七菜の指が白鍵に触れたとき、ホールの空気がほんの一瞬、沈黙よりも深い静けさに包まれた。最初の数音は、丁寧に置くように響いた。硬さはなかったが、慎重さが滲んでいる。舞台の上で光を浴びる小さな肩が、最初だけわずかに強ばっているのが、舞台袖からも見えた。春樹は袖の壁に体を預けたまま、全身を耳にして音を受け止めていた。目は七菜の指に向けられていたが、視線はどこか遠く、彼方の記憶に触れている。その旋律は、確かに彼が昔書いたものだった。まだ十代だった頃、言葉にできなかった想いを音に託して、夜中に鍵盤と向き合いながら生まれた、あの曲。智久に直接渡すことはできず、ただカセットテープに吹き込んだだけの、誰にも知られなかった旋律。今、その旋律が、別のかたちで生きている。七菜の小さな手が奏でる音は、原曲よりもやさしく、少しだけ単純にアレンジされていた。だが、音の芯にある感情は、変わっていなかった。春樹の手が、ポケットの中でぎゅっと握られた。譜面台に立てられた楽譜の端を無意識に掴んでいた指が、紙を少しだけくしゃりと歪めていた。気づいていても、離すことができなかった。なぜなら、今そこで鳴っている音は、かつての彼自身が閉じ込めた記憶そのものだったからだ。客席の中ほどに座る智久は、最初こそ娘の演奏を静かに見守っていたが、あるフレーズに差しかかったとき、呼吸が浅くなった。耳が、懐かしい何かを掴んだ。それは、ずっと昔にどこかで聴いた音だった。…いや、聴かされた音。部屋の隅、カセットデッキから流れていた微かな旋律。春樹が何気なく持ってきて、「ちょっと聴いてくれ」と言ったときのことを、彼の脳が突然掘り起こしていた。その時は、音楽の意味など考えもしなかった。ただ、旋律がやけにあたたかくて、自分の奥に何かが落ちてきたことだけを覚えていた。七菜の音に導かれるように、記憶の断片が次々と浮かび上がってくる。春樹の指、部屋の匂い、夕方の光。あの頃の春樹は、まだどこか幼さを残していて、それでも芯に触れたら燃えるような強さがあった。智久の喉がひくりと鳴った。胸の奥が、熱くも冷たくもない、何かの感情でいっぱいに
Last Updated : 2025-09-03 Read more