All Chapters of 境界線の温度~ “家族”という名の仮面を剥いで、あなたに触れたい : Chapter 71 - Chapter 80

88 Chapters

新作の献辞

玄関の扉を閉めたとき、外の雨はすっかり上がっていた。アスファルトに残る水たまりが、ぼんやりと街灯の明かりを反射している。拓海は傘を畳み、重みのある紙袋を両手で持ち直した。心臓の鼓動が、ふだんより少しだけ速かった。仕事を終えて帰る夜道のはずなのに、今日だけはどこか、身体の奥がそわそわと落ち着かなかった。リビングの灯りはまだついていた。キッチンのほうから、包丁の音も湯気の香りも感じられない。宏樹はもう書斎のドアも閉めて、静かな時間の中にいるのだろう。「ただいま」声をかけても返事はなかった。それでも、宏樹がこの家のどこかにいて、自分の帰宅を待ってくれているという事実だけで、呼吸がゆるんだ。靴を脱いで、紙袋を大事に胸に抱えながらリビングへ進む。蛍光灯の光が優しく迎えてくれた。テーブルの脇、いつもの椅子に、宏樹が座っていた。ノートパソコンも閉じられていて、手元には開封されていないペットボトルの水がひとつだけ。その顔は、いつも通り淡々としている。でも、拓海が持ち帰った紙袋に気づくと、ほんのわずか眉が動いた。「お疲れ」「宏樹さん、これ…」拓海は紙袋から、丁寧に梱包された見本誌を取り出す。新刊。まだ書店にも出ていない、ほんの数部しか存在しない本。カバーをなぞる指に汗が滲んでいた。宏樹は静かに手を伸ばし、受け取る。その仕草には慣れと、ほんの少しの緊張が混じっているように見えた。パラリ、とカバーの感触が空気を裂く。宏樹は表紙を、奥付を、扉を、順にめくっていく。ページを繰るたび、拓海は自分の心臓の音がどんどん大きくなっていく気がした。何度も校正し、何度も見返した文字列なのに、今この場所で開かれることで、まるで別のものに見える。自分と、宏樹のこれまでが、手のひらに重なる気がした。宏樹の指が、ふと献辞のページで止まる。“To the one who stayed ここに、居続けた君へ”短い、でも明確な言葉。宏樹は声に出
last updateLast Updated : 2025-09-20
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区切りと提案

ダイニングのテーブルには、夕食を食べ終えたばかりの器がまだ残っていた。窓の外はすっかり夜で、マンションの敷地に立つ桜の木が、照明に照らされてほのかに揺れている。キッチンの換気扇の音と、カトラリーが皿に触れる微かな音だけが、部屋に残る静けさをわずかに和らげていた。拓海はマグカップに注いだコーヒーを両手で包みながら、宏樹の横顔をそっと見つめていた。ここ最近の疲れが、うっすらとした影を落としている。だけど、その輪郭には確かな達成感が滲んでいた。宏樹の新刊が無事に刊行され、編集部での大仕事も終わった。どこか日常が、少しだけ“終わった後”の静寂に満たされている。ふたりで乗り越えたひとつの季節が、今日で本当に終わったような気がした。「宏樹さん」名前を呼ぶと、宏樹は目を上げた。ダイニングの照明は暖かく、どちらの顔にもやわらかな陰影を作っていた。「仕事、ひと段落したし…どこか行かない?」少しだけ間があった。宏樹はカップを持ち上げ、コーヒーを口に含んでから静かに息を吐く。視線が、ふと窓の外に向いた。「…どこか?」「うん。遠くじゃなくていい。電車でもいいし、どこか…」拓海は言いながら、胸の奥に芽生えた期待がじんわりと広がっていくのを感じていた。新しいページを開くような、次の季節を迎えるような、小さな緊張。「…」宏樹は、しばらく考えているようだった。カップの底を覗きこみ、指先で縁をなぞる。その沈黙さえも、今夜は穏やかだった。やがて、宏樹はぽつりと呟いた。「…海、見たいな」その声はかすかに揺れていて、少し照れくさそうにも聞こえた。「海?」「…しばらく行ってないから。波の音とか、潮の匂いとか、…思い出すだけで落ち着くんだ」拓海は、ほんの少し驚いて、それから笑った。「いいね。行こう、ふたりで」
last updateLast Updated : 2025-09-21
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旅支度の夜

宏樹が衣装ケースを開ける音が、寝室にこもった空気をわずかに揺らした。棚の引き出しを引くたびに、古いTシャツや折りたたまれたタオルが覗き、それを一つひとつ確認するように取り出していく。拓海はリビングから荷造り用のボストンバッグを抱えて戻ってきて、ベッドの上に置いた。そのまま座り込んで、無造作に並べられた衣類を見つめながら口元を緩める。「宏樹さん、それまだ着るの?」宏樹は手にした色褪せたシャツを見て、眉を上げた。「なにか問題あるか?」「いや、懐かしいなって。初めて一緒に洗濯したとき、それ乾燥機に入れちゃって怒られたやつ」「怒ったんじゃない。縮んだから、驚いただけだ」ふたりの間に笑いがこぼれる。いつもの部屋、いつもの会話。けれどどこか浮き立つような、非日常の気配があった。バッグのジッパーを開けながら、拓海は自分の下着や化粧水のミニボトルをひとつずつ入れていく。その隣で宏樹は、たたんだシャツを慎重にバッグに収めながら、ふと拓海の選んだ服を覗き込んだ。「これ、着ていくのか?」「え、ダメ?」「いや、似合うと思っただけ」拓海は咄嗟に目をそらして、「そう」とだけ返したが、耳の裏が熱くなるのを自覚していた。ふたりで旅の準備をするのは初めてだった。思えば、こうして“予定”を共有すること自体が、いままでの生活にはなかった。ずっと“暮らす”ことに必死だった自分たちが、ようやく“遊ぶ”ことに向かって歩き始めている。ベッドの隅に並べた荷物を一度見渡してから、拓海はふと声を低くした。「…天気、晴れるといいな」「天気予報では、曇り時々晴れ」宏樹の応えはいつも通り淡々としていたが、それを聞いた拓海の胸には妙にあたたかいものが満ちた。たとえば空が曇っていても、きっと宏樹となら、その灰色さえ悪くないと思える気がした。荷造りが終わり、ふたりは灯りを落
last updateLast Updated : 2025-09-21
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初めての海へ

車窓に差し込む光が、緩やかに揺れる海面のように拓海の頬を撫でていた。午前中の各駅停車は空いていて、向かいの席には誰も座っていない。電車はゆっくりと、いくつかの町を抜け、郊外へ向かっていた。宏樹は窓の外を眺めていた。肘を膝にのせ、視線は遠くの山並みに向けられている。何かを考えているようで、けれど拓海には、それが「仕事」ではないとすぐにわかった。日常の枠を外れた場所に、ふたりでいること。それだけで、何もかもが少しずつ違って見える。「…乗り換え、次の駅だよ」拓海が声をかけると、宏樹は小さく頷いた。「降りたら、バス乗り場すぐ見えるはずだ」「うん」返事をしながら、自分の指先が少しだけ震えているのに気づく。緊張ではなく、むしろ高揚に近いものだった。“旅”という言葉には、どこか浮き立つ響きがある。それを初めて“宏樹と共有する”ことが、心の奥でじんわりと熱を持っているのだった。バスは一時間ほどかけて、海辺の町へと向かった。窓の外、遠くに水面がちらりと見え始めたとき、拓海の心は不思議なほど静かだった。ああ、本当に来たんだ。そう思った瞬間、胸の奥にあった何かがふわりとほどけるのを感じた。宿は、海を望む小さな旅館だった。観光地といっても、今は完全なオフシーズン。チェックイン時、ロビーにはふたりしかいなかった。「お部屋、海側になります。ごゆっくりどうぞ」宿の女性スタッフが笑顔で手渡してくれた鍵を受け取り、ふたりで廊下を歩く。畳の香りが鼻をくすぐり、靴音が控えめに反響する。旅館の中もまた、どこか非現実のような静けさを帯びていた。部屋の引き戸を開けると、真正面に広がる海が目に飛び込んできた。灰青の水面が、風にたわむ草のように揺れている。音は静かだった。遠くから打ち寄せる波の響きが、部屋の中まで届いてくる。拓海は窓際まで歩いて行き、ふうっと息をついた。「すごい…誰もいないんだね」「この時期
last updateLast Updated : 2025-09-21
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境界線の夜

夜の海辺は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。空は墨を流したように深く、その中にいくつかの星が瞬いている。波打ち際には灯りがなく、ただ月の光がわずかに水面を照らしているだけだった。風は少し冷たく、しかしどこか心地よい。潮の香りは強く、身体の奥にまで染み込むようだった。拓海はゆっくりと砂浜を歩いていた。靴の中に細かな砂が入り込み、かすかにじゃりっと音を立てるたび、現実感が戻ってくる。けれど隣にいる宏樹の気配は、どこか非日常の中にいるようで、それが心地よかった。ずっと、この時間が続いてくれたらいい。そんなふうにさえ思えた。「…ねえ、宏樹さん」歩を止め、拓海は声をかける。宏樹は足元に広がる砂の模様を眺めたまま、顔だけを少し向けた。「うん?」「俺、昔さ…海って、ちょっと苦手だったんだ」「苦手?」「うん。小さい頃、母さんが夏に倒れたことがあってさ。家族で出かけた海で、急に具合が悪くなって、救急車で運ばれて…」言葉を切ると、潮の音がその隙間を満たした。波がさらい、また寄せる。足元の砂に波が触れ、また引いていく。「それから、なんとなく…海って、“何かが終わる場所”ってイメージになっちゃってた」声に出してから、拓海は初めてそれが本音だったのだと気づく。胸の奥にしまっていた幼い記憶は、決して消えていなかった。ただ、しまったまま大人になってしまっただけだった。隣で宏樹が歩みを止めた。言葉はなかった。ただ、ゆっくりと手が差し出される。ためらいながら、拓海はその手を取った。ぬくもりが、静かに伝わってくる。指の形も、手のひらの大きさも知っているはずなのに、今夜はなぜか少し違って感じた。確かに握られている。繋がっている。それだけのことが、どうしようもなく救いだった。「じゃあ、今日は」宏樹がゆっくりと口を開く。「何かが終わ
last updateLast Updated : 2025-09-22
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朝のまなざし、未来の温度

朝の光が、障子越しにやわらかく部屋に差し込んでいた。波音は夜と変わらず規則正しく響いているのに、不思議とその音色まで、朝には違って聞こえる。拓海はまだ寝ぼけたまま、微かにまぶたを持ち上げた。すぐ隣で眠る宏樹の横顔が見える。寝息は深く、肩は静かに上下している。彼の体温はすぐそばにあり、布団のなかでぬくもりが心地よく溜まっていた。この静けさが、何にも勝る幸福だと思った。何かを語らなくても、問いたださなくても、ここにいるというだけで通じ合える。それは昨日の夜から続く“答え”のようだった。拓海はそっと手を伸ばし、宏樹の指先に触れる。すると宏樹がゆっくりとまぶたを開けた。視線がぶつかり、小さく笑い合う。ただそれだけで、胸の奥がやわらかく満ちていく。「おはよう」拓海の声に、宏樹は低く返す。「…おはよう」朝の声は少しかすれていて、どこかくすぐったい。言葉の余白に、互いの気持ちがそっと沈んでいくようだった。何かを言わなきゃいけない空気ではなかった。けれど、それでも気持ちは通っている。拓海はそれが嬉しかった。窓の外では、朝日が波に細かな反射を落としている。潮の匂いは昨夜よりも軽くなり、海風がすこしだけ吹き込んでくる。鳥の声が遠くで聞こえた。「…起きる?」「うん。でももう少し、このままでいたい」宏樹の声が、静かに布団の中に落ちる。その言葉に、拓海は小さく笑ってから、ふたりの間の距離を詰めた。額を寄せ合うようにして目を閉じると、呼吸のリズムが自然と揃っていく。朝の光に包まれて、ふたりはただ静かに、確かに、そこにいた。*旅館を出た帰り道、ふたりは並んで歩いていた。海辺を離れ、駅へ向かう道すがら、地元の人々のゆったりとした生活が目に映る。小さな魚屋の軒先には朝採れの魚が並び、干物の香りが
last updateLast Updated : 2025-09-22
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書くという選択

雨が降りそうな空を背に帰宅すると、家の中にはほんのりと塩の香りが残っていた。旅の余韻。濡れた鞄を玄関に置いたまま、宏樹は無言で靴を脱ぎ、リビングの奥へと歩いた。拓海の姿はなかった。きっと、まだシャワーだろう。或いは、ベッドに横になっているのかもしれない。静寂の中、時計の針が秒を刻んでいた。ソファには、旅行中に買った薄手のストールが無造作にかけられていた。海辺で拓海が寒がって、宏樹が肩に掛けてやったものだ。その柔らかな布地を指先でなぞる。あの時の体温が、まだ少しだけ残っている気がした。書斎に向かったのは、衝動だった。いや、正確にはもっと深くからくる静かな圧力だった。逃げていたものに向き合わなければならない。それは美幸への悔いや、拓海への言葉にしきれなかった感情。それらが、これ以上身体の中に蓄積されることに、耐えられなかった。灯りをつけると、書斎は一瞬、海とは正反対の冷たさで彼を包んだ。本棚、原稿用紙、背表紙の揃った書籍たち…すべてが黙って彼を待っていた。椅子に座り、パソコンを開く。指先がキーボードに触れるたび、小さく震える音が部屋に響いた。画面が光を放ち、白紙の文書が開く。その白は、夜の闇の中でやけにまぶしかった。何から書こう。どこから始めれば、すべてが伝わるのか。あるいは、すべてなど伝わらないのだと知った上で、それでも書かなければならないのか。「美幸」小さく口の中で名を呟く。その音は、まるで喉の奥に沈んでいくようだった。君は、今でも許してくれないだろうか。それとも、どこかで静かに笑っているのだろうか。あの夜、君が残していったあの視線と、何も言わなかった唇の動きが、今もまだ脳裏に焼きついている。カーソルが点滅を続ける中、宏樹はゆっくりと最初の言葉を打ち込んだ。「この物語は、誰にも届かないかもしれない。でも、誰か一人にだけでも届けば、それでいいと思っている」キーを打つたびに、呼吸が深くなる。次の文。次の段落。
last updateLast Updated : 2025-09-22
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読者として、担当として

雨上がりの午後、宏樹が印刷した厚みのある原稿を鞄に忍ばせて、編集部まで来た。珍しくスーツに袖を通していた。スーツ姿の宏樹は、どこか借り物のような印象を与えたが、彼の表情だけは、いつになく静まり返っていた。「これ、預かってくれないか」拓海は受け取る手を一瞬だけ迷った。だが宏樹の指先がすでに原稿の角を差し出していて、もう引き返せないのだと察する。手にした紙の重さは、単なる束の重さ以上に意味を持っていた。「ありがとう」拓海はそれだけ言って、鞄に丁寧に収めた。その夜、雨音が完全に止んだ頃、彼は自室の机に向かった。照明を少し暗めに落とし、原稿の一枚目をそっと引き出す。紙の端がかすかにふるえていた。いや、震えていたのは彼の手だったのかもしれない。タイトルはなかった。ただ、白紙の上部にタイプされた一文があった。「これは、僕たちの記録であり、忘れてはならない赦しの話だ」静かにページをめくる。最初に描かれていたのは、美幸のことだった。宏樹が彼女をどう見ていたか、どんなふうに失ったのか。医師から告げられた病名、入院生活、最後の夜、遺されたものたちの沈黙。それらを読みながら、拓海は心が締めつけられるようだった。そこには、自分の知らなかった宏樹がいて、美幸とともにいたひとりの男としての彼がいた。そしてその喪失の中に、言葉にならなかった罪と痛みが、行間に染みていた。高校時代の自分が、突如現れる。あの冬の日、ソファの上で震えながら本棚に視線を落とした少年。言葉もなく宏樹を見つめていた日々が、今、紙の上で再生される。自分が、他人の視線の中で形づくられていく感覚に、妙なむずがゆさが広がる。「…俺、こんなふうに見えてたんだ」小さく声を漏らして、次のページに手を伸ばす。大学時代の別離、電話口の無言、互いに声を届けられなかったすれ違い。そして再会、同居、変化していく関係性。宏樹の文章は、容赦がなかった。自分の臆病さも、身勝手さも、
last updateLast Updated : 2025-09-23
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編集という愛のかたち

「この段落、もう少し間を持たせたほうがいいと思う」拓海はプリントアウトした原稿の束をめくりながら、朱色のペン先をとがらせた。リビングのテーブルの上には、赤字が踊る数枚のページと、読みかけのコーヒー、そしてペンを握る手の静かな緊張があった。「どうして?」ソファに座る宏樹が、やや無防備な声で尋ねる。拓海は視線を上げずに答える。「ここ、展開が詰まりすぎてる。たぶん、読んでる人がついてこれない」「でも、実際にはそういう流れだったろう」「事実がどうだったかじゃないよ。どう伝わるか、だから」しばらく沈黙が流れた。エアコンのかすかな送風音が、ふたりの間の静寂に輪郭を与えていた。拓海は朱を入れたページをそっと裏返し、次の章へと目を移す。このやり取りに慣れるまで、少し時間がかかった。最初は宏樹の原稿を読むこと自体が、どこか背徳的なことのように感じられていた。自分が書かれている、自分が登場する、過去が、感情が、行動が…他者の眼差しで組み立てられた物語を、当事者が手を入れる。それは少し、怖かった。だがいま、拓海は編集者として、きちんとそこに座っている。宏樹が差し出したものは「愛の記録」であると同時に「作品」なのだと、ようやく腑に落ちた。「ここも削れるかも」ページの一文を指で示すと、宏樹は近づいてきて横から覗き込む。拓海の肩越しに、紙の匂いと、コーヒーと混じった微かなインクの香りが漂った。「でもそこ、拓海のセリフだったよな」「うん。でも、いま読むと冗長。意図はわかるけど、感情が飽和しすぎてる」「…書いたときは、全部入れたいと思ってた」「書くときはね。でも残すものと削るものは別でしょ」拓海はふと、自分の声が少し硬かったかと感じ、横目で宏樹を見る。けれど彼の顔に不快の色はなかった。ただ、素直に聞いていた。恋人に対する甘えでもなければ、反発でもない、まっすぐな“受け止める人”の顔だった。そのとき拓海は
last updateLast Updated : 2025-09-24
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発表、そして波紋

書店の店頭に並ぶ前から、宏樹の新作は少しずつ“話題”になっていた。タイトルは簡潔で意味深だった。『ここに、居続けた君へ』発表と同時に、出版社の公式アカウントがジャケットとあらすじを公開した。そしてすぐに、SNSのタイムラインがざわついた。「これって…例の作家の私小説?」「過去作との繋がりがあるって聞いたけど、まさか恋愛要素も?」「“君”って誰?」夜、拓海はスマホを伏せて深く息を吐いた。通知音が何度も鳴る。タグ付きの投稿に「読者の考察」と「好奇の目」が入り混じっていた。何も間違っていないのに、ざわざわとした緊張が胸の奥に広がる。心の内側が、誰かに見られているような感覚。知っている者だけが、行間を正確に読める内容。自分が“君”であることを、誰かが気づくかもしれない。気づかないかもしれない。そのどちらも、落ち着かなかった。翌日、出社してすぐ、編集部の空気が微かに変わっていることに気づいた。「拓海くん、お疲れさま」笑顔で声をかける同僚の視線が、どこか泳いでいる。何人かはあえて目を合わせようとせず、逆にひとりの後輩はやけに親しげに話しかけてきた。昼休み、会議室の端でスマホを見ていた先輩が、そっと目を上げて拓海と目が合う。その直後、画面を伏せた。職場では、何も言われない。けれど、すべてが雄弁だった。ふと、手元のノートに落ちる自分の影が、どこか“別の誰か”のように見えた。宏樹と暮らしてきた日々を、ただ“事実”として思い出すたび、心がくしゃりと波打った。自分の過去が、物語の一部として公になり、消費される。あの時間が切り取られ、読まれ、解釈される。それでも、自分は読んだ。あの原稿のすべてを。だから知っている。宏樹は、どこま
last updateLast Updated : 2025-09-24
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