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今を壊したくない

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-27 10:56:02

バスルームの扉を開けると、わずかに湿った空気が寝室へと流れていく。シャワーを浴び終えた春樹が、タオルを肩にかけたまま、鏡の前に立っている。智久もその隣に並んで、まだぬるい肌を指先で軽く拭いながら、無言のまま身支度を始めた。

朝のホテルの洗面所は、小さな湯気と、シャンプーの匂いが微かに混じっていた。窓の外の空はまだ低く、灰色の雲がちぎれもせずに垂れ込めている。その重さは、どこか昨夜の余韻に似ていた。雨はもう止んでいるが、濡れた道路にまだ小さな水たまりが光っているのが遠くに見えた。

鏡のなかで、ふたりの姿が並んでいる。いつもなら、家の洗面所で、父と娘のために慌ただしく支度を整えるだけだった。それが今は、ホテルの曇りがちの鏡の前で、春樹とふたり。何でもない朝の仕草が、どこか特別な儀式のように感じられる。春樹がゆっくりと自分の髪に手を通し、その指がすぐ隣の智久の髪へと伸びる。

「髪、まだ少し濡れてるよ」

そう呟いて、春樹が軽く指で智久の前髪を整える。その手つきはとても柔らかく、眠気の残る肌にそっと触れるたび、昨夜春樹に抱かれた記憶が静かに蘇る。指が額に触れ、こめかみに沿って耳元を撫でたとき、智久は不意に息を詰めそうになる。

春樹はそのまま、何も言わずに智久の首筋へ視線を落とした。昨夜、自分が残した赤い痕を見つけたのだろう。鏡越しに、春樹のまなざしと微笑みが重なる。何も言葉はなかった。けれど、ふたりのあいだに漂う温度だけが、すべてを物語っていた。

智久は、濡れた髪をタオルで軽く拭いながら、自分の指がかすかに震えていることに気づいた。ふたりで並んで鏡のなかに映る姿は、奇跡のように思えた。いつ終わるかわからない、儚い夢のなかのワンシーンのようで。だからこそ、心の奥に“今を壊したくない”という気持ちが、どんどん膨らんでいった。

春樹が何気なく使い捨てのコームを手に取り、智久の後ろ髪をそっと梳く。静かな朝のなかで、その動作ひとつひとつが心臓を強く叩く。春樹の指が耳の裏をかすめるたび、皮膚の下に眠っていた何かが、じわりと疼きだす。

「…くすぐったいな」

つい呟くと、春樹は鏡越しにふわりと笑った。睫毛の先に朝の光が乗り、

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