Share

カウンターの距離

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-26 16:35:54

カウンターの上に置いたグラスの氷が、じわじわと小さく溶けていく音が耳に残る。透明な塊が水面を震わせるたび、湊は視線をそこから外し、バーテンダーに軽く手を挙げた。

「すみません、もう一杯…ジントニックをお願いします」

返事代わりに頷いたバーテンダーが、背後の棚からボトルを取り出す。その仕草を眺めながら、湊は無意識に隣の気配を意識していた。さっき腰を下ろした長身の男——落ち着いた色のシャツとジャケット、その下から覗く手首の骨張り方まで、妙に印象に残っている。

「よく飲むんですか」

不意に低い声がした。視線を上げると、その男が口元にかすかな笑みを浮かべ、グラスを揺らしていた。声にはほんのりと京都訛りが混じり、耳に柔らかく届く。

「いえ、あまり…外では久しぶりです」

「じゃあ、ここは初めて」

「はい」

「やっぱり」

短い会話。だが、そのやり取りの間に、男の視線は一度も逸れなかった。まっすぐではない、けれどこちらの輪郭をなぞるように柔らかく滑る目線。それが妙に落ち着かない。

バーテンダーが新しいジントニックを差し出す。湊は礼を言い、一口含んだ。先ほどよりも少し強くジンが香る。炭酸の刺激とともに、隣の男の存在が意識の中で広がっていく。

「仕事帰り?」

「…まあ、そうですね」

「スーツ、よく似合ってる」

軽く言うその声音に、社交辞令の軽さはない。それでいて押しつけがましくもない。褒められ慣れているはずなのに、湊はわずかに言葉を探してしまった。

「ありがとうございます」

それ以上は踏み込まない沈黙が訪れる。だが、その沈黙は居心地の悪いものではなかった。カウンターの奥から氷を砕く音、遠くのテーブル席から笑い声、低く流れるジャズの旋律。それらの音が二人の間を満たしている。

視線を横にやると、男はグラスを口に運びながらも、湊を観察するように見ている。その目は、獲物を狙うというよりも、珍しいものをじっくり確かめるような色をしていた。

「一人で来たん?」

「え

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   名前の距離

    ベッドの上に沈むように背を預けた湊は、天井の模様をぼんやりと目で追っていた。部屋の照明は落とされ、ランプの柔らかな光だけが二人を包んでいる。外からは何の音も入らず、聞こえるのは互いの呼吸と布が擦れるわずかな音だけだ。すぐ横から伸びてきた瑛の手が、シーツ越しに湊の腰骨をなぞる。その指の動きは、意図的に緩慢で、くすぐるような優しさと、じわりと奥に染み込む熱を同時に帯びていた。湊は無意識に肩を揺らすが、逃げるわけではなく、その感触を受け入れてしまう自分に気づく。「九条さん…」息の間に押し出されたその呼びかけは、自分でも妙にかしこまっていると思う。こんなに近くにいて、肌の熱を共有しているのに、名前はまだ遠くにある。それが奇妙な安心を与える一方で、心の奥に小さな空白を作っている。瑛はその呼びかけに短く「ん」とだけ応えた。瞳は湊の動きを追っているが、口元にはわずかな笑みがある。その視線に射抜かれるような感覚が走り、湊は目を逸らそうとするが、逸らしきれない。指先がシャツの裾にかかり、ゆっくりと生地を押し上げていく。肌が外気に触れ、ひやりとしたあと、すぐに掌の温もりが覆う。腰のあたりから背にかけて、滑るような感触が移動し、そのたびに浅い息が漏れる。「大塚さん、力抜き」柔らかくも確信のある声が降ってくる。その呼び方もまた、距離を保った響きだ。湊は小さく頷きながらも、心のどこかでその距離感が崩れる瞬間を待っている自分を感じていた。瑛は淡々と動きを続ける。無理やり迫ることはなく、けれど逃げ場は与えない。触れられる部分が少しずつ広がっていくのに合わせて、湊の体は次第に沈み込んでいく。耳の奥で自分の心臓が規則的に鳴り、それが妙に大きく聞こえる。「九条さん…」呼びかけるたび、喉が渇くような感覚があった。呼び方は変わらないのに、声の温度がじわじわと変わっていく。瑛の瞳の奥は、まだどこか冷静さを保っている。それが湊には、まるでまだ本気を見せていない証のように思えた。ベッドの軋みが小さく響く。瑛の指が鎖骨をなぞり、そこから胸元へと下りていく。その動きは穏やかなのに、触れられた部分から熱がじわじ

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   触れ始める境界

    寝室のドアを閉めた瞬間、外の世界が遠くなる。わずかな隙間から差し込んでいた廊下の光も途絶え、ランプの橙色が部屋の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。静かすぎて、互いの呼吸音がやけに近く感じられる。湊は足元のカーペットの感触を意識しながら立ち尽くしていた。背後から、ゆっくりとした足音が近づいてくる。瑛の影が伸び、肩口に重なるように迫る。「力、抜け」低く、囁くような声。温かい息が耳の後ろをかすめ、その一点だけ体温が上がるような錯覚に陥る。湊は反射的に肩をすくめたが、その肩に瑛の手がそっと置かれた。指先は無理に押し込むこともなく、羽のように軽く触れている。触れられているはずなのに、そこから熱がじわじわと染み込んでくる。逃げようとすれば、簡単に距離を取れる。けれど足は動かない。頭の中で「契約」という言葉が響く。その現実が、奇妙に肌の感覚を鋭くしていた。瑛の手が、ゆっくりと肩から首筋へと移動する。指先が髪をかき分け、襟足に触れた。湊は喉の奥がひゅっと鳴るのを感じる。細かな産毛が総立ちになり、そこに温かい吐息が降りかかった。「大丈夫や」その短い言葉は、慰めのようでいて、許可を与える響きもあった。湊は正面を見つめたまま、瞬きも忘れている。視界の端で、瑛の影がゆらぎ、やがてその顔が横から覗き込むように近づいた。視線が交わる。鋭さを湛えていたはずの瞳は、今は静かに、けれど逸らさない光を宿している。瑛の指が髪をすくい上げるたび、耳の後ろや首筋に微かな風が触れ、甘くくすぐったい感覚が走る。湊は肩の力を抜こうと意識しながらも、心臓の鼓動だけは早まっていく。距離がさらに縮まり、瑛の胸の高さから漂う香りが鼻腔を満たした。柔らかい石鹸の匂いと、微かに汗の混じった体温の匂い。それは生活の匂いでありながら、今はただ濃密に感じられる。「…こっち向け」静かな命令形。拒む理由を探そうとしたが、見つからない。湊はゆっくりと顔を横に向けた。すぐ近くに瑛の顔。唇までの距離は、あと一息。呼吸が混ざり、吐く息の温度が頬をなぞる。その瞬間、肩に置かれた手が軽く圧をかけ、体が自然と瑛の方へ傾く。

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   閉じた扉の内側

    湊が玄関の鍵を閉める音が、妙に大きく耳に響いた。外界との繋がりが断たれたことを、体の奥がはっきりと理解してしまう。背後には、ソファに腰を沈めている瑛の気配。靴を脱ぎ、自然な所作でリビングに入ったはずなのに、湊の心臓は落ち着くどころか速くなる一方だった。テーブルの上には、食べ終えたばかりの夕食の皿がそのまま置かれている。レンジで温め直した惣菜と、簡単なサラダ、缶ビールが二本。何でもないはずの食卓が、妙に湿った空気を孕んで見えるのは、この後に控えていることを湊が知っているからだ。瑛は背もたれに寄りかかり、長い脚を投げ出している。くつろいでいるように見えて、視線は逸らさずに湊を追ってきた。その目は柔らかさと同時に、獲物を観察する肉食獣の静かな鋭さを秘めている。どこか遠慮のない、その覗き込むような眼差しに、湊は背筋が熱くなるのを感じた。「皿…片付けますね」声がわずかに震えたのを、自分でもはっきりと聞き取った。瑛は小さく頷くだけで何も言わない。湊はキッチンに向かい、水道をひねる。流れ落ちる水音が、妙に大きく部屋に響いた。蛇口から立ち上る温かい湯気が顔にかかる。手元の皿を洗っているはずなのに、意識の半分以上は背後のソファにいる男の存在に引き寄せられている。振り返れば、瑛は変わらず湊を見ていた。その目が暗がりの中でもはっきりと輝きを帯びていて、街灯の淡い光が窓越しに差し込み、その横顔を縁取っている。契約を交わしたときのことが、鮮明に蘇る。生活のため、そして自分の部屋を人間の住める空間に保つために差し出した条件。それは紙に書かれた約束ではない。言葉と視線だけで成り立つ、不安定で、けれど抗えない取り決めだった。瑛は何も急かしてはいない。それがかえって湊を落ち着かなくさせる。床に映る二人の影が、ランプの光でじわりと長く伸びる。時間がゆっくりと、しかし確実に進んでいく感覚がある。キッチンからリビングに戻ると、瑛は手元のグラスを軽く揺らしていた。氷がカランと音を立てる。その音だけがこの部屋の空気を小さく震わせる。湊はグラスに目をやり、無言でテーブルに座った。距離はわずか一メートル。普段なら何も感じないはずの間隔が、今夜はやけに近く感じられる。

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   渋々の承諾

    橙色の光が、薄く閉じたカーテンの隙間から差し込み、リビングの空気を柔らかく染めていた。日が傾き、家具の影は長く伸び、テーブルの脚や床に積まれた荷物を褐色に縁取っている。窓を少し開けているせいか、外からは夕方特有の冷えた風が入り込み、部屋にこもった生活臭をゆっくりと薄めていった。湊はソファの端に座り、膝の上で指を組んだまま動けなかった。組んだ指先はじんわりと汗ばんでいて、何度も握り直しては同じ姿勢に戻ってしまう。耳の奥では、さっきまでの瑛の言葉が、低い声の余韻と共に反響していた。住み込みで世話したる。その代わり…抱かせろや。何度頭の中で繰り返しても、やはりそのままの意味にしか取れない。冗談にしては目が真剣すぎたし、脅しにしては声が穏やかすぎた。どう答えればいいのか、言葉が見つからない。瑛はといえば、湊の数歩先、テーブルの上に残った細かなゴミをひとまとめにしている。袋が小さく音を立て、何か硬いものがぶつかり合う。淡々とした手つきに、焦らせようとする気配はない。それが逆に、湊の迷いを際立たせた。断るのは簡単だ。だが、瑛の言葉が示すように、今の暮らしを自分ひとりで立て直すのは難しい。前回きれいにしてもらってから、一か月も経たずにまた同じ状態に戻した。今回も片付けが終われば、その安心感のまま日々を過ごし、また散らかすのは目に見えている。自分の意志の弱さは、もう何度も思い知らされた。けれど、条件が条件だ。身体を預けるということは、ただの生活支援とは違う。頭では線を引こうとするのに、胸の奥には、あの夜の感触が残っている。触れられたときの体温や、耳元で混じった呼吸、そして何より、自分の奥底まで揺さぶられた感覚。思い出すたび、理性が少しずつ揺らいでいく。瑛がゴミ袋の口を結び、軽く床に置く音が響いた。そのままゆっくりと湊の方を振り向く。視線がぶつかる瞬間、胸の鼓動が跳ねた。逃げるように目を伏せると、長い沈黙が落ちる。時計の秒針の音すら、やけに大きく感じる。瑛は何も言わない。ただ待っている。その待ち方は、責めるで

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   揺れる天秤

    瑛の言葉が、耳の奥に残響のようにこびりついて離れなかった。「住み込みで世話したる。その代わり…抱かせろや」ただの一文なのに、意味を理解した瞬間から、胸の奥にじわじわと広がる熱と、全身を冷やすような抵抗感が同時に入り混じっている。ソファの端に腰を下ろし、視線は無意識に床へ落ちていた。足元には、まだ片付けきれていない小さなゴミや、片隅に積まれたままの雑誌の束。目に入るたび、自分のだらしなさを突きつけられる。この部屋を立て直すには、誰かの助けが必要だということは分かっている。前回、瑛が来たときの片付いた部屋と、あの時に感じた解放感は、確かに心を軽くした。あんな空気の中で眠る夜を、もう一度味わいたいとも思う。だが、そのための条件が、あれだ。脳裏に浮かぶのは、あの低く落ち着いた声と、真っ直ぐすぎる視線。冗談でも戯れでもないことを、あの場の空気が証明していた。拒否すればいい。普通なら、即座に。なのに口が動かない。視線も上げられない。瑛は、何も言わずにテーブルの上の空き缶を袋にまとめている。無駄な音を立てないその動きが、やけに静かで、その沈黙が逆に胸を圧迫する。まるで「答えはお前が決めろ」と言われているみたいだった。急かしてはいない。だが、この沈黙は、言葉よりも強く、背中を押す。視線を上げれば、きっと瑛と目が合う。それが怖くて、カーペットの毛足のほつれを指先でいじりながら、唇を噛んだ。小さく響いたその音が、やけに耳に残る。もし受け入れたら、この生活はきっと変わる。瑛は約束を守る人間だという確信はある。口数は少なくても、やるべきことを淡々とこなす姿を、前回と今回で見てきた。頼めばきっと、この散らかった部屋も、自分の乱れた暮らしも、支えてくれるだろう。でも…その代わりに差し出すのは、自分の身体。そこに踏み出す覚悟なんて、自分にあるのか。快感も、心地よさも、一度は知ってしまった。あの夜の記憶は、消そうとしても鮮やかに甦る。肌に残った感触や、耳に残った息遣いまで。嫌悪感はない。それがまた、判断を鈍らせる。窓の外は、いつの間

  • 君と住む場所~契約から始まった二人の日々   予想外の提案

    瑛の手がぴたりと止まった。袋を縛る途中だったはずの指が、そのまま力を抜き、膝の上に落ちる。次に顔を上げたとき、その視線はまっすぐこちらに向けられていた。重たい空気が一瞬で室内に張り詰める。「…なあ」呼びかけられただけなのに、胸がひとつ跳ねる。「住み込みで世話したる」何を言い出すんだと眉を寄せかけた瞬間、続く言葉が落ちた。「その代わり…抱かせろや」頭が真っ白になった。今、確かに聞いた言葉の意味が、脳の奥で固まって動かない。唇がわずかに開いたまま、声が出ない。袋の口を縛るビニールの擦れる音すら止まり、代わりに自分の心臓の音ばかりが響いているようだった。「……は?」やっとのことで搾り出した声は、自分でも情けなくなるほどかすれていた。瑛の表情は、冗談を言って笑わせようとする顔ではない。眉間にはわずかな皺が寄り、その黒い瞳が真剣にこちらを射抜いている。「冗談ちゃう。放っといたらまたこうなるやろ。それやったら俺がここにおったほうが早いやん」普通の「世話する」という言葉なら、まだ理解できる。しかしそこに乗せられた条件が、胸の奥を熱くしていく。頭では「おかしい」と繰り返しながら、視線だけは逸らせない。「…なんで、そんな条件」やっと問いかけると、瑛はわずかに口角を上げた。笑っているというより、逃げ道を塞ぐような静かな表情だ。「理由いる?」その一言で、また喉が詰まる。理由を聞けば、たぶんもっと混乱する。聞かなくても、十分すぎるほど動揺している。部屋の奥、半分閉めたカーテンの隙間から覗く曇り空が、薄い灰色の光を落としている。明るくも暗くもないその光が、瑛の輪郭だけをはっきりと浮かび上がらせていた。どこか密閉されたようなこの空気の中で、距離感が狂っていく。「…断る理由はないんちゃう?」まるで事務的に条件を提示しているかのように、瑛は淡々と言

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status