All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

悠人は謙太の皿に焼きたてのトーストを一枚のせた。「いいから、早く朝ごはんを食べなさい」謙太は素直にトーストをかじり、案の定、先ほどの疑問などすっかり忘れてしまった。智美は席につきながら尋ねた。「お義兄さんとお義姉さんは?」すると、謙太が真っ先に答えた。「今日はパパとママの結婚記念日なんだって。昨日の夜、もうバリ島に旅行に行っちゃったよ。明後日には帰ってくるって言ってた」それを聞いて、智美はようやく思い出した。そういえば数日前、美穂が楽しそうにそんな話をしていた。悠人はトーストを一枚取り、丁寧にジャムを塗ってから智美の皿へ置いた。「俺たちの結婚記念日も、どこか旅行に行こう。君の行きたい場所があるなら、世界中どこでもいい」智美は思わず笑ってしまった。何も兄夫婦とそんなところまで張り合わなくてもいいのに。「私たち、二人とも目が回るほど忙しいでしょう?その日は、美味しい食事でもしてお祝いできれば十分よ」時々、悠人は智美のほうが自分以上に仕事人間なのではないかと呆れることがある。とはいえ、彼女に特別な希望がないのなら、その時は自分が先にすべて手配してしまえばいい――悠人は密かにそんなふうに考えた。朝食を終えると、悠人は智美を会社まで車で送っていった。車がオフィスビルの前に着き、まだ智美が降りる前だというのに、一人の女性が慌てて駆け寄ってきた。香月だ。「智美さん、足元に気をつけてくださいね」そう言って、彼女は過保護なほど丁寧に智美の腕を取ろうとした。智美はゆっくりと車を降りながら苦笑した。「そんなに大げさにしなくても大丈夫よ。一人でちゃんと降りられるから」香月はにっこりと愛想よく微笑む。「そんなわけないですよ。智美さんはいま妊娠中なんですから、壊れ物よりも大事に扱わなきゃいけないくらいなんですよ」智美が車を降りると、悠人も運転席から降りてきた。その手には智美のバッグが握られている。香月はすぐさまそのバッグに手を伸ばした。「岡田社長、智美さんのバッグ、私が持ちます」悠人は何も言わず、そのまま無造作に彼女にバッグを渡した。すると香月は、唐突に自分のバッグから数枚のデザイン画を取り出し、悠人に向かって差し出した。「前に智美さんからベビールームを準備していると伺ったので、デザイナーの友達
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第662話

「もう、絶対連れていってくださいよぉ!」香月は甘ったるい声を出して、何度も食い下がってきた。「私が行けば、その場もパッと明るくなりますし!」ここ二日ほどの彼女の態度は、いくらなんでも常軌を逸している――智美にはそんなふうに思えてならなかった。自分が比較的話しやすい上司だからといって、ここまで仕事に対して「情熱的」に振る舞うのは、さすがに不自然だ。「本当に大丈夫よ。あなたは今やっている仕事を、責任を持ってきちんと終わらせておいてちょうだい」智美にきっぱりとそう言われ、香月はひとまず引き下がるしかなかった。「……わかりました」オフィスに着くと、ちょうど愛禾が整理した書類を持ってやって来た。そして、淹れたての温かいローズティーをそっとデスクに置いてくれる。「智美さん、昨日お話しした報告書をまとめました。お手すきの際にご確認ください。あと、お茶もどうぞ」「ありがとう」智美はうなずき、報告書を受け取ってさっそく目を通した。愛禾は余計なおしゃべりを一切せず、智美が読み終えて特に問題がなさそうなのを確認すると、やわらかく控えめな声で言った。「問題なさそうでしたら、私は自分の業務に戻りますね」「ええ、お願いね」仕事ぶりも丁寧できちんとしているし、何より口数が少なくて出しゃばらない。そういう真面目な愛禾を見ていると、智美はつい、先ほどの香月の態度と比べてしまう。新店舗の改装が無事に終わったら、香月は店舗の事務へ回し、自分の直属のアシスタントは愛禾一人いれば十分かもしれない――智美の頭に、ふとそんな考えがよぎった。午後になると、智美のスマホに香川恵美梨(かがわ えみり)から電話がかかってきた。「智美さん、今お電話よろしいかしら?」智美はパソコンのマウスから手を離し、眉間を軽く押さえながら答える。「ええ、大丈夫ですよ。どうされましたか?」恵美梨とは、何度か出席した社交パーティーの場で知り合った仲だった。慈善活動にとても熱心で、人柄も穏やかで上品であり、智美は彼女の在り方に深い好感を抱いていた。連絡先を交換してから何度かやり取りをするうちに、自然と親しくなっていたのだ。恵美梨は切り出した。「実は今度、生活に困窮している地域の子どもたちへ物資を寄付するために、チャリティーオークションを兼ねたパーティーを開くことになったの。よ
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第663話

【前よりはずっと良くなったけれど、さすがに昔みたいに完璧には戻らないわね】智美がそう正直に返すと、香代子はすぐに励ますように続けた。【まあ、怪我ってそういうものだよね。でも、落ち込みすぎないでよ。今の智美はもう立派な社長夫人なんだし、前みたいにしょっちゅう人前で演奏するわけでもないんだからさ。そういえば、赤ちゃんを授かったんだって?体調のほうは大丈夫?】それから二人は、妊娠生活について、しばらく他愛のないやり取りを続けた。香代子は愛娘の可愛らしい写真まで送ってきてくれて、智美は思わず目を細める。写真に写る女の子は、驚くほど香代子によく似ていた。【この子、本当に香代子にそっくりね。歌の才能もしっかり受け継いでいるのかしら?】その問いに、香代子はまた大笑いしているスタンプを返してきた。【全然だよ!試しに歌わせてみたら結構音程が危うくてさ。将来、音楽の道に進むのはちょっと厳しそうかな(笑)】智美はくすっと声を出して笑った。楽しいやり取りを終えると、彼女は気持ちを切り替えてまた仕事へ戻った。定時を過ぎた頃、悠人が車で迎えに来た。そこへ、現場から戻ってきたばかりの香月が二人に擦り寄ってきた。「岡田社長、智美さん、お疲れ様です!」そう元気よく挨拶してから、香月は隠しきれない期待の目を向けて智美を見つめてくる。彼女が何を望んでいるのかは、智美にわかっていた。だが彼女はただ淡く微笑んだだけで、やんわりと拒絶の意思を示した。すると香月は、今度は悠人へと標的を変え、甘ったるい媚びるような口調で言った。「岡田社長ぉ、智美さんが夜の食事会に行かれるなら、そばに気の利くアシスタントが一人いたほうが、何かと安心じゃないですか?私もご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」悠人と智美は、そこで一度だけ静かに視線を交わした。互いに相手の胸の内を察しているような、意味ありげな目配せだった。智美はあえて何も言わず、断る役目を悠人に委ねた。だが悠人は、不意に面白がるような笑みを浮かべた。「いいよ。乗りなさい」まさか本当に許されるとは思っていなかったのだろう。香月は目を輝かせ、助手席のドアを嬉々として開けた。智美と悠人は、揃って後部座席に乗り込む。車が滑らかに走り出すと、悠人はすぐに手元のタブレットを開いて仕事
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第664話

すると、他の誰かが笑いながら口を挟んだ。「じゃあ、せめてどんな子が好みかくらい言ってみろよ。うちの妻の知り合いにフリーのいい子がいないか、俺からも聞いてみてやるから」そのうちの一人が、冗談半分で堂々と言ってのける。「じゃあ遠慮なく言わせてもらう。智美さんの半分でもお綺麗なら、それで十分だ。あとの細かい条件は、そこまでこだわらない」紹介役を買って出た男は、呆れたようにその肩を軽く小突いた。「お前、いい歳して夢見すぎだろ。智美さんの半分の美貌でも、世間じゃ十分すぎるほど高嶺の花だわ。そんな美人が、お前なんかに釣り合うかよ」途端に、部屋中がどっと明るい笑いに包まれた。そんな気の置けないやり取りを聞きながら、智美はただ静かに微笑み、悠人から気遣わしげに手渡されたフルーツジュースを口に運ぶ。悠人の同級生たちは、育ちがいいのか誰もタバコを吸わず、お酒もたしなむ程度にしか飲まない。密室の部屋の空気が少しも淀まないのは、そのせいだ。悠人が身重の智美をわざわざここへ連れてきたのも、ここなら安心して過ごせる場だとわかっていたからだろう。一方で香月は、先ほどから独身の二人を値踏みするようにじろじろと眺めていた。だが、彼らが身につけている腕時計がどちらも名もないメーカーの安物だとわかると、露骨に興味を失ったように視線を外した。彼女がわざわざ智美のアシスタントの仕事に就いたのは、金と権力のある上流階級の男と知り合うためだ。もともとは、さすがに智美の夫を直接狙うつもりまではなかった。けれど、悠人は若くして莫大な財を築き、容姿も完璧で非の打ち所がない。これ以上の絶好の獲物を探す必要など、どこにもないではないか――香月は本気でそう思い始めていた。食事が終わり、そのあともしばらく席に残って歓談の輪に入っていたものの、智美は次第に退屈を覚え始めていた。男たちだけの内輪の話題には、どうにも興味が持てない。そのかすかな疲労の色に気づいた悠人が、智美の耳元に声を潜めて尋ねた。「疲れたなら、俺も途中で抜けて一緒に帰ろうか」智美は小さく首を振った。「せっかく久しぶりに同級生と会っているのに、主役のあなたが途中で帰ってしまったら悪いでしょう。私は先に運転手に送ってもらうから、全然大丈夫よ」自分だって、親しい友人と集まれば話は尽きないものだ。そう思
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第665話

香月は悠人を見上げ、必死に訴えた。「……本当に痛いんです。どうか助けてください。ご安心ください、岡田社長が私を支えてくれたことは、智美さんには内緒にしますから。智美さんだって、きっと私たちを変に疑ったりしません……」自分では、十分すぎるほどわかりやすく匂わせたつもりだった。智美にさえ知られなければ、自分たちの間に何があっても構わない――そんな下心を隠しもしない、あからさまな誘惑だった。だが、それを聞いた悠人の目は、いっそう冷たくなるばかりだった。その視線に晒された瞬間、香月はたまらない羞恥と惨めさに襲われる。まるで、何か汚らわしいものでも見るような目だった。「残念だが、君はアシスタントには不適格だ。俺から智美に伝えておく。給与は清算させるから、明日から出社しなくていい」さらに悠人は、そばにいたボディガードへ視線を向けた。「彼女を病院へ連れていけ。本当に怪我をしているかどうかは関係ない。治療費はこちらで持つ」「かしこまりました」無表情のまま近づいてきたボディガードに支え起こされながら、香月は唇を噛んだ。実のところ、悠人が羽弥市でグループを取り仕切るようになってから、あの手この手で彼に擦り寄る女は後を絶たなかった。露骨に誘惑する者も、遠回しに匂わせる者もいた。けれど、誰一人として成功したことはない。まして香月は、家柄も、能力も、容姿も、そうした女たちに比べればごく平凡だ。それなのに、どうして自分ならいけると思ってしまったのか。しかも彼女は、よりにもよって智美のアシスタントだ。悠人がそれを知って、なおさら許すはずがなかった。ボディガードに支えられながら、香月は悠人が冷然と背を向けていくのを見つめた。胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が空いたようだった。そこへ冷たい風が吹き込んでくるように、心の芯まで冷え切っていく。――私は、そんなに駄目なんだろうか。爪が掌に食い込むほど強く握りしめているのに、不思議と痛みは感じなかった。家へ戻った智美は、リラックスした部屋着に着替えると、グループチャットのメッセージを開いた。祥衣から、美羽がウェディングドレスを試着している写真が何枚も送られてきている。【私は二枚目がいちばんいいと思うんだけど、どう?】智美も一枚ずつ丁寧に見比べた。美羽はどちらかと
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第666話

智美はデスクチェアに腰を下ろし、パソコンを立ち上げながらちらりと香月を見やった。「昨夜、足をくじいたんじゃなかった?骨折はしてなかったのね」香月は息を詰まらせた。悠人が、昨夜の細かいやり取りまで智美に話していたとは思わなかったのだ。一気に羞恥がこみ上げ、顔が熱くなる。「昨夜は本当に転んで、立てなかったんです。でも私、何もしてません。岡田社長はただ、ボディガードに病院へ連れていかせただけで……」智美は静かに問いかけた。「もし私の夫が、本当にあなたの誘いに乗っていたら、どうなっていたと思う?その時は、私に隠れて付き合うつもりだったの?」香月は慌てて取り繕うように言った。「そんなこと、絶対にありません。私は智美さんを裏切ったりしません。たとえ岡田社長のほうにその気があったとしても、私にはとてもそんな恐れ多いこと……」智美は、彼女の清純そうな顔立ちを眺めながら、不思議そうに首を傾げた。「本当に理解に苦しむわ。恋人が欲しいだけなら、あなたならいくらでも相手は見つかるでしょう?どうして、こんな不道徳なことをしようとしたの?」そこで一拍置き、淡々と続ける。「たぶんあなたは、私が妊娠しているから、夫がよそに目が向きやすいって考えたんでしょうね。だから自分がつけ込む隙もあるって。でも、あなたは私を甘く見すぎたのか、それとも私の夫を甘く見たのかしら。私が彼と結婚したのは、彼が岡田家の人間だからじゃないわ」その言葉を聞きながら、香月は唇を噛んだ。信じていないのは明らかだった。成り上がることに成功した側だからこそ、そんなふうに余裕ぶって言えるのだ――香月の胸の中には、そんなひねくれた思いしか浮かばない。その表情を見ただけで、智美には彼女の考えが手に取るようにわかった。だが、それ以上言い聞かせるつもりもない。「経理部には、給与の精算をお願いしてあるわ。たとえお金持ちの男と結婚できたとしても、最後に頼れるのはやっぱり自分自身よ。安易な道は、一時的な充足感を与えてくれるかもしれない。でも、一生を楽にしてはくれないわ」言いたいことだけを告げて、そこで言葉を切る。あとは彼女が、自分で気づけるかどうかだ。香月も、もう何を言っても智美の考えが変わらないと悟ったのだろう。顔をこわばらせたまま、低い声で言った。「……今までお世話
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第667話

「香代子、いい加減にしろ!まだ無名だった頃、誰が拾ってやったと思ってる?仕事がない時、あちこち頭を下げてお前のために仕事を取ってきたのは誰だ!」荒々しい怒声が、ドア越しにもはっきり響いていた。「恋愛に溺れて、しかも元彼には足を引っ張られて、何度も仕事を失いかけただろ。そのたびに泥を被って、お前のキャリアを守ってきたのは俺だぞ。それなのに今さら恩知らずみたいに、契約解除したいだなんて、どういうつもりだ!」対する香代子は、冷ややかに言い返した。「ええ、そこは感謝してる。あなたがずっと私を見捨てず、仕事の面でも支えてくれたことには、本当に感謝してるわ。でも、私に黙って勝手に交わした無茶なノルマの契約について、私は一度でもあなたを責めた?あの契約を達成するために、この十年、毎日必死で働いてきた。四十度の高熱があっても、雨の中でコンサートをやりきったことだってある」香代子の声には、抑えきれない疲労と怒りが滲んでいた。「毎日あちこち飛び回って、一秒だって気を抜けなかった。どんな地方営業を取ってきても、私は全部引き受けた。狂信的なファンが車にしがみついてきても、ホテルの部屋に潜り込まれても、あなたは『相手は大口の支援者だから、大事にするな、警察には言うな』って、いつもそう言ったでしょう?私は全部我慢したわ。でもそのせいで、こっちはもう精神的に限界だったのよ。最近あなたが取ってくる仕事なんて、なおさら耐えられない。私はただ歌いたいだけなの。別の分野にまで手を広げたいわけじゃない。はっきり言うけど、もうあなたは私のマネージャーには向いてない。考え方が違いすぎるのよ。だから、ここで契約を終わりにしましょう」するとマネージャーの毛利拓郎(もうり たくろう)は、怒りをあらわにした。「俺と契約を切ったら、違約金がいくらになるかわかってるのか?香代子、お前には本当に失望したよ。二人でここまで這い上がってきたのに、お前は今さら俺を裏切るのか。更新しないってことは、もう次の移籍先でも決まってるんじゃないのか?今の俺の人脈と立場があれば、お前一人くらい業界から干すことだってできる。それなりの代償を払う覚悟はできてるんだろうな?」結局、二人の話し合いは決裂した。拓郎はドアを激しく閉め、怒りに任せて部屋を出ていった。智美はしばらく外で待
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第668話

ふと思い出したように、香代子が智美に忠告した。「ここ数日、上流階級のゴシップ記事を追っていたんだけど、智美を悪く書いたニュースを何本か見かけたの。でも、出るそばから消されていたわ。たぶん、あなたの旦那さんの会社の広報が動いたんでしょうね。きっと今の立場を妬んでいる人がいるのよ。智美も気をつけてね。変なふうに利用されたり、陥れられたりしないように」智美は静かにうなずいた。「ええ、わかっているわ」自分が周囲からどう見られているかくらい、智美自身が一番よくわかっていた。再婚の身で、家柄もごく普通。ただ容姿に恵まれていただけで、まんまと玉の輿に乗った――外から見れば、きっとそんなふうに映っているのだろう。そして、誰もがこう考えるのだ。智美にできたのなら、自分にもできるかもしれない、と。けれど、そうした嫉妬の視線やどす黒い思惑を、智美はさして気にしていなかった。今の彼女は、自分の意識のほとんどを仕事へと向けている。愛する人と穏やかに暮らし、幸せな結婚生活を送れるなら、それはもちろん素晴らしいことだ。けれど、もしこの先、悠人との関係に何らかの変化が訪れたとしても、その時の自分には、打ち込める仕事がある。彼と結婚したからといって、自分の人生を彼一人に委ねるつもりなど毛頭なかった。その時、香代子のスマホが鳴った。彼女は通話に応じると、電話越しの長話を聞きながら、次第にうんざりしたように顔をしかめた。「……ええ、そうよ。契約を切りたいのは私よ。これからは個人事務所を立ち上げるつもりだし、今後の仕事に誰かが口を出す必要はないわ……親戚のおじさんに私のマネージャーをやらせる?そんなの、考えるだけ時間の無駄よ」電話を切ると、香代子は腹立たしげにミネラルウォーターを一気に煽った。智美は不思議そうに彼女を見つめた。「どうしたの?」香代子は、いかにも呆れ果てたように肩をすくめた。「毛利が母に、私が契約を解除したがっていることを告げ口したのよ。母は猛反対していて、さっきの電話も私を説得するためだったわ。もちろん、きっぱりと断ったけれど。そしたら今度は、親戚のおじさんを私のマネージャーに据えたらどうかなんて言い出して……そんなの、冗談じゃないわ」そこで彼女は、あからさまに嫌悪感をあらわにして顔をしかめた。「あ
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第669話

香代子とマネジメント会社を共同で立ち上げると決めてから、智美は本腰を入れて準備に取りかかっていた。とはいえ、芸能マネジメントの世界は彼女にとってまったく未知の領域である。ならば、一つ屋根の下に一番頼れる人物がいる。夫から経営のノウハウを借りればいいのだ。その夜。寝室に戻ってきた悠人が目にしたのは、分厚い芸能マネジメントの専門書を広げ、傍らに経営学の本を何冊も積み上げて読み耽る智美の姿だった。悠人はかすかに片眉を上げ、さりげない仕草で腕時計を外しながらネクタイを解いた。「また何か、新しいことを始めようとしているのか?」もうすぐ母親になろうという身で、これほどまでに仕事への意欲を燃やしているとは。智美は手元の本を置き、目を輝かせて悠人を見上げた。「お帰りなさい。ちょうどよかったわ、少し聞きたいことがあったの」「何だ?」「志賀香代子さんが今のマネージャーと契約を解除することになってね。私と一緒にマネジメント会社を立ち上げたいって言ってくれたの。私も、一緒にやってみようかと思って」悠人は少し眉を寄せた。「芸術教室の運営と芸能マネジメントでは、勝手が違う。分野が違いすぎるが、本当にやれるのか?」だからといって、彼女の挑戦を頭ごなしに否定するつもりは毛頭なかった。外の世界では、智美について心ない噂が流れたこともあった。広報に命じて火消しをさせてきたが、本人の耳に入れば心を痛めるだろう。だからこそ悠人は、事業を成功させることで彼女に揺るぎない自信を与えたいと考えていた。それに、智美は悠人のために住み慣れた大桐市を離れ、この羽弥市での生活に懸命に馴染もうと努力してくれている。羽弥市に自分の打ち込める仕事があれば、彼女はいずれこの街を、本当の居場所として愛せるようになるはずだ。悠人はしばらく思案した後、智美が広げていた本をそっと閉じた。「こういう市販の本は、あまり実務の役には立たない。情報が古く、今の市場の実態と乖離しているものが多いからな。アシスタントに頼んで、現場で使える最新のデータをまとめさせよう。二日後には手元に届くように手配する。君はそれを読めばいい。それから、芸能関係の会食には、これから君も同席させる。この業界で生き残っていけるかどうかは、結局のところ人脈と繋がりがすべてだからな」悠人はただでさえ
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第670話

智美は昼休みを使ってその膨大な資料を丁寧に読み込み、重要な箇所にマーカーを引いて要点をノートにまとめた。そして、そのノートを手に香代子との話し合いに臨んだ。二人とも決断が早く、仕事のペースが合う。共同経営の枠組みはあっという間に形になり、細かな取り決めを正式な契約書に落とし込むため、すぐに弁護士も手配した。いくら気心の知れた親友とはいえ、後々金銭や権利で揉めるくらいなら、最初からすべて明文化しておくべきだ。それが二人の共通の認識だった。悠人の紹介もあり、羽弥市で指折りの腕利き弁護士に、新会社の法律顧問を引き受けてもらうことになった。打ち合わせを終えると、香代子が茶目っ気たっぷりにからかった。「てっきり、悠人さんが顧問弁護士を引き受けてくれるのかと思っていたわ!」智美は小さく苦笑した。「彼もそう言ってくれたんだけど、私が断ったのよ。これから長く一緒に続けていく仕事だし、実務的な細かい話も山のように出てくるでしょ。仕事の面でも彼に頼りっぱなしにしたら、家でも気が休まらないじゃない」「なんだかんだ言って、ちゃんと旦那様の体を気遣っているじゃない。はいはい、ご馳走様!」軽口を叩きながらも、香代子の瞳には少しだけ羨望の色が滲んでいた。自分の夫も決して悪い人ではないが、こと仕事に関してはまったく頼りにならない。結局のところ、いつも自分の力だけで道を切り開くしかなかったからだ。智美はふと思い出したように話を切り出した。「そうそう、前の事務所との契約解除の件だけど、こっちの弁護士を紹介しようかと思っていたの」「ああ、それならもう大丈夫よ。昨日の夜、急に毛利から連絡があってね。すんなりと契約解除に同意してくれたの」「急に?どうしてかしら」「最初は違約金として六十億円払えなんてふざけたことを言ってきたから、さすがの私も怒鳴り返してやったわ。すったもんだの末に、結局は六億円で折り合いをつけたの」「六億……それでも相当な痛手ね。裁判に持ち込めば、もう少し金額を抑えられたかもしれないのに」香代子はふうっと短くため息をついた。「これ以上、あんな男に振り回されたくなかったのよ。いつまでも係争中の身では新しいステップへ進めないし、何年も一緒に仕事をしてきた相手と、泥沼化して後味の悪い思いはしたくなかったから。高い手切れ金になったけれど、これでよか
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