Tous les chapitres de : Chapitre 51 - Chapitre 60

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甘い逃避

カーテンの隙間から、外の街灯の光が細く差し込んでいた。白く淡いその光がベッドの端をかすめ、シーツの皺をゆっくりと浮かび上がらせる。外ではまだ雨が降っているらしく、時折アスファルトを打つ小さな音が規則的に耳に届く。湊はベッドの上で背を預け、視線を逸らしたまま瑛の指先が触れるのを待っていた。呼吸はまだ落ち着かない。自分から引き寄せたくせに、いざ触れられると体がこわばる。その理由は分かっていた。胸の奥にまだ、数日前の言葉の残響と、瑛と新人の間で交わされたであろう笑顔の想像が、棘のように引っかかっている。しかし瑛の手が頬を包み、その指が耳の後ろをなぞると、その棘はわずかに溶けていった。肌に触れる温もりは一定のリズムを持っていて、それはまるで意図的に湊の思考を削ぎ落としていくようだった。「…目、見て」低い声が耳元に落ちる。その響きに、背筋がゆるく痺れる。言われるままに視線を上げると、近すぎる距離に瑛の瞳があり、その奥に何も隠していないような光が揺れていた。唇が触れる。けれど、それは浅く触れては離れ、また触れては離れる、焦らすような口づけだった。ほんのわずかな間を置くたび、湊の呼吸は乱れ、胸の奥が甘く締め付けられる。「ちゃんと…感じてるやろ」掠れるような声とともに、唇が深く重なった。今度は舌が絡み、口内の奥まで熱が入り込む。呼吸を奪われ、思考はさらに遠のく。唇の内側を撫でられるたび、指先から背中にかけてじわじわと熱が広がる。湊は無意識に瑛の服を掴んでいた。指先に伝わる生地の感触が頼りなく、もっと確かなものを求めて引き寄せる。瑛はそれに応じて体を近づけ、脚と脚が絡まる。生地越しに感じる熱が、肌を伝って深く入り込んでくる。首筋に唇が落ちた。軽く吸い上げられると、そこで小さく声が漏れる。瑛はそれを逃さず、さらに唇をずらしながら痕を刻む。外からの光がその肌を淡く照らし、濃淡の影を浮かび上がらせる。「ここ、弱いよな」低く笑う声と同時に、指が鎖骨の下をなぞる。その動きは急かさず、しかし逃げ場を与えない。湊は眉を寄せながらも、その指の軌跡を追う熱に体が勝手に反応してしまう。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-14
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新しい感覚

カーテンの外は真夜中の闇に沈み、遠くで車が一台、湿った路面を走り抜ける音がした。それもすぐに静けさに吸い込まれ、部屋の中には二人の息と布擦れの音だけが残った。湊は仰向けにベッドへ沈み込み、天井の影をぼんやりと見上げていた。心臓が早く打ちすぎて、耳の奥で自分の脈が波のように響く。瑛の手が腰を押さえ、その指がゆっくりと滑り降りていく感覚に、喉がかすかに震えた。「…っ」低く息が漏れた瞬間、瑛は動きを止めず、逆にその場所を確かめるように指先を軽く押し込んだ。そこは今まで触れられたことのない角度で、刺激が不意打ちのように全身へ駆け上がる。湊は思わず腰を引こうとしたが、肩を押さえられ、逃げ場を失う。「初めてやな、ここ」耳元で囁かれる声は、わざと低く落とされていて、脊髄の奥まで染み込んでくる。その響きに合わせて、指がゆるやかに動く。触れられるたび、体の奥で小さな火花が弾け、それがやがて連鎖して熱を広げていく。湊は眉を寄せ、唇を噛みしめた。反応したくないと必死で堪えるのに、腰の奥から上ってくる震えがどうしても抑えられない。「や…っ、やめ…」拒絶の言葉は途中で途切れた。瑛のもう一方の手が太腿の内側をなぞり、わずかに開かせる。その距離が変わるだけで、触れられている場所の感覚が鋭さを増し、胸の奥まで痺れるような熱が走った。「やめるわけないやろ」短く笑った後、瑛はさらに角度を変えた。その瞬間、湊の体がびくりと跳ねる。今まで感じたことのない深いところを掬い上げられるような感覚。意識のどこかで「こんなのはおかしい」と告げる声があるのに、次の瞬間には呼吸が浅く乱れてしまう。背中がシーツを擦り、指先が握りしめた布が湿っていく。唇から漏れる声は自分でも抑えられず、呼吸の合間に掠れる。瑛はその声を聞くたびに動きをわずかに変え、反応を確かめるように試す。まるで湊の中に隠された鍵を、一つずつ見つけ出していくかのようだった。「知らんかったんやろ、自分でも」そう言われて、湊は目を逸らす。図星だった。こんな反応、自分の中にあるなんて思いもしなかった。驚きと恥ず
last updateDernière mise à jour : 2025-09-14
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境界の溶解

息が、なかなか整わなかった。胸の奥に残る痺れと、脈打つ感覚がゆっくりと遠のいていくのを感じながら、湊は薄く目を開けた。視界はまだ霞がかかったようにぼやけていて、天井の模様さえ曖昧にしか見えない。耳の奥には、自分の荒い呼吸と、外で風が建物の隙間を抜けていく音だけが残っていた。すぐ横に、瑛の体温がある。片腕が自分の腰をゆるく抱き寄せ、その手のひらが、まるで確かめるように背中を緩やかに撫でている。その動きは、行為の余韻を引き延ばすには十分すぎるほど緩慢で、湊の皮膚はそこに触れるたびにじんわりと熱を取り戻した。逃げようとする意志は、なかった。いや、逃げられなかった。指先ひとつで簡単に振りほどける距離なのに、その腕の重みと温かさが、足枷のように湊をベッドに縫いつけていた。今までなら、終わったあとに距離を取るよう心がけていた。線を引くことで、自分を守っていた。それがいつの間にか、こうして無防備に隣で呼吸を合わせている。「……」瑛は何も言わなかった。けれど、その沈黙が言葉よりも重くのしかかる。音もなく撫でられる髪、その指先の感触に、湊の体は緩やかに沈み込んでいく。まるでここが当然の居場所だと刷り込まれるように。唇がわずかに震えた。何かを言えば、この沈黙は破れるのかもしれない。でも、言葉が出ない。破ってしまえば、今のぬるま湯のような安心が冷えてしまうのがわかっていた。外の風の音が一瞬強くなり、窓ガラスがかすかに揺れた。部屋の中には、汗の匂いと、肌同士が触れ合った後の体温がまだ残っている。首筋に流れる汗がシーツに吸い込まれる感触が、妙に鮮明だった。「……まだ、離れんとこ」低く、囁くように瑛が言った。命令ではなかった。でも、その声は抗えない鎖のように、湊の胸に巻きつく。返事をしないまま、湊はほんのわずかに顔を近づけ、額を瑛の肩口に触れさせた。肩越しに聞こえる心音が、微妙に速い。本当は、もう境界は崩れかけていると気づいている。でも、その事実から目を逸らすように、湊は瑛の手首に触れた。細くしなやかな骨と筋肉の感触
last updateDernière mise à jour : 2025-09-15
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繰り返す夜

最初のきっかけは、あの夜だった。寒い、眠れない、疲れた…そんな言葉を盾にして、湊は瑛の服を掴んだ。口実は苦しいと自分でも分かっていたが、瑛は何も突っ込まず、当たり前のようにその求めに応じた。それからの日々、同じような夜が続いた。日中は別々の生活を送り、夕食を共にし、片付けが終わる頃になると、湊は自然なふりをして距離を詰める。ソファに座れば膝が触れ合う位置を選び、寒いと言って毛布を分け合う。その流れで瑛の肩に寄りかかることは、もうためらいがなかった。「今日…疲れた」仕事から帰ったばかりの湊は、わざとため息を混ぜて呟く。それが合図であることを、瑛も分かっている。視線が静かに絡まり、そのまま寝室へ向かう。歩きながら肩越しに見える瑛の横顔は、いつも無表情に近いのに、何かを知っているような眼差しをしていた。行為は毎回違っていた。時には湊の焦りを利用してすぐに深く触れ、時にはじらすように髪や首筋に口づけだけを重ねて、湊の呼吸を乱す。触れられる時間が長くなればなるほど、湊は自分でも制御できないほど熱を帯びていく。夜が深まると、部屋の空気は一定の温度を保ち、吐息と衣擦れの音だけが響く。その音が生活の一部になり、湊の中では不自然さが薄れていった。ベッドに沈む瞬間、必ず瑛の匂いと体温が傍にあることが、安心と同時に甘い麻痺を与える。理由は毎回違うが、結末は同じ。「寒いから」「なんか眠れない」「肩こってて」言葉を並べれば、それはただの雑談にも聞こえる。けれど瑛は一度も断らなかった。むしろ、その理由の薄さを愉しんでいるように見える時さえある。ある夜、湊が寝室に先に入り、ベッドの上でスマホを弄っていると、瑛がドアにもたれて笑った。「今日はなんの理由?」湊は顔を上げずに「別に」と返す。それでも、瑛は何も言わずに近づき、スマホを取り上げると、そのまま湊の顎を上げさせた。軽く触れられた唇が、あっという間に熱を孕んでいく。こうして触れられる夜が、当たり前になっていく。翌朝、目覚めた時に隣にいなくても、昨夜の感触が
last updateDernière mise à jour : 2025-09-15
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何気ない会話の綻び

窓際のカーテンがわずかに揺れていた。薄いベージュの布越しに射し込む昼の光は、冬の柔らかさを帯びている。外からは遠く車の走る音が、低く一定のリズムで響いてきた。湊はリビングのソファに腰を沈め、膝に置いたマグカップから立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。キッチンでは、瑛が包丁を軽やかに動かしている。まな板に刃が当たる乾いた音と、鍋で温められる出汁のふくよかな香りが、部屋いっぱいに満ちていた。味噌と鰹の匂いが混じり合い、鼻腔をくすぐる。こうして人の気配のある昼を過ごすことは、ここに来てからも、そう多くはない。「このニュース、前にも似たようなんあったやろ」瑛の低い声が、テレビの音に紛れて届く。湊は顔を上げ、視線を画面に移した。ワイドショーのスタジオで、アナウンサーが大学の部活での不祥事を取り上げている。「さあ…あったかな」返事をしながら、湊は記憶を探る。何年前の出来事だったか、うっすらと思い出す。「俺、高校の時やったかな…部活帰りに友達とそのニュース見て、なんや笑いながら話してた覚えあるわ」瑛は包丁を止めず、軽く笑ってそう言った。口元がかすかに緩むのが見える。その言葉が、湊の耳に妙な引っかかりを残した。自分がそのニュースを見たのは大学一年の頃だった。年数を逆算すると、高校生だった瑛とは、少なくとも三、四年の差があることになる。(…高校?)湊は内心でつぶやく。今まで、瑛の年齢については深く考えたことがなかった。同年代か、もしかしたら少し上かもしれないーーそう思っていた。背の高さも、落ち着いた物腰も、年上を思わせる要素が揃っている。しかし、高校生の頃にそのニュースを見ていたということは…。「何?」視線に気づいたのか、瑛が振り返る。エプロンの紐を腰で軽く締め、片手に菜箸を持ったまま首を傾げる。その仕草が、ほんのわずかに子供っぽく見えた。「いや…なんでもない」湊はマグカップに視線を戻す。コーヒーの表面が、瑛の動きに合わせてかすかに波打っていた。妙に意識してしまった自分をごまかすように、熱い液体を口に含む
last updateDernière mise à jour : 2025-09-16
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記憶の時差

窓の外には薄く雲がかかり、陽射しが白く滲んでいる。昼下がりのリビングは静かで、テレビの音が淡く空気を揺らしていた。画面には午後のバラエティ番組が映っているが、途中で流れた昔のCMソングが、部屋の空気を少し変えた。瑛が、台所からそのメロディを口ずさんだ。鼻歌のように小さく、しかし正確に音をなぞろうとしているのが分かる。包丁を使う手を一瞬止め、リズムに合わせて軽く足先で床を叩く。その声は低く、柔らかい響きで、歌詞の一部を確かめるように切れ切れに紡がれていた。湊はソファからその声に耳を傾け、胸の奥に小さな引っかかりを覚える。あの曲は、自分が小学生の頃によく耳にしていたもので、教室でも休み時間に誰かが口ずさんでいた。旋律を聞けば、当時の匂いや教室の埃っぽさ、窓から差し込む午後の光まで思い出せる。それほど、鮮やかな記憶として残っている。「懐かしいな、それ」何気なく声を掛けると、瑛が振り返らずに応える。「やろ?なんか急に流れてきて…あんまり覚えてへんけど、こうやったかなって」その言い方に湊は眉をひそめた。覚えていない?自分には鮮明なのに。瑛の口ぶりは、あの曲に強い印象を持っていない人間のそれだった。「小学生の時、みんな歌ってたよ」湊はそう付け加えた。箸を持つ手のように、言葉が自然に口から滑り出る。その瞬間、台所の瑛がふと手を止める気配があった。鍋の中でコトコトと煮立つ音だけが耳に届く。ほんの数秒、短い間が流れた。「俺、その時まだ…」瑛の声が途中で途切れる。まるで言葉の先に、自分の年齢を明かす危うさを感じ取ったように。鍋の蓋を少しずらし、湯気を逃がす音がその沈黙を埋めた。湊はソファに背を預けたまま、その背中をじっと見つめる。何を言いかけたのかは、ほぼ分かっている。まだ小学生にもなっていなかったか、もっと幼かったか…いずれにしても、自分より年下である可能性が高い。昨日から心の中に生まれていた疑問が、形を持ち始めた感覚があった。「まだ…何?」軽く問い返してみる。しかし瑛は振り向かず、味噌を溶く手を動かした。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-16
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問いかけの間合い

昼食を終えた食卓に、まだ味噌汁の香りがわずかに残っていた。皿や箸は瑛が手際よく片付け、湊はその音を背中で聞きながらソファに座っている。窓の外は午後の光が白くやわらかく、カーテンの布目を通して部屋に落ちていた。やがてキッチンから、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。ミルで挽いたばかりの粉と湯が触れ合う音が静かに響き、空気に深い色を混ぜるようだった。湊は目を細め、その香りを吸い込みながら、胸の奥にあるもやの正体を探っていた。あの昼食中の会話、瑛の口をつぐんだ一瞬。あれはどう考えても年齢の話を避けた仕草だった。だが、その確証を得るための一言を、どう切り出せばいいのか分からない。直接聞けばいいだけのことなのに、口を開くタイミングが掴めない。「はい」湊の前に、瑛がマグカップを置く。立ちのぼる湯気が、二人の間に淡い幕を作る。「ありがとう」口にした声が自分でも少し硬いと感じた。瑛はソファの反対側に腰を下ろし、足を組んでカップを両手で包み込む。その仕草は自然で、まるでこの場所が自分の部屋であるかのような落ち着きがあった。湊はカップを持ち上げ、熱い液体を一口含む。苦味が舌の奥に広がり、喉を温める。その間も、胸の中の質問が喉元までせり上がっては、また沈んでいった。「午後からはどうするんだ?」当たり障りのない質問を選んでしまう自分に、内心で舌打ちする。「特に予定はないけど…洗濯物、天気が崩れる前に干しとこかな」瑛はそう言って笑う。その笑顔の端に、含みがあるように見えた。まるでこちらが何を聞きたいかを分かっていて、あえて触れないようにしているような。再び沈黙が落ちる。窓の外では遠くの道路を走る車の音が、途切れ途切れに届く。湊は膝の上で指先を組み、視線をカップの中の黒い液面に落とした。そこには自分の顔がぼんやり映り、どこか落ち着かない表情をしている。「そういえば」口が自然に開いた。心臓が一瞬、強く跳ねる。今なら聞けるかもしれない。「何?」瑛の視線が真っ直ぐこちらに向く。その黒目がちの瞳の奥に、さっきの微笑がまだ潜んでいるようだった。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-17
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年下の輪郭

窓の外は、昼の白さがゆっくりと薄れ、灰色を帯び始めていた。ビルの向こう側で沈みかけた陽が、街全体を淡く染めている。湊の部屋はまだカーテンを閉めていないせいで、その変化を直に取り込んでいた。壁にかけられた時計の針は五時を少し回っている。ソファに座った湊は、手元の雑誌をめくるふりをしながら、視線だけをキッチンへ送った。そこでは瑛が外出の支度をしている。白いシャツの袖を軽く捲り、前のボタンを留めながら姿見を横目で確認する。肩の動きに合わせて、布が自然に形を変えるのが目に入る。その所作は落ち着いていて、急ぎの気配はない。「何時に出るんだ?」湊は何気ない調子で声を掛けた。「六時くらいかな」瑛はネクタイを手に取り、結び目を作りながら応える。低い声が部屋に心地よく響く。湊は頷き、再び雑誌に目を落とす。だが、耳は瑛の立てる小さな物音を追っていた。シャツの布擦れ、ベルトの金具が鳴る音、香水ではなく整髪料の柑橘の香りがふっと漂ってくる。その匂いが、妙に鮮やかに鼻腔を満たした瞬間、昼間の会話の残響が蘇る。瑛の年齢。曖昧な返事、途切れた言葉。その続きを今聞くべきかと、心が揺れる。姿見の前で最後にネクタイを整えた瑛が、ふとこちらに視線を向ける。唇の端がわずかに上がり、意味ありげな笑みが浮かんだ。「湊って、俺のこと同い年くらいやと思ってた?」その言葉は、あまりにも自然に落とされた。問いというより雑談の延長のようで、しかし湊の心臓は一拍遅れて強く打った。「……違うのか」意識して抑えた声が、自分でも硬いと分かる。瑛はネクタイを軽く締め、視線を外すことなく「俺、二十四」とさらりと告げた。その瞬間、部屋の空気がひときわ鮮明になった気がした。三歳下。数字は短いが、その意味は湊の予想を確かに崩す。背の高さも、落ち着いた物腰も、経験を感じさせる話し方も、すべて年上か同年代だと思わせてきた。それが、年下。視線が瑛の指先に落ちる。ベルトを留め終えた手は大きく、動きは無駄なく正確だ。そこに年齢の軽さはないのに、告げられた数字は確かに若さを示している。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-17
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距離の再測定

外が完全に夜の色に沈み、窓の外の景色は街灯とビルの明かりに縁取られていた。リビングの照明は柔らかな白色で、テーブルやソファの影が床に長く伸びている。湊はテーブルの端に置いたグラスの水面をぼんやり見つめていた。先ほど瑛が出かける準備をしながら告げた「二十四」という数字が、まだ耳の奥に残っている。三歳下。たったそれだけの差なのに、頭の中では距離が広がったような錯覚があった。今まで無意識に「同年代」として作ってきたバランスが崩れ、視界が少し揺らぐ。瑛の落ち着きや振る舞いが年齢を感じさせなかった分、その差は余計に不意打ちだった。キッチンから物音がした。玄関に向かったと思っていた瑛が、いつの間にか戻ってきている。「水だけじゃ足りひんやろ。何か食う?」湊は反射的に視線を逸らした。「いや、いい」その声が自分でもよそよそしいと分かる。距離を置くつもりで口にしたのに、心の奥ではそれが瑛にどう受け取られるかを気にしている。瑛は何事もなかったように冷蔵庫を開け、中をのぞき込む。その背中はゆったりとしていて、動作に焦りがない。シャツの裾から覗く腰のラインや、袖口から見える手首の骨ばった形が目に入ると、年齢の数字はかえって意味を失っていく。「ほら、これ賞味期限今日までやし食べよ」瑛が小さなパックのデザートを二つ持ってテーブルに置く。「……お前、出かけるんじゃなかったのか」「まだちょっと時間ある」瑛はにやりと笑い、スプーンを二本テーブルに置いた。「湊がそんな顔してたら、置いて行かれへんやろ」そんな顔、と言われて湊はわずかに眉を寄せた。何を見透かされたのかと思うと、余計に視線を合わせづらくなる。それでも手元に置かれたスプーンを受け取り、パックの蓋を開ける。甘い匂いがふわりと漂った。一口すくって口に入れると、冷たさと柔らかな甘味が舌に広がる。その感覚に集中しようとしても、視線の端で瑛の動きを捉えてしまう。向かいに座る彼は、肘をテーブルにつき、頬杖をつきながらこちらをじっと見ていた。「そんな警戒せんでええやん」「警戒なんかしてない」「ほんま?距離、取
last updateDernière mise à jour : 2025-09-18
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揺らぎの夜

部屋の灯りを落とすと、寝室は街灯の淡い光だけがカーテンの隙間から差し込み、輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。外の冷たい空気を感じさせる冬の夜、布団の中の温もりはその分だけ際立っている。湊はベッドの片側に腰を下ろし、シーツの感触を掌で確かめながら、ぼんやりと自分の呼吸を数えていた。瑛は隣でシャツのボタンを外し、脱ぎ捨てたそれを椅子の背に掛ける。暗がりの中、動くたびに布地が擦れる音が小さく響く。その音は不思議と耳に残り、湊の胸の奥をじわりと満たしていく。ベッドに潜り込んだ瑛は、自然な流れで湊の肩を引き寄せた。抵抗する隙もなく、片腕が背中に回り、身体ごと包まれる。湊は一瞬息を止める。「年下」という言葉が頭の中で浮かび、そのまま何度も反響した。三歳という差が、こんなにも距離感を揺らすものなのかと、改めて思い知らされる。だが、その理屈を押し返すように、瑛の身体から伝わる熱がじわじわと広がる。胸板に頬が触れると、わずかな鼓動が耳に届き、同じリズムで自分の心臓も動き出す。鼻先には、風呂上がりの石鹸の香りと、瑛特有の体温を帯びた匂いが混ざっていた。「…湊」低い声が耳元で落ちる。短く呼ばれただけなのに、心の奥にまで届いてくる。応えたい衝動が喉元までせり上がるが、唇は動かない。もし返事をすれば、このまま理性の最後の線を越えてしまう気がした。瑛の指先が背中をゆっくりと撫でる。その動きは優しく、けれど確かに存在を主張している。湊は目を閉じ、逃げ場を探そうとするが、見つかるのは温もりだけだ。距離を取るべきだという理性は、布団の中の心地よさと瑛の呼吸の間で、ゆっくりと力を失っていく。「もう寝よ」瑛の声は、まるで子どもをあやすような柔らかさを帯びていた。湊は何も言わず、浅く頷く。瞼の裏に暗闇が広がり、耳元の呼吸が規則的になっていくのを感じる。年齢差は確かにそこにあるはずなのに、この密着した瞬間には何の意味も持たない。ただの数字でしかなく、むしろその数字が今は心地よい重みとして胸に沈んでいく。意識が薄れていく中、瑛の腕の力が少しだけ強まった。その締め付けに似た抱擁が、湊に諦めに似た安らぎを与える。年下だと分かっても、距離を置こうとしても
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