All Chapters of 君と住む場所~契約から始まった二人の日々: Chapter 61 - Chapter 70

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静かな水面のひび

蛍光灯の白い光が一様にデスクを照らし、パソコンのモニター越しに湊の視界は淡々とした色をしていた。午前中のメール処理と書類整理を終え、次の案件に取り掛かろうとする。電話のコール音とキーボードを叩く音が、背景のBGMのように耳に馴染んでいる。京都支社に異動してから数か月、この一定のリズムが湊の日常になっていた。「大塚さん、このあとお昼どうします?」背後から掛けられた声に、湊は手を止めて振り返る。坂井がそこに立っていた。肩までの髪を軽く巻き、控えめな笑みを浮かべている。社内では柔らかな印象で通っている彼女だが、視線の向け方が妙に近い。「まだ決めてませんけど…」返事を濁すと、坂井は一歩踏み込むように机に手をかけた。「近くに美味しいパスタのお店があるんですよ。今度一緒に行きません?」軽く笑って断ろうとした湊は、その言葉の「今度」という曖昧さに引っかかる。今日ではないが、予定を作ろうとしている…そう感じた。「そうですね…また時間が合えば」努めて柔らかく返すと、坂井は「じゃあ楽しみにしてますね」と言い、ゆっくりと離れていった。その背中を目で追いながら、湊は首筋に残る微かな緊張を振り払う。午後の会議までの間、彼女は何度か湊の席を訪れた。資料の確認や進捗の共有といった理由はあるものの、わざわざ自席から歩いてくるほどの用件ではない気がする。彼女の声が耳に近づくたび、机に影が落ちるたび、心の奥でわずかな波紋が広がる。会議室への移動のときも、廊下で並んで歩く距離が妙に近い。袖口がかすかに触れた瞬間、湊は反射的に半歩退いた。坂井は何事もなかったように話を続けるが、その目元には一瞬だけ、愉しげな色が差した気がした。昼休み、湊は別の男性社員と外に出るつもりだったが、エレベーター前で再び坂井と鉢合わせる。「奇遇ですね、一緒に行きましょうか」その誘いを笑顔でかわしながら、心の中で小さな棘のような感覚が残る。断るたびに、相手の笑顔がほんの僅か固くなるのを見逃さない。午後のデスクワークに戻ると、坂井は自席で電話をしていた。ふと視線を感じ
last updateLast Updated : 2025-09-19
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歪んだ囁き

午後三時を過ぎたオフィスは、昼の喧騒が少し落ち着き、電話のコール音やプリンターの稼働音が遠くに響く程度だった。湊は机に向かい、資料の修正を進めていたが、プリントアウトの必要があり、席を立つ。複合機は給湯室の奥にある。給湯室の前に差しかかると、かすかな囁き声が耳に触れた。扉は半分ほど開いており、中から女性二人の会話が漏れている。「…だから、怖くて…」「本当に?あの人が?」聞き慣れない緊張を帯びた声。次の瞬間、湊の名前が囁かれる。心臓が一拍遅れて脈打った。足を止めたまま、耳が勝手に言葉を拾う。「…坂井さん、泣きながら言ってたのよ。残業の帰りに、襲われかけたって…」湊の背筋を冷たいものが這い上がった。意味が分からない。耳に入った単語と、自分の知っている現実がかけ離れていて、頭が拒絶する。「でも、普段あんなに仲良さそうじゃない?」「だから余計に…じゃない?」笑い声ともため息ともつかない小さな音が混じる。湊はその場に立ち尽くしたまま、指先に冷たい汗が滲むのを感じた。ほんの数秒の出来事なのに、時間が引き伸ばされたように長く感じられる。やがて中の二人は気配を察したのか、急に声を潜めた。湊は咄嗟に足を動かし、何事もなかったように複合機に向かう。だが、胸の鼓動は収まらない。プリンターから吐き出される紙の音がやけに大きく響き、その間も背後からの視線を感じる気がした。数日後、その違和感は確信に変わる。オフィス内での空気が目に見えて変わっていた。廊下ですれ違う同僚の視線が、以前よりも長く、重い。会話が途切れるタイミングが不自然で、笑顔の裏に探るような色が混ざる。書類を受け取りに行った先でも、女性社員がひそひそと話し合い、湊に気づくと声を止めた。その沈黙が、かえって内容を物語っているようで、胃の奥がひやりと冷える。昼休みに一人で弁当を食べていると、遠くのテーブルで誰かが笑い声を上げた。何でもない笑いなのに、自分が笑われているのではないかという錯覚がつきまとう。箸を持つ手が知らぬ間に力んでいた。帰宅
last updateLast Updated : 2025-09-19
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孤立の始まり

昼休み前の会議室は、空調の風が微かに唸り、紙をめくる音やボールペンのノックが断続的に響いていた。湊は配られた資料に目を通し、意見を求められたタイミングで口を開く。「この件は、現行の進行表だと三日ほど遅延が出る可能性がありますので…」そこまで言った瞬間、向かいの席の課長が軽く手を上げた。「はいはい、それは後で調整しよう。次、坂井さん」湊の声は、まるで空気に吸い込まれるように途切れた。課長は目も合わせず、すぐ隣の坂井に発言を促す。坂井は愛想の良い笑みを浮かべ、澱みなく話し始める。その横顔を見つめながら、湊は言葉を失った自分の唇を閉じた。会議が終わる頃には、胸の奥に小さな棘のような痛みが刺さっていた。以前はこうではなかった。発言すれば必ず何かしらの返答があったはずだ。昼休みになると、同僚たちは自然と小さな輪を作り、ランチの相談を始める。湊は自分のデスクで資料を整理するふりをしながら、その声を聞いていた。「じゃあ今日は駅前のあそこにしようか」「いいね、行こう行こう」誰も湊を誘わない。以前は、たとえ形だけでも「湊さんも行きます?」と声をかけられた。それすらも消えた今、机の上の書類が白く浮かび上がって見える。仕方なく、コンビニで買ったパンとコーヒーを持って給湯室に向かうと、そこには坂井がいた。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、振り返った彼女は、柔らかな笑みを浮かべる。「湊さん、お昼ですか?」表情だけは以前と変わらない。だが、その瞳の奥には何か湿ったものが潜んでいる気がした。湊が軽く会釈を返すと、彼女はペットボトルのキャップを開ける音と共に、小さく鼻で笑った。その笑いが湊に向けられたものかどうかは分からない。だが、背中に薄い冷気が走る。午後の業務に戻っても、微妙な変化は続く。資料を手渡す時に視線を合わせない同僚、コピー機の前で無言ですれ違う瞬間の距離感。何か透明な壁が、湊と彼らの間に立ちはだかっている。夕方、電話を取り次いだ後に顔を上げると、少し離れた席で坂井と別の女性社員が目を合わせ、口元を押さえていた。笑っているのか、何かを囁いてい
last updateLast Updated : 2025-09-20
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沈黙の帰路

仕事終わりのオフィスを出た瞬間、夜の冷気が頬を刺した。湊は肩をすくめ、マフラーの端を無意識に握り込む。駅までの道を歩く足取りは、いつもよりわずかに重かった。街灯の下を通るたび、アスファルトに落ちる自分の影が揺れ、長く伸びたり縮んだりする。その動きに合わせて、胸の奥で凝り固まったものが微かに軋む。坂井の視線、同僚の曖昧な笑い、会議室での途切れた言葉。それらが一つに絡まり、脳裏を離れなかった。電車に揺られている間も、視線は窓の外に向いているのに、景色は何一つ入ってこない。窓に映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。部屋のドアを開けると、ふわりと温かい匂いが迎える。煮込み料理の香り。リビングの奥から瑛の声が飛んできた。「おかえり。寒かったやろ?」湊は靴を脱ぎながら「うん」と短く答えた。それ以上の言葉は喉の奥で固まり、動かない。ダイニングテーブルには、湯気を立てる鍋と、色鮮やかな小鉢が並んでいる。瑛はエプロンを外しながら、湊の様子をちらりと見た。「今日は魚と根菜。あったまるで」「ありがとう」箸を手に取ったものの、湊は料理を口に運ぶ動作がぎこちない。味も温かさも感じるのに、喉の奥が拒むようだった。「どうしたん、口に合わん?」瑛の問いに、湊は首を横に振る。「違う。ただ…あんまり食欲なくて」それ以上は説明せず、みそ汁を一口すする。舌に広がる塩気と出汁の香りは確かに沁みるのに、胸の重さは減らない。食後、ソファに並んで座った二人の間に、テレビの音だけが流れていた。画面ではバラエティ番組の派手な笑い声が響くが、湊の耳には遠く、ぼやけた音として届く。視線は画面に向いていても、心は別の場所を彷徨っている。瑛がふと隣を見やり、軽く肩をつついた。「なんや、その顔。俺、なんかした?」「…別に」その一言が、やけに冷たく響いた。湊自身もわずかに眉をひそめる。返した声に棘があったことに気づいたが、引き返せなかった。瑛はそれ以上追及せず、背もたれに深く身を預けた。視線は
last updateLast Updated : 2025-09-20
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疑いの視線

湊の背中を、玄関から見送るのが瑛の朝の日課になっていた。けれどこの数日、その背中に微妙な変化があることに気づいていた。コートの襟を立てる仕草が少し早くなり、靴音は以前より硬い。ドアを閉める瞬間の横顔には、出勤の憂鬱というより、何かを押し隠すような影が差していた。今夜もまた、鍵の回る音がしてドアが開くなり、湊は「ただいま」と短く言い、靴を脱ぐよりも先にコートを脱いで浴室へ向かった。鞄はソファの端に無造作に置かれ、足音が廊下に消える。瑛はキッチンでまな板の上の葱を切りながら、その足音の速さに耳を澄ませた。シャワーの水音がすぐに響く。冬の夜に湯気が立ち上る音は、普段なら帰宅の安堵を表すもののはずだ。だが、この数日は違う。まるで一刻も早く何かを洗い流したいとでもいうように、湊は着替えもそこそこに浴室に籠る。「今日は寒かったな」湊が浴室から出てきたとき、瑛は鍋の蓋を開けながら声をかけた。「ああ…まあ」湊は短く答え、タオルで髪を拭きながらダイニングの椅子に腰を下ろす。湯上がりの赤みが頬に差しているのに、表情は妙に固い。「お、髪の毛はね、もうちょっと拭かんと風邪ひくで」軽口を叩いてみても、湊はふっと笑うだけ。その笑いは唇だけが動く、形だけのものだった。「別に大したことない」瑛は味噌汁を椀に注ぎながら、短いその言葉を噛み締めるように耳に入れる。箸を置く音や食器の触れ合う音が、やけに際立って響く。二人の間に流れる沈黙は、鍋の湯気をも冷たく感じさせた。「なあ、最近ちょっと…顔、変わったで」冗談めかして言いながら、視線を湊の目に合わせようとする。しかし、湊はすぐに視線を逸らし、茶碗の中の白飯をゆっくり口に運ぶ。「気のせいだよ」その返しの軽さが、かえって重い。笑ってごまかす湊の唇の端には、僅かに緊張が滲んでいた。瑛はそれ以上問い詰めなかった。だが、胸の奥で何かが確かに動き出している。違和感は確信へと変わりつつあった。湊が何を隠しているのか。それを知るのは、もうすぐかもしれない。
last updateLast Updated : 2025-09-21
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気づきの予感

まだ外は白む前、部屋には冷たい空気が漂っていた。カーテンの隙間から差し込む薄い光が、床とベッドの端を淡く染めている。布団の中で丸まる湊の背中は小さく上下し、浅い呼吸が静かに繰り返されていた。瑛はその寝息を壊さぬように、足音を忍ばせて部屋を出る。朝食の準備をしようとクローゼットを開けたとき、昨日のうちに洗い忘れていたスーツの上着がハンガーに掛かっているのに気づいた。袖口に乾いた水滴の跡があり、それが昨夜の雨の名残であることを思い出す。ふと、ポケットがわずかに膨らんでいるのが目に入った。何気なく手を差し入れると、親指の腹にざらりとした感触が触れる。小さく折り畳まれた紙切れだった。光の下に広げると、それは会社のメモ用紙らしい。端が少し湿ってよれ、書かれている文字はところどころ薄くなっていたが、「坂井」という苗字だけは濃く、乱雑に書かれていた。一瞬、瑛の呼吸が止まる。名前の響きが頭の奥で硬く反響し、その意味を探るように眉間に微かな皺が寄る。偶然かもしれない…そう思うには、あまりにもはっきりとした筆跡だった。しかも、その下にかすれた数字が見える。電話番号のようにも、日付のようにも見えた。瑛は指先でその紙をなぞり、もう一度視線を湊の寝室に向けた。扉の向こうからは、まだ変わらぬ寝息が聞こえる。そっと紙を二つに折り、ポケットに戻そうとしたが、ほんの一瞬、ためらった。その間に、昨夜の湊の硬い笑顔や、帰宅直後の湿った空気、毛布を拒むようにずらした肩の感触が蘇る。それらが一つの線でつながっていくのを感じた。深く息を吸い込み、吐き出す。その吐息は冷えた空気の中で白くはならないが、胸の奥の温度はわずかに下がった気がした。瑛は紙を丁寧にポケットへ戻し、スーツを再びハンガーに掛ける。その手の動きはゆっくりと一定で、まるで何事もなかったかのようだ。しかし、胸の奥では水面下に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がり始めていた。鞄を片付けるために手を伸ばすと、中にくしゃくしゃになった別の紙切れがあった。開くと、今度は会議資料の余白に「また話したい」とだけ走り書きがしてある。その文字も同じ筆跡だ。視線が自然に鋭くなる。唇を噛み
last updateLast Updated : 2025-09-21
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沈黙を破る声

湊はソファの端に腰を下ろし、両肘を膝に置いたまま視線を落としていた。背中は丸まり、肩にかけたジャケットの重さが、余計にその姿勢を沈めているようだった。壁の時計の針が静かに進む音と、外から微かに聞こえる車の走行音だけが、部屋の空気をかすかに揺らしていた。瑛はキッチンから湯気の立つマグを手に、ゆっくりと近づいてきた。その足音も、できるだけ静かに抑えているように感じられる。リビングの照明は最小限に落とされ、カーテン越しの街灯の光が柔らかく床を照らしている。「湊」短く、しかしはっきりとした声が、沈黙を切った。耳に届いた瞬間、湊の肩がわずかに跳ねる。名前を呼ばれることは日常的なはずなのに、その響きは今夜だけ違っていた。低く抑えた声が、固く閉ざされた心の奥に小さなひびを入れるようだった。瑛はソファの反対側に腰を下ろし、マグを湊の前のテーブルに置いた。湯気がふわりと広がり、焙煎された豆の香ばしさが鼻腔をくすぐる。湊は視線を落としたまま、マグに手を伸ばそうともしなかった。「ここにおる」瑛はそれだけを静かに言い、背もたれに預けたまま、視線だけを湊に向けていた。その目には詮索や焦りはなく、ただじっと見守る色があった。湊は喉の奥が詰まる感覚に息を止めた。言葉を飲み込み続けていたせいで、胸の奥には重い塊が溜まっている。声に出せば崩れてしまう気がして、ずっと黙っていた。だが、今夜はその沈黙が耐え難く感じられる。「…会社で」かすれた声が、ようやく口をついて出た。瑛はわずかに眉を動かし、続きを促すでもなく待っていた。「最近、同僚と…いや、正確には同じ部署の女性と…ちょっと面倒なことになってて」湊は目を閉じ、息を深く吐き出した。蛍光灯の下で感じていたあの視線や、背後から聞こえる囁き声が、鮮明に頭の中に蘇る。「しつこく話しかけられて、断っても…何度も。でも、こっちから手を出したみたいな噂が…もう、どうしようもないくらい広がってる」瑛の表情は変わらなかったが、その手がソファの肘掛けを軽く叩くように動いた。苛立ちか、それとも
last updateLast Updated : 2025-09-22
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触れた指先

湊は視線を落としたまま、膝の上で組んだ拳を強く握り締めていた。爪が掌に食い込む感覚がかすかな痛みとして伝わってくる。それでも力を緩められない。指先から肘にかけてじわじわと熱が溜まり、肩も背中もこわばっている。リビングには時計の秒針が刻む音だけが響いていた。静かすぎるその音が、かえって自分の呼吸を乱しているように思えた。口を開けば震えが混じる気がして、湊は唇を固く結んでいた。ふと、視界の端に瑛の動きが映る。ソファの横に座るその肩がわずかに傾き、ゆっくりと手が伸びてきた。固く握った湊の拳に、指先がそっと触れる。ほんの一瞬、湊は全身の筋肉が跳ねるのを感じた。けれど、払いのけようとした力は生まれない。その触れ方があまりにも静かで、乱暴さや強制の気配がどこにもなかったからだ。「…」声は出なかった。けれど、瑛の指先は迷いなく拳の輪郭をなぞり、そのまま包み込むように手を覆った。掌と掌の間に、思ったよりも確かな熱が広がっていく。「大丈夫や」その囁きは、深夜の空気に溶けるように小さく、それでいて確実に湊の鼓膜に届いた。声の低さが胸の奥をゆっくりと撫で、背中の硬直を少しずつほどいていく。湊はわずかに呼吸を乱し、握っていた拳の力をゆるめた。指が一本ずつ解かれていく感覚が、皮膚を通じて鮮明に伝わる。掌の温かさがじわじわと染み込み、内側に溜まっていた冷たい緊張を押し流していく。それでも、心の奥底には戸惑いが渦を巻いていた。こんな風に触れられることに慣れていない。触れられることで、自分の弱さまで見透かされるような不安がある。それなのに、拒む言葉は浮かんでこなかった。瑛の手は強くも弱くもなく、まるで「離さない」と告げるだけの力加減だった。その手の中にあるのは自分の指の感触、脈打つ血の温度。湊はゆっくりと顔を上げ、瑛を見た。照明の柔らかな光が瑛の横顔を縁取っている。その視線は揺らがず、湊の方へまっすぐに注がれていた。そこには詮索も責めもなく、ただ「ここにいる」という確信だけがあった。再び視線を落とした時、包まれた手がほんの少しだけ動いた。親指が優しく甲をなぞる。そのささやかな動きが、言葉以
last updateLast Updated : 2025-09-22
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名前で呼ばれる

湊は瑛に導かれるようにして、静まり返った寝室へと足を踏み入れた。廊下の灯りが背後で遠ざかり、ドアが閉まる音が柔らかく響く。部屋の中は、ベッドサイドの小さなライトだけが淡く空間を照らしていた。その光は天井や壁に溶け、影を長く引き伸ばしている。足元のカーペットがわずかに沈み、靴下越しの感触がやけに鮮明に伝わる。湊はその沈みに、知らず息を止めていた。背中に感じるのは、瑛がすぐそこにいるという存在の重み。ほんの数十センチしかない距離が、やけに息苦しい。ベッドの端に腰を下ろすと、スプリングが小さく音を立てて沈み、身体を受け入れる。途端に、両肩から力が抜けそうになるのを必死にこらえた。視線は膝の上に落ちたまま、何も言えない。そのとき、瑛がゆっくりと近づき、横から湊の肩に腕を回した。引き寄せられる力は強くはないが、抗うことのできない確かさがあった。肩と肩が触れ合い、体温が皮膚を通じて広がる。耳元に落ちてくる呼吸が、髪をわずかに揺らす。「湊」名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が不意に揺れた。その声は深く、低く、しかし柔らかかった。耳に入った響きがそのまま喉を下り、胸の奥に届く。そこからじんわりと熱が広がり、心臓の鼓動に合わせて内側を叩いた。「湊は湊や」二度目の呼びかけは、さらに深く沈んでいくような響きだった。ゆっくりと、言葉を置くように発せられるその音は、意味よりも先に温度を伴って染み込んでくる。湊は瞬きを忘れ、呼吸が浅くなる。これまで名前は呼ばれてきた。仕事でも、友人でも、あるいは形式的な関係でも。しかし、こんなふうに全てを肯定するように、存在そのものを受け入れるように呼ばれたことはなかった。名前の音が、こんなにも温かく感じることがあるのかと、不意に喉の奥が詰まる。瑛の腕が少しだけ力を増し、湊をさらに近くへ引き寄せる。胸板の硬さが背中越しに伝わり、その奥から響く心音が耳に届く。一定のリズムが、不思議と安心感を与えてくる。「…っ」声にならない吐息とともに、視界がにじんだ。涙がこみ上げてくるのを止めようと瞬きを繰り返すが、頬の奥が熱くなり、堰を切るのは時間の問題だった。瑛はそれに気づいているのかいな
last updateLast Updated : 2025-09-23
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境界を越える

瑛の腕の中で呼吸を整えていた湊は、頬にかかる指先の感触にわずかに顔を上げた。親指の腹が涙の跡をなぞり、そのまま輪郭をゆっくりと辿る。指先はためらいなく、しかし押しつけることもなく、湊の皮膚の温度を確かめるように動いた。視線が合う。至近距離で捉えた瑛の瞳は、光を受けて深い色を宿している。ベッドサイドのランプの灯りが、二人の間の空気を柔らかく照らし、長く伸びた睫毛の影を頬に落とす。湊はその影の揺れまで見えてしまい、視線を逸らすことができなかった。瑛の手が、頬から顎へとゆるやかに移動する。その指が軽く顎を持ち上げた瞬間、距離がさらに縮まる。呼吸と呼吸が交わる間合い。湊は反射的に胸の奥で息を止めた。そして、唇が触れた。触れるだけの軽いものかと思ったが、その温度と柔らかさは、思っていたよりも確かだった。最初の一瞬、湊の身体はわずかにこわばった。肩に入った力が自分でもわかるほどで、背中の筋肉が硬くなる。だが、瑛は急かさなかった。唇の動きは穏やかで、わずかに間を置いてから再び重ねられる。その繰り返しが、湊の緊張を少しずつほどいていく。吐息が混ざる。瑛の息は、思ったよりも熱を帯びていて、湊の頬にその温度が移る。唇の縁を掠めるような軽い動きが、次第に深みを帯びていく。湊は自分の心音が耳の奥で大きく響くのを感じ、目を閉じた。背中に添えられていた瑛の手が、ゆっくりと動き始める。肩甲骨をなぞるように下り、背筋に沿って滑る。その指先は布越しでもはっきりとわかる温かさを持っていて、触れられるたびに湊の呼吸が浅くなる。やがて、その手が服の裾へと移動した。ためらうように一度止まるが、次の瞬間には指が布を掴み、ゆっくりと上へ持ち上げる。衣擦れの音が、静まり返った部屋にわずかに響いた。その音が耳に届くたび、湊の心臓はさらに速く打つ。裾が腰を越え、背中が空気に晒される。ひやりとした空気と、すぐに重なる瑛の掌の温もり。その温度差が、皮膚の上で鮮明に感じ取れる。瑛の指が背骨をなぞるたび、湊は身を震わせた。唇が一度離れ、瑛が低く名前を呼ぶ。「湊」その声は、まるで確かめるようで、優しくも逃げ場を与えない響きを持っていた。湊は返事をす
last updateLast Updated : 2025-09-23
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