All Chapters of もう遅い、クズ夫よ。奥さんは超一流ボスと再婚して妊娠中!: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

梨花は動きを止め、彼のそばに歩み寄ると、薬の蓋を開けて足の傷に塗りながら、淡々と言った。「それが本当か嘘かなんて、もう何の影響もないわ」つまり、あなたには関係ない、と言外に言っているようなものだ。竜也は初めて、やり場のない怒りを覚えた。当の本人は気づかない様子で、指先に薬を取り、優しく彼の足に塗り込んでいる。ひんやりとした薬が、彼女の指の動きに合わせて少しずつ溶けていく。竜也は苛立ちを隠せなかった。「影響がないわけないだろ。あいつと復縁するために、俺と別れるんじゃないのか?」「誰がそんなこと言ったの?」薬を塗り終えて蓋を閉めようとした梨花は、彼の顔の傷を思い出し、再び薬を指に出すと、彼の頬骨に塗った。「じゃあ、あなたが昔私を捨てたのは、別の妹を養うためだったの?」「……」竜也は言葉を詰まらせた。彼女の言葉と、今のその仕草のせいだ。彼女はずっと昔と同じように、顔を上げて慎重に薬を塗ってくれている。その瞳に揺れる切なさは、演技には見えない。口では冷たいことを言っているけど。それを見ているうちに、竜也の胸のつかえは不意に消え失せた。「いいだろう」彼は口角を上げた。「じゃあ教えてくれ。本当の理由は何だ?」その忍耐強さは、他人が見れば驚くほどだ。だが、梨花はそれに乗らなかった。手を引っ込め、軟膏の蓋を閉めると、冷静かつ他人行儀に立ち上がった。「薬は塗ったわ。もう帰る」そう言って、彼女はさっさと立ち去ろうとする。「待て!」玄関に向かう彼女を見て、竜也はこみ上げる怒りを抑え、顔を強張らせて言った。「行くなら、ユウユウも連れて行け」その口ぶりは、まるで離婚協議中の夫婦が親権を争っているかのようだ。梨花の目がぱっと輝き、振り返って彼を見た。「ユウユウを返してくれるの?」「返すってなんだ?もともと俺たち二人で飼っていた犬だろ」竜也は冷ややかに言った。「今回は、お前のせいで足がこうなって散歩に行けないから、しばらく預けるだけだ」しばらくでも構わない。梨花は喜んで承諾した。彼女が手招きする間もなく、ユウユウは大喜びで犬用ベッドを口にくわえ、彼女の方へ飛んできた。ベッドを彼女の目の前に放り出し、頭を足に擦り付けて喜びを爆発させた。竜也はそ
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第362話

「たぶん、私が蹴ったせいだと思う」梨花はそう答えてハッと気づいた。本当にそうかもしれない。喧嘩で怪我をしたくせに、それを自分のせいにしたんだ!綾香はそれを聞いて思わず吹き出した。「何それ?なんで蹴ったりしたの?」「な、なんでもない」梨花は耳まで熱くして、ユウユウのために用意したリビングの隅へ逃げ、荷物を片付け始めた。まさか、竜也に無理やりキスされたから蹴り上げたなんて、言えるわけがない。綾香は事情を察してそれ以上は突っ込まず、ダイニングテーブルへ向かってテイクアウトの袋を開けた。「とりあえずご飯にしよう。もうお腹ペコペコよ」「うん、すぐ行く」そう言われると、梨花も空腹を感じ、手を洗って食卓についた。人間二人と犬一匹、とても平和な光景だ。綾香は傍らで、とても行儀よく座っているユウユウを見て、ふと好奇心を抱いて尋ねた。「その名前、梨花がつけたの?どうしてユウユウなの?」「……」その話題に、梨花は少し言葉を詰まらせた。彼の名は竜也。だから最初は「リュウリュウ」にしようとしたのだが、竜也が頑として認めなかった。仕方なく妥協して「ユウユウ」にしたのだ。竜也は同意したが、実はそれも彼の名前から取っている。「竜」という漢字の、後ろの音だ。梨花はふと、自分の人生が竜也に大きく影響されていることに気づいた。性格が似ているだけならまだしも。飼い犬の名前まで彼由来だなんて。梨花が言葉を選び、綾香に名前の由来を説明しようとした矢先、一真がやって来た。一真は急かすことなく、二人が食事を終えるのを辛抱強く待ってから、本題に入った。彼はまず、昼間に掴んだ情報を洗いざらい話した。そして付け加えた。「ただ、さっき入った情報だと、引き上げられた遺体は七体だった。残りの一人は、死んだのか逃げたのか確認できていない」梨花は背筋が凍る思いがした。もし逃げたのなら、可能性はいくらでも広がる。もし逃げたのが、篤子と繋がりのあるあの人物だとしたら、今回の事故に乗じて顔を変え、身分を変えるかもしれない。これから彼女たちは表舞台に立ち、彼は再び闇に潜むことになる。一方、竜也のもとにも同時に情報が入っていた。「旦那様、犯人が逃亡したのは間違いありません」孝宏が手際よく報告した。
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第363話

「おおかた、間違いないだろう」竜也は目を伏せた。切れ長の目尻から、恐ろしいほどの殺気が滲み出ている。あの頃、篤子は黒川家の実権を握っていたとはいえ、あれほど大規模な闇組織を動かすのは容易ではなかったはずだ。結局、疑いの目はすべて石神に向けられた。石神が投獄された後、その手勢は篤子に引き継がれたのだろう。だからこそ、篤子はあれほど強気でいられたのだ。しかしその後、どういうわけかあの銃撃戦を境に、その組織は忽然と姿を消し、見事に鳴りを潜めてしまった。ここ数年、国内では何一つ波風を立てていなかった。「善意を持ってる来訪者じゃないな。彼女の身の安全、気をつけてやったほうがいい」海人は忠告せずにはいられなかった。「どうしても無理なら、彼女とは距離を置け。今、敵は闇に潜み、俺たちは表にさらされている。あんな大騒ぎを起こした意図が何なのか、まずは静観すべきだ。もし奴がまたお前の祖母と手を組むようなら、狙いは祖母の権力奪還だろう。そうなれば、お前と梨花の関係を知っている以上、真っ先に彼女が狙われる」「安心しろ」竜也の瞳にわずかな揺らぎが浮かぶ。その口調はどこか自嘲気味だった。「今回ばかりは、あいつ自身が脱兎のごとく逃げ出したからな」こっちが心配するまでもない。本当に、大人になったものだ。一真からの情報を聞いて以来、梨花は数日間、心ここにあらずといった様子だ。相手の手口は、彼女が当初想像していたよりもはるかに複雑だ。外来には患者がひっきりなしに訪れる。前の患者を診察し終え、次の患者が入ってくるまでの合間に、机の上のスマホが鳴った。着信画面を一瞥し、彼女は通話ボタンを押した。「もしもし?」「家の暗証番号は?」男の口調はあまりに当然のようで、独身女性にそんなことを聞くのが不躾だなどとは微塵も思っていない様子だ。その声は低く、心地よく響いだ。「あの日、ユウユウの荷物を取りに来た時、サプリメントを忘れてただろ。数日飲んでないはずだから、入って飲ませてやろうと思ってな」「……」ユウユウは高齢で、栄養補給が欠かせない。梨花は仕方なく、素っ気ない口調で答えた。「ラインで送るわ」そう言って電話を切り、素早く数字を入力して送信した。送信した直後、彼女はハッとした。慌て
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第364話

「わかった、わかった」智子は彼女の話を聞くのが嬉しいようで、目を細めて快諾した。「時間ができたら、家にお茶でもいらっしゃい」「はい、ぜひ」梨花は即答した。「でも、少し待っていただくことになりそうです。最近、仕事が立て込んでいて」診療所、研究所、それにボランティア活動。目が回るほどの忙しさだ。だが、新薬が発売されれば、ひと息つけるだろう。智子は梨花が少し痩せたのを見て言った。「じゃあ、今週末は家にいるの?お味噌でも作って持っていくわ」「はい、お願いします」梨花は智子の手作りお味噌が大好きで、遠慮せずに笑顔で快諾した。智子は体を大事にするよう言い含めてから、処方箋を持って部屋を出て行った。昼ごろ、梨花は時間を確認すると、看護師に頼んで多くの患者の予約を追加で入れた。三時過ぎにようやく仕事を終え、近くでラーメンを食べてから、車で三浦家へと向かった。今朝、三浦家の長女がこちらに来たと聞いていた。だから梨花は、親子の語らいを邪魔しないよう、治療時間を午後にずらしたのだ。梨花はすでに三浦家の使用人たちと顔なじみになっていた。門の前に車を停めると、すぐに使用人が出てきた。「梨花先生、お待ちしておりました」「ええ、ありがとう」梨花は笑顔で中に入ったが、リビングを通る際、三浦家の長女と鉢合わせになった。三十代の女性で、これほど強烈なオーラを放つ人を見るのは初めてだ。髪を一分の隙もなく後ろでまとめ、全身から隙のなさと厳格さが滲み出ている。三浦家で大きな発言権を持っているのも頷ける。梨花は挨拶しようとしたが、彼女がリビングの家族写真をじっと見つめ、物思いに耽っているのに気づいたから、声をかけるのをやめ、静かに二階へ上がって鍼治療の準備をしようとした。だが、立ち去ろうとしたその時、彼女が我に返ってこちらを見た。「梨花先生ですね?三浦千鶴(みうら ちづる)です。彰人たちの姉です」梨花は微笑み、礼儀正しく会釈した。「千鶴さん、初めまして」千鶴は彼女が少し緊張しているのを察し、「上がってください。母が待っています」と言った。「はい」気のせいかもしれないが、さっき千鶴が自分に向けた眼差しは、真里奈が時折向けてくるそれとよく似ていた。何度も鍼治療を重ね、真里奈もすっ
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第365話

食卓につくと、真里奈は並べられた七、八品の料理のうち、三、四品が海鮮料理であることに気づき、すぐに長女の意図を悟った。ボタンエビ刺身、アワビの酒蒸し、毛ガニの姿盛り、そして海鮮トマトチーズ雑炊。梨花はそのどれにも箸をつけ、美味しそうに平らげた。真里奈の目に失望の色が浮かんだが、千鶴はそこで諦めなかった。生まれつきのクールな声だが、決して冷淡ではない口調で尋ねた。「梨花先生、患者さんの中でシーフードアレルギーの方は多いですか?」「ええ、結構いらっしゃいますよ」梨花は特に裏を読むこともなく、ありのままに答えた。「シーフードアレルギーは一番ありふれたアレルギーですから」例えば、彼女自身も幼い頃はそうだった。先生が哀れに思って、いくつか漢方を処方し、鍼治療と合わせて治してくれたのだ。それ以来、彼女に食べられないものはなくなった。千鶴がさらに何か聞こうとした時、真里奈が遮った。「もういいわ、梨花先生に食事を楽しんでもらいましょう。早く食べて、早く帰って休まないと」梨花は満腹になるまで食事を楽しんだ。真里奈は彼女の食べっぷりを見てさらに機嫌を良くし、自分の薬膳スープもきれいに飲み干した。梨花が帰った後、真里奈は隣に座る千鶴を見た。「あなたも私みたいに、何かに取り憑かれちゃったのかしら?」ここ数年、彼女は行方不明の末っ子と同じ年頃の子に会うたびに、根掘り葉掘り聞かずにはいられなかった。以前なら、千鶴はそんな母を諌めていたものだ。それが今回はどうしたことだろう。千鶴は少し沈黙してから答えた。「そうかもしれません」あの日、両親が紅葉坂へ行く時、もし自分もついて行っていたら、妹の面倒を見ることができ、彼女が迷子になんてならなかったかもしれない。真里奈はため息をついた。「彰人が言ってたわよ、あなたが梨花先生の素性を調べたって」前回、梨花の資料確認を手伝った際、彰人は千鶴に調査を依頼していたのだ。千鶴はついでに、彼女の生い立ちまで調べていた。その結果を見て、真里奈も一度は諦めたのだ。千鶴は頷いた。「ええ、調べました」苦労した娘だ。五歳で両親を亡くし、施設に入り、その後黒川家に引き取られた。経歴に不審な点はない。それでも母と同じように、梨花を一目見た瞬間から親近感を
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第366話

桃子はほっと息をついた。「引き続き監視をして。何か怪しい動きがあったら、すぐに連絡して」これ以上、ミスは許されない。たとえあの女がボロを出さなくても、開発した薬が無事に発売できないように手を打たなければならない。そうでなければ、悪夢だ。電話を切ると、彼女は時間を確認し、会社を出て私立病院へ車を走らせた。一番腕のいい産婦人科医に、中絶手術を予約してある。もちろん、記録に残らないように手回しも済んでいる。梨花がバッグを手に病院の正門から出ると、桃子がキョロキョロと辺りをうかがいながら、こっそりと外来棟へ向かってくるのが見えた。無視するつもりだったが、桃子のほうが目ざとかった。桃子は梨花を見つけるなり、大股で駆け寄ってきた。「なんでここにいるの?ここは産婦人科で有名な病院よ。まさか、どこの馬の骨とも知れない子でも孕んだんじゃないでしょうね?」そう考えると、桃子は急に不安に襲われた。もしこの女が竜也や一真の子を身籠り、その地位を固めてしまったら、自分は終わりだ。「ずいぶん詳しいのね。しっかりリサーチ済みってわけか。あなたこそ、今日はどの馬の骨の子を堕ろしに来たの?」梨花は眉をひそめ、冷ややかに笑った。「ここの院長とは親しいの。電話して割引してもらうよう頼んであげましょうか?」ここの院長は、先日のお祝いパーティーにも出席していた。今日病院に来たのも、院長に招かれて漢方科の医師たちに外来のノウハウを共有するためだ。「デ、デタラメ言わないで!」痛いところを突かれた桃子は、焦りを無理やり押し殺した。「最近どうも動悸がするから、心電図を取りに来ただけよ!」「そう?」梨花は口角を上げた。「動悸の原因はいろいろあるけど、私からのアドバイスは一つだけよ」「何よ?」「やましいことはほどほどにすることね」そう言い捨てると、梨花は彼女を相手にせず、白いセダンの方へと歩き出した。桃子は腹痛がするほど悔しがったが、スマホが鳴った。画面を見て電話に出た。「もしもし、上村先生ですか?本当にすみません。勘違いでした、妊娠してませんでした。今日の手術はキャンセルでお願いします」電話を切ると、桃子は地団駄を踏んだ。あの女!くそ女!中絶の件、医者は記録を残さないとは約束してくれ
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第367話

梨花は我に返り、彼女の言葉に答える余裕もなく、スマホを掴んでデリバリーアプリを開いた。その指先は、微かに震えていた。綾香は彼女が注文している画面を見て、呆気にとられた。「ちょっと、本当に妊娠したの?」彼女の医術の腕前を綾香はよく知っているから、疑う余地もなかった。梨花は注文を終え、呆然と顔を上げた。「脈診では確かに妊娠してる。でも、あの日アフターピルを飲んだはずよ。綾香も見てたでしょ?」アフターピルを服用したとはいえ、妊娠する可能性はゼロではない。だが、確率は極めて低いはずだ。綾香は頷いた。「そうよ。わざわざ下に買いに行ったんだから」あの晩、梨花が竜也の家から帰ってきて、二人で酒を飲んだ後だった。綾香がふと思い出して、真夜中に24時間の薬局まで走ったのだ。梨花が黙り込んでしまったのを見て、綾香は慰めるように言った。「検査薬が届いたら試してみよう。心が乱れてて、脈を見誤っただけかもしれないし」「うん」梨花は何度も頷いた。心の中は乱れに乱れていて、下腹部に手を当てることさえ怖かった。十数分もしないうちに、検査薬が届いた。綾香は玄関へ飛んでいって包みを開け、検査薬を彼女に渡した。「使い方はわかる?」「……わかるわ」梨花は自分で使ったことこそなかったが、常識として知っていた。彼女は洗面所に入り、深く息を吸い込んでから、勇気を振り絞って検査をした。まだ時期が早いせいか、二本目の線は薄い色だった。だがそれは紛れもなく、彼女が妊娠している事実を告げていた。竜也の子を宿したのだ。彼女のお腹の中に、今この瞬間、小さな命が宿っている。ドアの外で待つ綾香も、気が気ではなかった。梨花と竜也の今の関係を考えれば、妊娠するには最悪のタイミングだ。もし将来、篤子のせいで二人が決裂し、仇同士にでもなれば、板挟みになる子供が不憫すぎる。梨花は根が理性的な人間だ。おそらくこの子を産まないだろう。だが中絶手術は、女性の体に大きな負担をかける……そう思うと、綾香は居ても立ってもいられず、トイレに飛び込みたい衝動に駆られた。慌ててドアを叩いた。「梨花、どう?わかった?一本でダメなら、もう一本あるから」言い終わらないうちに、内側からドアが開いた。視線を落とすと
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第368話

「私……」綾香には彼女なりの理屈があるようだ。「私が精神的なパパになってあげる。竜也が父親になるより、私の方が絶対マシでしょ?」梨花は少し考えてみたが、確かにその通りだと思えた。あの傲慢で毒舌な竜也が父親になる姿など、どうしても想像できない。赤ん坊がミルクを欲しがって泣き叫んでも、彼は眉をひそめてこう言うに違いない。「五体満足なんだろ、自分で作れ。ついでに俺に水を汲んでこい」そう想像すると、彼女は深く納得して綾香を見た。「ええ、間違いないわ」「じゃあ、まだ焼肉食べる?」綾香はテーブルいっぱいの食材を見て、心配そうに尋ねた。「食べられる?何か別のものを頼もうか?」「食べられるどころじゃないわ」梨花は思わず吹き出した。「もうお腹ペコペコよ。ここにあるもの全部平らげちゃいそう」お酒は飲めなくなってしまったが、新しい命が訪れた喜びを噛み締めながら、二人は心ゆくまで食事を楽しんだ。綾香は梨花に水を差したくなかったが、注意せずにはいられなかった。「竜也のことはどうするつもり?もし彼に知られたら……」親権争いは避けられないだろう。梨花では、彼に勝てない。十月十日苦労して産んでも、結局は他人のために骨を折るだけになってしまう。梨花は瑞々しいスイカを頬張りながら、ホットプレートの肉をひっくり返し、迷いのない口調で言った。「それなら、彼には知らせないわ」今は先のことをあれこれ考えていられない。ただ一つ確かなのは、この子を産むという決意だけだ。二人は深夜まで語り合い、そのままソファで毛布にくるまり、折り重なるようにして眠りに落ちた。翌日、梨花が寝ぼけ眼で毛布をのけて起き上がると、チャイムの音が聞こえた。時間を確認しつつ、スリッパを引きずってドアを開けに行った。「あら、起きたばかりかしら?」智子が二つの保冷バッグを下げてドアの外に立っていた。梨花がまだ眠そうなのを見て、表情をさらに綻ばせた。「ごめんなさいね、もっと遅くに来ればよかったわ。起こしちゃったかしら?」「いえいえ、そんな」梨花はバツが悪そうに鼻をさすった。「もうお昼ですもんね。昨夜寝るのが遅くなっちゃって……どうぞ、入ってください」昨夜の妊娠発覚は嬉しいサプライズだったが、心が乱れてしまっ
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第369話

綾香は、彼女が智子に対してこれほど正直に話すのを見て、何も言わなかった。智子は目を丸くして、慌てて彼女を座らせた。「妊娠って?いつわかったの?まだ初期でしょう。一番大事な時期なんだから、無理しちゃだめよ。安定期に入るまでは油断できないんだから」そう言いかけて、彼女は額をポンと叩いて笑った。「やだ、私ったら。あなた自身が医者だってこと、うっかり忘れてたわ」この知らせに、智子は喜びと悲しみが入り混じった複雑な心境だった。梨花のために喜ぶ一方で、あのバカ孫には、完全にチャンスがなくなったことを嘆かずにはいられなかったのだ。梨花は笑顔で答えた。「わかったばかりです。昨夜に気づいたので、智子さんが最初に知ったんですよ。今のところ順調ですから、心配しないでください」「それならよかったわ」智子は二人を見て、食事を勧めた。「さあ、食べて!もうこんな時間よ。これからは規則正しく食事を摂らないとね。赤ちゃんに食べた栄養を持っていかれちゃうんだから」例の醤油漬けは、結局すべて綾香の胃袋に収まった。綾香は絶賛した。「智子さん、本当に美味しい!お店で食べるよりずっと美味しいですよ」「口に合ったなら何よりよ」智子は微笑んで続けた。「自家製の味噌も持ってきたんだ。大根、ピーマン、人参など野菜を漬け込んで食べるのが一番いいのよ」「了解です!」綾香は明るく答えた。「安心してください、これからは料理をするようなことは梨花にはさせません。私がやりますから」しばらくおしゃべりを楽しんだ後、智子は帰る支度を始めた。梨花はエレベーターホールまで見送りに出たが、ふとクリニックのことを思い出し、念を押した。「智子さん、私の妊娠のこと、内緒にしておいてくださいね」でないと、もし桃子の耳に入ったら、またどんなトラブルになるかわからない。ましてや、噂が広まって竜也の耳に入ったら、さらに厄介なことになる。智子はそこまで深く考えてはいなかったが、すぐに頷いた。「ええ、わかったわ。言われなくても内緒にしておくつもりよ。最初の三ヶ月は、あまり広めるものじゃないしね」エレベーターが来る前に、智子は梨花を家に帰らせ、一人で乗り込んだ。黒塗りの高級車の中で待機していた運転手の六郎は、智子が出てくるのを見ると、す
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第370話

「なんであの漢方医を紹介してくれないんだ?」「あんたがグズグズしてるからよ。もう紹介できないわ、あの子は今……」妊娠してるんだから。智子は言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。竜也は怪しんだ。「今はどうしたって?」「なんでもない、なんでもないわよ。とにかく、別の人を紹介してあげるから」竜也は頭痛を覚えたように眉間を揉んだ。「今度は誰だ?」海人もここぞとばかりに追い打ちをかける。「おばあ様、どんどんお見合いをセッティングしてくださいよ。こいつが行かないなら、俺が付き添いますから」「あの漢方医のお友達よ」智子は少し考えて、思い出した。「確か綾香って……」竜也は不意に咳払いをし、からかうような視線を海人に向けた。「付き添うって?」「……」海人の顔色は青ざめた。野次馬根性で首を突っ込んだら、まさか自分が巻き込まれるとは。智子は彼らのやり取りに気づかず、話し続けていた。「明るくていい子よ。独身だって聞いたし、弁護士なんだって……」「おばあ様!」海人は飛びかかって竜也のスマホを奪い取り、咳払いをした。「さっきのは冗談ですよ。竜也のやつ、彼女との関係は超安定してますから。すぐに嫁さんになって連れて帰りますよ。これから会議なんで、失礼します。おばあ様も元気でね!」そう言うと、彼は素早く電話を切り、スマホを竜也に投げ返した。竜也は軽々とスマホを受け止め、横目で彼を睨んだ。「息を吐くように嘘をつくな」「お前の真似をしただけだろ?」海人は悪びれもせず、理路整然と言った。「それに、何年もずっと片思いし続けてるんだ。これ以上安定してる関係もないだろ?」「うっせえ」竜也は苛立ち紛れに罵った。梨花が部屋に戻ると、綾香はすでにダイニングを片付けていた。梨花は思わず笑いながらからかった。「本気でいいパパになるつもり?」「当たり前でしょ」綾香は手を洗い終えると、ソファに倒れ込んだ。「妊婦のあなたに家事をさせて、私がゴロゴロしてたら、バチが当たって雷に打たれちゃうわ」綾香の母が弟を妊娠していた時、彼女は四歳だった。今でも思い出せる記憶の断片の中では、父はいつも当たり前のような顔でソファに寝そべってテレビを見ていた。一方、母は大きなお腹を抱えて、
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