食卓にカトラリーの音が響いた。カチャリ、という乾いた音だけが部屋に残る。テレビはつけていない。窓の外では風がわずかに木々を揺らし、カーテンの端がゆるやかに膨らんではしぼんだ。
「編集部の岸本がさ、例の企画通ったって喜んでてさ。来月号に載せられそうだって」
宏樹の声はいつもと変わらない。日常の延長線にある、静かな報告。けれど、耳に届いても何も残らなかった。
拓海は黙ったままフォークを動かし、皿の上のサラダを転がすようにして眺めていた。咀嚼の音も立てず、ただ食べているふりをしていた。口の中に味はなかった。
「…拓海?」
宏樹が呼んだのは、確認のためだった。返事を求めるというより、自分の声が届いているかどうか確かめたような声色だった。
それにも、拓海は返さなかった。
もうずっと、胸の奥でくすぶっていた火種が、風に煽られて形を持ち始めていた。言葉にならない苛立ち。何度も飲み込んできた、名もない感情。
宏樹がまた言葉を探すより早く、拓海は口を開いた。
「母さんに…似てるからって、それでいいの?」
フォークを皿に置いた音が、ひどく大きく響いた気がした。
宏樹は、動きを止めた。
それは一瞬の静止だった。けれど、ふたりの間の空気が凍りつくのに十分だった。
「……どういう意味だ」
宏樹の声は低かった。困惑と防御がにじむ、ぎこちない抑え方だった。
拓海は立ち上がるでも、声を荒げるでもなく、ただ視線をまっすぐ向けたまま続けた。
「俺を見てよ。母さんと顔が似てるからって…それだけで、隣に置かれてたんなら、そんなのいらない」
食卓に置かれた手が、わずかに震えた。宏樹の手だった。
拓海はそれを見ていた。怒りで責めたくて言ったわけじゃない。なのに、言葉は尖っていた。
「ずっと…そう思ってたんだ。俺を見てる時の目。懐かしむような、失くしたものをなぞるような目」
言いながら、喉の奥が詰まった。けれど止まるわけにはいかなかった。
窓の外に差し込む夕陽が、教室の机をひとつずつ淡く照らしていた。長く伸びた影が、床の上に静かに溶けていく。放課後の教室にはすでに半分ほどしか生徒がおらず、数人がプリントをめくる音と、椅子を引く小さな軋みだけが残っていた。拓海は前かがみになり、机の上に配られた白い紙をじっと見つめていた。進路希望調査票。名前欄の下に「第一希望 第二希望」と、整然と並ぶ罫線がまっすぐに引かれている。隣の席では、クラスメイトがペンを走らせながら、ため息混じりに言った。「うちの親がさ、経済学部にしとけって。将来困らないからだってさ」もう一人が笑いながら同調する。「オレも。正直、どこでもいいんだけどな」そんな言葉が当たり前のように教室を満たす。拓海はそれを聞きながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。どこでもいい。それができたら、どれほど楽だったろう。ペンを握る指先に力が入る。けれどなかなか書き出せない。罫線がこちらを試すように、無言で揺れていた。目を閉じる。あの書斎の匂いが、ふいに鼻先をかすめた。コーヒーと紙と、インクの混じった匂い。風が抜ける窓辺、背を向けてキーボードを叩く音。そして、ときおり読み上げられた文章の断片。生きている人間よりもずっと鮮やかに、宏樹の言葉たちが頭の中に蘇る。誰かを、真っ直ぐに見つめるような文章だった。拓海には、まだそれが「好き」という感情なのか分からなかった。ただ、読みたかった。誰よりも先に、深く、理解したかった。それは、あの人のことを知りたかったからかもしれないし、もう知るすべがないとわかっていたからかもしれない。手が、動いた。「文学部」と、一文字ずつ、慎重に書き込む。まるで何かを刻むように。そして、その下の欄。自由記入欄に、ためらいながらも、ペン先を走らせる。「出版・編集に興味あり」その言葉が、まっすぐ線に乗った瞬間、胸の奥で何かが静かに着地した。好きだからなりたい、わけじゃない。宏樹の書いたものを、世界で一番深く読める人間でありたい。それが、自分に
カタリ、とキーボードの隅が揺れたのは、右手の薬指がわずかに動いたせいだった。けれど画面は変わらない。白いまま、まるでこちらの内側を映し返す鏡のように、空白のページがじっと宏樹を見返していた。ランプの灯りが、机の上だけを照らしている。外はすっかり暗く、雨でも降ったのか、窓の向こうの空気が湿っていた。風の音もしない。音は、何もなかった。左手がカップを探したが、そこにあるはずの湯気はすでに冷えきっていて、唇をつけた瞬間、無味な水のような苦味が広がった。「……違うな」自分に向けてそう呟いてみる。だがその言葉すら、指先を通ってはくれない。カーソルは依然として瞬きを続け、何ひとつ、綴られていなかった。机の脇には、積まれたままの資料と、何度も書き直したあとの原稿用紙。その端が少しめくれていた。風など吹いていないはずなのに、不意に誰かがそこに触れたような錯覚を覚える。「君なら、どう書く?」誰に向けての問いか、自分でも分かっている。書斎の右手、奥の椅子。かつて拓海がよく、そこに足を投げ出して本を読んでいた。音も立てずに現れては、気がつくと隣にいて、視線だけで「邪魔してないよ」と主張してきた少年。目を閉じれば、彼の気配はまだ、そこにある気がした。だが開けば、ただの空っぽの椅子だ。何もない。誰もいない。「いないのか、君は」口に出すと、それはあまりに確かな言葉だった。いない。ただ、それだけの事実に、ここまで身体が固くなるとは思わなかった。背中にあった誰かの呼吸が、いつの間にか消えていて、それでも気づかないふりをしていたのだ。ページが白いままなのは、言葉がないからではない。誰に向けて書くかを、見失っていたからだ。拓海の存在が、宏樹の書く物語の背後にあった。それは意図して取り込んだわけではなく、自然と染み込んだ温度だった。彼の目線、息遣い、思考の揺らぎ。そうしたものが、どれほど創作に必要だったか。失って初めて知る。「君が、そばにいる生活が、物語だったのか」その事
縁側に腰を下ろすと、木の軋む音がわずかに背中を押した。空はすっかり秋の気配で、どこか澄んでいて、湿気を含んだ夏の空気は、もう庭の隅にも残っていなかった。目の前に広がる庭は、背の低い金木犀がぽつぽつと咲き始め、朝露を含んだ葉が風に揺れていた。その匂いにまじって、味噌汁の湯気が鼻をくすぐる。台所からは澄江の足音と、味噌椀を並べる控えめな音。「たく、冷めるわよ」呼ばれる前に行こうと思っていたのに、その声に反応して立ち上がった自分が、少しおかしくて、拓海は唇の端を小さく曲げた。食卓には、焼き魚と小鉢が二つ、炊きたての白米が湯気を上げている。「いただきます」手を合わせると、澄江が目を細めて頷いた。静かな時間だった。テレビもついていない。新聞も読まない。箸が茶碗に触れる音と、鳥の鳴き声と、遠くで聞こえる車のエンジン音だけが、日常の音として部屋に広がっていく。「今日は、畑のほうに大根を植えようと思ってるの」澄江の言葉に、拓海は「うん」と返す。それは約束ではなく、共有された予告のようなものだった。何をするでもなく、ただ一緒にいるというだけの、静かな肯定だった。目を落とすと、味噌汁の中で豆腐がふわふわと揺れていた。その白さを見ているうちに、ふと、あの朝を思い出す。宏樹の背中。言葉を交わせなかった食卓。味噌汁をすする音の後、彼は「昨日のことは忘れろ」とだけ言った。拓海は何も言えず、ただ無表情で皿を洗った。あの瞬間、何かが壊れたと思った。けれど今は、あの沈黙すら、過去の出来事として胸の底に沈んでいる。箸を休め、ふと庭を見る。金木犀の奥、石畳の隙間から小さな草が顔を出していた。伸びようとしている、ひたむきな緑。「拓海、もうすぐ寒くなるわ。毛布、出しておかないとね」「…うん。夜、ちょっと冷えるもんね」他愛のない会話。でもその温度が、どこか落ち着く。宏樹の声が、背中が、ふと脳裏にかすめる瞬間がまだある。洗面所でタオルを手にしたとき。歯磨き粉の残りが少なくなったことに気づいたとき。買い物メモに
岸本が宏樹の家に向かって歩き出したのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。空は曇っていたが、さっきまで降っていた雨はようやく上がり、歩道には水たまりがまだらに残っていた。革靴の裏が湿ったアスファルトを叩く音を聞きながら、岸本はふと、数年前のことを思い出していた。打ち合わせ帰り、あの夕方の喫茶店のことを。当時、宏樹の新作は順調に売れていて、出版社としても期待の看板作家だった。が、あの日、彼の口から唐突に出た話題は、原稿の内容でもなければ、読者の反応でもなかった。「実は、彼女には子どもがいるんだ」岸本は、目の前のカップを持つ手を止めた。まだミルクの膜が張ったままのコーヒーの表面に、店内の照明がぼんやりと映っていた。「…彼女?」「再婚しようと思ってる」宏樹の口調は、驚くほどあっさりとしていた。まるで今日の天気について語るように。「高校生になる息子がいる。名前は拓海。俺とは、まあ…最初はお互いぎこちないけどさ」それを聞いたとき、岸本の中に浮かんだのは、一瞬の戸惑いと、ほんの少しの不安だった。宏樹という作家は、私生活では極めて無口で、他人との距離を慎重に計る男だった。そういう人間が、いきなり十代の少年と家族になろうとしている。「…無理してるんじゃないのか?」思わずそう口にしてしまったことを、岸本は今でも覚えている。けれど宏樹は、その言葉に怒るでもなく、ただグラスの水をひとくち飲んで、少しだけ目を伏せた。「彼女、美幸は…病気なんだ。完治はしないって言われてる」そのときの空気が、一瞬で変わった。店内の喧騒が遠くなる。誰かのスプーンがソーサーに当たる音が、異様に響いた。「…それで、急いでるのか」岸本の声は、無意識に低くなっていた。宏樹は少し笑った。寂しさを含んだ笑いだった。「人を一人で死なせるのが怖いんだ」その一言が、なにより強く残った。それは、誰よ
窓の外に、ひとひらの葉が舞っていた。黄と茶の混じった細い葉が、風に押され、回転しながら空を切って落ちていく。軋むような音を立てて窓枠をかすめた瞬間、宏樹はペンを握ったまま視線をそちらに向けた。書斎の空気は、妙に澄んでいた。冷たくも、暑くもない。けれど、肌を撫でる空気には明確な“変化”が混じっていて、何かが終わっていく気配がした。目の前のノートには、白紙のままのページ。万年筆のインクが紙に触れないまま、小さな影だけが落ちている。「…くそ」低く呟いて、彼はペンを置いた。微かな音すらも部屋に響く。その瞬間、背後の静けさが増幅された。拓海がいない。それだけのことが、空間のすべてを変えてしまっていた。椅子の軋む音も、シャワーの音も、リビングで交わす短い会話もない。気づけば、キッチンも、リビングも、静まり返っていた。あの少年が歩くたびに揺れていた空気の、あの熱が、ここにはもうない。宏樹は立ち上がり、書斎の棚をぼんやりと眺める。指先が無意識に引き出しの取っ手に触れ、そして躊躇なくそれを開けた。奥にあった、小さなフォトスタンド。金属の縁が少しくすんだそれには、笑っている美幸と、高校に入学したばかりの拓海が写っている。写真の中の彼女の目元に、窓から射した光が反射して、瞬いたように見えた。その瞬間、胸の奥が鈍く揺れた。「…もういいだろ」誰に向けた言葉でもなく、ただそう言って、彼はゆっくりと写真立てを裏返し、引き出しの奥にそっとしまった。ほかにも、小さなアルバム、メモ帳、端のちぎれた封筒。全部まとめて、一番下の引き出しに押し込むように仕舞い込む。音を立てないように、静かに、まるで何かを葬るように。手を離したあと、何もなかったように引き出しは閉まった。静寂が戻る。目を閉じれば、思い出す。あの夜、酔って帰ってきた自分が、どうしてあんなことをしたのか。無意識のようで、でも確かに自分の手で起こした出来事。その後の、拓海の表情。
風の音に混じって、遠くで虫の声が鳴いていた。祖母の家の一室。障子の向こうには、ほのかに月明かりが漏れている。畳の匂いに包まれながら、拓海は掛け布団の上に仰向けになっていた。部屋は静かだった。うるさいくらいだった東京の夜とは対照的に、ここでは音が一つひとつ際立って響く。携帯電話を握ったまま、指が迷っていた。連絡なんて、するつもりはなかった。出てくる前も、そして今日の昼間までも。でも、夜になると、あの人のことを考えてしまう。台所で立つ姿。コーヒーを啜る音。なぜか、目を合わせない時間。小さく息を吐き、通話履歴を辿ってタップする。呼び出し音がひとつ、ふたつと重なるたびに、心臓が妙に落ち着かなく跳ねた。「…はい」宏樹の声だった。少し掠れている。眠っていたのか、それとも酒でも飲んでいたのか、判断はつかなかった。拓海は一瞬、口を開いたまま言葉が出せなかった。「あ…俺」「…拓海か」電話の向こうも、同じように言葉を探している気がした。かすかな沈黙が、ふたりの間に挟まる。「ごめん、こんな時間に」「いや、大丈夫。…どうしてる?」「うん、別に。元気だよ」「そっか」返ってくる声は優しいでも冷たいでもなく、ただ淡々としていた。拓海はふと、昼間に歩いた田んぼ道のことを思い出した。風の音、空の青さ。何も語らない景色に包まれていた時間。宏樹といるときとは、まるで違う静けさだった。「そっちは?…仕事、進んでる?」「まあ、ぼちぼち」「…そっか」互いの声が交差しては消えていく。会話は続かない。何かを言えば、傷が深くなるような気がして、拓海は次の言葉を選べなかった。宏樹も同じだったのかもしれない。受話器の向こうから、軽く息を吐く音が聞こえた気がした。「じゃあさ…あんまり遅くなると悪いから、切るね」