パソコンの画面に、静かに新しいメールの通知が現れた。青白い未明の光が、窓の隙間から差し込む。宏樹は椅子にもたれかかり、背中を伸ばすように息を吐いた。長い夜だった。原稿はまだ、白いままだった。
コーヒーの香りもすでに冷め、マグカップの底には褐色のしみがうっすらと残っている。通知音がなければ、今日も無言のまま朝を迎えるところだった。
受信トレイには見慣れない名前があった。
「山科拓海」
その文字列を見た瞬間、指先がわずかに震えた。迷うようにマウスが止まる。けれど、手は自然とクリックしていた。
件名はない。ただ本文が淡々と綴られていた。
> こんばんは。お久しぶりです。
> 大学に入りました。文学部です。毎日、授業とバイトでけっこう大変ですが、ちゃんと通えています。> ひとり暮らしもまだ慣れません。スクロールするたびに、宏樹の中に残っていた拓海の姿が、少しずつ上書きされていくようだった。あの細い背中、ぶっきらぼうな目線。沈黙の多い日々。それでも、時折見せた素直な笑顔の断片が、行間からこぼれていた。
> 編集の仕事に興味を持ちました。
> 最初はただ、文章が好きだと思っていたけど、最近は、それを「読む側」にいたいと感じています。そこまで読んだとき、宏樹はゆっくりと手を止めた。息を整えるように目を閉じる。部屋は静かすぎるほど静かで、彼の耳には自分の鼓動だけが鳴っていた。
> あなたの小説を、俺は読んでいました。
> 台所に置きっぱなしだった草稿を、こっそり読んでいたこともあります。> どこかで、自分に向けられていたような気がしたから。苦笑が漏れた。気づかれていたのか、と。あの夜も、この夜も。拓海が背を向けたと思っていた時間に、実は彼はずっと読んでいたのだ。
> 読んでいるあいだだけ、自分がひとりじゃないような気がしました。
> あなたの小説が、俺を救いました。> あれがなかったら、今の俺はいなかったかもしれません。画面の前で、宏樹はまばたきをひ
会議室の窓の向こうには、くぐもった灰色の空が広がっていた。午後三時。外はまだ明るいはずなのに、曇り空がビル群を鈍く濁らせている。出版社の五階。編集部の一角にある狭い会議室で、岸本は一人、書類の束を前にしていた。エントリーシート、面接記録、評価表。新卒採用の最終選考が終わり、その中でも特に気になっていた名前が、今、彼の手元にある。山科拓海。視線が自然と、その名前の書かれた一枚に吸い寄せられる。何気ない文字の並びなのに、心のどこかで引っかかるものがあった。苗字が、山科。そして、あの目。面接中、話すよりも先に、目が語っていた。控えめなのに、奥に火種のような光を宿している。岸本は背もたれに体を預け、深く息をついた。静かな室内に、椅子の軋む音が小さく響いた。記憶が遡る。あれは…もう何年前になるだろう。冬の午後、美幸と宏樹が並んで座っていた。彼の担当作家としてではなく、一人の人間として、あの二人の話を聞いた日。「再婚することにした」その時、宏樹は確かにそう言った。美幸の傍らで、言葉を選びながら、それでも確かに口にした。「高校生の息子がいるんだ。彼女の子どもで、まだ年頃だし、俺になついてるわけじゃない。でも…人を一人にして死なせるのが、もう怖くてさ」その声には、いつになく躊躇があった。普段、言葉で誰かの心をえぐるような文章を書く男が、まるで自分の選択を恐れているかのようだった。その後、連載が一時止まりかけたこともあった。美幸の病状が進んでから、宏樹は書くことそのものが変わっていった。まるで、時間に抗うように、言葉を重ねていた。…そして、その時間の果てに、今、ここに。山科拓海。岸本は改めて書類に目を落とした。最終面接では特に大きな失点もなかった。自己PRは簡潔で、けれど自分の言葉を持っていた。質問に対する受け答えも、言葉を選びつつ、自分の内側をにじませるタイプの話し方だった。正直、何かを見透かされてい
大学図書館の自習席。天井の蛍光灯が一定の間隔で並び、静かな光を放っている。足音やページをめくる音すら、ここでは異物のように響いた。拓海は窓際の席に座り、ノートパソコンの画面と向き合っていた。就職活動が本格化し、企業エントリーの締め切りが迫っている。インターンを終えてからというもの、彼の中には、奇妙な空白と、それを埋めようとする焦燥が同居していた。何社かの企業情報を開いては閉じ、エントリーシートの下書きを書いては削除する。そんなことを何時間繰り返していただろうか。目の奥がじんわりと痛む。けれど、その痛みさえも、いまは必要な気がしていた。画面のタブを切り替えた先にあったのは、あの出版社のページだった。あの夏、言葉の重みと熱を教えてくれた場所。インターン中、決して多くを語らなかった社員たちの手元からは、それでも確かに、熱が伝わっていた。拓海はゆっくりと、エントリーボタンを押した。フォームが開かれ、氏名や連絡先を淡々と入力していく。特筆すべき経歴もない。ただ、たった一度のインターンだけが、彼にとっては人生の曲がり角だった。問題は、自己PR欄だった。カーソルが点滅を繰り返す白い空間に、指が迷う。深く息を吸い、吐く。視界の端で、窓の外に灯る街灯が揺れている。秋の夜風に葉が鳴る音が、かすかに耳に届いた。拓海は、そっとキーを打ち始めた。「私は、人の言葉によって生かされた人間です」その一行が、思いのほか自然に出てきた。かつての自分なら、絶対に書けなかった言葉だった。恥ずかしいとか、重いとか、そういう感情が先に立っていたから。だが今は、それが自分の核であると、ようやく認められる。「読者として、ある一冊の小説に救われました。その物語に出会わなければ、今ここでペンを持つ自分はいなかったと断言できます」脳裏に浮かぶのは、宏樹の書いた一節。あの家で、夜中にひとりページをめくりながら、涙を流したこと。「言葉は、過去と現在、そして他者とを繋ぎます。それがどんなに細くても、切れそうでも、確かに“存在している”という感覚こそ
壁際に置かれた扇風機が、ぎい、とかすかに音を立てて首を振る。窓の向こうでは蝉の声が薄く重なり合い、午後の陽差しがレースのカーテン越しに床を照らしていた。拓海は、編集部の隅にある仮設のデスクに腰を下ろし、目の前に積まれたゲラ刷りの束を指先で整えた。インクの香りと、長く使い込まれた紙の匂いが混じって鼻をくすぐる。手のひらの下で、わずかにざらついた紙の質感が指に馴染んでいく。インターン初日。あらかじめ知らされていたとおり、彼の仕事は校閲補助と、編集者の作業の手伝いだった。だがそれでも、彼の心は妙な熱を帯びていた。この空間には、かつて誰かが書いた言葉が、今日も息づいている…そんな気配が、部屋中に染みついている気がした。通された編集部の一角には、壁際に古い本棚が並び、その中に雑誌のバックナンバーや参考資料、そして著者からの献本が所狭しと詰まっていた。時折、編集者が背表紙を指でなぞりながら引き抜き、ぱらぱらとめくる音が静かに響いた。拓海はその音に、ふと記憶を引き戻された。宏樹の書斎でも、似たような音があった。夜遅く、ページをめくる音。万年筆を試すカリカリという擦過音。そして、沈黙。思えば、自分の生活の中で「音」が印象に残る場所は、いつも本と一緒だった。「山科くん、こっち手伝ってもらえる?」声をかけてきたのは、若手の編集者だった。彼のデスクには校了間近の原稿が山のように積まれており、その隣で拓海は、段ボールから取り出された新刊のゲラを仕分ける。紙の重さは、意外とある。数十枚ずつまとめながら、拓海は思った。ここにある一枚一枚に、誰かの時間が詰まっている。それを壊さないように整え、送り出すのが、この仕事なのかもしれない。「それ、◯◯先生の新作の初校。見てみる?」編集者が無造作に差し出してきた束の表紙に、どこかで見覚えのある名前があった。それは、宏樹がかつて寄稿していた雑誌の常連作家だった。拓海は受け取った束を胸に抱えながら、内心で緊張していた。この部屋に、かつて宏樹も出入りしていたのかもしれない。同じ廊下を歩き、同じ椅子に座ったかもしれない。そこには、もう誰も何も言わないし、跡が残っているわけでもない。ただ、空気の
パソコンの画面に、静かに新しいメールの通知が現れた。青白い未明の光が、窓の隙間から差し込む。宏樹は椅子にもたれかかり、背中を伸ばすように息を吐いた。長い夜だった。原稿はまだ、白いままだった。コーヒーの香りもすでに冷め、マグカップの底には褐色のしみがうっすらと残っている。通知音がなければ、今日も無言のまま朝を迎えるところだった。受信トレイには見慣れない名前があった。「山科拓海」その文字列を見た瞬間、指先がわずかに震えた。迷うようにマウスが止まる。けれど、手は自然とクリックしていた。件名はない。ただ本文が淡々と綴られていた。> こんばんは。お久しぶりです。> 大学に入りました。文学部です。毎日、授業とバイトでけっこう大変ですが、ちゃんと通えています。> ひとり暮らしもまだ慣れません。スクロールするたびに、宏樹の中に残っていた拓海の姿が、少しずつ上書きされていくようだった。あの細い背中、ぶっきらぼうな目線。沈黙の多い日々。それでも、時折見せた素直な笑顔の断片が、行間からこぼれていた。> 編集の仕事に興味を持ちました。> 最初はただ、文章が好きだと思っていたけど、最近は、それを「読む側」にいたいと感じています。そこまで読んだとき、宏樹はゆっくりと手を止めた。息を整えるように目を閉じる。部屋は静かすぎるほど静かで、彼の耳には自分の鼓動だけが鳴っていた。> あなたの小説を、俺は読んでいました。> 台所に置きっぱなしだった草稿を、こっそり読んでいたこともあります。> どこかで、自分に向けられていたような気がしたから。苦笑が漏れた。気づかれていたのか、と。あの夜も、この夜も。拓海が背を向けたと思っていた時間に、実は彼はずっと読んでいたのだ。> 読んでいるあいだだけ、自分がひとりじゃないような気がしました。> あなたの小説が、俺を救いました。> あれがなかったら、今の俺はいなかったかもしれません。画面の前で、宏樹はまばたきをひ
窓の外では、風がカーテンをゆるやかに揺らしていた。深夜の静けさが部屋全体に降り積もるように広がり、壁の時計の針が小さな音を刻むたびに、その静けさはより深く身体に染み込んでいった。拓海は机に向かっていた。講義のノートを広げたまま、しかし視線はずっとノートの上ではなく、開いたままのメール作成画面に向けられている。キーボードの上に置いた指先は動かず、ただその場に凍りついたように止まっていた。画面の白い余白が、言葉のなさを際立たせていた。最初に打ち込んだ「お元気ですか」の五文字は、もう何度も書いては消され、上書きされてきた。慧の言葉が、まだ胸の奥でくすぶっていた。「伝えなきゃ、届かないままだよ」そう言った彼の目は真っ直ぐだった。ふざけた口調で言ったくせに、あの時だけは、ちゃんと自分を見ていた。冗談でも励ましでもなく、ただひとつの真実として。拓海は背もたれに身体を預け、天井を見上げた。白い天井に浮かぶシミのひとつをぼんやりと眺めながら、言葉とはなんだろうと考える。言えばいいだけなのに、それが一番むずかしい。感謝も、後悔も、憧れも。すべてを一言で済ませることなどできないとわかっているからこそ、手が止まる。だけど、言わなければ、本当に何も伝わらない。深く息を吐き、再び画面に目を戻す。キーボードに手を乗せる。「こんばんは。お久しぶりです」指がゆっくりと動き出す。ぎこちなく、慎重に、でも確かに。「大学に入って、毎日忙しくしています。授業もバイトも、思ったより大変です。でも、なんとかやっています」書きながら、心の奥に広がる微かな熱を感じる。書けば書くほど、自分の中にあるものが浮かび上がってくる。あの日、祖母の家で一人、窓を見つめていた自分。あの時の沈黙も、こうして言葉にすれば、少しずつ意味になる。一度、手を止めた。画面にはいくつもの文が並んでいる。どれも平易で、取り立てて特別な言葉ではない。それでも、拓海にとっては、それらすべてが、今の自分の精一杯だった。目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。胸の中がざわめいていた。もう少しだけ書
街の空はすっかり夜に染まっていた。黒に溶け込むような雲が薄く流れ、その下でコンビニの明かりや車のテールランプが、ぼんやりとした赤や白を灯している。拓海は、制服のシャツをパーカーに着替えたまま、コンビニの脇にある自販機の前で立ち止まっていた。バイトが終わった直後、通勤客に混じって最寄り駅からここまで歩いてきたが、どうにも足が止まったのだった。財布の中身を確認する。小銭入れには、百円玉が二枚と十円玉が数枚。自販機のボタンの明かりを眺めながら、どれを押そうかと迷ってはみるものの、何を飲んでも空腹は埋まらないと知っていた。「…別に、家に帰れば、何かある」そう自分に言い聞かせるように呟いたが、足はまだ動かない。お腹が空いているというより、何かが足りない。温かいものでも、甘いものでもない、別の何かが。冷たい風が首筋を撫でた。春だというのに、夜の空気は容赦なく肌を刺す。駅前のざわめきは遠ざかり、この場所はひどく静かだった。その時、スマホが震えた。ズボンのポケットから取り出すと、画面には慧の名前があった。「今日もおつかれー。バイト死んだ? 生きてる?笑」短い文と、軽い調子。でも、そのひと言が、どうしようもなく温かく感じられた。指が勝手に動いた。「生きてる。ギリで」そう返して、ポケットにスマホを戻そうとしたが、ほんの数秒後、また震えが返ってきた。「えらい。てか、明日ゼミ前に学食寄るけど、一緒にどう?」その一文を読んだ瞬間、拓海の体から少しずつ力が抜けていった。今、自分がこの場にいることを、誰かが知ってくれている。それだけのことが、こんなにも心に沁みるなんて。「行く」短い返事を送り、スマホをしまう。手のひらに残ったぬくもりのような感覚が、指先から腕へ、肩へと広がっていく気がした。もう一度自販機に目を向けると、先ほどまで無機質だったボタンの灯りが、ほんの少しだけ柔らかく見えた。拓海は百円玉を一枚、自販機に差し込み、ホットミルクティーを選んだ。缶を手に取ると、掌に広がる熱