Semua Bab 流産の日、夫は愛人の元へ: Bab 651 - Bab 660

709 Bab

第651話

誠矢はくりくりとした大きな目をくるりと動かすと、慌てて最強の味方である素羽の胸へ飛び込んだ。「ママ、パパがおかしくなっちゃったよ。怖いよ。おばあちゃんが言ってたもん、頭のおかしいのはうつるんだって。早く逃げよう……」ティラノサウルスのように凶暴な父親と、か弱い子羊を演じる息子。その二人を見比べた素羽は、思わず笑みをこぼし、誠矢を抱き上げた。「ええ、早く逃げましょう」誠矢は白い歯を見せてにっこり笑うと、小さな顔いっぱいに得意げな表情を浮かべ、奏へ思いきり挑発的な視線を送った。「俺が抱くよ」奏は大股で数歩進んで母子に追いつくと、素羽の腕の中から誠矢をひょいと抱き上げた。「だから言っただろ。こいつ重いんだから、抱っこしてたら体に負担がかかるって」「ママ、僕、パパの抱っこなんか嫌だよ。パパにぶたれちゃうもん」誠矢は子豚のように体を丸め、素羽のほうへ身を乗り出して、必死に魔の手から逃れようともがく。奏はそのぷくっとしたお尻を、ぺしんと軽く叩いた。「これ以上騒ぐなら、このまま道端に置いていくぞ。パパはママと二人でご飯を食べに行くからな」誠矢は奏の首にぎゅっとしがみついた。「ふん、ママは僕を置いていったりしないもん」奏は意地悪そうに歯を見せた。「パパがおかしくなったって言ったのはお前だろ。だったら、ちゃんとおかしくならないと割に合わないじゃないか」誠矢は実に世渡り上手な子だった。奏の頬にちゅっと大きなキスをすると、透き通るような瞳を一瞬でキラキラと輝かせた。「パパ、僕、本当にパパのこと大好きだよ。どうして僕のパパってこんなに最高なの?僕、世界で一番幸せな子どもだよ」しかし奏は、その甘い言葉の連続攻撃にもまったく屈せず、ふんと鼻を鳴らした。「もう遅いね。今さらご機嫌取りをしても無駄だよ」誠矢は無邪気な笑顔で言った。「もう外は真っ暗だもんね。じゃあ、また明日の昼間にご機嫌取ってあげるね」「……」この大馬鹿野郎が。これのどこが賢いっていうんだよ。素羽は口元に穏やかな笑みを浮かべ、その眉間にはこれ以上ないほど柔らかな表情が宿っていた。今夜の月は、丸く、そしてひときわ明るかった。---奏の身辺調査は、岩治の手によって驚くほど迅速に進められた。わずか一日ほどで、彼の経歴
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第652話

琴子の誕生日は、外で祝うことになった。盛大なパーティーを開くわけでもなく、招待客を呼ぶわけでもない。ただ家族三人で食事をするだけ――いや、正確には三人だけではなかった。琴子と美玲が、それぞれ別の人を呼んでいたのだ。琴子が招いたのは菜穂子、美玲が招いたのは千尋。その意図は、誰の目にも明らかだった。琴子は千尋の姿を目にした瞬間、あからさまに眉をひそめた。何の相談もなく千尋を呼んだ美玲への不満と、空気も読まずにやって来た千尋への不快感を隠そうともしない。つい数日前まで自分と言い争っていた美玲が、ようやく機嫌を直してくれたばかりだ。ここで彼女を責めて面目を潰し、また騒ぎになるのだけは避けたかった。せっかくの祝いの日に、自分から水を差すような真似はしたくない。だから琴子は、矛先を千尋へ向けるしかなかった。「千尋さん、お祝いの言葉をありがとう。そのお気持ちだけ、ありがたく受け取らせてもらうわ。でも今夜は家族だけの食事なの。あなたまでおもてなしするのは少し都合が悪くて。また改めて私からお誘いするから、それでいいかしら」そう言いながらも、千尋が差し出したプレゼントに手を伸ばそうとすらしなかった。今の琴子は、息子がこれ以上千尋と関わることを少しも望んでいなかった。この五年間、二人の関係がそれ以上進展する気配はなかった。その様子を見て、息子には千尋とやり直すつもりなどないのだと確信していた。司野が過去に区切りをつけ、未練を断ち切ったというのなら、母親である自分も覚悟を決めなければならない。千尋と親しく付き合うなど、もってのほかだった。それに今の息子には、新しい相手の候補もいる。菜穂子と千尋、どちらを選ぶべきかなど、まともな判断力があれば誰にでも分かることだった。千尋も当然、琴子の拒絶を感じ取っていた。瞳の奥に、一瞬だけ気まずさと焦りがよぎる。招かれてもいないのに押しかけるのが良くないことくらい、彼女自身も分かっていた。それでも、もう長い間、こうした場で司野の顔を見ていなかった。ただ一目、彼に会いたかったのだ。だが、彼女が口を開くより先に、隣にいた美玲が動いた。まるで実の母親の顔を潰すように言い放つ。「お母さん、何言ってるの?誕生日なんだから、賑やかなほうがいいじゃない。千尋さんは私がわざわざ呼んだのよ。このまま帰らせるなん
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第653話

琴子は言葉を失った。どうして私は、こんなにも身内より他人をかばう娘を育ててしまったのだろう!千尋は気まずそうに口を開いた。「美玲ちゃん、私、実はちょっと用事があって……」だが、美玲は容赦なくその言葉を遮る。「用事なんてないことくらい分かってるわよ。お母さんの言うことなんて気にしないで。この人、すぐ人に突っかかるんだから。ほら、早く座って」そんな張り詰めた空気の中、菜穂子がプレゼントを手に姿を現した。「琴子さん、お誕生日おめでとうございます」ついさっきまで不機嫌そのものだった琴子は、菜穂子の顔を見た途端、表情を一変させた。曇っていた顔は嘘のように晴れ渡り、満面の笑みで彼女を迎える。「菜穂子さん、よく来てくれたわね。さあ、早く座って」琴子の菜穂子と千尋に対する態度は、まさに雲泥の差だった。その露骨な扱いの違いに、千尋の瞳は静かに曇る。「美玲さん、初めまして。こちら、私からのご挨拶です」菜穂子は人当たりのいい笑みを浮かべ、手にしていたプレゼントを美玲の前へ差し出した。琴子は終始にこやかな笑顔を浮かべ、菜穂子をすっかり気に入っている様子だった。「あら、来てくれるだけで十分なのに。こんなに気を遣わなくてもよかったのよ」しかし、琴子が満足そうな一方で、美玲は面白くなかった。美玲は遠慮なく菜穂子を頭の先からつま先までじろじろと眺め、その探るような視線を隠そうともしない。最後にプレゼントの箱へ目を落としたものの、手を伸ばすことすらせず、無礼な口調で言った。「見たところ、私とそんなに歳も変わらないみたいだけど。どういう物好きで、うちの兄なんかを気に入ったの?わざわざバツイチの男を選ぶなんて、何?うちの財産でも狙ってるの?」琴子は顔色を変え、きつくたしなめた。「美玲!」なんて口の利き方をする子なの。だが、母親に叱られても、美玲は唇を尖らせるだけで、まるで意に介していなかった。自分は何か間違ったことを言っただろうか。二十代そこそこの女性が、もうすぐ四十歳になるバツイチのおじさんを選ぶのだ。お金目当てでもなければ、まさか本気で惚れたとでも言うつもりなのか。よほど物好きとしか思えない。しかし、菜穂子は怒るどころか表情ひとつ変えず、穏やかな微笑みを浮かべたまま静かに答えた。「美玲
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第654話

しかし、司野が身を翻そうとした時には、すでに琴子に腕をしっかりと掴まれていた。逃げようと思った時には、もう後の祭りだった。個室の中。司野は一人、片側の席に座り、残る四人の女性たちは二人ずつ向かい合っている。まるで三者面談でも始まるかのような異様な配置に、司野の眉間にはさらに深い皺が刻まれた。一体これは誕生日の食事会なのか、それとも何か別の目的があるのか。司野には他意などなく、ただ早く食事を終えて、この場から離れたいだけだった。だが、世の中そう都合よくはいかない。「女三人寄れば姦しい」とはよく言ったものだが、四人も集まれば、その騒がしさはさらに拍車がかかる。琴子が口を開いた。「司野、菜穂子さんは北町に来るのが初めてで、何も分からないのよ。お母さんの代わりに、あなたがしっかり面倒を見てあげなさい」当事者である司野が返事をするより先に、隣にいた美玲が割り込んだ。「もう二十歳を過ぎた大人なんだから、口くらいついてるでしょう。分からないことがあるなら、自分から聞けばいいじゃない。私だって十代で海外に行った時は、自分のことは全部自分で何とかしたわ。彼女にできないことなんて、そうそうないでしょう」そう言いながら、美玲は横目で菜穂子を見やり、冷ややかな笑みを浮かべた。「それとも、菜穂子さんは成長が遅れていて、自分のことすら一人でできないの?もしそうなら、私の知り合いのお医者さんを紹介してあげてもいいけど」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、琴子が鋭い声を上げた。「美玲、いい加減にしなさい」この子は本当に礼儀というものを知らない。どうして口にする前に少し考えられないのか。「菜穂子さん、この子の言うことなんて気にしないでね。まだ子供だから、言葉遣いが分かっていないのよ」菜穂子は表情を変えることなく、静かに首を横に振った。「大丈夫です。分かっていますから」その返事を聞いた琴子の笑顔は、さらに本物のものへと変わった。「本当にいい子ね」なんて素直で、できた女性なのだろう。家柄も申し分なく、容姿も美しい。それだけではなく、性格まで穏やかだ。この縁談に、琴子はこれ以上ないほど満足していた。一方、美玲は口を尖らせ、作ったような笑顔を浮かべる菜穂子を横目で見ながら、心の中で吐き捨てた。
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第655話

千尋はただ穏やかに微笑み、余計なことは何も言わなかった。それでも、気の利いた振る舞いだけは決して忘れない。美玲はそんな二人を横目に、面白がるように口を挟んだ。「お兄ちゃん、見てよ。千尋さん、今でもお兄ちゃんにすごく優しいじゃない。何年経っても、お兄ちゃんの好みをちゃんと覚えてるんだから。私の記憶が間違ってなければ、その料理って千尋さんの好物だったはずよ。だったら、お兄ちゃんも取ってあげれば?」そう言いながら、美玲は料理の一品を指差し、司野を使おうとする。司野は美玲を横目で睨みつけた。その瞳は凍るように冷たく、何も言葉にはしなかったが、そこに込められた警告は誰の目にも明らかだった。それに気づいた千尋の瞳の奥に、一瞬だけ暗い影が落ちる。だが、表面上は変わらず気遣うような笑みを浮かべ、静かに口を開いた。「自分の分は自分で取れるから、お兄さんを煩わせなくても大丈夫よ」美玲はすぐさま言い返した。「千尋さん、今のあなたはちょっと良妻賢母すぎるわ。もっとお兄ちゃんをこき使っていいのよ。昔はあんなに千尋さんの世話を焼きたがってたじゃない。むしろ、世話を焼かせてあげないと、お兄ちゃんの方が不機嫌になってたくらいなのに。男なんて甘やかしちゃ駄目よ。甘やかせば甘やかすほど、つけ上がるんだから。ねえ、お兄ちゃん。昔、千尋さんをお嫁さんにするって言ってたじゃない。二人はいつ結婚するつもりなの?その時は私がちゃんとブライズメイドをやってあげるから」千尋は唇を噛み締め、そっと司野へ視線を向けた。その瞳の奥には、かすかな期待の光さえ宿っていた。司野はわずかに眉をひそめる。「飯を食っていても、その口は止まらないのか」美玲も負けじと言い返した。「口は食べるためだけについてるわけじゃないもの」司野は容赦なく言い放つ。「お前が黙っていても、誰も困らない」千尋はさらに強く唇を噛み締めた。胸の奥に、言葉にできないほどの失望が広がっていく。自分は一体、何を期待していたのだろう。もう五年も経ったのだ。司野の心がすでに自分から離れていることを悟るには、この五年という時間ではまだ足りなかったとでもいうのか。千尋の視線は、自然と向かいに座る菜穂子へと向かった。その瞳の奥には、思わず羨望の色が浮かぶ。
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第656話

司野がなぜ自分を騙したのか、亘を問い詰めようとする間もなかった。個室にいた楓華もまた、廊下に立つ司野の存在に気づいたのだ。彼女は反射的に向かいの席へと視線を向け、胸の奥がざわつくのを感じると、すぐさま立ち上がって個室を出た。そして、背中越しに扉をピシャリと閉め、司野の視線を完全に遮った。「あんた、ここで何してるの」楓華は司野の顔を見るなり、まるで縄張りを荒らされた闘鶏のように、いきなり噛みついてきた。「せっかく外でご飯を食べてるっていうのに、本当に厄介なものに出くわすわね。私がどれだけあんたのことを嫌ってるのか、いい加減自覚したらどうなの?さっさと消えて」亘は気まずそうに眉を寄せた。「楓華……」少しは言葉を選べ、と彼女をたしなめようとする。だが、彼が言い終えるより早く、楓華は鋭い視線を向けた。「何?あんたもこいつと一緒に消えたいっていうの?」亘はその言葉を聞いた瞬間、ぶんぶんと首を横に振った。消えるつもりなど、これっぽっちもない。転がるならベッドの上だけで十分だった。次の瞬間、楓華の視線は司野の肩越しに、その少し後ろに立っていた千尋へと向けられた。彼女の顔には満面の嘲笑が浮かび、鼻で笑うように吐き捨てる。「やっぱり『クズにはクズがお似合い』ってことね。本当に、クズ同士、死ぬまで一緒にいればいいんじゃない?」何年も経っているというのに、いまだに反吐が出るほど仲睦まじいことだ。千尋はその場に立ち尽くしたまま、一歩も前へ出ようとはしなかった。楓華から浴びせられる罵声にも、言い返そうとはしない。どうせここ数年、顔を合わせるたびに嫌味の一つや二つはぶつけられてきたのだ。もうすっかり慣れていた。楓華はこれ以上、彼らと関わるつもりなど微塵もなかった。「さっさと入りなさいよ」それは亘に向けた言葉だった。言われた本人も察しがよく、素直に従う。「はいはい」個室へ入る直前、彼は司野に視線だけで合図を送るのが精一杯だった。――悪く思うなよ。俺にも立場ってものがあるんだ。お前も早く行け。これ以上ここで罵られるなよ。楓華はもう言葉を交わすことすら面倒になり、亘の尻を足で軽く蹴飛ばした。「グズグズしてないで、さっさと入りなさい!じゃなきゃ外に消えなさい」亘はすぐさま尻尾を巻くように
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第657話

バン――と大きな音を立てて、グラスがテーブルに勢いよく叩きつけられた。楓華は振り返ると、隣に座る亘を鋭く睨みつけた。一方の本人は、気まずそうに鼻の頭をかく。――なんで俺が睨まれるんだ?何もしてないし、何も言ってない。それなのに、どうして自分にとばっちりが飛んでくるんだ。亘は心の中で全力で無実を訴えた。そもそも、今夜ここに司野が現れるなんて、彼だって知るはずがなかったのだ。そんな一連のやり取りを見ていた素羽は、くすりと微笑みながら場を和ませるように言った。「もう、まだ授乳中なんだから。そんなに怒ってたら体によくないよ」その言葉が終わるや否や、亘もすかさず相槌を打ち、楓華の背中を優しくさすった。「そうそう、その通りだよ。どうでもいい奴のために腹を立てるなんて損だろ」楓華は露骨に嫌そうな顔をして肩をすくめ、彼の手を払いのけた。「自分の息子の面倒でも見てなさいよ。目障りだから、あっち行って」もともと彼を連れてくるつもりなどなかった。頼み込んで半ば強引についてきたのは亘のほうだ。それなのに、来て早々、危うく騒ぎを起こしかけた。電話、電話って、一体そんなに出なきゃいけない電話がどこにあるっていうの?出るなら離れた場所で出ればいいじゃない。どうしてわざわざ個室の入り口で電話なんか取るのよ。誠矢はベビーカーから小さな顔をのぞかせ、口を開いた。「楓華おばさんの赤ちゃん、僕のパパよりずっとお利口さんだから、お世話なんていらないよ」奏は呆れて言葉を失った。――このクソガキ、本気でダンボールに詰めて捨ててやろうか。育てても腹が立つことしか言わない。誠矢の声を聞いた瞬間、楓華は一転して満面の笑みを浮かべ、手招きをした。「誠矢くんもとってもいい子だよね。ほら、おばさんのところにおいで。いいものあげるから」誠矢が近づくと、楓華はバッグからベルベットの小箱を取り出した。中には金色の豚をかたどったネックレスが入っており、それをそのまま誠矢の首にかけてあげる。誠矢はキラキラと輝く豚のモチーフを見つめ、どこか不満そうな顔をした。「おばさん、どうして僕に豚さんをくれるの?おばさんも、僕が太りすぎだって思ってるの?」楓華が答えるより早く、奏は待ってましたと言わんばかりに茶化し始めた。「
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第658話

素羽が生きている。その知らせを楓華が耳にしたのは、一年前のことだった。その事実を知った瞬間、彼女は電話を握りしめたまま、その場に崩れ落ちるように泣きじゃくった。それは、失ったはずの大切な人を取り戻せた喜びの涙であると同時に、電話の向こうにいる素羽を責める涙でもあった。生きているのなら、どうして最初の四年間、一度も連絡をくれなかったのか。そのせいで、自分がどれほど苦しみ、どれほど悲しみ続けてきたことか。もちろん、素羽だって連絡したくなかったわけではない。あの頃の彼女は、自分の身を守るだけで精一杯だったのだ。その後、ようやく生活が落ち着いてからも別の事情が重なり、どうしてもすぐには連絡を取ることができず、そのまま時だけが過ぎてしまったのだった。素羽の居場所を知った楓華は、今すぐにでも彼女のもとへ駆けつけようとした。だが、なんとも間の悪いことに、まさにそのタイミングで自分の妊娠が判明したのだ。体質や仕事の影響もあって、楓華の生理は数か月に一度、まるで季節の便りのような間隔でしか来なかった。そのため、自分が妊娠していることなど夢にも思わず、気づいた時にはすでに妊娠三か月に入っていた。その事実を知った瞬間、楓華の頭に真っ先に浮かんだのは――中絶だった。ところが、あの亘というどうしようもない男が、どこでその話を聞きつけたのか、すぐに飛んできた。そして持ち前の弁の立つ口であの手この手と説得を重ね、少しずつ楓華の考えを変えていったのだ。楓華自身、結婚する気はさらさらなかった。けれど、父親は切り捨てて子どもだけを育てるという形なら受け入れられると思うようになっていた。子どもが一人いる生活も悪くない。それに何より、亘の遺伝子は優秀だ。彼の遺伝子だけをもらうと考えれば、それも悪くない選択だと思えた。しかし、妊娠が分かってからというもの、亘はまるで一度くっついたら剥がれないガムのように楓華に張りつくようになった。専属の家政夫さながら、衣食住の世話を焼き、一日二十四時間では足りないと言わんばかりに、二十五時間でも彼女のそばにいたがる始末だった。楓華は当初、素羽が生きていることを亘へ知らせるつもりなど微塵もなかった。だが、この世に永遠に隠し通せる秘密などない。どれほど慎重に素羽と連絡を取り合って
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第659話

楓華は目の前に並ぶ美男美女のカップルを見つめ、素羽が幸せに暮らしていることを知ると、瞳に安堵と喜びの色を浮かべた。これでようやく、素羽も災い転じて福となしたのだ。その様子を見ていた亘も、心の中でそっとため息をつく。――司野には、もう勝ち目はないな。食事の間も、奏は終始細やかに素羽を気遣い、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。その姿を見ているうちに、楓華はまるで義母が婿を見るような気分になり、見れば見るほど好感を抱いていく。――うん、この青年はなかなか見どころがある。やはり自分の目に狂いはなかった。素羽のような素敵な女性は、誰よりも幸せになる資格がある。あんなゴミみたいな連中のことなど、さっさと遠くへ消えてしまえばいい。少し二人きりで話したくなり、楓華は素羽の腕を取って化粧室へ向かった。「あの人、ちゃんと優しくしてくれてる?」もちろん「あの人」とは奏のことだ。素羽は穏やかに微笑んだ。「見れば分かるでしょ?」もちろん見れば分かる。それでも楓華は、本人の口から聞きたかったのだ。一歩近づいた楓華は、そっと素羽を抱きしめ、その耳元で優しく囁いた。「今のあなたがこんなに幸せそうで、本当に嬉しい。まるで自分のことみたいに幸せなの」あの頃、死の淵でもがいていた素羽を知っているからこそ、今こうして光の中で笑って生きる彼女の姿が、何より嬉しかった。大切な素羽ちゃんは、ようやく本当の人生を取り戻したのだ。素羽は何も言わず、優しく楓華の背中をぽんぽんと叩いた。言葉などなくても、お互いの気持ちは十分に伝わっていた。炎の中をくぐり抜け、生まれ変わるような苦しみだった。けれど、その先で手に入れた新しい人生は、決して悪いものではなかった。楓華は目尻の涙を拭い、ゆっくりと身体を離した。「帰ってきたけど、またどこかへ行っちゃうの?」素羽はその問いには直接答えず、逆に問い返した。「私がまたいなくなったら、寂しい?」楓華は照れ隠しもせず、即答した。「当たり前じゃない。寂しいに決まってるでしょ」まだ話したいことも、聞きたいことも、知りたいことも山ほどあったのだ。素羽は微笑んだまま、「またどこかへ行くのか」という問いには触れず、静かに告げた。「これからは、もっと頻繁に会えるようになるわ」その一言だ
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第660話

美玲が角を曲がって廊下へ飛び出したとき、人気のない通路には、お目当ての人物の姿はどこにもなかった。まるで、さっき目にした光景そのものが幻だったかのようだ。美玲はその場に立ち尽くし、眉を深くひそめた。少し遅れて琴子も追いつき、怒りをあらわにして言った。「いい加減、そのヒステリー何とかしてくれない?」美玲はすぐに言い返した。「私、本当にさっき素羽を見たの!」見えたのはほんの横顔だけだった。それでも見間違えるはずがない。相手が素羽なら、たとえ灰になっていたって見分けられる自信があった。琴子は奥歯を噛み締めながら吐き捨てる。「自分がさっきどれだけ飲んだか、分かってるの?」ただでさえ手がかかるのに、今度は酒まで浴びるように飲むようになった。海外にいた数年間、一体どんなでたらめな生活を送ってきたというのか。美玲は唇を強く噛んだ。――本当に飲みすぎて見間違えただけなのだろうか。琴子は彼女の腕をつかみ、そのまま出口へ向かって歩き出した。「帰って酔い覚ましのスープでも飲みなさい」二人いる子どもは、どちらも親を安心させてはくれない。一方その頃、素羽は自分が先ほど、危うく元義妹に見つかりそうになっていたことなど知る由もなかった。---瑞基グループ。岩治は司野に業務の進捗を報告していた。奏が姿を現して以来、石森商社は須藤家の企業と真っ向から競り合うようになり、その不自然な動きには、業界の誰もが気づいていた。新たに設立された石森商社そのものは、まだ小規模な会社でしかなく、さほど注目されてはいない。だが、その背後に控えるサットン一族となれば話は別だった。海外で百年もの歴史を誇る名門一族。主な事業基盤は国外にあるとはいえ、その根は深く、巨大なネットワークは誰かが簡単に揺るがせるようなものではなかった。現時点では須藤家の企業に目立った実害は出ていない。それでも露骨な敵対姿勢に、司野の瞳には冷たい光が宿っていた。岩治が口を開く。「社長、石森商社の責任者と連絡を取り、話し合いの場を設けましょうか」ビジネスで最も大切なのは、互いに利益を生み出すことだ。司野は何も答えず、ただ冷え切った眼差しを向けていた。返事がなくても岩治は急かすことなく、デスクの前で静かに待ち続ける。しばら
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