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第7話

Author: 砂糖菓子
「お前!知綾を殺しかけておいて、よくもそんなに平然と眠れるな!」

亜眠は苦しげに顔を上げ、真っ赤に充血した林平の目を見つめた。

隣には継母の美月が俯き、涙をこぼしながらすすり泣いている。

「亜眠……」

美月は嗚咽まじりに言った。

「お姉さんはもう長くないのよ。なのにどうして彼女を許せないの?送別会のことはもういいとしても、今回は……彼女の命を狙ってるのよ!」

亜眠はシーツを握りしめ、美月の偽善的な顔を見ていられなくなった。

無理に体を起こし、一言一言はっきりと言った。

「送別会の呪いは私がかけたものじゃない。彼女を崖から突き落としたのも私じゃない。

知綾が何度も私を陥れたのを放置してきたあなたこそ、報いを受けるべきじゃないのか!」

バシッ!

強烈な平手打ちが彼女の頬を叩き、亜眠はよろめいて一歩後退した。口元から血がにじんだ。

「このクズが!」

林平は怒りに震え、青筋を立てて叫んだ。

「お前の母親もいつもそうやって人のせいにしてきたんだ!今度はお前までも……」

「あなた、落ち着いて!」

美月は林平の背中をそっと撫でた。

「全部私の責任よ。亜眠をちゃんと育てられなかったのは私……」

「君のせいじゃない!」

林平は鋭く遮り、厳しい目で亜眠を睨みつけた。

「お前がそんなにできるなら、今日から陸野家の娘ではない!」

そう言い放ち、林平は美月と共に乱暴にドアを閉めて出て行った。

その瞬間、稲妻が空を裂き、大雨が激しく降り注いだ。

亜眠は力なく地面に崩れ落ち、細い体を丸めて膝に顔をうずめ、声も出さずに涙を流した。

朦朧とする意識の中で、母の最期の言葉がまた耳元に響いた。

母の細い手がしっかりと彼女の手を握り、微かな声で確かに言った。

「亜眠、これからの道は……しっかり歩くのよ……母さんは天国から……見守っているから……」

この数年間、彼女は自分に言い聞かせるように、きちんと食事をとり、決まった時間に眠るよう努めてきた。

母が天国から見ていてくれるように、父の愛がなくても、彼女は立派に生きられると思いたかったのだ。

だが今は?

「お母さん……」

亜眠は呟いた。

涙が膝の衣服を濡らした。

「今の私、きっとあなたをがっかりさせてるね……」

外の嵐はまだ激しく荒れ狂っている。

亜眠は自分を抱きしめ、涙の中で眠りに落ちた。

……

亜眠が再び目を開けると、いつの間にかリビングのソファに移されていた。

暖炉の火がパチパチと音を立てている。

瑛舟が隣に座り、長い指で煙草を挟んでいた。

青白い煙が指先に絡まって漂っている。

「瑛舟……」

彼女は弱々しく声をかけた。喉は渇き、痛んだ。

瑛舟は声に反応して振り返った。かつての優しい眼差しは、今は冷たさだけを湛えていた。

「目が覚めたか?」

「どうして私はここに?」

亜眠は起き上がろうとしたが、全身に力が入らなかった。

瑛舟は答えず、淡々と言った。

「昨日、迎えに行くつもりだった。しかし知綾の絵画展が突然火災に見舞われ、彼女の全ての作品は一枚も救えなかった」

亜眠の心は急に沈んだ。

瑛舟の言葉の裏にある意味を理解し、慌てて言い訳した。

「私じゃない。放火なんてしていない。調べてみればわかる……」

「亜眠」

彼は静かに遮った。彼の目は見知らぬ冷たさで彼女の心をかき乱した。

「知綾の夢は画家になることだった。あれらの絵は彼女の命そのものだ。自分の命を自ら絶つことは絶対にない」

亜眠の指先が震え始めた。

「一体何が言いたい?」

「放火のことはお義父さんにも知綾にも言ってない」

瑛舟は立ち上がり、見下ろすように彼女を見た。

「だが、簡単に済むつもりはない。お前も大切なものが破壊される痛みを味わうべきだ」

その時、亜眠は初めて気づいた。瑛舟の手に、母が生前作ってくれたぬいぐるみが握られていることに。

「わかってる。これがお前にとって一番大事なものだ」

彼の指がゆっくりと握り締め、ぬいぐるみは変形した。

「これを壊せば、お前も耐えられないはずだろう?」

「やめて!」

亜眠はほとんど転げ落ちそうになりながらも、よろめきつつ飛びついた。

そのぬいぐるみは、彼女が十歳の時、病弱な母が縫ってくれたものだった。

母はすでに弱りきっていたが、最後まで完成させて、最期にそっと彼女の手に渡し、優しく言った。

「亜眠、もう母さんは一緒に歩けないけど、寂しくなったらこれを見てね……」

後に亜眠は母の遺灰をこっそり縫い込み、毎晩抱いて眠り、何度も乗り越えられない夜を過ごした。

それを瑛舟が壊そうとしているのだ。

「言っただろう、知綾がいなくなれば全て元に戻るって。

お前が言うことを聞かなかったせいだ」

そう言い、瑛舟は手を振って、ぬいぐるみを燃え盛る暖炉の中に投げ入れた。

「いやああ!」

亜眠は心が引き裂かれるような叫び声を上げ、必死に暖炉に飛びついた。

灼熱の炎が腕を舐めたが、彼女は痛みを感じないかのように焦げたぬいぐるみを奪い取った。

震えながら壊れたぬいぐるみを強く抱きしめ、涙が焦げた布を濡らした。

背後に足音が聞こえた。

瑛舟は彼女を越えて、振り返らずにリビングを出て行った。

……

亜眠はぬいぐるみを抱いて一晩中泣いた。

翌朝、彼女は壊れたぬいぐるみを抱え、荷物を引きずって別荘を出た。

門へ向かう途中、知綾の車椅子が突然彼女の前に立ちはだかった。

「どけ」

亜眠はかすれた声で言った。

「亜眠よ、そんなに怖い顔をしなくても?」

知綾は軽く笑いながら言った。

「今日去れば、もう会えないかもしれないわね。父さんも瑛舟も、あなたが悪辣な女だと決めつけて、二度と帰国を許さないでしょうから」

「望むところだ」

亜眠は冷たく目を上げた。

「しかもあなたはもうすぐ死ぬ。私たちは確かにもう会えない」

その言葉に知綾は「ぷっ」と吹き出した。

「亜眠、私が末期癌だって本気で思ってるの?」

彼女は突然車椅子から立ち上がり、一歩一歩近づいた。

「それは瑛舟を騙す芝居よ。私が誤診だと言ったら、彼は狂喜乱舞するわ。

そうだ、もう一つの秘密を教えてあげる」

知綾は亜眠の耳元で囁いた。

「実はあなたと瑛舟の婚姻は偽物よ。私こそが彼の正式な妻なの」

そう言い終わると、知綾は亜眠の表情の隙を探した。

しかし結果は逆だった。

亜眠は指を握りしめ、指の関節が白くなったが、顔は静かだった。

「じゃあ、どうか末永くお幸せに」

そう言い、振り返らずに門へ向かった。

道端でタクシーを待っていると、瑛舟の黒い車がゆっくりと横に止まった。

彼は窓を下ろし、訊ねた。

「もう行くのか?」

亜眠は「うん」とだけ答えた。

「この間は冷静になろう。戻ったらちゃんと話をしよう」

瑛舟は低い声で言った。

亜眠は答えず、静かにタクシーに乗った。

彼の車がゆっくりと去っていくのを見送りながら、心の中でそっと呟いた。

「京極瑛舟、真実を知って後悔しないでほしい」

車が発進し、彼女は全ての愛憎を背負ったこの別荘を最後に見つめた。

その瞳はまるで凪いだ水面のように静かだった。

視線を戻し、囁いた。

「空港までお願いします」

二台の車は別々の道を進んでいった。

まるで彼らの人生のように、二度と交わらないままに。

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