湯気が立ち昇る味噌汁の香りが、台所の天井にじわりと滲む。湯気はやがて照明の光に溶けて、ぼんやりと部屋全体を柔らかく包んでいた。
食卓に並べられた器は、どれも素朴で、飾り気はない。白米、焼き魚、味噌汁に、ほうれん草のお浸し。特別ではない、けれど丁寧に整えられた夕食。その前に、拓海と宏樹が向かい合って座っている。
「…いただきます」
拓海が小さく呟く。宏樹は目を合わせず、ほとんど同時に同じ言葉を返した。
箸を手に取る音、器の縁をかすめる微かな擦過音、それ以外に音はなかった。テレビはついていない。時計の針が静かに進む音だけが、空間に時間の流れを与えていた。
二人とも、無言だった。
以前なら、沈黙は気まずさを連れてきた。何を話せばいいのか分からず、沈黙が続けば続くほど、互いの居心地の悪さが積み重なった。けれど今、その沈黙は何かを求めているわけではなく、ただそこに在るだけのものだった。
拓海は味噌汁に口をつけた。出汁の優しい塩気が舌を撫で、喉に落ちる。湯気で少し曇ったメガネを指先で拭きながら、ふと視線を上げた。
宏樹は無言のまま、箸を器に運んでいる。何かを思案している風でもなく、ただ目の前の食事に集中しているようだった。その姿は、どこかしら自然で、かつてのぎこちなさや遠慮が薄らいでいるように見えた。
焼き魚の骨を器用に外しながら、拓海は自分の胸の奥にある小さな変化を探っていた。この空気の中にある静けさは、不思議と嫌ではない。むしろ、少し心が落ち着く。思い出そうとすれば、かつてはこの時間が苦痛で仕方なかったことも覚えている。けれど今、食卓に流れているのは「嫌悪」ではなかった。
「これ、味薄くなかったか?」
突然、宏樹が声を発した。顔は上げないまま、味噌汁の椀を置く音だけが重なる。
拓海は一瞬返答に迷い、少し考えてから答えた。
「いや…ちょうどいい」
宏樹はうなずいた。それ以上、会話は続かない。
けれど、そこには気遣いがあった。会話がないことを気にしている風ではないが、味について聞いてきた宏樹の言葉の奥に、「美味しかったか」と尋ねる気持ちが
雨上がりの午後、宏樹が印刷した厚みのある原稿を鞄に忍ばせて、編集部まで来た。珍しくスーツに袖を通していた。スーツ姿の宏樹は、どこか借り物のような印象を与えたが、彼の表情だけは、いつになく静まり返っていた。「これ、預かってくれないか」拓海は受け取る手を一瞬だけ迷った。だが宏樹の指先がすでに原稿の角を差し出していて、もう引き返せないのだと察する。手にした紙の重さは、単なる束の重さ以上に意味を持っていた。「ありがとう」拓海はそれだけ言って、鞄に丁寧に収めた。その夜、雨音が完全に止んだ頃、彼は自室の机に向かった。照明を少し暗めに落とし、原稿の一枚目をそっと引き出す。紙の端がかすかにふるえていた。いや、震えていたのは彼の手だったのかもしれない。タイトルはなかった。ただ、白紙の上部にタイプされた一文があった。「これは、僕たちの記録であり、忘れてはならない赦しの話だ」静かにページをめくる。最初に描かれていたのは、美幸のことだった。宏樹が彼女をどう見ていたか、どんなふうに失ったのか。医師から告げられた病名、入院生活、最後の夜、遺されたものたちの沈黙。それらを読みながら、拓海は心が締めつけられるようだった。そこには、自分の知らなかった宏樹がいて、美幸とともにいたひとりの男としての彼がいた。そしてその喪失の中に、言葉にならなかった罪と痛みが、行間に染みていた。高校時代の自分が、突如現れる。あの冬の日、ソファの上で震えながら本棚に視線を落とした少年。言葉もなく宏樹を見つめていた日々が、今、紙の上で再生される。自分が、他人の視線の中で形づくられていく感覚に、妙なむずがゆさが広がる。「…俺、こんなふうに見えてたんだ」小さく声を漏らして、次のページに手を伸ばす。大学時代の別離、電話口の無言、互いに声を届けられなかったすれ違い。そして再会、同居、変化していく関係性。宏樹の文章は、容赦がなかった。自分の臆病さも、身勝手さも、
雨が降りそうな空を背に帰宅すると、家の中にはほんのりと塩の香りが残っていた。旅の余韻。濡れた鞄を玄関に置いたまま、宏樹は無言で靴を脱ぎ、リビングの奥へと歩いた。拓海の姿はなかった。きっと、まだシャワーだろう。或いは、ベッドに横になっているのかもしれない。静寂の中、時計の針が秒を刻んでいた。ソファには、旅行中に買った薄手のストールが無造作にかけられていた。海辺で拓海が寒がって、宏樹が肩に掛けてやったものだ。その柔らかな布地を指先でなぞる。あの時の体温が、まだ少しだけ残っている気がした。書斎に向かったのは、衝動だった。いや、正確にはもっと深くからくる静かな圧力だった。逃げていたものに向き合わなければならない。それは美幸への悔いや、拓海への言葉にしきれなかった感情。それらが、これ以上身体の中に蓄積されることに、耐えられなかった。灯りをつけると、書斎は一瞬、海とは正反対の冷たさで彼を包んだ。本棚、原稿用紙、背表紙の揃った書籍たち…すべてが黙って彼を待っていた。椅子に座り、パソコンを開く。指先がキーボードに触れるたび、小さく震える音が部屋に響いた。画面が光を放ち、白紙の文書が開く。その白は、夜の闇の中でやけにまぶしかった。何から書こう。どこから始めれば、すべてが伝わるのか。あるいは、すべてなど伝わらないのだと知った上で、それでも書かなければならないのか。「美幸」小さく口の中で名を呟く。その音は、まるで喉の奥に沈んでいくようだった。君は、今でも許してくれないだろうか。それとも、どこかで静かに笑っているのだろうか。あの夜、君が残していったあの視線と、何も言わなかった唇の動きが、今もまだ脳裏に焼きついている。カーソルが点滅を続ける中、宏樹はゆっくりと最初の言葉を打ち込んだ。「この物語は、誰にも届かないかもしれない。でも、誰か一人にだけでも届けば、それでいいと思っている」キーを打つたびに、呼吸が深くなる。次の文。次の段落。
朝の光が、障子越しにやわらかく部屋に差し込んでいた。波音は夜と変わらず規則正しく響いているのに、不思議とその音色まで、朝には違って聞こえる。拓海はまだ寝ぼけたまま、微かにまぶたを持ち上げた。すぐ隣で眠る宏樹の横顔が見える。寝息は深く、肩は静かに上下している。彼の体温はすぐそばにあり、布団のなかでぬくもりが心地よく溜まっていた。この静けさが、何にも勝る幸福だと思った。何かを語らなくても、問いたださなくても、ここにいるというだけで通じ合える。それは昨日の夜から続く“答え”のようだった。拓海はそっと手を伸ばし、宏樹の指先に触れる。すると宏樹がゆっくりとまぶたを開けた。視線がぶつかり、小さく笑い合う。ただそれだけで、胸の奥がやわらかく満ちていく。「おはよう」拓海の声に、宏樹は低く返す。「…おはよう」朝の声は少しかすれていて、どこかくすぐったい。言葉の余白に、互いの気持ちがそっと沈んでいくようだった。何かを言わなきゃいけない空気ではなかった。けれど、それでも気持ちは通っている。拓海はそれが嬉しかった。窓の外では、朝日が波に細かな反射を落としている。潮の匂いは昨夜よりも軽くなり、海風がすこしだけ吹き込んでくる。鳥の声が遠くで聞こえた。「…起きる?」「うん。でももう少し、このままでいたい」宏樹の声が、静かに布団の中に落ちる。その言葉に、拓海は小さく笑ってから、ふたりの間の距離を詰めた。額を寄せ合うようにして目を閉じると、呼吸のリズムが自然と揃っていく。朝の光に包まれて、ふたりはただ静かに、確かに、そこにいた。*旅館を出た帰り道、ふたりは並んで歩いていた。海辺を離れ、駅へ向かう道すがら、地元の人々のゆったりとした生活が目に映る。小さな魚屋の軒先には朝採れの魚が並び、干物の香りが
夜の海辺は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。空は墨を流したように深く、その中にいくつかの星が瞬いている。波打ち際には灯りがなく、ただ月の光がわずかに水面を照らしているだけだった。風は少し冷たく、しかしどこか心地よい。潮の香りは強く、身体の奥にまで染み込むようだった。拓海はゆっくりと砂浜を歩いていた。靴の中に細かな砂が入り込み、かすかにじゃりっと音を立てるたび、現実感が戻ってくる。けれど隣にいる宏樹の気配は、どこか非日常の中にいるようで、それが心地よかった。ずっと、この時間が続いてくれたらいい。そんなふうにさえ思えた。「…ねえ、宏樹さん」歩を止め、拓海は声をかける。宏樹は足元に広がる砂の模様を眺めたまま、顔だけを少し向けた。「うん?」「俺、昔さ…海って、ちょっと苦手だったんだ」「苦手?」「うん。小さい頃、母さんが夏に倒れたことがあってさ。家族で出かけた海で、急に具合が悪くなって、救急車で運ばれて…」言葉を切ると、潮の音がその隙間を満たした。波がさらい、また寄せる。足元の砂に波が触れ、また引いていく。「それから、なんとなく…海って、“何かが終わる場所”ってイメージになっちゃってた」声に出してから、拓海は初めてそれが本音だったのだと気づく。胸の奥にしまっていた幼い記憶は、決して消えていなかった。ただ、しまったまま大人になってしまっただけだった。隣で宏樹が歩みを止めた。言葉はなかった。ただ、ゆっくりと手が差し出される。ためらいながら、拓海はその手を取った。ぬくもりが、静かに伝わってくる。指の形も、手のひらの大きさも知っているはずなのに、今夜はなぜか少し違って感じた。確かに握られている。繋がっている。それだけのことが、どうしようもなく救いだった。「じゃあ、今日は」宏樹がゆっくりと口を開く。「何かが終わ
車窓に差し込む光が、緩やかに揺れる海面のように拓海の頬を撫でていた。午前中の各駅停車は空いていて、向かいの席には誰も座っていない。電車はゆっくりと、いくつかの町を抜け、郊外へ向かっていた。宏樹は窓の外を眺めていた。肘を膝にのせ、視線は遠くの山並みに向けられている。何かを考えているようで、けれど拓海には、それが「仕事」ではないとすぐにわかった。日常の枠を外れた場所に、ふたりでいること。それだけで、何もかもが少しずつ違って見える。「…乗り換え、次の駅だよ」拓海が声をかけると、宏樹は小さく頷いた。「降りたら、バス乗り場すぐ見えるはずだ」「うん」返事をしながら、自分の指先が少しだけ震えているのに気づく。緊張ではなく、むしろ高揚に近いものだった。“旅”という言葉には、どこか浮き立つ響きがある。それを初めて“宏樹と共有する”ことが、心の奥でじんわりと熱を持っているのだった。バスは一時間ほどかけて、海辺の町へと向かった。窓の外、遠くに水面がちらりと見え始めたとき、拓海の心は不思議なほど静かだった。ああ、本当に来たんだ。そう思った瞬間、胸の奥にあった何かがふわりとほどけるのを感じた。宿は、海を望む小さな旅館だった。観光地といっても、今は完全なオフシーズン。チェックイン時、ロビーにはふたりしかいなかった。「お部屋、海側になります。ごゆっくりどうぞ」宿の女性スタッフが笑顔で手渡してくれた鍵を受け取り、ふたりで廊下を歩く。畳の香りが鼻をくすぐり、靴音が控えめに反響する。旅館の中もまた、どこか非現実のような静けさを帯びていた。部屋の引き戸を開けると、真正面に広がる海が目に飛び込んできた。灰青の水面が、風にたわむ草のように揺れている。音は静かだった。遠くから打ち寄せる波の響きが、部屋の中まで届いてくる。拓海は窓際まで歩いて行き、ふうっと息をついた。「すごい…誰もいないんだね」「この時期
宏樹が衣装ケースを開ける音が、寝室にこもった空気をわずかに揺らした。棚の引き出しを引くたびに、古いTシャツや折りたたまれたタオルが覗き、それを一つひとつ確認するように取り出していく。拓海はリビングから荷造り用のボストンバッグを抱えて戻ってきて、ベッドの上に置いた。そのまま座り込んで、無造作に並べられた衣類を見つめながら口元を緩める。「宏樹さん、それまだ着るの?」宏樹は手にした色褪せたシャツを見て、眉を上げた。「なにか問題あるか?」「いや、懐かしいなって。初めて一緒に洗濯したとき、それ乾燥機に入れちゃって怒られたやつ」「怒ったんじゃない。縮んだから、驚いただけだ」ふたりの間に笑いがこぼれる。いつもの部屋、いつもの会話。けれどどこか浮き立つような、非日常の気配があった。バッグのジッパーを開けながら、拓海は自分の下着や化粧水のミニボトルをひとつずつ入れていく。その隣で宏樹は、たたんだシャツを慎重にバッグに収めながら、ふと拓海の選んだ服を覗き込んだ。「これ、着ていくのか?」「え、ダメ?」「いや、似合うと思っただけ」拓海は咄嗟に目をそらして、「そう」とだけ返したが、耳の裏が熱くなるのを自覚していた。ふたりで旅の準備をするのは初めてだった。思えば、こうして“予定”を共有すること自体が、いままでの生活にはなかった。ずっと“暮らす”ことに必死だった自分たちが、ようやく“遊ぶ”ことに向かって歩き始めている。ベッドの隅に並べた荷物を一度見渡してから、拓海はふと声を低くした。「…天気、晴れるといいな」「天気予報では、曇り時々晴れ」宏樹の応えはいつも通り淡々としていたが、それを聞いた拓海の胸には妙にあたたかいものが満ちた。たとえば空が曇っていても、きっと宏樹となら、その灰色さえ悪くないと思える気がした。荷造りが終わり、ふたりは灯りを落