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第7話

Author: 七月金
南緒はひとりでタクシーに乗り、南野町へ向かった。

二か月前、彼女はドレスの店で自分用のドレスを注文していた。

誕生日当日にこのドレスを着るため、デザインの細部から色の決定まで、さらには京栄市中を駆け回って理想の布地を探したのだった。

そして今日は、店主と約束して受け取りに行く日だった。

しかし、南緒が予想だにしなかったことに、そこで礼瑠と出くわした。

「月枝が最近、新しいドレスがほしいって言ってて、ちょうどお前のこのドレスが出来上がったから、試着させに連れてきた」

その言葉に、南緒は眉をひそめた。

店には他にも完成品のドレスがたくさん並んでいるのに、なぜわざわざ彼女のものを試着させる必要があるのか。

まだ何も言う前に、月枝が試着室から出てきて、何事もなかったかのように礼瑠の胸に飛び込んだ。

「礼瑠、このドレスすごく素敵!本当に気に入ったわ」

男性は自然に手を伸ばして抱きしめ、口元に笑みを浮かべた。

「気に入ったなら、そのまま着ればいい」

南緒は彼女のドレス姿を見つめ、指先をぎゅっと握りしめて口を開いた。

「このドレスは私のサイズに合わせて作ったものだ。もし欲しいなら、代金を払ってもう一着作ることもできる」

このドレスには彼女の心血が注がれている。簡単に月枝に譲るわけにはいかなかった。

言葉を告げると、月枝は唇を噛み、少し寂しげにうつむいた。

それを見た礼瑠はすぐに表情を曇らせ、冷たく南緒を一瞥した。

「月枝にはぴったりだ。お前は他の二着を選べ。代金は俺のカードで払え」

その言葉を聞いて、南緒は深く彼を見つめ、言いたかったことを飲み込んだ。

「結構だ」

一方、月枝の顔はいつもの純真無垢な表情を保っていた。

ただ、瞳の奥には隠せない得意げな色が浮かんでいた。

月枝は手を伸ばして礼瑠の腕を組んだ。

「南緒ちゃん、後でご飯おごるわ。このドレスをくれてありがとう」

南緒は心の中の感情を押し殺し、冷淡な表情で手を振った。

「用事があるの。二人でどうぞ」

そう言うと、周囲の視線も気にせず、ためらうことなく振り返り、ドレス店を後にした。

拒絶された月枝は視線を落とし、顔に少しばかりの悲しみを浮かべた。

「南緒ちゃん、怒ってるのかな……礼瑠、やっぱりドレスを返そうか……」

しかし、今回は礼瑠はいつものように彼女を宥めず、一歩前に出て南緒の手首を掴んだ。

「俺の数珠は?」

南緒は少し驚き、手を振りほどいたあと、カバンから数珠を取り出して彼の手に置いた。

「五年間、私が勝手に使ってた。もうあなたには愛する人がいるのだから、元の持ち主に戻すべきよ」

礼瑠は手のひらの数珠を見つめ、胸にざわめくものを覚えた。何かが彼の手を離れた気がした。

彼は無意識に弁解しようとした。

「俺は……」

しかし言い終わる前に、月枝が寄ってきて、甘い声で言葉を遮った。

「礼瑠、この数珠、私のドレスにぴったり。私にくれる?」

南緒は数珠の帰属には興味がなく、ためらわずにドレス店を後にした。

しかし、普段なら月枝の要望にすぐ応える礼瑠は、今回はきっぱりと断った。

「この数珠はずっと使ってたものだから汚れてる。次は新しいのをあげる」

そう言うと、彼は数珠を自分のポケットにしまった。

南緒はショッピングモールで長く買い物をしたあと、一人で夕食を済ませ、タクシーで一条家に戻った。

玄関に足を踏み入れる前に、リビングから賑やかな声が聞こえた。

礼瑠と月枝が数人の友人とソファに座り、酒を飲みながら談笑していた。

南緒は目もくれず階段を上がろうとしたが、背後から寒吉の声が突然響いた。

「南緒さん、こっち来て一緒にゲームやろうよ!ちょうど一人足りないんだ。人数合わせにちょうどいいよ」

断ろうとしたが、前回寒吉が助けてくれたことを思い出し、結局近づいた。

彼らが遊んだのはカードの王様ゲームだった。

みんな親しい友人なので、遠慮なく遊び、すぐに盛り上がった。

南緒は静かに隅で座った。

五、六ラウンドが過ぎると、礼瑠が引いたカードの数字が最小となり、王様カードを引いた月枝の親友の許斐茜(このみ あかね)が罰ゲームを指定した。

「数字の一番小さい人は、右手の異性の中から一人選んで、3分間キス!」

偶然にも、彼の右手には月枝と南緒しかおらず、この罰ゲームの意味は明白だった。

南緒は対面の茜を一瞥し、案の定、彼女の目に敵意を見た。

礼瑠は手の酒杯を握ったまま、動かずにいた。

周囲も騒ぐのをやめ、月枝と南緒を見て、場の空気は一瞬で緊張した。

月枝は顔を曇らせた。

「どうして……」

残りの言葉は、ねっとりとしたキスに遮られた。

礼瑠は彼女を抱き寄せ、片手で顎を掴み、深く口づけした。

彼の行動は、周囲の驚きや歓声を最高潮に押し上げた。

南緒の目には、礼瑠と月枝の一挙手一投足が鮮明に映ったが、表情を変えず、全てを見届けた。

周囲が礼瑠と恥ずかしそうな月枝をからかう声が響く中、南緒は一人で階上へ上がった。

寝室の前まで来たとき、下の茜がわざと大きな声で質問しているのが聞こえた。

「礼瑠さん、いつ月枝にプロポーズするの?皆はあなたたちの結婚式を楽しみにしてるんですけど!」

この質問の答えに、南緒は全く興味を示さず、足を止めることもなく、そのまま寝室に入った。

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