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All Chapters of 浮き草の愛: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

京極瑛舟(きょうごく えいしゅう)と結婚して四年目、陸野亜眠(りくの あみん)は妊娠した。手続きがよく分からず、彼女はたくさんの書類を持って区役所で妊娠届を出そうとした。職員は彼女が持ってきた書類を見て、これらは必要ないと伝えようとしたが、ふと亜眠の持ってきた婚姻届受理証明書が偽物のように見えた。亜眠は思わず目を瞬かせた。「偽物?そんなはずないです」「ここ、印刷がずれているし、色もおかしいですよ」亜眠は諦めきれず、戸籍担当窓口の職員に確認してもらったが、答えは同じだった。「この証明書は偽物です。それに、おっしゃった京極瑛舟さんは既婚で、配偶者の名前は陸野知綾(りくの ちあや)と記載されています……」……知綾?雷に打たれたように、亜眠の頭は真っ白になった。知綾は彼女の異母姉であり、瑛舟の初恋の人だった。かつて知綾は夢を追い、留学のために結婚式当日に式場から逃げ出し、瑛舟を無情にも置き去りにした。知綾が逃げた後、両家の面子を守るため、亜眠は代わりに瑛舟と結婚した。それなのに今、法律上の妻が知綾だというのか。……役所を出た亜眠は、魂の抜けた人形のように足元もおぼつかず歩き、視線は宙をさまよっていた。目の前に止まったタクシーに乗り込むと、それまで必死にこらえていた涙が、静かに頬を伝った。四年前、結婚した当初、瑛舟は亜眠に冷たかった。それでも亜眠は一度も不満を漏らさず、彼の生活を細やかに世話し続けた。時を重ねるうちに、瑛舟は少しずつ心の壁を下ろした。亜眠に彼のスケジュールを乱されても許すようになった。くだらない冗談にも最後まで耳を傾け、仕事の極秘書類さえ安心して預けてくれるようになった。やがて、瑛舟はますます彼女に優しくなった。限度額のないブラックカードを渡し、ミシュランの店を共に巡った。たとえ彼女が真夜中に、家から遠く離れた店でしか売っていないケーキを急に食べたくなっても、瑛舟は車を飛ばして買ってきてくれた。そして彼女の頬をつまみ、呆れたように言った。「こんな食いしん坊な子、見たことないな」亜眠はようやく瑛舟の心を温められたと信じていた。……あの二か月前、癌を宣告された知綾が突然帰国するまでは。その夜、父の陸野林平(りくの りんぺい)は家庭会議を開き、真剣な顔
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第2話

亜眠は茫然としたままエレベーターに乗り込んだ。気がつけば、エレベーターはすでに地下1階で止まっていた。そこへ、ひとりの研修生が明るい声をかけてきた。「陸野知綾さんの絵画展をご覧になる方ですね?こちらです」その言葉で、亜眠はようやく、自分が階数ボタンを押していなかったことに気づいた。まるで何かに導かれるように、彼女はギャラリーへと足を踏み入れた。研修生は後ろからついてきて、熱心に説明を続けている。「今回の絵画展は社長のご支援により開催されています。このあと全国巡回展も予定されています」亜眠の視線は、ふと一枚の油絵に引き寄せられた。そこには、裸の背中を見せる男が描かれていた。くっきりと浮かび上がる背筋の線、そして腰のあたりに刻まれた特徴的な傷跡。それは、暗闇の中で何度も指先でなぞった……彼女が知り尽くした傷跡だった。画中の男が誰なのか、言うまでもない。知綾は、瑛舟を題材にした絵を何枚も描いていた。絵枠の右下に記された日付が、やけに鮮やかで、容赦なく目に突き刺さった。……六月二十日。キッチンに立つ瑛舟。背中に温かな光が差している。その日、亜眠は閉じ込められてから三日目、絶食で抗議し、胃の痛みに意識を失っていた。だが、彼は知綾のために料理を作っていた。……七月一日。骨ばった指が、イチハツの刺繍入りシルクのネグリジェを丁寧に畳んでいる。薬指の指輪が冷たく光っている。その日、閉じ込められてから十三日目。亜眠は刃物で手首を切り、血がベッドの半分を染めた。だが、彼は知綾の衣服をゆっくりと整えていた。……七月十五日。林の小道で傘を差し歩く瑛舟。画面の端には、誰かと指を絡める手が描かれていた。その日、閉じ込められてから二十八日目。亜眠は林平に鉄鎖でベッドに縛られ、同意を強要されていた。高熱にうなされ、冷や汗で濡れたシーツの上で丸くなっていた。だが、彼は知綾の手を握り、朝の光の中を悠々と歩いていた。目の前の一枚一枚が、鋭い針のように亜眠の心を突き刺した。……あの暗黒の一か月、彼は戦ってなどいなかった。ずっと、知綾の傍にいたのだ。林平の前でグラスを叩きつけたのも、高らかに自分との愛を宣言したのも、陸野家との取引を切ったのも……すべては面目を保つための芝居に過ぎなかった。亜眠は拳を握り締め、爪が掌
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第3話

亜眠はうつむいたまま、まぶたひとつ動かさなかった。「ここに知綾が住むんでしょう?彼女が見て嫌な思いをしないように、先に片付けておくの」瑛舟はその手首をつかみ、そのままの勢いで胸元へ引き寄せた。「まだ俺を責めてるのか」「……いいえ」「亜眠、本当に嘘が下手だな」彼は指先で彼女の顎を持ち上げ、無理やり視線を合わせさせた。「何度も言っただろう。ただ、彼女と芝居をしてるだけだ。本当に結婚したい相手だったなら、四年前に力ずくで連れ戻してた」亜眠はその瞳を見据え、ふっと笑った。「……誰と結婚したいのか、あなたが一番よく知ってるはずよ」その言葉が終わると、鋭い着信音が響いた。瑛舟は画面を一瞥し、素早く通話ボタンを押した。短く言葉を交わしたあと、「会社で急用だ」とだけ残し、足早に部屋を出て行った。その背中を見送りながら、亜眠はふと悟った。……もう彼と腹を割って話す必要なんてない。彼の愛は、賞味期限切れの飴のようなものだ。外見はきれいでも、中身はとっくに変質している。無理に口にしても、広がるのは苦味だけ。瑛舟が出て間もなく、亜眠のスマホに知綾からメッセージが届いた。添付された写真には、瑛舟がお守りを受ける姿が映っていた。その瞬間、亜眠の脳裏に過去の光景がよみがえった。かつて彼を誘って一緒に神社に行ったとき、願いを込めてみくじ筒を振っていた彼女は、ふと振り返って三歩離れた場所に立つ瑛舟を見た。彼は面倒くさそうに腕時計を見下ろしながら言った。「そんな迷信、本気で信じるのか?」思い出に浸っていると、知綾から立て続けにメッセージが届いた。【ちょっと具合が悪いって言っただけで、瑛舟はすぐ神社まで行って、一番効くっていうお守りをもらってきてくれたの】【彼、こんなことあなたにしたことある?】【亜眠、目を覚ましなさい。瑛舟は最初からあなたを愛してなんかいない】亜眠はスマホを強く握りしめた。画面の冷たい光がその顔を照らし、瞳の奥に残っていた温もりを氷のように凍らせていく。……そうだ。瑛舟は、一度も彼女を愛したことがなかった。これからも、愛など望まない。……それから二日間、瑛舟は家に戻らなかった。三日目、亜眠は知綾の送別会で彼と再び顔を合わせた。上質な黒のスーツをまと
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第4話

皆は、暗黙のうちに亜眠へと視線を向けた。亜眠は呆然とその場に立ち尽くし、何が起きたのか理解する間もなく、遠くから美月の悲鳴が響いた。「知綾!」知綾は呪いに怯えて気を失っていた。瑛舟の顔色が一変し、彼はすぐさま身を屈めて知綾を横抱きにすると、大股で病院へ駆け込んだ。亜眠の頭は真っ白なままだった。その頬に鋭い平手打ちが飛んできて、ようやく我に返った。「どうしてお前みたいな畜生を産んでしまったんだ!」林平は目を血走らせ、額に青筋を浮かべて怒鳴った。「知綾はこんなに病んでるのに、まだ呪うなんてことができるのか!」亜眠はよろめいて半歩後ずさりし、傍らのシャンパンタワーを倒してしまった。酒が床一面に飛び散った。彼女はガラスの破片の上に尻もちをつき、痛みに耐えながら必死に弁解した。「違う、私じゃない!」「黙れ!」林平の声は鋭く響き渡った。「前からわかってた。お前は俺たちが知綾を可愛がるのが気に入らないんだ。だが、あの子はもう死にかけてるんだぞ。それなのに、ほんの少しの同情すら持てないのか!誰か!こいつを閉じ込めろ!」……亜眠は、小さな真っ暗な部屋に放り込まれた。幼いころから暗闇を恐れ、しかも閉所恐怖症でもあった彼女にとって、それは耐え難い空間だった。ドアが閉まった瞬間、呼吸が止まり、暗闇が潮のように四方から押し寄せてくる。亜眠は必死にドアを叩き、血で染まった両手がドアに鮮やかな痕を残した。「開けて!お願い、出して!」だが外は、息が詰まるほど静まり返っていた。力が抜け、彼女はずるずると床に座り込み、呼吸はどんどん浅く速くなり、視界が暗く滲んでいく。どれほど時間が経ったのか……意識が途切れかけたそのとき、ドアが開き、彼女は這うようにして外へ出ようとした。だが、次の瞬間……ザアッ!ざらざらした塩が、顔に容赦なく撒かれた。続けざまに二回目、三回目……亜眠はむせ返り、息が詰まりそうになった。霞む視界の中、戸口に立つ見覚えのある人影がぼんやりと映った。瑛舟だった。彼は光と闇の境に立ち、部下が塩を何度も彼女に撒いているのを、冷ややかな目で見ていた。止めることは、最後までなかった。やがて最後の塩が全身に撒かれた時、瑛舟はゆっくりと近づき、ハンカチ
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第5話

亜眠が目を覚ましたとき、すでに病院のベッドに横たわっていた。「ご意識が戻られましたか?」医師は深く息を吐き、彼女を見る目に哀れみを滲ませた。「流産に伴う大量出血でした。搬送が数分遅れていたら……助けることはできなかったでしょう」続けて、医師は彼女が昏倒した状態で使用人に発見され、危ういところで一命を取り留めた経緯を説明した。「ご家族の対応には……正直言って憤りを覚えます。特にご主人さんには、何度も連絡を試みましたが応答がありません。病院に来たら、私からしっかりとお話しさせていただきます」「先生」亜眠は彼女の言葉を遮り、指先でシーツを握り締めた。「妊娠のことは……彼には言わないでください」どうせ彼は信じないだろう。それに瑛舟の心はもう自分から離れてしまっていた。これ以上、彼と関わるつもりもなかった。医師は何か言いたかったが、結局首を振って病室を後にした。入院中、瑛舟は一度も姿を見せなかった。その代わり、知綾のSNSには彼の姿が溢れていた。初日は湯気の立つスープのアップ写真。【十年経っても、やっぱりこれが一番好き】二日目はベッドの端にもたれて眠る彼の横顔。【また夜中に悪夢を見たけど、目を開けたらあなたがいた】亜眠はふと、病気のときに瑛舟も自分にスープを作ってくれたことを思い出した。熱にうなされている間も、彼はベッドのそばで手を握り、離さなかった。だが今ならわかった。あの優しさは、最初から彼女に向けられたものではなかった。彼はただ、彼女を通して知綾を愛していただけなのだ。退院の日、ようやく瑛舟から電話があった。「会社で急な用事が入った。迎えは運転手に行かせる」亜眠は問い詰めることもなく、感情を荒げることもせず、淡々と「わかった」とだけ答えた。通話が切れた瞬間、彼女は平らな腹をそっと撫でた。今の瑛舟は、連絡先から消すだけの名前に過ぎない。もう、彼に何一つ期待していなかった。……家に戻ると、玄関を入った途端、知綾が絵筆を手にリビングの壁に自由に絵を描いているのが目に入った。壁に掛けられていた亜眠と瑛舟の結婚写真やポラロイドの写真は、すべて床に投げ出され、色とりどりの絵の具で汚されていた。知綾は彼女を見るとにっこり笑った。「亜眠、お帰り。こ
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第6話

出国前日のことだった。亜眠は、古木がそびえ立つ寺院へ向かった。流産してからというもの、毎晩全身に血をまとった赤ん坊が泣き叫ぶ夢を見るようになっていた。それで彼女は、ある高僧に供養を頼んだのだった。寺に着くと、本堂の中央で一人の背の高い男が跪いて座っているのが見えた。その背中は、彼女にとってあまりに見慣れたものだった。「聞いたか?京極社長の奥さんが末期の癌で、お守りを授かるために命を削って求めたらしいぞ……」「最後の山道は険しくてな、危うく崖から落ちて死ぬところだったそうだ!」通りすがりの人々の噂話が耳に入ってきた。亜眠は足を止めた。目の前の男の腕には包帯が巻かれ、傷口からはまだ血が滲んでいた。彼女は思い出した。瑛舟は一貫して無神論者だった。寺に足を踏み入れたこともなく、家には神仏も祀っていない。御守りなども、つけることが一度もなかった。亜眠は母親の供養に行きたいと言っても、彼は煙草の火を無言で消し、淡々と「死んだら死んだだけだ。そんなのは生きている者の慰めにすぎない」と言っただけだった。しかし今、彼は巨大な仏像の前に跪き、額を冷たい石畳にぴったりとつけ、卑屈なほどに祈っている。亜眠は唇をわずかに歪め、なんとも皮肉なことだと思った。なるほど、瑛舟は神を軽蔑していたのではなく、ただ過去にそれをするに値する人がいなかっただけだったのだ。……亜眠が寺を出る頃には、すでに夕暮れが近づいていた。谷から吹く風は冷たく、彼女は衣の襟をきつく抱き寄せた。石段を降りようとしたそのとき、林の中から黒い影が飛び出し、彼女の前に立ちはだかった。相手の動きはあまりにも速く、亜眠は叫ぶ間もなく口と鼻を押さえられ、気を失った。次に目を開けたとき、彼女は大木のそばに寄りかかって座っていた。何人かの医療スタッフが慌てて担架を抱え、崖の下へと走っていた。「急げ!負傷者が崖下にいる!」亜眠は腕を支えにしてよろめきながら立ち上がった。何が起きているのかまだ把握できないうちに、冷たい風を伴って高い影が彼女の前に立った。「亜眠、知綾への呪いをただの怒りのはけ口だと思ってた。まさか本当に彼女を崖から突き落としたのか!」瑛舟の骨ばった手が彼女の首を掴み、強く後ろの木に押し付けた。「幸い知綾は運が良くて
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第7話

「お前!知綾を殺しかけておいて、よくもそんなに平然と眠れるな!」亜眠は苦しげに顔を上げ、真っ赤に充血した林平の目を見つめた。隣には継母の美月が俯き、涙をこぼしながらすすり泣いている。「亜眠……」美月は嗚咽まじりに言った。「お姉さんはもう長くないのよ。なのにどうして彼女を許せないの?送別会のことはもういいとしても、今回は……彼女の命を狙ってるのよ!」亜眠はシーツを握りしめ、美月の偽善的な顔を見ていられなくなった。無理に体を起こし、一言一言はっきりと言った。「送別会の呪いは私がかけたものじゃない。彼女を崖から突き落としたのも私じゃない。知綾が何度も私を陥れたのを放置してきたあなたこそ、報いを受けるべきじゃないのか!」バシッ!強烈な平手打ちが彼女の頬を叩き、亜眠はよろめいて一歩後退した。口元から血がにじんだ。「このクズが!」林平は怒りに震え、青筋を立てて叫んだ。「お前の母親もいつもそうやって人のせいにしてきたんだ!今度はお前までも……」「あなた、落ち着いて!」美月は林平の背中をそっと撫でた。「全部私の責任よ。亜眠をちゃんと育てられなかったのは私……」「君のせいじゃない!」林平は鋭く遮り、厳しい目で亜眠を睨みつけた。「お前がそんなにできるなら、今日から陸野家の娘ではない!」そう言い放ち、林平は美月と共に乱暴にドアを閉めて出て行った。その瞬間、稲妻が空を裂き、大雨が激しく降り注いだ。亜眠は力なく地面に崩れ落ち、細い体を丸めて膝に顔をうずめ、声も出さずに涙を流した。朦朧とする意識の中で、母の最期の言葉がまた耳元に響いた。母の細い手がしっかりと彼女の手を握り、微かな声で確かに言った。「亜眠、これからの道は……しっかり歩くのよ……母さんは天国から……見守っているから……」この数年間、彼女は自分に言い聞かせるように、きちんと食事をとり、決まった時間に眠るよう努めてきた。母が天国から見ていてくれるように、父の愛がなくても、彼女は立派に生きられると思いたかったのだ。だが今は?「お母さん……」亜眠は呟いた。涙が膝の衣服を濡らした。「今の私、きっとあなたをがっかりさせてるね……」外の嵐はまだ激しく荒れ狂っている。亜眠は自分を抱きしめ、涙の中で眠りに落ちた
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第8話

亜眠が国外へ出発した翌日、知綾は待ちきれずに使用人たちに家中のカーテンやカーペットを、彼女の好みのデザインに全部取り替えさせた。夕方、瑛舟が家に入ると、その視線が一瞬鋭くなった。数人の使用人が亜眠の書斎から机を運び出しているところだった。机の上には、亜眠がよく使っていた万年筆や書籍が置かれている。「お前たち、何をしてる?」低く冷たい声がリビング全体を凍りつかせた。使用人たちは固まってしまい、慌てて答えた。「旦那様、知綾様がこの部屋は採光が良いので画室に改装したいと言って……」瑛舟の瞳が暗く沈み、冷たい声で言った。「画室に?それなら亜眠が帰ってきたらどうするんだ?」誰も返事できず、ただ頭を垂れていた。この数日間、知綾は密かに亜眠の物を多く捨てさせていた。その狙いは誰もが察していた。その張り詰めた空気の中、背後から柔らかな声が聞こえた。「瑛舟、彼女たちを責めないで。私がそうさせたの」知綾は車椅子に座ったままゆっくり近づき、青白い顔に弱さを滲ませていた。彼を見上げ、切実な眼差しで言った。「最後の時間を少しでも絵を描くために使いたいだけなの。亜眠が戻ったらすぐに部屋を返すから、いいでしょ?」瑛舟は彼女を見下ろし、目の奥に暗い感情を宿していた。かつてなら、亜眠の物に誰かが触れることなど許さなかったはずだ。だが亜眠が知綾の絵画展に火をつけたことを思い出し、わずかに心が揺れた。彼は手を挙げて使用人に合図した。「亜眠のものは全部回収し、倉庫に一時保管しろ」知綾の顔にすぐに笑みが浮かび、彼の袖をそっと握った。「瑛舟、優しいわ」瑛舟は目を伏せ、長い指で彼女の髪を撫でた。優しい仕草だが、距離を保つ冷たさも感じさせた。「約束は必ず守る」彼の声は低く穏やかで、決まった事実を述べるようだった。彼は彼女の最後の時を共にするが、それだけだった。知綾の瞳がわずかに輝き、彼の深い瞳を見上げた。彼女が欲しいのは、瑛舟の短い付き合いだけではない。彼の残りの人生すべての時間だった。……夜は深く、雨がしとしとと降っていた。知綾は温かい生姜茶を手に、そっと瑛舟の書斎のドアを開けた。「瑛舟、雨がひどいから、生姜茶で体を温めて」そう柔らかく言いながら、カップを彼のそばに置き
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第9話

瑛舟は眉をひそめ、心の奥に違和感が走った。彼は手を上げて眉間を揉み、その正体の分からない不快感を必死に押し込めながら言った。「会議がるんだ」知綾は布団にくるまりながら起き上がり、指先で彼の背中に円を描いた。「じゃあ……今晩は早く帰ってきてくれる?」彼女は満足そうに紅潮した顔を上げたが、だが、瞳の奥に企みがきらめいた。瑛舟が家を出ると、知綾はすぐにスマホを取り、成功の知らせを美月に伝えた。「私が言った通りよ、瑛舟はあなただけが忘れられないのよ」美月の声には抑えきれない喜びがにじんでいた。「病院の手配もできてるわ。当時診てくれた先生が誤診だと認めるから、あなたが彼の子を宿せば、亜眠が何をしても勝てないわよ」……瑛舟は会社に着いた。会議室に入ると、数人の取締役が一人の幹部の周りに集まり、彼に気遣いの言葉をかけていた。「佐藤さん、どうか体を大切にしてください」「今後はこういう会議はオンラインで参加してもらえばいいですよ」その男は弱々しく口元を引きつらせた。「この体は日に日に衰えていきます。もう少しで終わりです。もう来なければ、機会はなくなります」瑛舟はその男をじっと見つめた。佐藤賢成(さとう けんせい)、会社の重要な戦力であり、末期癌の患者だった。診断されて以来、目に見えて痩せ細り、今は骨と皮だけのようだった。医師は余命半年と告げていた。会議が始まった。幹部たちが次々と報告する中、瑛舟の視線はずっと賢成に向いていた。同じ絶症患者でも、賢成は生気を失い、眼は虚ろで、肌はくすんだ灰黒色だった。そして知綾は……「社長、以上が市場部の報告です」幹部の声が瑛舟の思考を戻した。彼は淡々と答えた。「わかった。資料はメールで送ってくれ」会議終了後、瑛舟はすぐに仕事に取りかからず、知綾に電話をかけた。「前回の診療記録を送ってくれ」知綾はすぐに警戒して、問い返した。「どうして急に私の診療記録が必要なの?」瑛舟は落ち着いた口調で答えた。「いい専門医を見つけた。ほかに治療法がないか診てもらいたい」知綾はため息をついた。「やめたほうがいいわ。今の主治医は業界でもトップクラス。治らないと言ったら治らないのよ」瑛舟はペンを回す手を止めて言った。「試そうと
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第10話

薄暮が迫り、街の灯りがぼんやりと灯り始めた。瑛舟は川辺に立ち、月光が彼の顔に冷たい霜のように降り注いでいた。彼の目の前には、手足を縛られた男が跪き、必死に彼に土下座していた。「社長、お願いします、どうか息子を勘弁してください!」瑛舟の部下がベビーカーを押しており、その車輪は川辺のすぐそばにあった。「真実を話せば、息子は放してやる」男の目に恐怖が走った。「社長、何を言ってるのかわかりません……」「わからないのか?」瑛舟は冷笑した。「あと三秒、有用な話が出なければ、息子は行くべきところへ送る」瑛舟は震える男の顔をじっと見据え、数え始めた。「一……」「二……」ベビーカーが川面に傾いた瞬間、男は耐えきれずに崩れ落ち、大声で叫んだ。「話す!話す!送別会の呪いの動画、崖からの転落、絵画展の火災、すべて陸野美月と陸野知綾の仕業でした!私は彼女たちの依頼を引き受けたのは、彼女たちが先天性心疾患を持つ息子の治療を約束したからです……亜眠さんは無実だと証明できます!」男は震えながら自分のスマホを差し出した。「ここにはあの母娘とのトーク履歴がある。社長、私は脅されていただけだ……」瑛舟はスマホを受け取り、音声を再生した。知綾の毒舌が瞬時に響き渡った。「呪いは悪意たっぷりでなきゃ意味がないの。じゃなきゃ父さんや瑛舟は亜眠に怒らないでしょ?だって私、本当に末期癌じゃないし、何の影響もないもの」「あいつは明日寺に行く。気絶させて崖に連れて行くのはあなたの役目、残りは私に任せて」「絵画展に火をつけて、一枚残らず燃やし尽くして。瑛舟があいつに完全に失望するように……」瑛舟は聞けば聞くほど、目の奥の冷気が増していった。しかし、知綾の悪辣な発言はまだ終わっていなかった。「あいつこそが愛人の子よ。あいつがいなければ、陸野家は全部私のものだったの!クソ女、家産だけじゃない、瑛舟まで奪いやがって」「瑛舟が知っても何?あの頃、私が彼を捨てて海外の大富豪に付き合ったのに、今戻ったら彼はすぐに復縁しようとしてるじゃない?」男はずっと俯いたままで、声を出す勇気すらなかった。彼は瑛舟が激怒すると予想していたが、現実は静かだった。瑛舟は手を振り、部下にベビーカーを引き戻すよう合図し、男に淡々と
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