All Chapters of 君と住む場所~契約から始まった二人の日々: Chapter 71 - Chapter 80

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守られる感覚

瑛の動きは、最初から最後まで一貫して緩やかだった。焦らせるような急き立てる気配はなく、ただ湊の反応を見ながら、触れる場所と力加減を選んでいるのがわかる。指先が肩から背中へ、そして腰へと移動していくたびに、湊は自分の体温が少しずつ溶け出していくような感覚を覚えた。ベッドの上、互いの吐息が同じリズムで重なる。瑛の体温が布団の中で広がり、その温もりが背中や腕だけでなく、胸の奥まで届いてくる。触れられているのは肌なのに、もっと奥の、言葉では説明できない部分を包まれているようだった。瑛はふと手を止め、湊の顔を覗き込んだ。ランプの柔らかい光が瞳に映り込み、その奥の色をさらに深く見せる。湊は息を呑む。何かを言おうと唇を開きかけたが、その前に瑛の手が頬に添えられた。親指が頬骨をなぞり、視線はまっすぐに絡まる。「大丈夫や」低く落ち着いた声が、耳ではなく胸に響く。言葉が空気を震わせ、その振動が身体の奥まで届くような錯覚を覚える。湊はその瞬間、自分の肩から力が抜けていくのをはっきりと感じた。再び唇が重なり、浅く、深く、呼吸を奪っていく。瑛は常に湊の表情を確認しながら、触れ方を変えていく。背中を撫でる手が腰骨をかすめ、もう片方の手が髪を優しく梳く。そのどちらもが、支配ではなく守護のように思えた。外の世界で何度も浴びせられた冷たい視線や、刺すような言葉が、この瞬間だけは遠く霞んでいく。布団の中の温もりと、耳元で聞こえる一定の心音が、すべてを上書きしていく。湊は無意識に、瑛の首筋に腕を回していた。そこから伝わる体温は熱すぎず、しかし確かで、心の奥の震えを静めてくれる。肩に感じる掌の圧は、押さえつけるものではなく、むしろ「離さない」と伝えるものだった。息が触れ合う距離で瑛が名前を呼ぶ。「湊」それだけで胸の奥が熱くなる。呼ばれるたびに、自分がこの空間で確かに存在していると実感できる。瑛の声は、湊の中で散り散りになっていた自尊心や安心感を、ひとつにまとめていく。指先が肩から腕へ、そして胸の中心へとゆっくり移動する。触れられるたびに肌が微かに震え、そこから波紋のように感覚が広がっていく。けれど、その波紋は不安や
last updateLast Updated : 2025-09-24
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静かな余韻

ランプの灯りは、もうほとんど揺らぎのように弱まっていた。ベッドの上には、しっとりとした空気が漂い、二人の呼吸がその空気の中に静かに混ざっていく。瑛は腕の中の湊を抱き寄せたまま、額や頬に散った汗をゆっくりと指先で拭った。指の腹が肌をかすめるたび、湊の呼吸がわずかに深くなる。髪に手を差し入れ、根元からそっと撫でる。その動きは子どもをあやすように穏やかで、力はなく、ただ存在を確かめるための触れ方だった。湊はその指の感触に身を委ね、瞼を閉じた。耳の奥で、瑛の心音が一定のリズムを刻んでいる。まるで小さな波が静かな岸辺に寄せては返すように、落ち着いた音が胸の奥まで届く。湊は鼻から深く息を吸い、吐き出すと同時に肩から力が抜けていくのを感じた。外の世界はもう遠い。職場のざわめきも、視線の冷たさも、この部屋の外に置いてきたように思える。今ここにあるのは、瑛の体温と、自分を包み込むこの腕の重みだけだった。「…眠れそうか」耳元で低く問う声がした。湊は小さく頷き、その頷きが瑛の胸に触れる。言葉を返す代わりに、もう一度深呼吸をする。吸い込む空気には、汗と微かな石鹸の香りが混じっていた。安心を誘う匂いだった。瑛は湊の背中にかけたシーツを整え、肩口までそっと引き上げる。布と肌が擦れる音が小さく響き、二人の間の沈黙をほんの一瞬だけ埋めた。指先が髪を梳き、時折うなじを撫でる。そのたびに湊の呼吸は緩やかになり、身体の奥で張り詰めていた何かが完全にほどけていくのを感じた。湊はまぶたの裏で光が揺らめくのを見ながら、瑛の胸に耳を押し当てた。温もりは絶え間なく流れ込み、心の中の暗がりをじんわりと満たしていく。まるで、自分が壊れてしまわないように、瑛の存在が外側から静かに支えてくれているようだった。「…ここにおる」囁くような声が、夜気を震わせて湊の耳に届く。その言葉が、瞼の奥で柔らかな光となって広がる。湊は目を開けなかった。開けば、今の温もりが薄れてしまう気がしたから。瑛はそれ以上何も言わず、ただ髪を撫でる動作を続けた。外では風が窓をかすめ、遠くで車の走る音が低く響く。だが、それらはすべて遠い
last updateLast Updated : 2025-09-24
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酔いの中の素顔

グラスの中で氷が静かに沈み、ウイスキーの深い香りが空気に広がっていた。外の雨は相変わらず途切れることなく降り続き、窓ガラスに描かれる水の筋が、街灯の光を揺らしている。テーブルの上には、空になったウイスキーの瓶と半分ほど残ったワインボトル、それに瑛がさっきキッチンから持ってきた焼酎の一升瓶が並んでいた。夜も更け、リビングの光はますます柔らかく、ソファや壁の影がぼやけて見える。瑛の頬はうっすらと赤く染まり、目元も少し緩んでいる。グラスを傾ける動作が、普段よりもゆったりとしていて、口元の笑みも酔いに溶けたように穏やかだ。湊はその様子を横目に見ながら、グラスを指先で回していた。琥珀色の液面がわずかに揺れ、ランプの光を反射する。その輝きが、妙に遠い世界のもののように感じられる。「最近、仕事…忙しいやろ」瑛の声は低く、けれどどこか柔らかさを含んでいた。問いかけというよりも、見てわかっていることを口にしただけのような響き。湊は視線をグラスから外さずに「まぁな」と短く返す。その言葉は曖昧で、温度もない。だが瑛はそれに構わず、さらにワインを湊のグラスに注いだ。赤い液体が静かに満ちていく様子を眺めていると、ふいに空気がふっと緩む。瑛が軽く笑ったからだ。「しんどいときはもっと言ってええんやぞ」冗談めいた口調だったが、そこに漂う熱は隠せなかった。酔いのせいだけではない、深いところから滲み出るもの。湊はわずかに目を上げ、瑛の表情を見た。瞳は細められ、笑みが浮かんでいる。それなのに、その奥に光るものは真剣さに近い。返す言葉が見つからず、湊は口角を引き上げるだけに留めた。その笑みは、自分でもどこか不自然だと感じる。それでも、心の奥には小さな波が立っていた。温かさと戸惑いが入り混じり、胸の内側をじわじわと満たしていく。「お前、無理してんの丸わかりやぞ」瑛がグラスを置き、指先でテーブルを軽く叩く。小さな音が雨音の隙間に吸い込まれていく。湊は一瞬だけ肩を揺らし、乾いた笑いを漏らした。「そんなんじゃない」言いながらも、心の奥底では否定できない自
last updateLast Updated : 2025-09-25
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もっと縋れ

雨音が、さっきよりもはっきりと耳に届くようになっていた。窓ガラスを叩く水の粒は一つひとつが小さな衝撃を持ち、室内の静けさに深く染み込んでいく。リビングの照明は低く、ソファの影が壁に長く伸びている。テーブルの上には、半分以上空いたワインボトルと焼酎の一升瓶。氷の溶ける音も、もうほとんど聞こえない。代わりに漂うのは、アルコールの匂いと、空気に混じる人肌の温度だった。瑛はソファの背に体を預け、少し乱れた前髪の下から湊を見つめていた。頬の赤みはさっきよりも濃く、目の奥に宿る光は酔いによるぼやけではなく、焦点を定めた鋭さを含んでいる。湊はそれを感じ取りながらも、視線を正面のテーブルへと落とした。グラスの底に残った赤い液体が、ランプの明かりでわずかに揺れる。「湊」名を呼ぶ声が低く、深い。酔いが混じったその響きは、普段よりもほんの少しだけ湿り気を帯びているように感じられた。湊が顔を向ける間もなく、瑛の手が肩に触れる。指先は思ったよりも力強く、だが乱暴ではなかった。引き寄せられると、身体の間の空気がすっと消え、息づかいの距離が一気に近づく。「もっと俺に縋ったらええ」その言葉は、冗談の軽さを一切含んでいなかった。耳の奥に落ちた瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねる。湊は思わず息を止め、視線を逸らした。目の前にある瑛の体温が、皮膚を通してじわじわと伝わってくる。それは温もりであると同時に、逃げ場を塞ぐ壁のようでもあった。喉がひどく乾く。けれど、何も言葉が出てこない。これまで、頼ることは避けてきた。自分を支えるのは自分だけで、他人に寄りかかれば、その瞬間に崩れてしまうような気がしていたからだ。だが、瑛の目は今、その思い込みを力強く押し崩そうとしている。「…別に、そんな…」声は小さく、震えていた。自分でもその弱さに気づき、湊はさらに顔を逸らす。視界に入るのは、窓の外で流れる雨の筋と、街灯のぼやけた光だけ。だが、肩に置かれた瑛の手は離れない。その重みは、言葉以上に本気を物語っていた。「お前、ずっと一人で背負っとるやろ」低く落とされた声が、
last updateLast Updated : 2025-09-25
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契約じゃないから

雨音が、さっきまでの勢いを失い始めていた。規則的な滴りが窓ガラスに薄い線を描き、ゆっくりと伝い落ちていく。外の騒がしさが遠のくにつれ、室内の静けさが重たくなり、耳の奥まで染み込んでくるようだった。ランプの明かりは小さな円を作り、その外側は影が深く沈んでいる。湊と瑛はソファの上で、互いの間にわずかな距離を残したまま、向かい合っていた。けれど、その距離は単なる物理的なものではなかった。湊は唇の内側を噛みしめていた。さっきの瑛の「もっと俺に縋ったらええ」という言葉が、胸の奥で何度も反響している。その響きは優しいようでいて、抗えないほど重い。触れられた肩の感覚も、まだ皮膚の奥に残っていた。喉の奥がひどく熱く、声を出せば何かが崩れてしまう気がした。けれど、黙っているだけでは、この胸のざわめきが収まらない。視線をテーブルのグラスへ落とす。底に残ったワインの赤が、弱い光を受けて揺れた。その揺れを見ていると、自分の心の中の不安と期待が混じった波が、まるで液体のように揺らめいているのがわかる。無意識に、声がこぼれた。「契約じゃないから…」自分の口から出たその言葉に、湊ははっとする。空気が一瞬、固まった。言葉の続きを言おうとした瞬間、胸の奥に鋭い躊躇いが走る。もしこの先を言えば、二人の関係が今までと違う形になる。逃げ道はなくなる。そのことが、恐ろしくて仕方なかった。瑛は何も言わない。ただ静かに、湊を見ていた。その目は探るようでも、責めるようでもない。けれど、その沈黙は続きを促すことも拒むこともせず、ただ受け止める準備をしているように見えた。その視線が、湊の心をさらに揺らす。湊は、続きを言えなかった。舌の上に乗せた言葉を、喉の奥に押し戻す。代わりに、小さく息を吐いた。目を伏せたまま、耳の奥で自分の心音が早くなるのを聞く。それは、弱まり始めた雨音よりもずっと鮮明に、部屋の静けさを満たしていく。自分でも気づいていなかった。こんなにも、期待していたことに。こんなにも、怖れていたことに。契約という形の安全な枠があったから、今まで平静を装えた。けれど、その枠が外れた瞬間、自分はどこに立
last updateLast Updated : 2025-09-26
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未完の夜

窓の外は、いつの間にか雨が完全に上がっていた。濡れたアスファルトに街灯の光が滲み、ぼんやりとした橙色の輪が連なっている。その淡い光は、カーテン越しに部屋へと滲み込み、ランプの柔らかな明かりと混ざり合って、ゆるやかな陰影を作っていた。リビングのテーブルには、半分ほど残ったワインのボトルと、空になったグラスが二つ並んでいる。瑛はそのひとつを手に取り、ゆっくりと最後の一口を口へ運んだ。グラスの縁に触れた唇がわずかに赤く染まり、微かなアルコールの香りが空気に溶けて広がる。湊は、隣に座る瑛の動きを視界の端で追っていた。自分の手元にもまだ少し残った赤ワインがあり、指先でグラスの脚をゆっくり回すと、液面が小さく渦を描く。その揺れを見つめながら、心の中も同じように渦を巻いていることに気づく。さっきの「契約じゃないなら…」という言葉。結局続きを言えなかったその一言が、舌の奥にまだ残っている気がした。まるで、飲み込んだはずのものが胸の奥で形を保ったまま動かずにいるようだった。「…」言葉は出ない。ただ、呼吸の音と、時計の秒針が小さく刻む音だけが部屋を満たしていた。外の静けさが増すほど、室内の沈黙も重みを増していく。瑛は何も問わず、ただ視線を前に向けたまま、手を伸ばして湊の肩に軽く触れた。その動作はあまりに自然で、声もかけずに置かれた掌から、かすかな熱がじんわりと伝わってくる。湊は一瞬だけ身を固くしたが、すぐに力を抜いた。拒む理由も、応える言葉も見つからない。ただ、その温もりを肩越しに感じながら、視線をグラスへ落とす。アルコールの香りと、瑛の微かな体温が混ざり合い、呼吸が少し浅くなる。今、この瞬間に何かを言ってしまえば、きっと後戻りできない。けれど、黙ったままでも、胸の奥の熱は消えずに燻り続ける。グラスの中の赤を、湊は静かに口へ運んだ。舌の上に広がる渋みと甘さが、酔いで少し鈍った感覚に柔らかく溶けていく。喉を通ったあとの余韻が、胸の中の熱と混じり合っていくようだった。隣から伝わる瑛の呼吸はゆっくりで、安定している。自分とは違って、迷いや揺れを感じさせないそのリズムに、わずかな安心と、同時に言いようのない距離感を覚える。
last updateLast Updated : 2025-09-26
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突然の知らせ

鍋から立ち上る湯気が、ゆるやかに天井へと溶けていく。リビングと繋がったダイニングには、間接照明の柔らかな光が広がっていた。外は風もなく、冬の夜特有の張り詰めた冷気が窓ガラス越しにじっとこちらを見ているようだった。湊は鍋の中を木杓子で軽くかき混ぜながら、瑛が箸を置く音を耳で捉える。日常の中の、ごく当たり前の週末の夜。「味、ちょうどええな」瑛の声はいつもと変わらず穏やかで、湊は軽く頷いた。笑い声や短い会話が、湯気の間をすり抜けて消えていく。温まった日本酒の香りが漂い、口の中に広がる旨味にほっと息が漏れる。そのとき、瑛のスマホがテーブルの上で震えた。画面には「実家」の二文字。瑛が眉をひそめるように視線を落とし、無言で席を立つ。「悪い、ちょっと」そう言ってリビングの奥へ移動し、電話を取る声が聞こえる。湊は湯気越しにその背中をぼんやり見つめていた。声色は低く、短く、間が多い。会話の内容までは届かないが、いつもより固い響きに胸の奥で何かがざわつく。数分後、瑛が戻ってきた。その顔はどこか遠くを見ているようで、箸を持つ手にも力がない。「実家からか?」湊の問いに、瑛は短く頷き、少し間を置いて言った。「…親父が、ちょっと入院することになってな。たいしたことやないけど、手続きとか色々あって、二週間くらい実家戻らなあかん」箸の先で鍋の具をすくいながらも、瑛の視線は湯気の向こうにある何かを見ている。「二週間」湊はその言葉を口の中で転がすように繰り返した。たった二週間。そう思おうとしたのに、声に出した瞬間、その短さがどこか頼りなく感じられた。「大丈夫や、すぐ戻るから」瑛はいつも通りの笑顔を作ったが、その奥に薄く滲む疲労と焦りを湊は見逃さなかった。「そっか…二週間なら平気やな」笑って返す自分の声が少しだけ上擦っているのを、湊は自覚していた。けれどそれを隠すように、湯気を顔に浴びながら具を器によそう。瑛は淡々と箸を動かし、食事を再開した。だが、二人の間に流れる空気はさっきまでとは違っていた。温かい
last updateLast Updated : 2025-09-27
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別れ際の沈黙

曇り空の朝は、部屋の中の色彩までも柔らかく曖昧にしていた。カーテンの隙間から入り込む光は白く濁り、床や壁に影を作ることもなく、ただ静かに漂っている。湊はキッチンで湯を沸かしながら、リビングの方でスーツケースを閉める音を聞いた。金属のジッパーが最後まで走り切る乾いた音が、この部屋の空気を少しだけ重くする。瑛は既にコートを着込み、靴下を履く音や、荷物を持ち上げる微かな軋みまでが耳に届く。普段なら気にも留めない生活の音が、今日は妙に鮮明で、湊の耳にこびりついた。「お湯、入れる?」振り返って声をかけると、玄関近くに立つ瑛が軽く首を横に振った。「いや、大丈夫。駅で買うわ」その口調はいつも通りに聞こえるのに、どこか急いでいるようにも感じられた。湊はマグカップをテーブルに置き、キッチンの明かりを落として玄関へ歩く。足音が床に吸い込まれるように小さく響く。玄関の外はまだ早朝の湿った空気に包まれているのだろう。ドアの隙間から入ってくる冷気が、くるぶしのあたりをひやりと撫でた。瑛は荷物の取っ手を握りながら湊に視線を向けた。その黒目の奥には、短い時間では掬いきれない感情が沈んでいる。「何かあったら、すぐ連絡して」短く、しかしはっきりとした声だった。命令でもなく、お願いでもなく、その中間のような響き。湊は一瞬だけ視線を逸らし、口角を上げた。「大丈夫」そう答えながらも、自分の笑顔が少し固いことに気づく。頬の筋肉が思うように緩まず、心の奥に小さな石が沈んだままだった。瑛はそれ以上何も言わず、ただ頷いた。その沈黙は、何かを言えば崩れてしまう均衡を守っているようだった。靴を履く音、金具が擦れる音、そしてドアノブを回す音が続く。湊はその一つひとつを無意識に数えていた。ドアが開くと、外の白い光と冷気が一気に流れ込む。曇り空から降る光は眩しさを欠き、まるで冬の海面のように穏やかで無表情だ。「行ってくる」「…行ってらっしゃい」言葉が空気に溶ける前に、瑛は外に出た。スーツケースの車輪が廊下を転がる音が遠ざかっていく。足音
last updateLast Updated : 2025-09-27
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崩れる生活リズム

湊はコンビニの袋を片手に玄関をくぐった。冷たい夜気を引きずったままの袋の中では、安っぽいビニールとプラスチックの容器が小さく擦れ合っている。靴を脱ぐ動作もどこか投げやりで、片方のつま先で相手の踵を踏んで脱ぎ捨て、そのまま袋をテーブルへ置いた。リビングは薄暗く、天井の照明ではなくキッチンの片隅にある小さなライトだけが灯っている。その光は黄ばんだ色をしていて、テーブルの上の雑誌や郵便物、そして昨日の夜から片付けられていない空のマグカップの影を長く伸ばしていた。袋を開け、温めるのも面倒になった総菜パンを取り出す。封を破ると、わずかな甘い香りとともに冷えた油の匂いが鼻に届いた。口に運ぶと、硬くなった生地が歯の奥でぎしぎしと音を立てる。味はほとんど感じられず、ただ咀嚼と飲み込みの動作だけが機械的に繰り返された。瑛がいれば、こんな夕食はなかっただろう。湊は一瞬そう思い、すぐに頭を振る。そんな比較をしても意味はない…そう自分に言い聞かせながらも、脳裏には温かい匂いと食器の音が蘇ってしまう。食べ終えたパンの袋は丸めてテーブルに置きっぱなしにした。ゴミ箱に捨てようと手を伸ばしかけたが、なぜかそのまま指が止まる。少しの労力すら億劫に感じられ、ソファへと体を沈めた。革のひんやりした感触が背中を包む。テレビをつける気にもなれず、ただ天井をぼんやりと見つめる時間が流れる。部屋の時計の針が小さく刻む音が、やけに耳につく。外からは風も車の音もなく、部屋の中の静けさが、かえって胸の奥に重さを増していく。夜更けはあっという間に訪れた。スマートフォンの画面を何度も無意味にスクロールしては、気づけば深夜一時を過ぎている。瑛がいた頃は、こんな時間まで起きていることは滅多になかった。生活のリズムがどこかに引っ張られていたのだと、今になってわかる。翌朝、目覚ましの音を止めたまま二度寝し、次に目を開けたときには出勤時間ぎりぎりだった。シャワーを浴びる時間もなく、乱れた髪を手ぐしで整え、前夜の洗い物が残るキッチンを横目に玄関を飛び出す。職場に着いても頭がぼんやりしていた。パソコンの画面に並ぶ数字や文字が目に入っても、意味が頭に入ってこない。気づけば書類の同じ行を何度も
last updateLast Updated : 2025-09-28
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静寂の中の回想

カーテンの隙間から射し込む光が、リビングのフローリングに細い帯を作っていた。外は雲ひとつない晴天らしく、その明るさが部屋の中の静けさを際立たせている。湊はソファの背にもたれ、両足を投げ出したまま、ぼんやりと視線を前に向けていた。テーブルの端に、瑛がいつも使っていたマグカップが置かれている。底に薄く茶渋が残り、数日前に洗ったきりそのままになっていた。それを片付けようと一瞬思いながらも、手は動かない。触れてしまえば、そこにあった痕跡まで薄れてしまうような気がした。その隣には、ページの途中で開いたままの雑誌。表紙はやや色褪せ、角は軽く折れている。記事の見出しには、瑛が「これ面白そうやな」と笑いながら話しかけてきたときの声が重なった。ページをめくる手つき、文章を追いながら時折こちらをちらりと見る視線まで、鮮やかに蘇る。ふと、部屋の空気が少し変わったように感じる。音のないはずの空間で、瑛の低く落ち着いた声が耳の奥に響いた気がした。「お前、またソファで寝そうになっとるやろ」…そんな冗談交じりの言葉とともに、肩を軽く叩かれた感触がよみがえる。湊は反射的に肩をさすった。そこにいるわけがないとわかっているのに、触れた感覚はしっかりと残っていた。視線を少し右に動かせば、ソファの片隅、瑛がよく座っていた位置がある。背もたれのクッションは、他よりもわずかに形が崩れている。そこに腰掛け、片足を組みながら何気ない話をする姿が、あまりにも自然に思い浮かぶ。時折、会話の合間に「湊」と名前を呼ぶ声が混ざり、その響きが胸の奥をじんわりと温めていたことを思い出す。それは同時に、今の冷たい空気をより際立たせる記憶でもあった。部屋の中には湊一人分の呼吸音しかなく、時計の秒針の音が遠くから聞こえる。外では小鳥が鳴いているらしいが、その声は窓ガラスを隔ててやけに遠く、現実感が薄い。湊は膝を抱え、額をそこに預けた。瞼を閉じれば、過去の情景はさらに鮮明になる。二人で並んで見た映画の光景、キッチンで並んで立ったときに感じた袖口の擦れる音、瑛が淹れたコーヒーの香り。どれも手を伸ばせば触れられるほど近いのに、今はもうどこにもない。あの時間が、自分にとってどれだけ安定をもたらしていたのか、今に
last updateLast Updated : 2025-09-28
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