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言葉にならない傷

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-01 16:22:32

教室のざわめきが、遠くに聞こえるようだった。周囲の笑い声や椅子を引く音、紙の擦れる気配も、どこか膜越しに届いていた。

拓海は窓際の席に座り、開いたノートを見つめていた。だが、視線はページの上をすべり、言葉を捉えることなく空回りしていた。ペン先はずっと同じ行で止まっていて、それに気づくこともできなかった。

三限目の現代文。授業内容は好きなはずなのに、今日は何も入ってこない。教科書を読む声も、教師の問いかけも、すべてが薄っぺらく感じた。

「拓海、元気ないな。寝てた?」

隣の席から、小さな声がかけられる。

藤野だった。笑っているのか心配しているのか、判別しにくい顔で、ノートを覗き込んでくる。

拓海は少し首をすくめるようにして、視線を下に落とした。

「…大丈夫」

口から出た言葉は、自分のものとは思えなかった。感情のない、乾いた音。

藤野は少し間をおいて、気まずそうに笑った。

「そっか、ならいいんだけどさ」

もう一度ノートに視線を戻してきたが、それ以上は何も言わなかった。

気遣いなのだろう。けれど、その沈黙さえも、どこか自分を責めているように思えてしまう。

大丈夫、なんて嘘だ。

何がどう大丈夫じゃないのかさえ、言葉にできなかった。ただ、自分の中にあるこの重さが、日常のどこにも馴染まないことだけはわかっていた。

宏樹のこと。あのキス。忘れろと言われたこと。拒絶なのか、錯覚なのか、それさえ明確ではない。

言葉にできない。誰にも言えない。

それ以前に、こんな感情を抱いている自分が、間違っているのではないかという思いが、喉元を締めつけていた。

男同士で、しかも親子で。

「おかしい」と思われるに決まっている。

いや、何よりも自分自身が、それを恐れている。

チャイムが鳴っても、立ち上がれなかった。机に両手をついたまま、しばらく動けずにいた。

授業が終わり、生徒たちはそれぞれの場所へと散っていく。教室が空になっていく音が、冷たい空気のように背中を撫でた。

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