Tous les chapitres de : Chapitre 41 - Chapitre 50

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夜の契約

食器を洗い終えた瑛が、タオルで手を拭きながらダイニングから戻ってきた。湊はまだ椅子に座ったまま、視線を落としていた。テーブルの上には、湯気もすっかり消えた茶碗と箸がきちんと並べられ、さっきまでの温かい食卓の気配だけが残っている。瑛が近づく足音は、フローリングを柔らかく叩く。湊が顔を上げる前に、肩に重みが落ちた。大きな手が、じんわりとした熱を伝えてくる。昼間に感じた穏やかな接触とは違う、温度の質が変わっていた。「…風呂、先入ってこい」低く抑えた声が耳元に落ち、空気が微かに震える。湊は短く息を吸い込み、目を逸らした。返事をする代わりに立ち上がると、瑛の手が自然に肩から滑り落ちていく。その感触が背中の奥まで残った。浴室から戻ると、部屋の灯りは間接照明だけになっていた。ダイニングの光は落とされ、寝室の扉が半開きになっている。カーテン越しに街灯の光がぼんやりと差し込み、床に淡い影を作っていた。中に入ると、瑛はソファの端に腰をかけ、携帯をテーブルに置くところだった。視線が合うと、何も言わずに立ち上がり、湊の方へと歩み寄ってくる。距離が一歩ずつ詰まるたびに、胸の鼓動が速くなる。肩に再び手が置かれる。今度は指先がゆっくりと首筋へ滑り、肌の温度を確かめるように触れる。湊は反射的に息を止めた。背筋が粟立つ感覚と、そこから逃げたいのに足が動かない感覚が同時に押し寄せる。「…ベッド行こか」拒否の言葉は、喉まで上がってきた。だが、それを押し返すように契約の現実と、自分の中にある弱さが形を成す。そうして結局、湊は何も言えないまま、瑛に導かれるようにしてベッドへ向かった。掛け布団の端に腰を下ろすと、シーツから洗い立ての柔らかい香りが立ちのぼる。すぐ隣に立った瑛の体温が、何もしなくても伝わってくる。頬に触れる指が、少しだけ冷たかった。けれど、顎のラインをなぞるにつれ、その温度はじわりと上がり、肌がそこだけ敏感になる。視線を合わせられず、湊は瞼を伏せる。耳の近くで、呼吸の音がした。浅くも深くもない、一定のリズム。その吐息が髪を揺らし、うなじに触れた瞬間、身体の奥で何かがわずかに跳ね
last updateDernière mise à jour : 2025-09-09
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抗えない温もり

カーテンの隙間から洩れる街灯の光が、薄く床を切り取っている。外の気配は遠く、耳を澄ませば車の音すら届かない。寝室の中には、二人の吐息と布擦れの音だけが満ちていた。瑛の手が湊の背中をゆっくりとなぞる。その指先は、触れるか触れないかの微妙な圧で、まるで境界線を探るように動く。湊は肩をすくめるように身をこわばらせたが、その力はすぐに抜けていった。指の軌跡に沿って皮膚が熱を帯び、冷たかった手足までじんわりと温まっていく。抗わなければ、と頭の片隅で声がする。だが同時に、昼間の情景が鮮やかに蘇った。朝、キッチンから漂ってきた出汁の香り。焼き魚の皮がぱりりと音を立てる瞬間。湯気をまとった味噌汁の湯気が、冷えた頬をほぐしたあの温もり。昼間、窓を開け放って掃除をしていた瑛の背中。風に舞うカーテン越しに差し込む光と、洗剤の清潔な香り。夕方、食卓に並んだ煮物の柔らかさと、口に広がる出汁の深み。その味を説明する瑛の落ち着いた声。すべてが、この部屋での自分の暮らしを形作っている。温かさも、整いも、そして今触れているこの手も——全部、瑛から与えられたものだ。背中にあった手が腰に回り、ゆっくりと引き寄せられる。耳元で吐息がかかるたびに、反射的に息が浅くなる。湊は枕に視線を落としたまま、拳を握った。拒めるはずだ。拒むべきだ。そう繰り返しても、握った拳からは力が抜けていく。瑛の指が腰骨をかすめる。そこから火がついたように熱が走り、湊は小さく息を呑んだ。その音を逃さず、瑛は低く囁く。「…力、抜け」その言葉に従うつもりはなかったのに、肩から背中へかけて、緊張がほどけていく。まるで自分の身体が別の意志を持ったかのように。布が擦れる音が耳に届き、裸の肌が直接触れ合った瞬間、湊の呼吸は乱れた。瑛の掌が背中を上下するたび、昼間感じた家事の手際の良さが思い出される。同じ手が、今は自分をこうして扱っている。その事実が、不思議な安堵と悔しさを同時に呼び起こす。唇が首筋をなぞると、そこから熱がゆっくりと広がり、胸の奥まで満たされていく。湊は顔を背けたが、耳まで染まる熱を隠せなかった。
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朝の痕跡

カーテンの隙間から、淡い朝の光が細く差し込んでいた。湊は、天井を見つめたまましばらく動けなかった。まぶたの裏に残っているのは、夜の深さと熱、それが肌に絡みついて離れない感覚。眠りから覚めたはずなのに、体はまだ夢の中にいるようだった。寝返りを打つと、視界の先に瑛の背中があった。穏やかな寝息と、肩口でゆるく波打つ髪。カーテン越しの光が、背中のラインを静かに縁取っている。薄い布団の下から、体温がまだじんわりと伝わってくる。手首を持ち上げると、そこにうっすらと赤みが残っていた。昨夜、瑛の指がそこを押さえていた感覚が蘇る。締め付けられるほど強くはなかったのに、逃げられないと悟らせるには十分な圧だった。指先でなぞると、皮膚の奥にまだその温もりが沈んでいる気がした。下腹部の奥に、鈍く重い感覚が残っている。それは痛みではなく、夜の名残を確かに示すもので、思い出すたびに呼吸が浅くなる。昨夜、自分がどこまで抗えずに受け入れたのか、その境界を正確には思い出せない。けれど、抗う力が溶けていった瞬間は、鮮明に覚えていた。瑛はまだ眠っている。長い睫毛が頬に影を落とし、口元はわずかに緩んでいる。その無防備さに、湊は妙な安心を覚えた。夜の瑛は支配する側で、すべてを握っているような存在だったのに、こうして眠っている姿は、ただの一人の男に見える。視線を外し、布団から静かに抜け出す。足元の床はひんやりとしていて、夜の熱を一瞬で奪っていく。寝室のドアをそっと閉め、ダイニングへ向かうと、そこには昨日の夜、瑛が片付けたままの整然とした空間が広がっていた。テーブルの上には何もなく、椅子はまっすぐに揃えられている。窓辺の花瓶には、昨日瑛が飾った小さな白い花がまだ元気に咲いている。朝の光が花びらを透かし、淡い影をテーブルに落としていた。その光景が、まるで「この暮らしはもう変わったのだ」と静かに告げているように見えた。キッチンへ行き、やかんに水を入れて火にかける。ガスの青い炎が揺れる音と、水の中で小さな泡が立ち上がっていく音が、やけに鮮明に耳に届く。昨夜の行為と、この静かな朝の間には、確かに一本の線が引かれている。その線を越えてしまったことを、湊は認めざるを得なかった。やが
last updateDernière mise à jour : 2025-09-10
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一週間

湯気の向こうで、鍋の中身がゆらゆらと揺れている。味噌と出汁の混ざった香りが部屋の隅々まで染み渡り、昼間の外気の冷たさを忘れさせるような温もりを作っていた。テーブルの上には、既に煮物と小鉢、そして湯呑みに注がれた緑茶が並べられている。湊は椅子に腰を下ろしながら、手元に置かれた箸を眺めた。こうして温かい夕食を用意されることに、まだ少し慣れきれていない。以前は仕事から帰ればコンビニの袋を開き、レンジの音とともに一日が終わっていたのに、今では鍋のぐつぐつとした音が帰宅後の合図になっている。キッチンでは、瑛が味噌を溶きながら横目で鍋の具合を確かめていた。背筋はまっすぐで、何をするにも無駄がない。湊はその背中をぼんやりと眺めていたが、瑛が火を止め、鍋を持ってこちらへ来た瞬間、視線を逸らした。「ほな、食べよか」瑛はそう言いながら、味噌汁を湯呑みの隣に置いた。「いただきます」湊は小さく呟き、湯気の立つ味噌汁を啜る。口の中に広がる温かさが、喉を滑り落ちるたび、冷えていた体の奥まで満たされていくようだった。二口目の煮物に箸を伸ばした時、不意に瑛が口を開いた。「来週から、新人研修やねん」味噌汁の湯気越しに瑛の横顔が見える。湊は眉を動かさず「ふうん」と短く返した。「うちの部署に新しく入ってきた子がおってな。俺が一週間、担当することになった」瑛の声は淡々としていた。事実を述べるだけの口調。しかし、その話題の裏に特別な感情があるかどうかを探ろうとする自分に、湊は気づいてしまう。箸を持つ手がわずかに止まる。「研修って、どんなことするの」「まぁ、業務の流れ教えたり、一緒に現場回ったりやな。あとは…マナーとか、うちのやり方とか」瑛はそう言いながら、味噌汁を口に運んだ。その何でもない仕草に、なぜか湊の胸の奥がざわつく。「新人って…どんな人?」聞いた瞬間、なぜ自分がそんな質問をしたのか、湊は分からなくなった。「二十三くらいやったかな。明るい子やで。まだ慣れてへんけど、飲み込みは早そうや」瑛は目線を湊に向けることなく答え、煮物を
last updateDernière mise à jour : 2025-09-10
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研修初日の報告

湯気が立ちのぼる鍋の香りが、部屋の隅々まで広がっていた。味噌と出汁の香ばしい匂いに混じって、今夜は薄く生姜の匂いも漂っている。外はすっかり冷え込み、窓ガラスの向こうには白い息を吐くような街灯の明かりが滲んでいた。湊はテーブルに座り、湯呑みに口をつける。熱い緑茶が喉を通り、胃に落ちた瞬間、張っていた肩の力が少しだけ抜ける。キッチンでは瑛が鍋の中をゆっくりかき混ぜ、味を確かめるように小さく息を吐いた。「もうちょいでできる」瑛はそう言って、鍋の蓋をそっと閉じた。その横顔は仕事終わりとは思えないほど整っていて、湊はつい視線を逸らした。湊が茶碗を並べていると、瑛が鍋を持ってきて、テーブルの真ん中に置く。煮込まれた野菜の柔らかな色と、表面に浮かぶ小さな油の粒が、見ているだけで体を温めてくれるようだった。「いただきます」二人の声が重なり、湊はまず汁を一口すする。熱が舌の奥に広がり、鼻に抜ける香りが心地よい。箸を動かし始めて間もなく、瑛が何気ない口調で口を開いた。「今日な、あの新人、初日からやらかしてくれてな」湊の手が一瞬止まる。昨日聞いたばかりの新人研修の話が、こうして現実の出来事として出てくる。「昼から外回り連れてったんやけど、名刺出す時に自分のやなくて、俺の渡しそうになってな。顔真っ赤にして、なんかもう…」瑛は思い出すように小さく笑った。その笑い声は、普段の仕事の愚痴を話す時とは少し違う。どこか柔らかく、楽しんでいる響きが混じっていた。湊は鍋の中の野菜を箸でつつきながら、目を上げずに「ふうん」と返した。「焦ってたから、フォロー入れたんやけどな。それでも『すみません!』って大きい声出して…周りの客までこっち見てもうて」瑛は肩を揺らして笑い、湯気の向こうで目尻を少し下げた。その表情は、湊が知っている瑛の顔の中でも、珍しく柔らかい。湊は無言で味噌汁を啜った。味は変わらず美味しいはずなのに、妙に塩気を強く感じる。鍋の中から湯気が立ち上り、それが二人の間の空気を曇らせていくようだった。「それでな、休憩の時にあの子、ずっとメモ見返してて。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-11
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いつも通りの夜

洗濯機の回る低い音が、静かな部屋の中で一定のリズムを刻んでいた。外はすっかり夜に沈み、窓の外には街灯の淡い光が点々と浮かんでいる。湊はソファに腰を沈め、膝の上で指先を組んだまま、キッチンに立つ瑛の背中をぼんやりと見つめていた。今日も、瑛は仕事帰りに当然のようにこの部屋へやって来た。研修で新人をつきっきりで見ていると聞いていたから、少しは疲れているはずだと思っていたのに、その様子は微塵も見えない。ジャケットを脱いで袖をまくり、流し台に向かう動きは淀みなく、迷いがない。包丁の刃がまな板に当たる乾いた音が、一定の間隔で響く。野菜を切るたびに立ち上る香りが、換気扇に吸い込まれずに部屋の中へゆっくりと広がっていく。醤油の焦げる匂い、炒められた玉ねぎの甘さ、そこに生姜の鋭い香りが混ざり合う。湊は鼻腔をくすぐるその温かい匂いを、どうしても心地よく感じてしまう自分を意識し、わずかに唇を噛んだ。「洗濯もう回してるから、あとで干すな」瑛が振り返らずに言う。「…ああ」短く返した声は、自分でも驚くほど素っ気なかった。瑛はそれに気づいたのかどうか、何も言わず鍋の蓋を開ける。湯気が勢いよく立ち上り、瞬間、瑛の髪の間から湿った熱気が漏れた。皿に料理を盛り付けながら、瑛がふと口を開く。「今日な、新人が書類の順番間違えて提出しよってな」その瞬間、湊の胸に小さな波が立つ。昼間の出来事を語る声は、淡々としているはずなのに、どこか柔らかい色を帯びている。「俺が指摘したら、めっちゃ焦って…もう、顔真っ赤やった」瑛は小さく笑い、料理をテーブルに並べていく。その笑みは穏やかで、どこか誇らしげですらあった。湊は視線を料理へ落とした。湯気の向こうで揺れる香りは、確かに食欲をそそる。だがその香りの奥に、瑛の声色と新人の姿が混ざり込み、妙なざらつきを伴って胸に残った。二人で食卓につくと、瑛は当たり前のように味噌汁の椀を湊の前へ置き、箸を渡す。「ほら、食え」その声音は命令にも世話にも聞こえる、曖昧な響きを持っていた。湊は箸を取り、汁を一口すする。出汁の優しい味が舌を包み、喉を通って胃へ落
last updateDernière mise à jour : 2025-09-11
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積もる違和感

箸の先で煮物の里芋をつつきながら、湊は瑛の声を聞いていた。テーブルの上には、湯気を立てる味噌汁と、小鉢に盛られたほうれん草のおひたし、そして艶やかな照りをまとった鯖の味噌煮。香りは温かく、空腹を刺激するはずなのに、胸の奥のどこかが重く、食欲を素直に受け入れられない。「今日も午前中は実地やってんけどな、あいつ、初めてにしては段取り早かったわ」瑛はいつものように食卓の向こうに座り、箸を動かしながら話している。新人の名前を口にしたのは、今夜だけでもう三度目だ。内容は業務のことばかりだし、特別な色は感じられないはずなのに、その中に混じる褒め言葉がやけに耳に残る。「最初は緊張して固まってたけど、慣れたらちゃんと人の顔見て話すし」淡々とした口調。それでも、言葉の端にほんのわずかな温度が宿っているように、湊には感じられた。「ふうん」短く返す声は、自分でも驚くほど平板だった。瑛は気づいた様子もなく、次の話題に移る。「昼、研修の合間に話したらな…ああ、あいつ、犬飼ってんねんて。写メ見せてもろたけど、めっちゃ可愛い」小さく笑って、味噌汁をすすりながら続ける。湊は箸を止め、湯気越しに瑛の横顔を見つめた。低く落ち着いた声と、微かに上がる口角。その表情は、きっと新人本人に向けられたときも同じなのだろうと想像してしまい、胸の奥にざらつく感覚が広がる。食器の触れ合う音だけが、短い沈黙を埋めた。瑛は気負いもなく話を続ける。「午後のロールプレイは、まあまあやったな。言葉遣いもちゃんとしてるし、素直に聞くから伸びると思うわ」「……」湊は相槌を打つべきか迷い、結局、小さく喉を鳴らしただけで視線を皿に戻す。舌に広がる鯖の甘辛い味は、さっきまでよりも重く感じた。噛むごとにその味が広がるのに、香りや舌触りをきちんと味わう余裕がない。頭の中は、瑛の口から何度も繰り返される名前で満たされていた。瑛の新人談義は、研修が始まってから毎晩のように続いている。最初のうちは業務報告のように聞き流せていたが、三日、四日と重なるうちに、その言葉の一つひとつが胸の奥で小さな
last updateDernière mise à jour : 2025-09-12
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揺れる視線

テーブルの上に並ぶ料理は、今夜も温かく整っていた。湯気を立てる鍋の中で、豆腐と葱がゆらゆらと揺れている。だしの香りが鼻腔を満たし、包み込むような心地よさを運んでくるはずなのに、湊の胸の奥は重く沈んだままだった。研修五日目の夜。日が暮れるのも早くなったせいか、窓の外はもう漆黒で、カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、床に細長い影を落としている。室内の暖色の照明が柔らかい光を広げ、その光は瑛の横顔の輪郭を淡く照らしていた。「今日な、あいつ、やっと電話応対で噛まんようになってきたわ」瑛は鍋の蓋を取り、味噌汁を椀によそいながら、何気ない調子で話す。その声は落ち着いていて、しかし湊には、どこか愉しげな響きが混ざっているように聞こえた。「ふうん」湊は短く返し、視線を味噌汁の表面に落とす。箸を持つ手に力が入りすぎて、関節がわずかに白くなっていた。瑛は気づいていないのか、それともあえてか、話を続ける。「午後にロールプレイやったんやけどな、途中でミスして真っ赤になってもうてな。おもろかったで」口元にうっすらと笑みを浮かべる。その表情が湊の視界にちらつくたび、胸の奥で小さな火がぱちりと音を立てるような感覚があった。「……そう」なるべく感情を抑えた声を出すが、自分の中に芽生えた棘のようなものは隠しきれない。箸を鍋に伸ばす動きが、いつもよりぎこちないのが自分でもわかる。湊は味噌汁をすくい、口に運ぶ。舌に広がるだしの旨味は、温かくて優しいはずなのに、妙に味がぼやけて感じられた。喉を通るとき、何か硬いものを飲み込むような違和感が残る。瑛はそんな湊の様子を横目で見ていた。言葉にせずとも、視線だけで探るように。湊が目を合わせようとしないことも、その呼吸が少し浅いことも、見逃していないようだった。「昼休みな、食堂で一緒に飯食ったんやけど」「……」「味噌汁、あいつも好きやって言うてたわ」わざとなのかと思うほど、さらりと新人の話を挟む。その声は普段より少し低く、耳に残る。湊は箸を持ったまま、ほんの一瞬だけ動き
last updateDernière mise à jour : 2025-09-12
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挑発

湊はソファの端に座り、マグカップを両手で包み込むように持っていた。中身はもうぬるくなった麦茶。琥珀色の液面が、照明の光を受けてわずかに揺れる。テレビはつけっぱなしで、ニュースキャスターの低い声が遠くで響いているが、耳には入ってこなかった。瑛は反対側のソファに腰をかけ、足をゆったりと組み、スマートフォンをいじっていた。研修最終日の夜。昼間の疲れを微塵も感じさせないその姿に、湊はちらりと視線を向けては、すぐに逸らす。胸の奥でまだ小さく燻る何かが、視線を長く留めさせてくれなかった。この一週間、瑛は毎晩のようにここに来て、変わらぬ世話をしていった。食事も掃除も、洗濯までも。それは安心を与えるはずの行動なのに、その合間に挟まれる新人の話が、湊の心を少しずつ削っていった。無邪気な失敗談や、真面目に頑張る姿の描写。どれも瑛にとっては軽い話題のひとつにすぎないのだろう。だが湊には、何度も同じ名前を耳にするたび、胸の奥に小石が落ちるような感覚があった。今夜は珍しく、新人の話題は出なかった。代わりに、リビングを満たすのは鍋の残り香と柔らかな照明の明かり。それでも、湊の心は落ち着き切らずにいた。不意に、テレビの音量が少し下がった。瑛がリモコンを操作したらしい。湊は反射的に顔を向け、そのまま瑛の視線とぶつかった。黒い瞳がまっすぐこちらを射抜く。「湊」低く、しかしよく通る声。呼ばれた瞬間、背筋がわずかに強張る。「…何」できるだけ平静を装ったつもりだったが、声が僅かに掠れているのが自分でもわかった。瑛はスマートフォンをテーブルに置き、少しだけ前に身を乗り出した。その動作はゆっくりで、逃げ道を塞ぐような圧がある。「妬いてる?」耳に届いた言葉の意味を理解するのに、一拍かかった。瞬間、湊の手の中のマグカップがぐらりと揺れ、表面に小さな波紋が広がった。「……は?」反射的に返す。けれど声は弱く、語尾が上擦る。心臓が不意に早鐘を打ち始めたのを、自分の耳で確かに聞いた。「この一週間、ずっと顔に出とったで」瑛の声は低く、しかし笑いを含んでいる
last updateDernière mise à jour : 2025-09-13
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火照りの口実

外の雨は、昼から途切れることなく降り続いていた。窓ガラスを叩く細かい水滴の音が、部屋の奥までじんわりと染み込んでくる。リビングの隅ではランプが低く灯り、その暖色が壁とソファを柔らかく染めていた。湊はソファの端に座り、両膝を抱え込むようにして、膝に掛けたブランケットの端を無意識に握っていた。視線はテレビに向けているが、画面の中の賑やかなバラエティ番組の音は耳を素通りし、頭の中では数日前の瑛の声が繰り返されていた。――妬いてる?低く、少し笑みを含んだあの声色。挑発とも、からかいともつかない響き。あの夜、返す言葉を失った自分の間抜けな顔を思い出すたび、胸の奥がざわざわと波立つ。キッチンでは瑛が食器を片付けていた。水の音と、時折皿が軽く触れ合う音が一定のリズムで続く。その動作の落ち着きは、瑛の中に迷いや揺れが一切ないことを物語っていた。湊は小さく息を吐き、ブランケットを握る指先に力を込める。瑛が新人研修を終えても変わらず夜にここへ来ること、それが当たり前になっている現実に安心しているくせに、あの一言が心の奥でちくりと刺さり続けている。食器の音が止み、水道の蛇口が締められる音がした。次の瞬間、背後から足音が近づいてくる。湊はテレビの音量を少し上げるふりをして、胸のざわつきを誤魔化した。「もう洗い物終わったんか」自分でもわざとらしい声だと思ったが、瑛は気にする様子もなくソファの背に片腕をかけ、少し身を乗り出して覗き込んできた。「うん。あとは明日の朝でええやろ」そう言って微笑むその表情は、相変わらず穏やかで、何も知らないふうを装っている。湊は唇を噛み、視線を逸らした。言いたいことは山ほどあるはずなのに、口を開けば「別に」や「なんでもない」しか出てこない気がした。ランプの光が瑛の頬のラインを照らし、影が首筋へと落ちる。その影を追うように目が滑っていき、気づけば手が動いていた。湊は瑛のシャツの裾を掴み、引き寄せる。自分でも驚くほど唐突な動作だった。「…どうしたん」瑛の声が、耳元で少し低く響く。その近さに心臓が早鐘を打ち始めるが、掴んだ手は離せなかった。
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