玄関の扉を閉めたとき、外の雨はすっかり上がっていた。アスファルトに残る水たまりが、ぼんやりと街灯の明かりを反射している。拓海は傘を畳み、重みのある紙袋を両手で持ち直した。心臓の鼓動が、ふだんより少しだけ速かった。仕事を終えて帰る夜道のはずなのに、今日だけはどこか、身体の奥がそわそわと落ち着かなかった。リビングの灯りはまだついていた。キッチンのほうから、包丁の音も湯気の香りも感じられない。宏樹はもう書斎のドアも閉めて、静かな時間の中にいるのだろう。「ただいま」声をかけても返事はなかった。それでも、宏樹がこの家のどこかにいて、自分の帰宅を待ってくれているという事実だけで、呼吸がゆるんだ。靴を脱いで、紙袋を大事に胸に抱えながらリビングへ進む。蛍光灯の光が優しく迎えてくれた。テーブルの脇、いつもの椅子に、宏樹が座っていた。ノートパソコンも閉じられていて、手元には開封されていないペットボトルの水がひとつだけ。その顔は、いつも通り淡々としている。でも、拓海が持ち帰った紙袋に気づくと、ほんのわずか眉が動いた。「お疲れ」「宏樹さん、これ…」拓海は紙袋から、丁寧に梱包された見本誌を取り出す。新刊。まだ書店にも出ていない、ほんの数部しか存在しない本。カバーをなぞる指に汗が滲んでいた。宏樹は静かに手を伸ばし、受け取る。その仕草には慣れと、ほんの少しの緊張が混じっているように見えた。パラリ、とカバーの感触が空気を裂く。宏樹は表紙を、奥付を、扉を、順にめくっていく。ページを繰るたび、拓海は自分の心臓の音がどんどん大きくなっていく気がした。何度も校正し、何度も見返した文字列なのに、今この場所で開かれることで、まるで別のものに見える。自分と、宏樹のこれまでが、手のひらに重なる気がした。宏樹の指が、ふと献辞のページで止まる。“To the one who stayed ここに、居続けた君へ”短い、でも明確な言葉。宏樹は声に出
Last Updated : 2025-09-20 Read more