All Chapters of 君と住む場所~契約から始まった二人の日々: Chapter 81 - Chapter 90

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連絡の間合い

薄暗い寝室の天井を見つめていると、不意に枕元のスマホが震えた。静まり返った部屋の中に、短い振動音が妙にはっきりと響く。手を伸ばして画面を確認すると、瑛からのメッセージが届いていた。「元気にしてるか」ただそれだけの、簡潔すぎる一文。湊はしばらく親指を画面の上に置いたまま動かせずにいた。短い文字列から瑛の声色を想像しようとするが、耳の奥に浮かびかけた低い声は、次の瞬間にはすぐに霧散してしまう。指先が小さく動き、「大丈夫」とだけ打ち込む。送信ボタンを押す直前、一瞬だけ言葉を足そうとしたが、背中に広がる空気の冷たさが、その衝動を静かに押しとどめた。送信を終えた画面には、自分の返事があまりにも味気なく表示されている。もっと話したい気持ちは確かにある。今日あった些細な出来事や、見た夢の断片、夕食に何を食べたか、そんな他愛もないことを。けれど、文字にして送ると、その全てが紙切れのように軽くなってしまう気がした。目の前で表情や声の抑揚を交えながら話すことができない距離が、湊の言葉を削っていく。しばらく画面を見つめていると、「そっちは?」と返ってくるのではないかと期待してしまう自分がいた。けれどスマホは沈黙を守り、わずかな光だけが枕元を照らし続ける。返事が来ない時間が、秒針を刻む音よりも長く感じられた。やがて画面が自動的に暗転し、青白い光は完全に消える。途端に部屋は闇に包まれ、湊の顔は自分でも見えないほど暗くなった。耳を澄ませば、外からはかすかな車の走る音と、遠くで鳴る犬の吠え声が聞こえる。普段なら気にも留めないような音が、今日はやけに遠く、そして空虚に響く。布団に潜り込んでも、体温はすぐに逃げていき、空いた右隣のスペースが妙に広く感じられる。数日前まで、そこには瑛の温もりがあった。背中に腕が回され、吐息が髪に触れ、時折名前を呼ぶ声が降ってきた。その全部が、いまはただ静まり返った空気に置き換わっている。湊は目を閉じたまま、枕の下に手を滑り込ませ、スマホを指先で探った。もう一度画面を点ければ、通知が届いているかもしれないという淡い期待があった。しかし、指が触れた瞬間、その行動をやめた。見てしまって何もなければ、今よりも冷たい孤独が押し寄せ
last updateLast Updated : 2025-09-29
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欠けた日常の輪郭

朝のキッチンは、やけに静かだった。以前なら瑛が豆を挽く音がして、鼻先にほのかな香ばしさが漂ってきた。湊はそれを合図にベッドから起き上がり、まだぼんやりした頭のままマグカップを受け取っていた。カップの縁から立ちのぼる湯気と、低く呟く「おはよう」の声が、ゆっくりと身体を日常に引き戻してくれる。けれど今は、キッチンカウンターの上には昨夜のコップがひとつ置かれているだけだ。カーテンの隙間から射す光が、それを無造作に照らしている。コーヒーメーカーも棚の奥で沈黙していて、湊はインスタントのスティックを取り出す気力すら湧かなかった。仕事には何とか向かうが、心は重く、足取りも遅い。通勤電車の揺れに身を任せながら、窓の外を流れていく景色をただ眺める。以前ならスマホでニュースを読んだり、瑛から届く短いメッセージを開いたりしていた。その小さなやりとりが、意識しないうちに一日の輪郭を整えていたのだと、今になって気づく。職場では、些細なミスが増えた。資料の数字を一桁間違える、メールの添付を忘れる、そんな初歩的なことばかりだ。同僚に「大丈夫?」と声をかけられるたび、湊は苦笑いでごまかすが、内心では冷たい汗がにじんでいた。自分がこんなに集中力を欠く人間だったかと、戸惑いと情けなさが重く胸に積もっていく。昼休み、弁当を持たず外に出たものの、特に食べたいものが思いつかない。コンビニで適当にサンドイッチを買い、デスクで無言のまま噛みしめる。パンの味は薄く、かすかに乾いた匂いだけが口の中に残った。夕方になると、窓の外はすでに街灯が灯り始めている。ビルのガラス越しに映る光は、雨上がりのせいか少し滲んで見えた。定時を過ぎても、何となく机に向かい続ける。帰宅しても誰もいないことがわかっているからだ。ようやく帰路につき、マンションのドアを開けた瞬間、玄関の暗さが全身にのしかかる。外の街のざわめきが扉一枚で遮断され、そこから先は自分の吐息だけが響く空間になる。スイッチを入れた蛍光灯の光は、白く冷たく、靴の影を不自然に長く伸ばした。リビングのソファに腰を下ろすと、背もたれの感触がやけに固く感じられる。テーブルの上には、数日前に飲みかけたペットボトルがそのままだ。瑛がいた頃なら、そんな物は
last updateLast Updated : 2025-09-30
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再会への渇望

壁際の小さな日めくりカレンダーを、湊は何気なくめくった。手に残る薄い紙の感触が、いつもより鮮明に意識に残る。そこに印刷された数字を見た瞬間、胸の奥で小さな音が弾けた。あと数日で瑛が戻ってくる。その事実が、じわじわと鼓動を早める。久しぶりに感じる種類の高鳴りだった。ここしばらく、時間はただ重く流れ、どこにも向かわないままだったのに、突然その流れに光の筋が差し込んだような感覚がある。しかし、喜びと同じ速度で、別の感情がせり上がってきた。この状態を見られたくない。視線をゆっくりと部屋の中へ巡らせる。リビングのテーブルには、数日前から置きっぱなしのマグカップ。ソファには脱ぎ捨てたカーディガンが背もたれから半分ずり落ち、床の隅には読み終えていない雑誌が何冊も重なっている。埃が薄く積もったテレビ台や、キッチンに置き去りの空き容器が、静かに生活の乱れを物語っていた。瑛がいない日々の中で、自分がこんなにだらしなくなるとは思っていなかった。いや、本当は気づいていたはずだ。ただ、認めたくなかっただけだ。湊は深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。床に散らばる雑誌を拾い、重ね、ソファの上のカーディガンを畳んで所定の場所に戻す。動作一つ一つが、固くなった関節をほぐすようにぎこちない。それでも手を止めることはなかった。食器をキッチンへ運び、ぬるま湯で軽くすすぐ。流し台にあった油汚れの匂いが、泡立った洗剤の香りに変わっていく。布巾で水滴を拭き取ると、指先に残った温もりが少しだけ心を落ち着かせた。床に掃除機をかける。吸い込まれていく小さなゴミや髪の毛の音が、妙に心地よいリズムを刻む。窓際までたどり着くと、ふと外の景色が目に入った。夜の空に、細い月が浮かんでいる。淡い光がガラス越しに差し込み、室内の片隅を柔らかく照らしていた。瑛が戻ってくるまでの数日を、どう過ごすべきか考える。会いたい気持ちは確かに膨らんでいる。それと同時に、自分を立て直したいという思いが背中を押している。無意識に、瑛の視線を意識しているのだと気づく。彼に何を言われるでもなく、ただ見られることが、自分にとって大きな意味を持つ。ゴミ袋を縛ると、ビニールが小さくきしむ音を立てた。そ
last updateLast Updated : 2025-10-01
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帰還の足音

西日が傾きかけた頃、部屋の中は橙色の光で満たされていた。カーテンの隙間から差し込む光は、床に長い影を落とし、静かに時刻を告げている。湊はソファに腰を下ろし、手にしたマグカップを口元へ運んだが、ぬるくなったコーヒーの味はほとんど感じなかった。耳が玄関の方へと敏感に傾いている。数週間、この部屋から遠ざかっていた音を待つ耳だ。時計の針が一つ進むたびに、心臓が小さく跳ねる。落ち着かない指先がマグカップの取っ手をなぞり、膝の上で落ち着きを探す。そろそろのはずだ…と、頭ではわかっていても、玄関の向こう側からあの足音が響く瞬間を想像するたび、胸の奥が急に詰まったようになる。期待と不安が細い糸で絡まり合い、解けないまま締めつけてくる。外から、階段を上がる靴音が聞こえた。まだ遠く、でも確かに近づいてくる。それが瑛のものかどうか、耳は迷いなく識別していた。低く響く一歩ごとの間隔、踏みしめる音の重さ…体がそのリズムを覚えている。数段上がるごとに鼓動が速まる。息を浅くして、湊は立ち上がった。無意識のうちに、指がTシャツの裾を整える。表情も整えようとするが、頬の筋肉がぎこちなく動くだけで、思うように柔らかくはならない。玄関の前で音が止まった。短い間の後、ドアノブが回る金属音がして、鍵の外れる軽い感触が空気を震わせる。光の差し込む隙間が少しずつ広がり、外気とともに懐かしい匂いが流れ込んだ。雨上がりのような湿り気を帯びた空気と、旅の匂いに混じる瑛特有の香り。それだけで胸の奥の緊張がわずかに緩む。ドアが開き、瑛が姿を現した。肩には使い込んだトートバッグを掛け、片手にはキャリーバッグの持ち手を握っている。数週間前に見送ったときと変わらない背丈も、髪の長さも、そのままだった。けれど、旅の疲れが薄く刻まれた顔に、微笑みが浮かぶのを見た瞬間、時間の隔たりが一気に溶ける。「ただいま」低く、少し掠れた声。湊の耳に届いたその言葉は、思っていたよりもずっと穏やかで温かかった。返事をしようと口を開くが、声がうまく出ない。代わりに小さく頷くと、喉の奥からかすれた声がこぼれる。「…おかえり」瑛は靴を脱ぎながら視線を上げ、湊と目を合わせる。互いの間
last updateLast Updated : 2025-10-02
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不器用な再会

靴を脱ぎ終えた瑛は、キャリーバッグを廊下の端に寄せ、そのままリビングへと歩いていった。湊は数秒遅れてついていく。足音がフローリングに吸い込まれていくたび、妙な実感が遅れて胸に落ちてくる。玄関を閉めたはずなのに、外の西日の余韻がまだ背中を温めているようだった。リビングは昼間のまま、カーテンが半分開いていて、オレンジ色が壁に溶け込んでいる。瑛はキッチンへ行くと、冷蔵庫を開けて中をのぞき込み、短く息を吐いた。「…やっぱりな」そう呟く声は半分笑いを含んでいるが、残り半分には予想していたという諦めの色があった。湊は背中を見つめながら、言い訳を飲み込む。留守の間に自炊を怠ったことくらい、冷蔵庫の中を見ればすぐにわかる。瑛は何も追及せず、冷凍庫から白い袋を取り出した。中には冷凍ご飯がいくつか並んでいる。いつか瑛が「もしものとき用」に用意していったものだ。「これでチャーハン作るわ。卵はあるか?」「…一応、ある」湊が答えると、瑛は無言で取り出し、コンロに火を点けた。油が温まる匂いが広がり、カチカチと冷凍ご飯を崩す音がフライパンに響く。そのリズムに合わせて、湊の肩の力が少しずつ抜けていく。こんなふうにキッチンに立つ瑛の後ろ姿を見るのは、どれくらいぶりだろう。卵がはじける音、葱の香り、湯気に混じる醤油の焦げた匂い。それらが鼻をくすぐり、空腹を刺激する。ふと、こんな何でもない時間が二週間も途切れていたことに、今さらながら気づく。瑛は無駄のない動きで調理を進め、数分後には湯気を立てるチャーハンが二皿、テーブルに並んだ。「ほら、食え」短い言葉に、湊は「うん」とだけ返して箸を取る。最初のひと口は熱くて、口の中で軽く息を吹きかけながら咀嚼する。米の甘みと塩気が舌に広がり、卵のふんわりとした食感が後を追う。それは単なるチャーハン以上に、瑛の手から直接伝わってくる温度だった。「美味い」そう言うと、瑛は口元だけで笑って「そりゃよかった」と返す。その笑みはいつもより控えめで、会話はすぐに途切れた。沈黙が気まずくなる前に、湊は無理やり言葉を探す。「…向こう、どうだった?」
last updateLast Updated : 2025-10-02
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積もる沈黙

皿を片付けたあとも、二人はリビングのテーブルを挟んで向かい合っていた。食器を洗い終えた瑛が戻ってくると、湊はグラスに残った氷をゆっくりと回す。その細い音が、時計の秒針と交互に空気を切っていく。天井の照明は相変わらず柔らかく灯っているが、明るさの奥に、夜の深まりがじわじわと忍び寄っていた。「もう少し飲むか?」瑛がそう問いかける声は低く、どこか探るようだった。湊は一瞬だけ瑛を見て、小さく頷く。言葉を挟むには、喉が少し乾きすぎていた。瑛は棚から焼酎の瓶を取り出し、湊のグラスに静かに注ぐ。透明な液体が氷の上で弾き、細やかな泡が一瞬だけ浮かんでは消えた。湊はその泡を見つめながら、視線を上げる。瑛の目がまっすぐこちらを捉えていた。何かを待っているような目だ、と湊は思った。その瞬間、胸の奥がざわつき、視線を逸らしてしまう。目を合わせていれば、言葉が零れ出してしまいそうで怖かった。短い会話と長い沈黙が、何度も波のように押し寄せる。話題を探して口を開きかけては、すぐに閉じる。そのたびに沈黙は厚みを増し、空気を重くするのではなく、むしろ透明に澄ませていく。澄みすぎて、自分の鼓動の音まで聞こえてしまいそうだった。瑛はグラスを傾け、口を湿らせる。その喉の動きに湊の視線が吸い寄せられた。気づかれないように息を吐き、手元の氷をまた回す。カラン…という音が、やけに大きく響く。音が消えれば、すぐに時計の針の規則正しい音が戻ってくる。部屋にはその二つしかないのではないかと思うほど、静まり返っていた。「疲れてるんか?」不意に瑛がそう問うた。湊は反射的に首を振る。「別に…」嘘だった。本当は疲れていたし、安心もしていたし、何より瑛の存在に飲み込まれそうだった。けれど、その全部を一度に言葉にする方法を知らない。瑛はそれ以上追及せず、ただ視線を外さなかった。湊はその視線の温度を肌で感じながら、また目を逸らす。無意識のうちに、膝の上で両手を組んでいた。爪の先が掌に食い込み、そこにだけ小さな痛みがあった。氷はさらに小さくなり、カランという音も弱まっていく。水面に揺らぐ瑛の姿が、わずかに歪んで見える。湊はグラ
last updateLast Updated : 2025-10-03
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告白の引き金

瑛がグラスを持ち上げ、残った酒を口に含む。その喉の動きとともに、柔らかなランプの光が彼の輪郭を滑っていく。リビングは静かだった。窓の外は夜の気配にすっかり染まり、薄いカーテン越しに街灯の淡い明かりがにじんでいる。時計の針の音が、穏やかすぎるほど一定に響いていた。「また生活リズム崩してたやろ」唐突に瑛がそう言った。声は軽く、冗談をまぶした響きだったが、その奥にかすかな真剣さが混じっていた。湊は思わず口元をゆるめる。「…まあ、少しは」苦笑を浮かべながら答えると、瑛は目を細め、氷を指先で軽く回す。カランと音がして、その瞬間、湊の胸の奥で何かがざわりと動いた。冗談に包んだ言葉の芯が、自分を案じる気持ちだとわかってしまうからだ。その事実が、思った以上に深く響く。数週間、会えなかった間の空白が、瑛の何気ない一言で急に埋まっていくような感覚。だが同時に、その空白に自分がどれだけ甘えていたかも突きつけられる。瑛がいないと崩れる生活、空虚さを埋める術もなく過ごした日々…それらが頭をよぎると、胸の奥が熱く締め付けられた。湊は視線をテーブルに落とし、指先でグラスの縁をなぞった。冷たさが指に伝わるが、内側から押し寄せる熱は引かない。言葉にしなければならないと、どこかでわかっていた。今言わなければ、また心の奥底へ押し戻してしまう。「…瑛」名前を呼んだ声が、自分でも驚くほど低くかすれていた。瑛がゆっくりとこちらを見る。その瞳は、光を反射してわずかに揺れているように見えた。湊は深く息を吸い込み、肺の奥まで夜の空気を入れる。心臓の音が耳の奥で反響し、鼓動の速さが呼吸を追い越していく。「契約じゃなく、俺のそばにいてほしい」その言葉が口から零れ落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。ランプの光がいっそう濃く二人を包み込み、外の世界との境界が完全に閉じたような感覚。時計の音も、氷の解けるかすかな音も、すべてが遠のく。瑛はすぐには答えなかった。ただ、湊をじっと見つめていた。表情は穏やかなままなのに、その沈黙が重く、そして優しい圧を持って胸にのしかかる。湊は視線を逸らさず、相手の反応を待った。
last updateLast Updated : 2025-10-03
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受け止める温度

瑛の瞳がわずかに揺れた。一瞬、何かを探すように湊の顔を見つめ、その奥で感情の波が起こっては静まり、また寄せてくるのが見えた。驚き…それから、ゆっくりと解けていくような柔らかさが、その表情に重なっていく。沈黙はほんの数秒だったはずなのに、湊にはずっと長く感じられた。体の奥で高鳴っていた鼓動は、もう痛いほどだ。口から飛び出してしまいそうなそれを、彼は必死に押し留めた。自分の声が震えていたかどうかも、もう確かめられない。瑛はふっと息を吸い、小さく吐き出す。そして唇の端が、穏やかな笑みの形をつくった。「…わかった」低く、抑えられた声。けれど、その短い言葉にはためらいも拒絶もなく、ただ受け止めるための重みだけがあった。湊は息を呑む。まるで胸の奥に絡みついていた鎖がひとつ外れるような感覚が、体の中心から広がっていった。何かを言おうとして口を開きかけたが、喉の奥で言葉は形を失い、空気だけが漏れた。瑛がゆっくりと手を伸ばしてくる。その動きは急がず、迷いもない。湊の手の甲に、自分の大きな掌を重ねる。指が絡むわけではない。ただ包み込むように、温度を伝えるためだけの接触。その瞬間、湊の指先からじわりと熱が広がった。長く冷えていた場所に、ようやく火が灯るような感覚。手のひらを伝って上ってくる温かさが、胸の奥にまで届く。まるで、その温もりが「もう大丈夫だ」と告げているかのようだった。互いの吐息が、静かな空気に混じっていく。暖房の低い唸りが遠くで続き、外の世界は完全に遮断されている。カーテンの向こうの夜の街は冷たいはずなのに、この狭い空間だけは春先のように柔らかい空気に包まれていた。瑛は何も言わない。ただ、その手を離そうとしない。湊は下を向き、握られた手を見つめる。視界の端で、瑛の肩が静かに上下しているのが見える。自分の手よりも少し大きく、厚みのあるその手は、今まで何度も触れたはずなのに、今夜はまるで初めて触れたように感じられた。
last updateLast Updated : 2025-10-04
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寄り添う余韻

ソファのクッションが二人の体重でわずかに沈み、その沈み具合が互いの距離を自然に近づけていた。湊は深く腰を預け、視線を前方の低いテーブルに落とした。そこには、まだ飲みかけのグラスが置かれ、薄く曇ったガラスの中で氷が小さく音を立てて溶けていく。耳に届くのはそのかすかな水音と、遠くで回る暖房機の低い唸りだけだった。瑛の肩が、ごく自然に湊の肩に触れている。厚手のセーター越しに伝わる体温は、室内の暖かさとは別の質を持っていた。生きている人間だけが持つ、一定の鼓動と呼吸のリズムが重なり合って、じわじわと湊の心の奥に広がっていく。ほんの少し前まで、胸の中には不安が渦を巻いていた。それは瑛が不在だった数週間に生まれ、日に日に重くなっていったものだ。食卓の片隅、ベッドの片側、玄関に並ぶはずの靴…そういった、当たり前だった景色から瑛の存在が抜け落ちるたびに、自分でも驚くほど大きな空白を感じてきた。だが今、その空白は目に見えない何かで少しずつ埋められていく。肩から背中にかけて伝わる温もりが、そのまま胸の奥まで沁み込んでいくようだった。孤独という冷たい水が、静かに温水へと変わっていく感覚。湊は呼吸をゆっくり整え、わずかに目を閉じた。窓の外には、白く冴えた月が浮かんでいる。カーテンの隙間から射し込む淡い光が、瑛の横顔を薄く縁取っていた。その輪郭は穏やかで、柔らかい。湊は視線を向けたまま、何も言わなかった。言葉を探す必要がないと感じていた。瑛もまた、話すことを選ばなかった。ただ肩を寄せ、湊の存在をそこに確かめるように呼吸を続けている。二人の間に生まれる沈黙は、もう先ほどまでのぎこちなさや緊張ではなく、安堵の深呼吸のようなものだった。湊は指先をそっと動かし、ソファの端に置かれた膝掛けを引き寄せる。それを瑛の膝にも掛けると、ほんの少しだけ瑛の肩が動いた。小さく礼を言ったような、その仕草。湊は微笑んだ。声には出さないが、その笑みは確かに瑛へと向けられている。ふと、窓の外を見やると、街灯の下を一匹の猫が横切
last updateLast Updated : 2025-10-04
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境界を破る言葉

瑛の視線が、真っ直ぐ湊を捉えていた。柔らかなランプの光が、彼の瞳の奥に揺れる熱を照らし出す。ソファの背にもたれたまま、二人の間に流れる空気は、言葉を失った沈黙で満たされていた。外では風が木の枝を揺らしているらしく、窓の向こうでかすかな葉擦れの音がする。その音すら遠く感じるほど、この部屋の空気は濃く、近い。湊は指先で膝の上の布地をつまみながら、胸の奥で脈打つ鼓動を必死に抑えようとしていた。視線を逸らそうとするたび、また引き戻される。瑛の目が、離させてくれない。暖房の送風口から流れるぬるい空気が、頬を撫でていく。耳の奥で、二人分の呼吸音が微かに重なっていた。息を吸うたびに胸がきゅっと詰まり、吐くたびに言葉にならない熱が零れ落ちそうになる。沈黙を切り裂いたのは、低く響く瑛の声だった。「…もう契約やない」その一言に、湊は瞬きを忘れる。息を呑み、瑛の唇が次の言葉を紡ぐのを待った。「俺も…湊が欲しい」熱を帯びた低音が、鼓膜を震わせ、胸の奥まで届く。その瞬間、何かがぱんと弾けるように、湊の中で長く押し込めていた感情が溢れ出した。言葉の意味が脳に届く前に、身体が反応してしまう。胸が熱く、喉の奥が焼けるように渇く。目の前の瑛は、少し息を荒くしていた。肩がわずかに上下し、唇の端に迷いと決意が同居しているように見える。その距離は、ほんの腕一本分。けれど、湊にはそれが限りなく近く、逃げ場のないほどの圧に感じられた。「…瑛」名前を呼んだ声が、思ったよりもかすれていた。瑛の眉がわずかに動き、その視線がさらに深く突き刺さる。湊は、心臓が暴れているのを隠せないまま、背もたれから体を起こした。ソファのクッションが沈み、二人の間の距離が、さらに短くなる。互いの吐息が、空気を揺らすほどの近さ。瑛の手が、ゆっくりと湊の膝の上に置かれた。その手のひらは熱く、指先がわずかに震えているのがわかった。触れられた場所から、熱が一気に全身に広がっていく。湊はその温もりを逃さないように、そっと自分の手を重ねた。一瞬、瑛の瞳が揺れ、そして微かに笑みを浮かべる
last updateLast Updated : 2025-10-05
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