「宝来さん、あの婚約は、まだ有効ですか?」温品南緒(ぬくしな なお)の口から婚約の話が出た瞬間、電話の向こうの男はわずかに驚きを見せた。「もちろんだ。あの婚約は永遠に有効だ。ただ、こっちでまだ片付けなきゃならないことがある。半月後に京栄市まで迎えに行ってもいいか?それとも京栄市に留まりたいなら、そっちで一緒に暮らせるよう手配しようか……」南緒は顎を伝った雨粒をぬぐい、静かに言った。「大丈夫。私も、そろそろ新しい環境に移りたいと思ってますから」電話を切ると、鏡に映る濡れた服と髪を整え、振り返って個室へ向かった。ドアノブに指先が触れた瞬間、からかうような声が耳に飛び込んできた。「礼瑠、温品はお前のこと、兄妹だなんて思ってないんじゃないか?子どもの頃から体の弱かった彼女が、お前の胃痛を聞いただけで、この大雨の中、薬を持って駆けつけたんだぞ。あの顔、凍えたのか驚いたのか、真っ白だった」「たぶん驚いたほうだと思うな。あれだけお前に惚れ込んでるんだ、礼瑠さん、本当にそれに心が動かないの?」その言葉に、南緒は無意識にソファの中央に座る礼瑠へと視線を向けた。彼はグラスを手に、うつむいたまま何かを考え込んでいる。その横に寄り添っていた夏川月枝(なつかわ つきえ)は、彼がなかなか口を開かないのを見て、唇を噛み、背筋を伸ばすと、手にしていた酒杯をテーブルに音を立てて置いた。その場にいた者たちは皆、空気を読める人間だから。すぐに彼女を宥める声が上がる。「何を馬鹿なことを言うんだ。一条家に預けられた孤児なんて、夏川お嬢さんと比べられるわけがないだろう。誰だって知ってる、礼瑠さんの心にいるのは夏川お嬢さんだけだって」一条礼瑠(いちじょう らいる)もようやく我に返り、月枝の不満げな表情を見て、笑みを浮かべながら彼女を腕の中へ引き寄せた。「南緒の両親は一条家に恩があった。だから引き取って育てただけだ。彼女になんて興味があるわけないだろう」少し間を置き、さらに言葉を重ねた。「妹と呼んでやるだけでも、十分な待遇だ」最後の一言は小さな声だったが、一言一句が南緒の胸を鋭く突き刺した。手足は痺れ、全身が一気に冷えきっていった。ふと、初めて一条家に来た日のことが脳裏をよぎった。あの日も礼瑠は、彼女を「妹」と呼ぶのを拒んでいた。両親
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