All Chapters of 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙: Chapter 671 - Chapter 680

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第671話

華やかなオークション会場で、人気絶頂の香代子のもとには、着飾った若い令嬢たちが次々と駆け寄っては弾んだ声でサインをねだっていた。香代子は嫌な顔ひとつせず、誰ひとり断ることなく丁寧に対応し、写真撮影にも快く応じている。その熱狂が一段落したのを見計らい、智美がそっと近づいて、目を細めてからかうように言った。「この格式高い会場が、すっかりあなたのファンミーティングになっているじゃない。すごい人気ね」「もう、からかわないでよ!」香代子は智美の手の甲を軽く叩いた。パーティがはじまるまでのひととき、二人は並んで席に腰を下ろし、のんびりとおしゃべりを楽しんでいた。そこへ、水を差すようにこちらへ向かってくる人影があった。「――香代子」振り返ると、そこに立っていたのは拓郎だった。今日の彼は仕立ての良いスーツにネクタイを締め、いかにも意気揚々として、顔には隠しきれない優越感を滲ませている。香代子はすっと眉をひそめた。とっくに専属契約を解除したというのに、まだ絡んでくるつもりなのだろうか。「お前と解約したあと、運よく太っ腹なスポンサーがついてさ。新しくプロダクションを立ち上げたんだよ」拓郎は得意満面にぺらぺらと語り始めた。「才能ある新人も何人か契約したし、この俺の手腕があればすぐに業界で頭角を現すはずさ。それより、お前はどうするつもりなんだ?香代子、この業界はそんなに甘くないぜ。俺のところにいた時は、一番いい仕事を常にお前に回してやってたのに。他のプロダクションに移ったところで、向こうには最優先で売り出したい看板タレントがいる。お前なんかをわざわざ特別扱いしてくれるとは思わない方がいい。かといって小さな会社に行けば、じわじわと埋没していくだけさ。実力があるのは大事だが、うまく売り出せる有能なマネージャーがいなければ意味がない。実力派と呼ばれながら、気づけば誰の記憶からも消えていった連中を、お前だって嫌というほど見てきただろう?」胸の奥の苛立ちをどうにか呑み込み、香代子は智美の手をぎゅっと握って毅然と言い放った。「余計なお世話よ。私は、ここにいる智美さんと一緒に新しいプロダクションを立ち上げるつもりなの。自分の仕事は自分で決めるわ。もう誰かの言いなりになるつもりはないの」拓郎は智美を胡乱な目でちらりと見て、ふん、と鼻で笑った。
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第672話

誰と共に生きるかで、人生の彩りはこんなにも変わる。悠人がそばにいてくれるだけで、智美の心はいつも穏やかな幸福感で満たされていた。オークションが始まり、恵美梨が脚光を浴びるように壇上に上がった。もともと社交的で話も上手く、彼女の顔の広さも手伝って、開始後は多くの人が積極的に入札していく。やがて、ふと智美の視線が、古雅な青磁蓮唐草文瓶でぴたりと止まった。骨董を愛する義母が喜ぶに違いないと思い、落札して贈り物にしようと決める。静かにパドルを掲げる。すると直後、後ろの席から誰かが間髪入れずに二百万上乗せした。振り返ると、競ってきたのは茉祐子だった。こちらの視線に気づいた茉祐子は、挑発的な笑みを向けてくる。智美の胸の奥に、じわりと冷たい不快感が広がった。もう結婚して子どももいるというのに、まだ自分に張り合ってくるつもりなのか。諦めが悪いにもほどがある。だからといって、譲る気など毛頭なかった。義母のために気に入ったのだから、必ず手に入れる。智美がパドルを掲げ、一気に六百万上乗せすると、茉祐子も目を血走らせてさらに値を上げた。意地の張り合いで、あっという間に花瓶の値段は三倍にまで膨れ上がる。さすがにそこまでの価値はないと冷静に判断し、智美はふっと息を吐いてパドルを下ろした。そのとき、まるで二人の争いを見計らっていたかのように、前方にいた男性がすっとパドルを掲げた。張り合っていた智美が降りたのを見て興味を失ったのか、茉祐子もあっさりとパドルを下げる。結果、花瓶はその男性に見事落札された。智美は花瓶にちらりと未練の視線を向けたが、小さく息をついて気持ちを切り替えた。義母への贈り物は他を探せばいい――そう割り切ってしまえば、胸の内のさざ波はすぐに穏やかになった。ところが、落札したその男性がなぜか智美のそばへ歩み寄ってきた。「岡田家の若奥様。先ほど、あなたがこちらの花瓶をご所望だとお見受けしましたので、私からぜひお譲りしたいと思いまして」突然の申し出に、智美は驚いて彼を見た。「あなたは?」記憶の糸をたぐっても見覚えのない顔だった。相手は智美の警戒する表情を見て、揉み手をしながら慌てて名乗る。「宮原(みやはら)と申します。以前、岡田社長とお仕事のご縁をいただいたことがございまして。若奥様からひと言添えていただければ、これほどありが
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第673話

宙を舞った香代子の手は、あと一歩のところで間に合わなかった。だが幸い、智美の様子から片時も目を離さず見守り続けていた岡田家の護衛たちがいた。ドレスの裾を踏まれた瞬間、護衛のひとりが弾かれたようにすかさず反応していたのだ。一人が疾風のごとく駆け寄って智美の体を間一髪で支え、もう一人は人混みに紛れてこっそり立ち去ろうとしていたウェイターの腕を、容赦ない力で取り押さえた。護衛に支えられて体勢を立て直した智美の背中には、極度の緊張からじっとりと冷たい汗が滲んでいた。もし今日、護衛が間に合わなかったら――最悪の事態を想像するだけで、背筋が冷たくなる。騒ぎに気づいた恵美梨が血相を変えて駆けつけ、心底申し訳なさそうな顔で言った。「智美さん、大丈夫!?ちゃんと警備を手配できなかった私のせいよ。お体のこともあるんだから、誰かにすぐそばについてもらうべきだったわ……!」智美はまだ大勢の客が待ち望む演奏が残っていることを思い、この慈善オークションの空気を台無しにしたくなかった。恵美梨に向けて、気丈にそっと微笑んでみせる。「大丈夫ですよ。転ばなかったし、まず本番のステージを優先しましょう。香代子、行くわよ」傍らの護衛をちらりと見る。護衛はその視線の意味を読み取り、すぐに答えた。「智美様、ご安心くださいませ。心得ております」恐怖に顔を蒼白にさせガタガタと震えていたウェイターは、無表情な護衛の手によって素早く連れ出されていった。突如起きた騒動に、宴会場にいた全員の視線が一斉に智美に集まった。誰かが故意に岡田家の若奥様を転ばせようとしたのではないかと、場内にさざ波のように囁きが広がる。事の顛末を見ていた茉祐子は、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめ、怒りをふつふつと煮えたぎらせた。あの無能なウェイターめ、こんな簡単なことすら満足にこなせないなんて使えない。もし取り調べで自分の名前を出すようなら、絶対にタダでは済まさない。香代子は気を取り直し、智美の手をしっかりと握りしめた。「気をつけてね。さっきは私、心臓が止まりそうだったわ」「ふふ、本当に大丈夫だから」智美は笑ったが、白く血の気の引いた唇が、さっきの恐怖をそっくりそのまま物語っていた。一方、百戦錬磨の恵美梨は目ざとかった。護衛がウェイターを連れ去ったのを見て、確実に裏があると察する。自
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第674話

茉祐子はウェイターの無惨な姿をまじまじと見下ろし、背筋に冷たいものが走った。岡田家の護衛ともあろう者が、裏でこんな容赦のない真似を平然とやってのけるなんて。震える視線を上げると、窓際にひとりの男が立っていた。黒のスーツを隙なく着こなし、一糸乱れず撫でつけられた髪が、彫刻のようにくっきりとした端正な顔立ちをいっそう際立たせている。悠人だった。以前から並外れて美しいことは認めていたが、今こうして見ても、その印象は微塵も変わらない。茉祐子はこれまで、数えきれないほどの男性と顔を合わせてきたが、悠人の足元にも及ぶ男はただのひとりとしていなかった。容姿が彼に勝る者には能力がなく、能力が彼と同等の者にはその圧倒的な美貌が備わっていない。自分は家柄も良く、能力も申し分ない。だからこそ、もっと上を目指せるはずだとずっと信じて疑わなかった。だが、どれほど目を光らせて探しても、出会う人間はひとり残らず彼女を失望させるばかりだった。いつしか茉祐子は、呪いのようにそう思うようになっていた。――あのとき、悠人を逃すべきではなかったのだ、と。もしあのとき、自分から歩み寄っていたならよかったのに。けれど、残酷なことに人生に「もし」は存在しない。悠人が歩み寄り、氷の目を茉祐子に向けた。「うちの妻は、いつだって温厚で礼儀正しい女性だ。それなのに、どうして彼女にあんな真似をしたんだ?」茉祐子はかすかに唇を引き結び、棘のある声で言い放った。「あなたが彼女と結婚したのは、ただ顔が綺麗だったからでしょう?あなたはそんな顔だけで女を選ぶような浅い人じゃないと思っていたのに、結局のところ、その辺の他の男と何も変わらないのね」悠人は不快げに眉をひそめた。「俺が妻のどこを愛しているかは、君には一切関係のないことだ。俺が今聞きたいのは、君が彼女に何をしたか、そして、どう落とし前をつけるつもりなのかということだ」「……は?」茉祐子は何か滑稽な冗談でも聞いたかのように、思わず甲高い声で笑い出した。悠人はまるで正気を失った狂人でも見るような目で彼女を眺めている。笑い終えた茉祐子は口を開いた。「私がどれだけ、あなたのために犠牲を払ってきたかわかってるの!?海外の研究所だって辞めたのよ!もうあそこには戻れないわ。一番好きだった仕事を失って、この
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第675話

個室の扉を開けると、そこには青ざめた顔をした茉祐子と、無表情な悠人の姿があった。智美が悠人のそばへ歩み寄ると、悠人もすぐさま彼女に近づき、その手を大切に包み込むように握った。険しかった彼の表情が、ふっと柔らかく和らぐ。「大丈夫だった?どこか具合が悪いところはないか?」智美が答えようとしたその前に、隣に立っていた茉祐子が口を挟んだ。「何が『大丈夫』っていうのよ?結局、転んだわけでもないんだから大げさなのよ!」その瞬間、悠人は振り返り、ぞっとするような殺気をにじませた目を茉祐子に向けた。「……もし智美が本当に怪我でもしていれば、秦家すべてに相応の報いを受けさせていたところだ」まさかそこまで容赦のない言葉を叩きつけられるとは思っていなかった茉祐子は、一瞬言葉を失い、次の瞬間には胸の奥を鋭利な刃物で抉られたような痛みが広がって、目に涙を浮かべた。悠人って、こんなにも冷酷で恐ろしい人だったの?私が一体何をしたというの。ただ少し脅かしてやろうとしただけなのに、なぜこんな非道な仕打ちを受けなければならないの。混乱する茉祐子を、智美は静かな瞳で見つめていた。正直に言えば、智美は以前、茉祐子という女性を高く買っていた。頭が切れて才能もあり、自分の力だけで険しい博士号を取得し、海外の権威ある研究所でも働いた経験がある。これほど優秀で自立した女性が、男への執着に振り回されて、こんな卑劣で愚かなことをしでかすなんて――本当にもったいない話だ。智美の瞳に浮かぶ同情の眼差しに気づいた茉祐子は、逆撫でされたように羞恥と怒りで声を荒げた。「智美!顔がいいだけで岡田家に嫁げたからって、自分が大したものだとでも思ってるの!?あなたみたいな中身のないお飾りは、一生男のトロフィーに過ぎないのよ!」智美の胸の内にあったかすかな哀れみは、きれいに消え去った。どうやら、知識と知性というものは、必ずしも比例するわけではないらしい。「……秦茉祐子」悠人が地を這うような声で言った。「本心から妻に謝る気がないというのなら、こちらも相応の対応をさせていただく」またしても公にされる恐怖がよみがえり、自分の評判が地に落ちて羽弥市の名士たちから笑い者にされる光景を想像すると、茉祐子は悔しさのあまりポロポロと涙をこぼした。屈辱を顔に滲ませながら、彼女は憎き智美に
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第676話

悠人と智美が個室の扉を開け、静かな廊下へと出た。だが、そこに立ち尽くしていた人影に気づき、智美は思わず驚きの声を上げた。「香川さん!どうしてここに?」恵美梨はすでに、扉越しに一部始終を聞いてしまっていたのだ。まさか秦茉祐子が、自分が心血を注いで主催したオークションの裏で、こんな卑劣な騒ぎを起こしていたとは――一歩間違えれば、岡田家の怒りを買って大惨事になるところだった。今日、茉祐子はいくつもの品を高値で落札しており、恵美梨は「秦家が自分に顔を立ててくれた」と好意的に受け取っていたというのに。それがあろうことか、自分の顔に泥を塗られただけでなく、智美を陥れようとしていたのだ。恵美梨の中で、茉祐子への好感は跡形もなく崩れ去った。――あんな底意地の悪い女を嫁にもらう家は、本当に災難だわ。そう呆れ果てると同時に、恵美梨は近しい友人の中で、まだ息子が独り身という奥様方には、今すぐ「あの女は避けるように」と一報入れなければと心に固く誓った。茉祐子がわかっていないのは、羽弥市の社交界における自分の評判がいよいよ立ちゆかなくなるという現実だろう。これからは、相応の家柄との縁談はいっそう難しくなるに違いない。ひとしきり打算を巡らせてから我に返り、恵美梨は悠人と智美に向き直って深く頭を下げた。「今日は本当に申し訳なかったわ。あとで必ず、ちゃんとしたお詫びの品を持ってお伺いさせてちょうだい。どうか、私の顔に免じて許してちょうだい」自分の主催した場で起きた不祥事だ。責任を取るのは、社交界の長としての当然の務めだった。だが智美は、穏やかに笑ってみせた。「香川さんのせいじゃありませんわ。それより、パーティーの事後処理でお忙しいでしょう?私たちのことは、どうぞお気になさらず」その大人な振る舞いを見て、恵美梨はますます智美のことが気に入った。これからは折を見て、上流階級の仲間内で智美のことをさりげなく立てて、彼女の地位を確固たるものにしてやろうと心に決めた。「……ありがとう。じゃあ、お見送りはここまでにするわね。夜道に気をつけて帰るのよ」智美は軽く頭を下げ、悠人としっかりと手を繋いで歩き出した。開け放たれた個室の中では、両頬を打たれて無残に赤く腫らした茉祐子が、廊下にいる恵美梨に向けて、すがるような目を向けていた。恵美梨に同情
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第677話

秦家の別荘に戻った茉祐子は、胸が張り裂けそうな思いでいた。家族は皆海外暮らしで、自身も長く海外で暮らしていたため、この羽弥市には気軽に愚痴をこぼせる身近な親族も友人もいなかった。誰かに話を聞いてほしくても、相手すらいないという孤独感が押し寄せる。たまらず酒棚から高級なウィスキーのボトルを引き抜くと、グラスになみなみと注ぎ、水でも飲むかのように一気に煽った。やがて泥酔した茉祐子は、冷たい革張りのソファの上に崩れ落ちるように倒れ込み、泥のように眠りこけた。翌朝十時。静まり返ったリビングに、香純からの着信音がけたたましく響き渡った。二日酔いで頭が割れるように痛む茉祐子は、耳に突き刺さるその音を鬱陶しく思い、出たくなかった。それでも電話は執拗に鳴り止まないため、しぶしぶ重い体を起こして通話ボタンを押す。「……どうして今頃出るのよ」電話の向こうから響く母の鋭い声に、茉祐子はズキズキと痛む額を押さえながら、気だるそうに答えた。「眠いのよ。急ぎの用がないなら切るわよ」「眠い?夜更かしでもしたの!?定職にも就かず生活が乱れて、こんな昼間まで寝ているなんて……全部あなたが研究所の仕事を衝動的に辞めたりしたせいよ!今さらあそこへ戻りたいと泣きついたって、そう簡単にいかないんだからね。いい?もう済んだことにこだわってないで、さっさとお見合いをして、結婚して子どもを産むのが先決よ!岡田悠人のことはもうきっぱり忘れなさい。噂で聞いたわよ、あそこの奥さん、もう妊娠しているんですってね。そこに無理やり割り込んだとして、あなたは後妻にでも収まる気!?そんな惨めなこと、お母さんは絶対に許さないからね!」香純は心の底から後悔していた。あのとき、娘の甘い言葉を信じて帰国させるべきではなかったのだ、と。結局、目当ての相手は手に入らず、将来を約束された素晴らしい仕事まで手放して、あろうことか秦家の顔に泥を塗るような騒ぎまで起こしてしまった。娘の優秀さは、母である香純にとって最大の誇りだった。名門大学の学歴だって、金で買ったものではなく、彼女が本物の実力で積み上げてきた努力の結晶なのだ。そんな優秀で自慢の娘が、たかが男ひとりのせいでここまで転落するとは――岡田家との縁組への執着は、香純の中ではすでに消え失せていた。「……お見合いなんて、絶
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第678話

香代子の音楽スタジオに足を踏み入れた智美は、室内の雰囲気が以前とすっかり変わっていることにすぐ気がついた。以前はまるで統一感のない内装で、無駄に豪華で野暮ったい置き物が所狭しと並んでいたのだが、今はそれらがすべてきれいに片づけられ、白を基調としたすっきりと洗練されたフレンチスタイルに一新されていたのだ。香代子は、智美が手土産に持ってきたアイスブルーの花をガラスの花瓶に手際よく活け、霧吹きで細かな雫をまとわせた。「毛利と一緒に仕事してた頃はね、あの人ったらいつもこのスタジオを趣味の悪いものでごちゃごちゃにして。私が何を言っても聞く耳を持たずに、『お前にはセンスがない』なんて言い張るんだから、本当に頭が痛かったわ。一体どっちにセンスがないのかしらね。あの不愉快な男と縁が切れて、ようやく私らしいまともな空間にできるようになったの。ほら、前より断然いい雰囲気でしょう?」智美は感心したように室内を見渡し、深くうなずいた。「ええ、あなたの方がよっぽどセンスがいいわ」智美の称賛に、香代子は少し得意げに微笑んで続けた。「私って、実はすごくシンプルなの。ただ、純粋にいい音楽を作りたい。それだけなのに、毛利にはその本質が最後まで理解できなかった。彼は私にずっと『世間の流行に合わせろ』って口うるさく言い続けてたけど、私が最初に世間に注目されたのは、他の誰とも違う私だけの音楽観と世界観があったからじゃない。それなのに流行りモノを量産したら、ファンがわざわざ私を選ぶ理由がなくなってしまうでしょう?いつも話が噛み合わなくて、毎回のように大喧嘩になって……あの人と一緒に仕事してると、魂を削られるような思いだったわ」そこまで一気にまくしたててから、香代子ははっとして智美を見た。「ごめんなさい、こんな愚痴ばかり言って。なんだか陰口みたいで嫌な気分よね?」智美はここ数年の香代子の活動を、客観的に見ていた。彼女の知名度は着実に上がっていったものの、発表される作品のクオリティは少しずつ落ちており、それでもあれだけの人気を維持できていたのは、他の誰にも真似のできない彼女の天性の歌声ひとつでギリギリ持ちこたえていたからに他ならない。香代子は間違いなく、類まれな才能を持つアーティストだ。その輝きを活かしきれず、型にはめようとした拓郎の無能さが悔やまれた
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第679話

せめて少しでも実力を持つ新人なら、まだ「マネージャーとしての眼力がある」と思えたかもしれない。だが、写真に写るこの香月という子は、どこからどう見てもごく普通の女の子で、拓郎が肩入れするほどの特筆すべき魅力は見当たらない。確実な見返りがなければ絶対に割に合わないはずなのに――その名前を聞いて、智美の脳裏にようやくひとつの記憶が蘇った。プロのメイクと写真の加工のせいで、以前より格段に洗練されて見えたが、確かに彼女だった。「この人、知ってるわ」「えっ、知ってるの?」香代子は驚いたように丸い目を向けた。「以前、私のアシスタントをしてた子なの。ちょっと職場で問題を起こして、解雇したんだけど」香代子はしばらく絶句し、呆れたようにため息をついた。「世間って本当に狭いわね……でも、一介のアシスタントをしてたくらいなら、実家の家柄やコネもそれほど大したものじゃないはずよね。それなのに、毛利はなんでわざわざ彼女を拾ったのかしら?」「さあ、そこまではわからないわね」「まあ、今の私にはどうでもいいことか。彼が誰を売り出そうと、好きにすればいいわ!」すでに仕事のパートナー関係を解消したものの、香代子は拓郎に対してそこまで深い恨みがあるわけではなかった。ここ数年の、彼からの息が詰まるような圧力さえなければ、それなりにビジネスライクないい関係が続いていたかもしれないのだから。「そういえば、このあと一緒にランチでもどう?」香代子が壁の時計を見上げると、ちょうどお昼どきだった。「ごめんなさい、今日は事務所に戻って片付けなきゃいけない仕事があって。また今度ゆっくり行きましょう」香代子は残念そうにくすっと笑った。「わかったわ。じゃあ、また今度ゆっくりね」香代子に別れを告げて迎えの車に乗り込むと、智美は運転手に声をかけた。「事務所に戻る前に、レストランに寄って、お弁当を二つ包んでもらえるかしら?」梨沙子はきっとまだ食事をとっていないだろう。いつも自分のことを気にかけてくれているのだから、たまにはこちらから気を利かせたかったのだ。「かしこまりました」運転手が恭しく答え、滑らかにアクセルを踏み込む。老舗の弁当屋は、智美の芸術センターへ向かうのと同じ方角にあったため、ちょうどいい寄り道だった。店の前に車が停まると、運転手が振り返って言っ
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第680話

一方、向かいの席に座る中条瑛一(なかじょう えいいち)も、茉祐子の実像を目の当たりにして大いに失望を募らせていた。仲介役からは、秦家の令嬢は海外の名門大学で博士号を取得し、名の知れた研究所に勤めた経歴を持つ、類まれなる才色兼備の才女だと吹き込まれていた。このたびの羽弥市への帰国も、家柄から価値観まで釣り合う理想の相手を探すためなのだ、と。だが、目の前にふてぶてしい態度で座っている茉祐子は、お世辞にも美しいとは言いがたく、街を歩いていても誰も二度見しないような凡庸な顔立ちだった。一目でわかるハイブランドのドレスや宝石で全身を武装しているというのに、内面から滲み出るような気品など微塵も感じられない。仲介役が口から出まかせに並べ立てた「美しく聡明で、気品があり、温和でお淑やか」などという称賛の言葉は、この不機嫌な女性のどこを探してもまったく当てはまらなかった。互いに顔を合わせたその瞬間から、二人は相手に完全に失望していた。それでも最低限の社交の礼儀として、なんとか席に着いて食事を続けていたのだ。当の両親たちはというと、家柄が釣り合っているとすっかり舞い上がり、子どもたちが余計な我儘を言ってこの良縁を破談にしやしないかと気を揉んで、それぞれしきりにスマホのメッセージを送り付けてきていた。二人は画面を見るたびにますます気が滅入り、互いへの嫌悪感がいっそう泥沼のように深まっていくのを感じていた。「これ以上この場にいたくない」という一点においてのみ、二人の気持ちは皮肉にも完全に一致していた。自分の条件がまともであれば、こんな売れ残りの冴えない相手をあてがわれるはずがないのだ。そこへウェイターが、食後のコーヒー二杯とデザートを運んできた。席の二人をちらりと見て、怪訝そうに首を傾げた。テーブルには手の込んだ料理がいくつも並んでいるというのに、なぜ二人ともまったく手をつけていないのだろうか。茉祐子は、向かいの陰気な顔を見ているだけで、すっかり食欲をなくしていた。この顔を朝から晩まで一生見続けて暮らすなど、想像するだけで吐き気がするほど嫌だった。しかし瑛一の方も、まったく同じことを思っていた。彼はこれまで、数えきれないほどのお見合いを重ねてきた。自分が気に入った美しい相手からは、ことごとく断られた。逆に気に入ってすり寄ってくる女
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