All Chapters of 君と住む場所~契約から始まった二人の日々: Chapter 11 - Chapter 20

34 Chapters

検索の指先

リビングの時計が、ゆっくりと秒針を進めている。休日の夜、外へ出る気力は最初からなかった。昼間は洗濯をしようと思っていたはずが、結局ソファで動画を見ながら過ごし、気づけば外は真っ暗だ。カーテンを閉めたままの窓には、自分のぼんやりした顔が映っている。湊は脚を投げ出し、ソファの肘掛けに背を預けた。片手にはスマホ。画面の明かりが、部屋の中で唯一の動く光だった。指先は何の目的もなくニュースアプリやSNSを行き来する。誰かの昼食の写真、旅行の景色、仕事の愚痴。見慣れた流れ作業のような情報が、ただ目の前を流れていく。ため息がひとつ漏れる。別に退屈が嫌なわけではない。ただ、このまま何も変わらない夜が続くのかと思うと、胸の奥に小さなざらつきが広がった。無意識のうちに検索アプリを立ち上げ、キーワード入力欄に指を置く。そのとき、唐突に頭の中で言葉が浮かんだ。「女のいない場所」はっきりそう思ったわけではない。むしろ、感情というよりも直感に近いものだった。職場での女性社員の視線、距離を詰められる会話、その一方で感じる男性社員の冷たい壁。あの空気から解放されたい。そう考えたら、指先が勝手に動いていた。「京都 ゲイバー」画面にその文字が並んだ瞬間、湊はほんのわずかに笑った。自分がこんなことを調べるなんて想像もしていなかった。検索ボタンを押すと、写真付きの記事が並ぶ。赤や青のネオンに照らされた小さな入り口、カウンターでグラスを傾ける男性たちの笑顔、肩を寄せて談笑する姿。湊は画面をスクロールした。どの写真にも、女性客の姿はない。そこにいるのは、同じ性別の人間同士が、肩の力を抜き、自然に笑い合っている光景だった。見ず知らずの男同士なのに、距離が近くても不自然さがない。むしろ、その距離感が心地よさそうに見える。記事をひとつ開く。京都のとあるエリアがゲイタウンとして知られているらしい。小さなバーやスナックが密集し、週末は常連客で賑わうとある。写真には、カウンター越しに笑顔で話しかけるバーテンダーの姿。目元に皺が寄り、相手を包み込むような柔らかさがあった。スクロールする指が止まらない。別に自分がその空間で何をしたいのか、まだ分からない。ただ、見
last updateLast Updated : 2025-08-25
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見知らぬ扉

夜の京都は、昼間とはまるで別の顔を見せていた。観光客で賑わう大通りから一本奥へ入るだけで、街灯の数は減り、舗装の古い石畳が露わになる。しっとりと湿った冬の空気が、吐く息を白く濁らせる。湊はポケットの中でスマホを握り、地図アプリの青い点と細い路地を交互に見ながら歩いていた。画面に示される現在地は、心なしか息を潜めているように感じられた。人通りはなく、たまに背後から自転車のブレーキ音がするだけだ。「…この辺、のはずだけど」呟きは自分の耳にも頼りなく響く。スマホの光がやけに強く、冷たい空気の中で指先はじんわりと痺れていた。数歩進んだ先、路地の突き当たりにだけ、小さなネオンが浮かんでいるのが見えた。赤と青が混じったやわらかな光で、そこに描かれた筆記体の店名は、半分ほどが影に溶けて読みにくい。近づくと、それが「Le Ciel」と書かれていることが分かった。小さな扉は古びているが、手入れされているのが分かる艶がある。扉の向こうからは低く抑えられた音楽と、時折混じる笑い声が漏れてきた。外の凍えるような静けさと、内から漂う暖かさとの間に、自分だけが取り残されているような感覚が湊を包む。心臓が一拍、早く打った。手が扉に伸びかけて止まる。ここに入れば、きっと何かが変わる。変わるかもしれない。そんな漠然とした予感が、胸の奥で膨らむ。だが同時に、足がわずかに竦む。店内から、グラスが軽く触れ合う音が聞こえた。その透明な響きが、背中を押す。湊は深く息を吸い、冷たい外気を肺いっぱいに満たした。指先が扉の取っ手を握ると、金属の感触は冷たいのに、不思議と背筋に温もりが走った。ゆっくりと扉を押し開けると、ふわりと暖色の光が顔を包み込む。外の暗さに慣れた目には、柔らかいオレンジ色がやけに眩しく感じられた。最初に目に入ったのは、奥に伸びるカウンターだ。磨かれた木目がランプの光を受けて艶やかに光っている。その奥では、黒いシャツを着たバーテンダーが静かにシェイカーを振っていた。店内には五、六人の客が思い思いにグラスを傾けている。男ばかりだが、誰もこちらをまじまじと見ることはない。入口近くの席には二人組が肩を寄せて話し込み、奥のテーブル席では落ち着い
last updateLast Updated : 2025-08-25
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カウンターの距離

カウンターの上に置いたグラスの氷が、じわじわと小さく溶けていく音が耳に残る。透明な塊が水面を震わせるたび、湊は視線をそこから外し、バーテンダーに軽く手を挙げた。「すみません、もう一杯…ジントニックをお願いします」返事代わりに頷いたバーテンダーが、背後の棚からボトルを取り出す。その仕草を眺めながら、湊は無意識に隣の気配を意識していた。さっき腰を下ろした長身の男——落ち着いた色のシャツとジャケット、その下から覗く手首の骨張り方まで、妙に印象に残っている。「よく飲むんですか」不意に低い声がした。視線を上げると、その男が口元にかすかな笑みを浮かべ、グラスを揺らしていた。声にはほんのりと京都訛りが混じり、耳に柔らかく届く。「いえ、あまり…外では久しぶりです」「じゃあ、ここは初めて」「はい」「やっぱり」短い会話。だが、そのやり取りの間に、男の視線は一度も逸れなかった。まっすぐではない、けれどこちらの輪郭をなぞるように柔らかく滑る目線。それが妙に落ち着かない。バーテンダーが新しいジントニックを差し出す。湊は礼を言い、一口含んだ。先ほどよりも少し強くジンが香る。炭酸の刺激とともに、隣の男の存在が意識の中で広がっていく。「仕事帰り?」「…まあ、そうですね」「スーツ、よく似合ってる」軽く言うその声音に、社交辞令の軽さはない。それでいて押しつけがましくもない。褒められ慣れているはずなのに、湊はわずかに言葉を探してしまった。「ありがとうございます」それ以上は踏み込まない沈黙が訪れる。だが、その沈黙は居心地の悪いものではなかった。カウンターの奥から氷を砕く音、遠くのテーブル席から笑い声、低く流れるジャズの旋律。それらの音が二人の間を満たしている。視線を横にやると、男はグラスを口に運びながらも、湊を観察するように見ている。その目は、獲物を狙うというよりも、珍しいものをじっくり確かめるような色をしていた。「一人で来たん?」「え
last updateLast Updated : 2025-08-26
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揺れるグラスの向こう

瑛が二杯目のグラスを軽く揺らすたび、氷が澄んだ音を立てた。その音に混じって、低くかすれた声が湊の耳に届く。「京都には、仕事で?」問いかけはあくまで自然で、追及めいた圧はなかった。「ええ、異動で」「慣れた?」「…まあ、少しずつ」グラスの中の透明な液体を見つめながら、無難な返事を重ねる。外の冷たい空気がまだ肌に残っているのに、店内の柔らかな照明とアルコールの熱がそれをじわじわと押し流していく。瑛はそれ以上は詰めず、ただ氷を舌で転がしながら湊を見ていた。その視線が、まるでグラス越しに輪郭をなぞってくるようで、湊は何度も目を逸らした。「こっちは静かやから、仕事もやりやすいんちゃう?」「…どうでしょう」「東京は人が多すぎるもんな」「ええ…人が多いのもですけど」そこで言葉を切ると、間が落ちた。バーテンダーが棚からボトルを取る音、奥のテーブル席で笑い声が弾む音、そして氷のくぐもった響き。それらが隙間を埋める。瑛がグラスを置き、顎をわずかに上げる。「けど…なんか引っかかってるんやろ」その言葉は、不思議と拒否感を呼ばなかった。むしろ、胸の奥をそっと指先でなぞられたような感覚が広がる。「職場の人間関係、あまり…うまくいってないかもしれません」自分でも驚くほど素直に言葉が出た。ここで会ったばかりの、名前すら知らない相手に。「どんな感じ?」「女性の先輩や後輩にはよく声をかけられます。…でも、それが全部仕事の話じゃなくて」「へえ」「外見のこととか、プライベートのこととか…そういうのばかりです。悪気はないんでしょうけど」瑛は何も挟まず、ただ頷いた。相槌は軽いのに、耳を傾けているのが分かる。湊は少しだけグラスを傾け、炭酸の刺激を喉に通した。「で、男の同僚は、距離を置くんです。直接何かされたわけじゃないですけど、目が合うとすぐ逸らすと
last updateLast Updated : 2025-08-26
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試してみます?

グラスの縁を指でなぞっていた湊の耳に、低く甘い声が落ちた。「ほな、試してみます?」瞬きが一度、遅れる。意味を理解するまでに、心臓が一拍余計に打った。冗談…なのか?けれど、その声音の奥には、笑いに逃げ込む余地のない真剣さが滲んでいた。「……」言葉が喉の奥で絡まり、吐き出せない。手元では氷がゆっくりと溶けて、ぱきりと小さな音を立てた。その乾いた響きが、やけに大きく耳に残る。瑛はそれ以上は何も言わず、ただグラスを傾ける。その仕草が、逆に答えを急かすように感じられる。湊は視線をテーブルに落とし、氷の欠片がグラスの底を転がる様をぼんやりと追った。「……冗談ですよね」やっとのことで声を出すと、瑛は片方の口角だけをわずかに上げた。「さあな」曖昧な返事と、その瞬間に交わった視線。息が詰まりそうになる。店内の音楽が少しだけテンポを落とした曲に変わり、客たちの笑い声が遠のいていくように感じられた。空気が柔らかく沈み込む。「行こか」その一言が、妙に自然だった。問いではなく、宣告に近い響き。気がつけば、コートを羽織っていた。扉を押すと、外の空気が一気に頬を冷やす。冬の夜気は刺すように冷たいはずなのに、胸の奥には熱がこもっている。路地は細く、アスファルトはところどころ濡れて光を反射している。店のネオンが背中に遠ざかり、代わりに街灯のオレンジ色が足元を照らす。瑛は少し前を歩いている。背筋が真っ直ぐで、歩幅はゆったりしているのに確実に進んでいく。その横顔は横目でしか捉えられないが、薄い街灯りが頬の輪郭をなぞり、影を長く引いていた。湊はその歩幅に合わせることに必死だった。足音が二つ、アスファルトに規則正しく響く。呼吸は静かに整えようとしても、胸の内側で鼓動がせわしなく跳ねる。「…自分、何してるんだろう」心の中で呟く。答えはすぐには出ない。むしろ、その疑問自体が風にさらわれていくように感じた。曲がり角をいくつか抜
last updateLast Updated : 2025-08-27
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戸惑いの扉

エレベーターのドアが開くと、廊下に漂う空気がひやりと肌を撫でた。夜更けのホテル特有の静けさに、カーペットが足音を吸い込む。数歩ごとに壁の照明が作る円形の明かりを踏みしめ、湊は無意識に呼吸を浅くする。胸の奥で心臓の音が、歩調とは合わない速さで響いていた。隣を歩く瑛は、ポケットに片手を突っ込み、もう片方でカードキーを弄んでいる。普段通りの落ち着いた足取り。横顔に緊張の影はない。むしろ、慣れた動きに見える。「こっち」低い声が短く響き、湊の肩がわずかに揺れた。指差された部屋番号に近づくほど、喉の渇きが強くなる。唾を飲み込もうとしても、口内はやけに乾いていた。カードキーが差し込まれ、ドアロックが外れる電子音が短く鳴った。瑛が先に部屋に入る。湊も続くと、外の冷え切った空気とは対照的に、暖房の効いたぬくもりが頬を包み込む。「適当にくつろいで」瑛はそう言い、コートを脱いで椅子の背に掛けた。湊は一歩、二歩と中に進み、ベッドと小さなテーブル、壁際のテレビを視界に収める。特別な装飾もない、どこにでもあるビジネスホテルの一室。それでも、密閉された空間に二人きりという事実が、全く違う意味を帯びていた。部屋の奥に置かれたミネラルウォーターを手に、瑛が振り返る。「飲む?」湊は無言で頷き、ボトルを受け取った。キャップをひねる音が妙に大きく感じられ、冷たい水が喉を通ると同時に、胃の奥がひやりと落ち着いた気がした。しかし、その安堵は一瞬だけで、瑛の視線がゆっくりと距離を詰めてくるのを感じた途端、胸がまた高鳴り始める。「シャワー、先に使う?」一瞬の沈黙の後、湊は「…後で、いいです」と答えた。自分が先に入る勇気はなかった。瑛が浴室へ向かい、ドアが閉まる。湊は一人、部屋の真ん中に立ち尽くし、目だけで周囲を探る。ベッドの端、壁際のデスク、窓の外に見える夜景…まるで逃げ道を探すような視線の動きだった。どこを見ても現実感が薄く、足元だけがやけに重い。浴室からシャワーの音が響く。一定のリズムで落ちる水音が、妙に耳に残る。湊はテーブル脇の椅子に腰を下ろし、手のひらを見つめた。うっすらと汗ばん
last updateLast Updated : 2025-08-27
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触れられる境界

瑛がゆっくりと腰を上げた。湊はベッドの端に座ったまま、その動きを視線で追うことしかできなかった。室内の照明はベッド脇のランプだけで、柔らかな橙色が輪郭を淡く溶かしている。エアコンの低い音と、布の擦れる気配だけが静かに流れていた。気づけば瑛との距離が近づいている。片方の膝がベッドに沈み、湊の目の前で止まった。その存在感が空気を押し分け、湊の胸の奥まで入り込んでくる。瑛の手が動き、湊の頬に触れた。指先は思った以上に温かく、肌の表面よりも深くにまでその熱が届く。反射的に肩が強張ったが、逃げるという選択肢は浮かばなかった。「…固くならんでもええ」低い声が、耳の奥で揺れる。吐息が微かに頬をかすめ、その温度に合わせて心臓が脈打つ。瑛の手は頬から首筋へと滑り、軽く肩を包む。その動きは急かさず、まるで湊の反応を確かめるようだった。肩越しに感じる手のひらの厚みと指の形。それがゆっくりと圧を加え、緊張で跳ね上がっていた呼吸を、少しずつ深いものへと変えていく。視線を逸らしたくても、瑛の黒目が間近にあるせいで難しかった。その中には嘲りも急かしもなく、ただ見ている、という意志だけがある。それが逆に、湊の警戒心を静かに削り取っていく。距離がさらに縮まった。髪がかすかに触れ合い、瑛の匂いが鼻先に届く。香水ではなく、石鹸と微かなアルコールが混ざった匂い。それが不思議と安心感をもたらし、湊の背中のこわばりを解いた。唇が触れた。ほんの一瞬、羽がかすめるような軽さだったのに、全身が反応した。心臓が喉まで跳ね上がり、呼吸が止まる。再び触れたときには、さっきよりも長く、深く、互いの温度が混ざっていく。唇から伝わる湿り気と熱。微かな舌の動きに、頭の奥で何かが弾けるような感覚が走った。息が交わるたび、胸の中の酸素が少しずつ奪われ、その代わりに別の熱が全身を満たしていく。触れられているのは頬と肩だけなのに、そこからじわじわと熱が広がり、背中や指先までも痺れるようだ。これまでの誰とも違う。女の身体から感じたものとは、別種の感覚。重さも温度も、肌越しに伝わる脈動も、全てが未知だった。頭の片隅で「これはまずい」という警鐘が
last updateLast Updated : 2025-08-28
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初めての快感

瑛の指先が、ゆっくりと湊の背中をなぞっていた。軽く触れるだけなのに、そこからじわじわと熱が広がっていく。ベッドのシーツは柔らかく沈み、ランプの橙色が裸の肌に影を落とす。外は深夜の静けさに包まれているはずなのに、この密室だけは別の温度で満たされていた。湊は視線を天井に向けたまま、呼吸を整えようとしていた。だが、瑛の指が背骨を伝い腰へと下っていくと、肺の奥に溜めた空気が自然に吐き出される。思わず両腕に力が入り、シーツを握る指先が震えた。「力、抜いて」瑛の声は低く、けれど押し付けがましくはない。その響きに促されるように、湊の肩から少しずつ緊張がほどけていく。次の瞬間、唇が肩口に触れた。熱を含んだ吐息と、やや湿った感触が同時に伝わり、湊は背中を小さく反らせる。肩から首筋、そして耳の下へと、唇は迷いなく辿っていく。そこに舌先が触れた瞬間、全身の神経が一点に集まるような感覚が走った。「…っ」声にならない息が漏れる。瑛はそれを確認するように、耳の後ろをゆっくりと舐め、再び首筋へ戻っていった。首の後ろに温かい掌が添えられ、軽く押さえるようにして角度を固定される。視界の端に瑛の輪郭が近づき、唇が重なった。口内に広がるのは、微かに甘い酒の残り香。舌が触れ合うたびに心臓が速く打ち、酸素が奪われる代わりに熱が深く染み込んでいく。拒もうという意識はもうなかった。むしろ、もっと深く、もっと長くと求めてしまう自分に気づき、湊は戸惑いを覚える。それでも舌は自然と瑛を受け入れ、唇の動きに合わせてしまっていた。やがて唇が離れると、そこに残るのは細い唾液の糸と荒い呼吸。瑛の手は胸元へと滑り込み、指先がゆっくりと肌の上を描く。乳首に軽く触れられた瞬間、湊の背筋が跳ね上がった。自分の口から、こんなにもはっきりとした声が漏れるとは思わなかった。慌てて唇を噛み、声を殺そうとするが、指の動きは容赦なく続く。「無理に我慢せんでええよ」耳元でそう囁かれ、湊は首を振ろうとしたが、代わりに短い吐息が漏れた。瑛の指は円を描くように動き、時折つまむような刺激を与えてくる。そのたびに腰の奥から痺れるような快感が湧き上がり、呼吸が不規則にな
last updateLast Updated : 2025-08-28
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優しい拒絶

湊はまだ息が整わず、背中をシーツに沈めたまま天井を見上げていた。部屋はほの暗く、ベッド脇のランプが瑛の輪郭だけを柔らかく浮かび上がらせている。外の世界は静まり返っているはずなのに、この小さな密室には、まだ二人分の熱がこもっていた。鼓動は少しずつ落ち着きを取り戻しているのに、肌にはまだ余韻がまとわりついている。さっきまで触れられていた箇所が、じんわりと熱を帯びて脈打っているのがわかる。喉の奥にかすかな渇きが残り、呼吸は浅く、口の端から漏れる空気が自分でも情けないほど震えていた。横を向くと、瑛が湊を見て微笑んでいた。さっきまでの熱を帯びた表情とは違い、落ち着いた、少し柔らかい笑み。指先がそっと湊の前髪を払い、髪を撫でる。その手のひらは温かく、まるで外の冷気を知らないかのように、安心する温度を持っていた。「もっと、自分を大事にしたほうがええ」低く、けれどはっきりとした声だった。湊は一瞬、その意味を掴みかねてまばたきをする。耳の奥で、さっきまでの心音よりも強くその言葉だけが反響する。何かを諭すようでもあり、慰めるようでもあった。「…どういう、意味ですか」そう問おうと唇を開きかけたが、声にはならなかった。喉の奥で言葉が絡まり、吐き出す前に瑛が視線を外してしまったからだ。瑛はベッドからゆっくりと身体を起こし、床に置いてあったシャツを手に取る。布越しに筋肉が動く様子がランプの光で浮かび、現実がじわじわと押し寄せてくる。ボタンを留める指先は落ち着いていて、まるでこれが予定の中の一つの行動であるかのようだった。湊は半身を起こし、ベッドの端に座ったまま瑛の背中を見つめる。引き止めたら何かが変わるのだろうか、と頭のどこかで考える。しかし同時に、何を言えばいいのかも分からなかった。シャツの次にジャケットを羽織り、足元の靴を履く。瑛の動作は一つ一つが無駄なく、そして急がない。まるで湊がその間に言葉を探す時間を与えているようにも見える。それなのに、湊の口は固く閉ざされたままだった。立ち上がった瑛は、最後にもう一度だけベッドの方を見た。その視線は優しいのに、どこか遠くを見ているようでもあった。
last updateLast Updated : 2025-08-29
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独りの夜明け

シーツに背中を預けたまま、湊は天井を見つめていた。カーテンの隙間から淡い光が差し込み、夜と朝の境目のような色が部屋をぼんやりと照らしている。まだ外は静かで、遠くの道路から時折、タイヤが濡れたアスファルトを走る音が届くだけだった。身体は確かに疲れているはずなのに、まったく眠気が訪れない。瞼を閉じるたび、数時間前の感覚が鮮明によみがえる。触れられた肌の温度、唇が重なった瞬間の湿度、耳元で囁かれた低い声。思い出すたび、胸の奥で何かが熱を帯び、同時に喉の奥が締めつけられる。瑛の「もっと、自分を大事にしたほうがええ」という言葉が、まるで天井のひび割れに沿って何度も響き渡る。優しさのようでいて、拒絶にも聞こえる。あの笑みの奥にどんな意図があったのか、湊にはわからなかった。自分のことを案じてくれたのか、それとも深入りする気がないからそう言ったのか。答えを探そうとしても、さっき見送った背中が壁のように立ちはだかり、思考は堂々巡りを繰り返すだけだった。枕に顔を押しつけると、微かに香水の匂いが残っている。それは甘さとスパイスが混じった、落ち着きのある香りで、吸い込むほどに胸がざわつく。身体の奥に残った熱が、じわりと蘇るのを感じる。快感は確かに初めてのものだった。恥ずかしさや戸惑いはあったのに、それらは波に攫われる砂のように消えて、ただ強くて鋭い感覚が残った。そしてその感覚は、頭では否定できないほど鮮やかに、湊の中に刻み込まれてしまっている。シーツの上で足を少し動かすと、擦れた布が肌にひやりと触れる。その冷たさが逆に、さっきまでの熱をはっきりと思い出させる。どうしてあんなに気持ちよかったのか。どうして、あんなにも簡単に心も身体も許してしまったのか。自分の中で長く固く閉ざしてきた扉が、音もなく開いたような感覚が残っている。天井の模様を目でなぞりながら、湊は呼吸を深くした。冷静になろうとしても、胸の奥に残るざわめきがそれを邪魔する。あの瞬間、確かに自分は誰かに触れられるこ
last updateLast Updated : 2025-08-29
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