All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

茉祐子はついに堪忍袋の緒が切れた。「この不細工男!あんたに私の何がわかるっていうの!百八十センチですって?どう好意的に見積もっても、百六十五センチもないじゃない!こんな詐欺みたいな条件だってわかってたら、最初からお見合いになんて来なかったわよ!」瑛一は、一番のコンプレックスである身長の話を持ち出されると、何より腹が立った。これは生まれつきの骨格であり、努力でどうにかなるものではないのだ。男のプライドを傷つけられ、皮肉たっぷりに言い返した。「海外で博士号まで取っておいて、それが君の言う品位というものか?男の価値は才能と能力だよ。身長がそんなに結婚に重要なのか?」茉祐子は冷たく鼻で笑った。「重要じゃないなら、なんで必死にシークレットブーツで底上げしてるのよ!その冴えない顔と貧相な身長がなければ、未だに誰にも相手にされず独り身だとは思わないの!?」瑛一の顔が、屈辱と怒りで真っ赤に染まった。これまで何度もお見合いを重ねてきたが、面と向かってここまで完膚なきまでにこき下ろされたことは一度もなかった。「お互いさまでしょう!君だって一体どこが優れているというのか!勘違いしているのか?ごく平凡で華がないくせに。うちの会社の受付嬢の方が、よっぽど愛嬌があって可愛らしい!」「……受付嬢と、この私を比べたの?」茉祐子は、泥を塗られたように深く侮辱されたと感じた。名門・秦家の令嬢で、海外名門大学の博士号を持ち、羽弥市の社交界を見回しても、自分より優れた女性など両手で数えるほどしかいないのだ。それを、こんな取るに足らない男に――怒りで震えながら立ち上がった茉祐子は、テーブルの上の豚の角煮が盛られた皿をひっ掴むと、そのまま憎き相手の顔に向けて思い切り投げつけた。まさか茉祐子がここまで常識に欠け、下品な振る舞いに及ぶとは、瑛一も絶句した。お見合いが破談になったからといって、まるでその辺のヒステリックな女性のように食べ物を投げてくるとは。もう手加減してやる必要はないと判断した瑛一は、顔にかかったタレを拭いもせず、テーブルの上の青菜の炒め物の皿を掴み、茉祐子に向かって力いっぱい投げ返した。お気に入りの高級ブランドのスカートが油で汚れた茉祐子は、完全に理性を失った。金切り声を上げながらテーブルの熱いスープのボウルを手に取り、相手の頭からぶ
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第682話

「折半ですって!?」茉祐子は顔を真っ赤にして叫んだ。「この最低男!お見合いの席で割り勘!?どういう神経してるのよ!」彼女のこれまでのお見合いでは、男性が必ず全額をスマートに払うものだと当たり前のように思っていた。女性である自分が、ましてやこんな最悪な見合いの席で、一円たりとも支払う筋合いはない、と。瑛一は皮肉たっぷりに口角を上げた。「君とはもう何の関係もない。なぜ私が、君の分まで払ってやらなければならないのか。おまけに食べ物で私の高い服を汚した。教養のある私だから自制してやっているが、そうでなければ思い切りビンタのひとつも食らわせているところだ。名門の博士様が、その辺の無教養なオバサン以下とはね!」それだけ言い捨てると、彼はウェイターに黄金色の名刺を一枚渡した。「先に失礼します。損害を計算したら後でこちらに連絡を。秘書に振り込ませるから」羽弥市でも名の知れた会社の社長とあれば、ウェイターも踏み倒しを心配する必要はない。瑛一は胸を張り、堂々とレストランから立ち去っていった。呆然とその背中を見送った茉祐子は、今すぐ狂ったように叫び出したいのを、周囲の冷ややかな目でどうにか堪え、震える手でブラックカードをウェイターに突きつけた。「折半にしてやるわよ!あんな最低男の金なんて一円もいらないわ、顔を思い出すだけで吐き気がする!」ウェイターは散々なだめすかして、ようやくこの「厄介なお客様」を追い出すように外へと送り出した。その頃。智美は、隣のケーキ屋のガラス越しに、茉祐子と男性が食べ物を投げ合い、醜く口論するその一部始終を静かに目撃していた。一体何があれば、いい歳をしたあの男性も茉祐子も、大勢の客の前であそこまで理性を失って火花を散らすことができるのか、と少し不思議に思った。「お客様、お包みしました」店員の声に我に返った智美は、ケーキの箱が入った袋を受け取って優しくお礼を言い、店の外へ出た。ちょうどそのとき、油やスープで散々な姿になった茉祐子が、レストランから足早に出てくるところだった。二人の目が、至近距離でぴたりとかち合った。智美は表情を一切変えず、静かに先に視線を外した。茉祐子は、智美が隣のケーキ屋から出てきたのを見た瞬間、全身の血が逆流するような屈辱と怒りが一気に押し寄せてきた。――智美が、ずっと隣にい
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第683話

茉祐子はもともと聡明な女だ。智美の言葉の真意など、痛いほどわかっていた。かつては彼女自身も、自立した女性としての生き方を心から信じ、誇りに思っていたのだ。お金も能力も才能も、すべて自分の手で手に入れた。たとえ結婚しなくても、自分の価値は揺るがず、十分に幸せに生きていける――そう強く信じていた。では、一体いつからその確固たる信念が揺らいでしまったのだろう。少しずつ、だが確実に重ねていく年齢。親からの絶え間ない結婚への催促。周囲の友人たちが次々と釣り合いの取れた相手と結ばれ、幸せな家庭を築いていくなか、自分だけが独り身で取り残され、お見合いの席に出るたびに惨めな思いを味わって傷ついていく。気づけば、以前信じていた己の価値観を、自分自身で疑うようになっていた。これほど優秀で完璧な自分が、なぜ同じように優秀な相手を見つけられないのか。なぜ男は皆こんなにも表面だけを見て、自分の内面の本当の美しさに気づこうとしないのか。母親からの絶え間ないプレッシャーが、真綿で首を絞められるような圧迫感で、じわじわと彼女の自信を奪っていったのだ。いつしか茉祐子は、呪いのようにこう思うようになっていた。完璧な男を捕まえられなければ、自分の人生は失敗なのだ、と。とはいえ、智美の言葉がどれだけ正論で的を射ていようと、だからどうしたというのか。この顔がいいだけの成金女が、なぜ上から目線で自分の人生を語れるというのか。自分が手に入れられなかった完璧な男を、まんまと手に入れたから?茉祐子は湧き上がる羞恥心を怒りで誤魔化し、冷ややかに笑い飛ばした。「いい男と結婚したからって、自分が自立した立派な女だとでも思ってるわけ?笑わせないでよ。言っておくけど、悠人と結婚できなかったとしても、私の方が絶対にあんたより上よ!」憎々しげにそう言い捨てると、彼女はヒールを鳴らして足早にその場から立ち去っていった。智美は遠ざかる背中を見送り、小さくため息をついた。余計なことを言った、と思った。あの気性の激しさでは、人の言葉を素直に受け取ることは到底できないだろう。頑として自分だけが正しいと信じて疑わない、哀れな女だ。小さく首を振り、智美は迎えの車に乗り込んだ。ちょうど運転手が弁当を二つ抱えて戻ってきたところだった。智美がケーキの袋を持って乗り込むのを見て、
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第684話

「……そのリスト、見せてちょうだい。私が直接聞いてみるわ」梨沙子は頼もしそうにうなずいた。「お願いするわ」リストを持って自分のオフィスに戻った智美は、退会した生徒の保護者の名前を一つひとつ丹念に確認していった。すると、香川という苗字の女性の名前が目に留まった。住所が香川恵美梨の家の近くと重なっている。――もしかしたら、恵美梨の夫の親族かもしれない。そう推測した智美は、すぐに恵美梨に電話をかけた。手短に挨拶を済ませて用件を告げると、恵美梨はすぐに思い出したように答えた。「香川聡子(かがわ さとこ)さんね?うちの主人の従弟の奥さんよ。何か用があるなら、私から直接聞いてみましょうか?」先日のオークションでの騒動の件でまだ智美に引け目を感じ、気にかけてくれているのか、恵美梨は快く引き受けてくれた。智美は率直に事情を話した。「実はお孫さんお二人が、三ヶ月ほどうちのセンターでピアノを習ってくださっていたのですが、突然更新が止まってしまって。以前は担当の先生のことも褒めてくださっていたのに、何か失礼があったのではないかと心配になりまして。決して責めているわけではなく、至らぬ点があれば改善したいと思いまして」社交界を渡り歩き、投資や経営にも関わってきた恵美梨には、智美の言葉の裏にある焦りがすぐに伝わった。智美の経営する音楽教室は、羽弥市のなかでもトップクラスで、環境も講師陣の質も業界屈指だ。岡田家という絶対的な後ろ盾もあり、我が子を通わせたいと願う裕福な家庭は列をなしているはずなのだ。「わかったわ。そういうことなら、すぐ聞いてみるわね」恵美梨は仕事が早かった。一時間も経たないうちに、智美のスマホに折り返しの電話がかかってきた。「智美さん、こういう事情みたいよ」電話口の恵美梨の声は、先ほどとは打って変わって少し重苦しかった。「彼女が言うにはね、あなたのセンターで、先生が生徒に酷い体罰を加えているという噂を聞いて、孫を通わせるのが怖くなったんですって。でも、岡田家の若奥様であるあなたに直接苦情を言って、波風を立てたくなかったみたいなの……だから、退会の本当の理由を言えなかったみたい」「……そんなはずありません」智美は耳を疑い、絶句した。「うちの先生は全員名門大学の音楽科出身で、指導の研修も徹底しています。生徒へ
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第685話

智美も全く腑に落ちなかった。ひとまず警察に被害届を出すことにした。岡田家の若奥様からの通報ということもあり、担当の警察官は迅速かつ丁寧に対応してくれた。だが、専門の顔認識ソフトを使って照合した結果、映像に映っている教師と子どもの二人は巧妙にAIで顔を差し替えられており、元の人物を特定できないことがわかった。智美の胸に、重く暗い影が落ちた。犯人が見つかってこの悪質なフェイク映像の真実を公表できないかぎり、教室はこの「体罰教室」という汚名を背負い続けることになる。客離れは止まらず、来月に控える新教室のオープンにも、深刻なダメージを与えるだろう。その日、帰宅した智美の表情は、どこか沈んでいた。悠人が帰宅すると、リビングのソファで智美が深刻な顔で誰かとメッセージのやりとりをしており、その美しい顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。彼女は、仕事のトラブルを家に持ち込まない気丈な人だ。今日あれだけ表情が暗いということは、相当なトラブルを抱えているのだろう。だからといって、悠人は直接「俺が手を貸そうか」などと、無粋な口出しはしなかった。智美には智美の仕事に対するプライドがある。何でもかんでも男に頼ればいいとは思っていない、という彼女の気高さを、悠人は誰よりもよく知っていた。こうなれば、裏でこっそり自分で調べるしかない。悠人は洗面所へ向かいながら、秘書に簡潔な指示を送った。すぐに返信が届いた。【承知いたしました。すぐに裏で調査を進めます】スマホを置いた悠人は、何食わぬ顔でリビングに戻り、智美の向かいのソファに腰を下ろした。「今夜は、ちゃんと食べたか?」スマホから顔を上げた智美は、ふっと表情を和らげてうなずいた。「ええ、もちろん」悠人は手を伸ばし、そっと智美の艶やかな髪を撫でた。そして、囁くような低く柔らかな声で言った。「仕事で嫌なことがあったら、俺に教えてくれ」「……もちろんよ」智美は嬉しそうに微笑み、スマホを伏せてテーブルにしまった。「あなたは私の旦那様で、この世で一番頼りになる人なんだから、困ったときは遠慮するつもりはないわ」悠人は苦笑いした。頼ってほしくないとは思わない。むしろ、強がって一人で抱え込まれる方が、彼にとってはよっぽど心配なのだ。翌朝、智美は出勤した。オフィスにいると、
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第686話

奥様方の何人かは、当初は講座を辞めるつもりだったものの、直接電話をかけてきたのが智美本人だと知ると、態度は一変して丁重なものになった。背後にいる岡田家の顔に泥を塗るわけにはいかないからだ。智美は動画の騒動の経緯を説明し、警察の調書のコピーも提示した。最初はまだ半信半疑だった奥様方も、公的な書類を目の当たりにして、ようやく智美の言葉を信じてくれた。「受講を続けるかどうかは、皆様のご意思にお任せいたします。ただ、周囲の誤解だけはどうか解いていただきたいのです」――智美はそう言って、電話越しに丁寧に頭を下げた。奥様方は皆、快く引き受けてくれた。きっとお力になりますと、口々に答えてくれたのだ。智美は心から礼を言った。すべての電話をかけ終えた頃には、もうすぐ昼になろうとしていた。美穂からメッセージが届く。開くと、数枚の宝石の写真と、短い一文が添えられていた。【お義母さんと宝飾店を見て回ってるんだけど、何か気に入るものがあったら教えてくれる?】ひと通り眺めていると、ルビーのブレスレットにふと見覚えがある気がして、智美は美穂に聞いた。【このルビーのブレスレット、おいくらなの?】美穂は智美が気に入ったのだと思い、店員に確認してから返信してきた。【三百万円だって。気に入ったの?】それを見て、智美はわずかに眉を寄せた。以前、愛禾の履歴書を見たことがある。ごく一般的な家庭の出身で、月収もそれほど高くはない。数百万のブレスレットは、愛禾にとって相当な大金のはずだ。ある考えが、智美の頭をよぎった。画面の向こうで、美穂が待っている。【智美?どうしたの?】智美は慌てて指を動かした。【大丈夫。今のところ、特に気に入ったものはないかも】美穂はすかさず返信した。【このブランドが好みじゃないなら、今度別のお店に連れてってあげるわね】智美はふふと笑った。【ありがとう】チャットを終えると、すぐにボディーガードを部屋に呼んだ。「智美様」静かに入ってきたのは川栄(かわえい)だった。ドアを閉めさせてから、智美は声を落とした。「しばらくは私のそばにいなくていいわ。その代わり、徳永愛禾の様子を見張っていてほしいの」智美の専属ボディーガードは全部で四人おり、川栄が動いても護衛に隙は生じない。かねてより悠人から「奥
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第687話

香代子は鼻で笑った。【私を甘く見ないでよ。私の名前を使って新人を売り出そうなんて、絶対許さない。育てるなら、自分で見つけた子を育てる。それが先でしょ。ねえ智美、私たちってマネジメント会社を始めようとしてたんじゃなかったっけ?そろそろ新人を探し始めてもいいんじゃないかな?羽弥市の音楽系の学校の先生とは顔なじみが多いし、才能のある子を見つけるのは難しくないと思う】智美も頷いた。【そうしましょう】二日ほど経った頃、川栄が愛禾の件で報告にやって来た。「……智美様、この二日間ずっと徳永を見張っておりました。毎日仕事と家の往復で、特に変わった様子はありませんでした。ただ昨夜だけ、サングラスで顔を隠した女性と会っていました」そう言って、盗撮した写真を智美に渡す。写真を見た智美は、思わず目を見張った。昨夜、愛禾が会っていた相手――それは、茉祐子だったのだ。川栄は警戒されないよう距離を置いていたため、二人の会話までは聞き取れなかった。「何を話していたかまでは分かりませんでしたが、秦さんが徳永に封筒を渡しているのははっきりと見えました。別れてから、徳永はすぐに銀行へ行き、ATMのそばで封筒の中身を確認してから、自分の口座に入金していました」いったいどんな理由で、茉祐子は愛禾に金を渡したのだろう。智美は川栄に言った。「分かったわ。ご苦労さま。後でボーナスを出すわね」川栄は人懐っこい笑みを浮かべた。「いいえ、お役に立てるのは当然のことですから」川栄が部屋を出た後、智美は恵美梨に連絡して茉祐子の電話番号を教えてもらい、直接電話をかけた。一方その頃、茉祐子は母親との電話を切ったばかりで、気が滅入っていた。紹介されるのはどれも冴えない男ばかりだというのに「いい人よ」などと言って積極的に会ってみるよう勧めてくる。虫唾が走るような男たちに近づくなど、茉祐子の高いプライドが許さなかった。スマホが鳴った。誰かも確認せず、苛立ち交じりにとりあえず応答した。「秦茉祐子。私よ」澄んでいて、よく通る声。すぐに聞き覚えがあった。「……智美?何か用?」二人は互いに毛嫌いしている。お互い、無駄な時間は使いたくない。智美は単刀直入に言った。「あなた、私のアシスタントの徳永愛禾と会ったでしょ?」図星を突かれ、茉祐子は一瞬固まっ
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第688話

たかが智美のくせに、何様のつもりなの。岡田家の後ろ盾があるだけで、なければ何者でもないくせに。そこに香純からまた電話がかかってきた。茉祐子はしぶしぶ電話に出た。「お母さん、また何よ?」てっきりまたお見合いの話だと思ったが、今回は正当な用件だった。「お父さんがね、最近岡田家と大きなプロジェクトを組んでいるの。しばらくは大人しくしてなさい。悠人くんのことはもう追いかけないようにね」茉祐子の顔がこわばった。「追いかけるってどういう意味よ、お母さん。最近はちゃんとお見合いしてるじゃない」先日のチャリティーパーティーで、悠人が智美のために立ち上がったあの瞬間から、茉祐子はとうに悟っていた――自分と彼の間に未来などないと。それでも心の底のわだかまりだけは消えなかった。せめて智美に少し痛い思いをさせてやりたい、その一念だけが残っていたのだ。香純も娘のプライドの高さはよく知っている。胸の内でどれほど焦がれていようと、最後の一線は踏み越えないはずだと。「とにかく、もう分かってると思うけど、悠人くんが離婚してあなたと一緒になるなんてことは絶対にないわ。親戚になるのは無理でも、ビジネスの付き合いは続けていかないといけないの。岡田家は羽弥市でも指折りの存在なのに、この二年でさらに大きくなってるし……秦家はそこまでの勢いはないのよ。安定してはいるけど、この先どうなるか分からないわ……」香純は溜め息をついた。「あなたが急に仕事を辞めて帰国したこと、今でも惜しいと思っているのよ。羽弥市の男が嫌なら、海外で見つければよかったのに。あなたの立派な経歴は、お相手を探す上で間違いなく強みになるんだから」香純は娘を大切に思っているが、外見が地味な分、家柄や学歴、職歴で補わなければ、よい縁談はますます遠のくと分かっていた。茉祐子は唇を噛んだ。「後悔はしてるわよ。でも、辞めたものは仕方ないじゃない」少し間を置いて、迷いながら聞いた。「ねえ、お母さん。もし私が智美に意地悪したことが悠人に知れても、大丈夫よね?うちのビジネスには関係ないわよね?」娘の言葉を聞いた瞬間、香純の顔色が一変した。「あなた、何を言い出すの!?この何日か、社交界の奥様方から聞いてるのよ。智美さんが妊娠してから、悠人くんが毎日のように送り迎えしているって。羽弥市で、あそこ
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第689話

茉祐子は上流階級の縁談からは完全に外され、羽弥市の名家へ嫁ぐことなど、もはや夢のまた夢となっていた。以前、彼女と見合いをしたことのある瑛一は、多額の費用を投じてSNSで無理やりトレンド入りさせ、「少しは常識を身につけろ」と公然と非難した。茉祐子も負けじとSNS上で反論し、泥沼の言い争いを繰り広げた結果、すっかり世間の笑いものになっていた。一方、愛禾は茉祐子の謝罪ニュースを目にして、頭の中が真っ白になっていた。茉祐子は動画を誰に撮らせたかまでは明かしていない。それでも、自分が彼女と密会し、報酬を受け取った事実は――遅かれ早かれ、必ず明るみに出る。二日間悩み抜いた末、愛禾は自分から智美のもとへ向かう決心をした。愛禾が執務室を訪ねてきても、智美は少しも驚く素振りを見せなかった。デスクに向かい書類に目を通したまま、顔も上げずに淡々と問いかける。「何か用?」愛禾はしばらくためらっていたが、やがて絞り出すように口を開いた。「智美さん、お話が……いえ、謝罪させてください……」智美は探るような笑みを浮かべる。「随分と歯切れが悪いわね。自分が何をしたのか、説明してくれる?」その静かな視線を受けた瞬間、愛禾は背筋がぞくりとし、心臓が縮み上がるのを感じた。スマホをぎゅっと握りしめ、震える声で全てを打ち明けた。「あの動画は……私が撮りました。役者を雇って、皆が帰った後に事務所に忍び込んで……防犯カメラの映像も消しました。見つかるのが怖くて、ディープフェイクで顔を合成して……」智美の表情が、すっと凍りついた。「私のアシスタントになったのも、秦茉祐子に指示されてのことなの?」愛禾は辛そうに頷くしかなかった。智美は椅子の背もたれに深く体を預け、ゆっくりと告げた。「もし私があなたを訴えたら、どうなるか分かっているわね?」業務上横領、偽造動画の作成、そして名誉毀損――あの茉祐子でさえ公開謝罪に追い込まれたのだと思い至り、愛禾の恐怖は頂点に達していた。自分の人生を、こんな形で終わらせたくはない。確かに、あの時は欲に目が眩んでいた。だが、茉祐子が提示した条件は、あまりにも魅力的すぎたのだ。マンションの一室、車一台、そして現金一千万円――普通の家庭に育ち、両親の援助など望むべくもない。この先どれだけ働き続けても、家や車など遠い夢で
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第690話

一理あると思い、智美は頷いた。「じゃあ、一緒に行きましょうか」三人は連れ立って、香代子のスタジオへと向かった。到着すると、智美が彼女たちを引き合わせると、同世代ということもあり、すぐに意気投合して打ち解けた。会議室へ移動し、アシスタントが新人たちを順番に呼び込んでいく。しかし、十数人を見たところで、香代子が耐えきれずアシスタントを呼び、一時中断させた。「……十分間の休憩にしましょう」アシスタントが頷いて部屋を出て行き、会議室のドアがパタンと閉まる。途端に、美穂が率直な感想をこぼした。「……みんな、ちょっと顔が地味じゃない?智美より可愛い子なんてさ、一人もいなかったけど、あの子たちって本当に売れると思う?」香代子も頭が痛そうにこめかみを押さえている。「顔も平凡で、歌も踊りもパッとしなくて……本当に、年々志願者のレベルが下がってる気がするわ」珠里も残念そうに首を横に振った。「ごめんなさい、モデルは別のところで探すことにするわ」珠里のモデルに対する要求基準は、決して低くないのだ。智美は手元に残ったプロフィール用紙をパラパラとめくった。写真はどれも過度に加工されており、見た目だけなら申し分ない。だが、いわゆる「写真詐欺」なのは明白だった。「でも、せっかく来てもらったんだし、最後まで見ましょうよ」その言葉に特に反対もなく、結局最後までオーディションに付き合うことになった。全ての審査が終わり、智美と香代子の手元に残ったのは、わずか二人分のプロフィールだけだった。香代子が真剣な表情で言った。「この二人なら、もう少し育てる余地があると思う。伸びしろがあるなら、契約してみるのも悪くないんじゃないかな」歌に関しては香代子が一番の専門家だ。智美も素直に同意して頷いた。「ええ、そうしましょう」審査が終わり、美穂が少し物足りなさそうに智美へ声をかけた。「すっかり遅くなっちゃったけど、もう帰る?一緒に戻りましょうよ」智美は手元の時計を確認してから答える。「悠人が夕食に誘ってくれているから、これから会社へ彼を迎えに行こうかと思ってるの。美穂さんも一緒に行く?」美穂はあからさまに眉をひそめた。「行ったら、絶対和也とも一緒に食べることになるじゃない」人前でも平気でイチャついてくる彼の甘えん坊ぶりは、今さら言うまでもなかった。
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