All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

司野は顔を上げると、冷え切った視線で亘を射抜いた。言葉にはしなかったが、その目は「何をくだらないことを言っている」とでも言いたげだった。その視線を受けても、亘は腹を立てるどころか肩をすくめ、冗談とも本気ともつかない口調で言う。「まあ、そのひねくれた性格じゃ、誰かに恨まれてても自分じゃ気づかないだろうな」司野はこれ以上皮肉を聞く気にもなれず、苛立ちをにじませた。「まだ何かあるのか?」亘は答えず、逆に問いかける。「もう五年だぞ。まだ、あの人のことを吹っ切れないのか?」「あの人」が誰を指しているのかは、二人とも分かっていた。広いオフィスは、針一本落ちる音さえ響きそうなほど静まり返る。司野の表情はぴくりとも動かず、その深い眼差しからは、今何を思い、何を感じているのか、まるで読み取ることができなかった。亘はデスクの上に置かれた写真立てへ目を向けた。そこに写る素羽を見つめ、かつて家族三人が寄り添って笑い合っていた日々を思い出す。そして写真立てにそっと手を伸ばし、それを伏せながら静かに言った。「もう十分だ。そろそろ諦めろよ」素羽は、とっくに新しい人生を歩き始めている。彼だけが過去に縛られ続けても、何も変わらない。ただ、自分で自分を苦しめるだけだ。司野は眉をひそめると、伏せられた写真立てを元に戻し、不機嫌そうに言い放った。「用がないなら帰れ」亘の「諦めろ」という言葉を、司野が受け入れる気などまるでないことは明らかだった。その態度を見て、亘ももう何も言わなかった。親友として伝えるべきことは、とっくに伝えた。過去を手放さず、新しい一歩を踏み出そうとしないのは、司野自身の選択なのだから。やがて広いオフィスには、司野だけが取り残された。彼は写真の中の素羽を見つめたまま、静かに物思いに沈む。昔の自分なら、過去に縋り続ける人間を弱いと笑っていただろう。人は前を向いて生きるべきだ。過去に囚われ続けるのは、敗者の自己憐憫であり、現実から逃げているだけだと。司野はこれまで、そんな生き方を鼻で笑い、自分には無縁だと思っていた。だが、まさか自分自身が、素羽のことになると、かつて最も軽蔑していた人間になってしまうとは思いもしなかった。彼はもう、素羽への想いから抜け出せなくなっていた。もし
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第662話

「大変です」吹雪が舞う金曜日の終業間際、岩治は険しい表情のまま足早にオフィスの扉を開けた。「社長、現場で事件が起きました」死人が出たのだ。岩治は簡潔に状況を報告した。基礎杭の掘削穴から遺体が発見されたという。その現場は、司野の三番目の叔父・須藤順平(すどう じゅんぺい)が責任者を務める、大型テーマパーク建設予定地だった。行政主導の大型プロジェクトでもある。正直なところ、工事現場で死者が出ること自体は珍しくない。十の現場があれば、九つでは何らかの事故や問題が起きると言ってもいい。本来なら、水面下で穏便に処理してしまえば済む話だった。ところが今回は、事件が表沙汰になっただけでなく、メディアに嗅ぎつけられ、大々的に報じられてしまった。瞬く間に、「テーマパーク建設現場で殺人事件が起きた」という情報がネット上を駆け巡った。岩治は続けた。「現在、現場は記者たちに取り囲まれています」テーマパークの起工式の際にも多くの報道陣が集まっていたが、今回のような大スキャンダルとなれば、その数は比べものにならないほど膨れ上がっていた。司野は冷静な表情を崩さず、低く冷えた声で尋ねた。「順平叔父さんは今どこだ」岩治は答えた。「副社長は現在、I国へ旅行中です」三日前、オーロラを見に行くと言ってI国へ飛び立っていたのだ。順平の秘書からその報告を受けたとき、岩治は思わず冷や汗をかいた。若者ならまだしも、五十を過ぎた人間が、本業を放り出してオーロラ見物とは――あまりにも呑気すぎる。その報告を聞いた司野の表情がわずかに険しくなり、眉間に小さなしわが寄った。「秘書を通じて何度も連絡を入れていますが、電波状況が悪いらしく、いまだに連絡が取れていません」司野はそれ以上、順平のことには触れなかった。もともと、あのいい加減な性格は今に始まったことではない。彼は端的に指示を下した。「まずは記者を抑えろ」岩治は深く頭を下げた。こうして、金曜から始まるはずだった週末は、多くの社員にとって残業漬けの休日となることが決まった。各部署の責任者が慌ただしく対応に追われる中、肝心の責任者である順平だけが、ひとり蚊帳の外で気ままに旅行を楽しんでいた。記者対応の途中、岩治は再び報告に戻ってきた。「一部のメディ
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第663話

司野は冷え切った眼差しを向け、淡々と言い放った。「人を見る目もなく、会社に害虫を招き入れた挙げ句、現場では人命に関わる事件まで起こした。本当によくやってくれたな」あの大輔という男は、順平が自ら会社へ引き入れた人物だった。普段から「親友だ」「家族同然だ」と口にしていた相手でもある。もっとも、家族同然というのも無理はない。大輔は順平の愛人の兄であり、今回I国への旅行に同行したのも、その新しい愛人だったのだから。妹は順平から甘い汁を吸い、兄は会社で私腹を肥やす。あの兄妹は、実にうまく立ち回っていた。「女遊びをしようが、それは俺の知ったことじゃない。だが、会社を私物化していい理由にはならない」現場で命を落としたのは現場監督だった。実際には大輔が引き入れた仲間の一人であり、その仲間内で突然一人が死んだとなれば、利益の分配を巡るもめ事だったと考えるのが自然だった。亡くなった現場監督は、自分の取り分を受け取れず、請求しても拒まれたため、告発すると脅したのだろう。だが、不運にも相手が冷酷非情な大輔だった。大輔はためらうことなく彼を殺害し、打設したばかりの杭穴へ放り込み、そのままコンクリートを流し込んで埋めてしまった。普通なら、このような状況で遺体が見つかることはまずない。だが皮肉にも遺体は発見され、しかもメディアにまで報じられ、世間に知れ渡ってしまった。粗悪な建材を使った欠陥工事の件も含めて、すべてが白日の下にさらされたのだ。どの問題を取っても、須藤家にとっては致命的なスキャンダルだった。大輔は事件の発覚を知るや否や、会社の資金を持ち逃げし、そのまま姿をくらました。須藤家の金を着服し、莫大な負債と山のような問題だけを残して逃げたのだ。そんな状況で、司野が順平に情けをかけるはずもなかった。順平は容赦ない言葉に顔をしかめた。自分がとんでもない災いを招いたことは理解している。それでも彼は幸雄を振り返り、必死に弁解した。「父さん、大輔が裏でそんなことをしてたなんて、本当に知らなかったんだ。俺には何の関係もない」確かに会社経営には真剣とは言えなかった。だが、家業を潰そうなどというつもりは少しもなかったのだ。幸雄の目には、隠しきれない失望が浮かんでいた。三人の息子の中で、最も期待を寄
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第664話

余裕を崩さなかった司野だったが、その瞳は一瞬で暗く沈み、澄みきった冷たい視線を向けた。「直人、その二人をつまみ出せ」幸雄が執事の直人に命じた。直人は幸雄の忠実な右腕であり、主人の命令に逆らうことは決してない。彼は礼儀正しい口調を崩さぬまま、有無を言わせぬ態度で二人を部屋の外へ促した。「旦那様はまだお気持ちがお鎮まりではありません。これ以上波風を立てないほうが賢明かと存じます」夫婦はなおも食い下がろうとしたが、幸雄の陰鬱で冷え切った眼差しとぶつかった瞬間、ようやく我に返った。三男一家には何の権力もない。順平自身も実家に頼って生きるしかない身だ。もし本当に幸雄の逆鱗に触れ、須藤家から追い出されでもしたら、今の贅沢な暮らしはそこで終わりを迎えてしまう。二人は渋々部屋を後にしたが、司野のまとっていた冷たい空気は少しも和らがなかった。幸雄はそんな孫の様子を気に留めることもなく、すぐに話をプロジェクトへ切り替えた。「工藤知事から電話があった。お前、一度顔を出してこい」司野は短く頷いた。「裏で糸を引いている奴を徹底的に洗い出せ」誰かが裏で仕掛けていることは、司野も感じ取っていた。百戦錬磨の幸雄が、それに気づかないはずがない。司野の表情がさらに沈んだのを見て、幸雄が問いかける。「どうじゃ、何か心当たりでもあるのか」司野は静かに答えた。「西嶋奏だと睨んでいます」そう言って、石森商社と奏の関係について説明した。「ただ、確証が出るまでは断言できません」幸雄は深く思案するように目を細め、目の前に立つ孫を見つめた。相手は司野に対して明確な敵意を抱いている。だが、その敵意は一体どこから生まれたものなのか。幸雄は低く言った。「奴のことを徹底的に調べ上げろ」敵がいること自体は恐れるに足らない。本当に恐ろしいのは、敵が闇に潜み、見えないところで罠を張ることだ。今や相手は表舞台に姿を現している。ならば恐れる必要はない。どんな手で来ようと受けて立てばいい。こちらに揺るぎない力さえあれば、何も恐れることはない。奏の不遜さは口先だけではなく、その行動にもはっきりと表れていた。調査結果は、司野の予想どおりだった。現場で起きた死亡事故の裏で糸を引いていたのは、他でもない奏だった。しかも彼に
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第665話

司野は目の前に立つ二人の男を見据えた。その構図は、まるで自分だけが部外者であるかのようだった。亘は内心、頭を抱えていた。この先の自分の平穏を思えば、素羽がまだ生きているなど、この場で口が裂けても言えない。――ああ、どうしてこんなことになったんだ。これでは、どちらの顔も立てられない。どうせ悪者になるなら、せめて自分にとって都合のいいほうにつくしかない。司野は奏には答えず、亘を見据えたまま、なおも探るような眼差しで問いかけた。「お前、こいつと親しいのか」奏は口元に皮肉めいた笑みを浮かべたまま、黙って二人のやり取りを眺めていた。亘は慎重に言葉を選びながら口を開く。「親しいわけじゃないさ。一度顔を合わせたことがあるって程度だ」その言葉に嘘はなかった。実際、自分と奏は親しい間柄ではない。奏はそんな様子を面白そうに眺めながら、片手をポケットに突っ込み、意味深に口を開いた。「俺はさ、自分の好きなものにしか興味ないんだ」そこで一拍置き、亘を見て続ける。「お前の友達なんか、誰もお前と取り合ったりしないよ」そう言い終えると、亘の肩を軽く叩き、わざと親しげな口調で言った。「また時間がある時に、一緒に飯でも食おうよ」亘は言葉を失った。――こいつら、揃いも揃って俺で遊んでるのか?奏は二人の間にどれほど気まずい空気が流れようが意に介さず、場を散々かき回した挙げ句、振り返ることもなく立ち去っていった。司野の鋭い視線が、その背中を追う。彼は無意識のうちに、あの言葉の真意を探っていた。表面上は何もおかしくない。それなのに、胸の奥がどうにもざわついて落ち着かなかった。視線を亘へ戻し、司野は改めて彼を見据える。聞き間違いではない。この二人は以前から食事の約束をしていた。司野は探るような低い声で問いかけた。「親しくない相手と、一緒に飯を食うのか」「……」亘は心の中で奏を盛大に罵った。本当に見事にはめてくれたものだ。彼は肝心な部分をごまかすように答える。「親しいのは楓華のほうさ。俺はただの付き添いだよ」それを聞いた司野は、ほんのわずかに眉をひそめた。「楓華が、どうしてこいつと知り合いなんだ」本来なら接点などあるはずのない二人だ。一体どこで知り合ったという
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第666話

素羽は目を閉じたまま、小さく首を横に振った。眉間には深いしわが刻まれ、かすれた声でつぶやく。「いらない」奏は彼女をそっと抱き寄せ、そのまま横になって背後から身体を包み込んだ。強く握り締められた手を優しく開き、自分の腕をその掌へ押し当てる。「痛いなら、ここをつねっていい」そう言うように、素羽が痛みを紛らわせられるよう、力いっぱい腕を握らせた。素羽の身体は彼の腕の中で小刻みに震えていた。激しい痛みに顔からはすっかり血の気が失せている。頭上から、奏の穏やかな声が降ってきた。「こっちの用事が片付いたら、一緒に帰ろうな」素羽は彼の腕に爪を立てたまま、頷きも否定もせず、ただ全身の力を振り絞って押し寄せる痛みに耐えていた。今の彼女の身体は、まるで美しく包装された欠陥品のようだった。外見は何事もないように取り繕われていても、その内側はすでに傷だらけだった。あの交通事故は素羽の命こそ奪わなかったが、その代わりに終わりのない苦しみを残した。雨の日や厳しい寒さの日になると、骨の髄まで氷水に浸かったような冷えと激痛に襲われ、一晩中眠れないことも珍しくない。発作が起きれば、大量の鎮痛剤に頼らなければ、ほんのわずかな痛みの緩和すら得られなかった。しかも耐性がついてしまったのか、薬の効いている時間も日に日に短くなっていた。腕の中で震える身体を感じながら、奏は隠し切れない胸の痛みを瞳に滲ませる。素羽を助けたい――そう願っても、この苦しみだけはどうすることもできない。代わってやることすら叶わなかった。そんな自分が、ひどく無力で情けなかった。やがて薬が効いてきたのか、それとも痛みに耐えきれず意識を手放したのか、素羽は彼の腕の中で静かに眠りへ落ちていった。規則正しい寝息を確認すると、奏は部屋の暖房を少しだけ高めに設定する。素羽が完全に眠りについたのを見届けると、そっとベッドを抜け出し、布団を丁寧に掛け直してから、電話をかけるため静かに部屋を後にした。---「工事を停止しろだと?」上層部から、瑞基グループのアミューズメントパーク建設プロジェクトを一時中断するよう指示が下ったのだ。司野はわずかに眉をひそめた。予定どおり進めることで合意したばかりだというのに、なぜ突然方針が覆されたのか。知事秘書は礼節を崩さない口調
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第667話

奏に思考をかき乱されたとはいえ、司野の頭の中がすべて彼のことで埋め尽くされていたわけではなかった。会社の業務は滞りなく進み、司野の日常もまた、表面上はいつも通り穏やかそのものだった。今年は幸雄の八十歳を祝う傘寿の年にあたり、当然ながら祝いの宴は盛大に執り行われる予定だった。須藤家では一年前から準備が始められており、本番まで残り一ヶ月となった今は、まさに目が回るほどの忙しさに追われていた。一族を挙げて、この傘寿の祝いには並々ならぬ力を注いでいたのだ。当日招待される客人は、政財界に名を馳せる錚々たる顔ぶればかりだった。長男の妻である琴子は準備に追われる日々を送っていたが、朝帰りするか、あるいは深夜にならなければ帰宅しない美玲を見るたび、眉間に深いしわを刻んでいた。「おじいちゃんの傘寿のお祝いももうすぐなんだから、少しは大人しくしていなさい。毎日外で遊び歩いてばかりいて、もしおじいちゃんに知られて機嫌を損ねでもしたら、また叱られることになるのよ」美玲はハイヒールを脱ぎ捨て、駆け寄ってきた使用人へ上着を投げ渡した。「私が何をしたって、おじいちゃんは気に入らないんだから。どうしてわざわざ良い子のふりなんかしなきゃいけないの」彼女にはとっくに分かっていた。須藤家に存在するのは、役に立つ人間と役に立たない人間だけ。だが、それはあくまで男たちの間での話であり、自分たち女には何の関係もない。嫁は夫を支え、子を育てる。娘は時が来れば、政略結婚の駒になる準備をする。誰一人として、その運命から逃れることはできないのだ。遊べるうちに遊んでおかなければ、売られてから豪遊しろとでも言うのか。そんな度胸があったとしても、手元のクレジットカードがそれを許してくれるはずもない。琴子は言った。「ここ数日は私のそばにいなさい。おじいちゃんのお祝いの準備を手伝うのよ」美玲は不満そうに唇を尖らせた。だが、拒否の言葉を口にするより先に、琴子は彼女の弱点を突いた。「嫌だと言うなら、今月のお小遣いはなしにしますからね」その一言で、美玲はあっという間に大人しくなった。誰に逆らおうが構わない。だが、お金にだけは逆らえない。美玲は招待客のリストへ視線を落とし、そこに菜穂子の祖父の名前を見つけると、眉をひそめた。「菜穂子さん
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第668話

数秒もしないうちに、通話の向こうから千尋の声が聞こえてきた。「美玲ちゃん?」美玲は目を輝かせると、単刀直入に切り出した。「土曜日のおじいちゃんの傘寿のお祝いは、夜六時からよ。当日は直接会場に来て」千尋は一瞬言葉を失い、それから恐る恐る尋ねた。「私が行ってもいいの……?」美玲はその問いには答えず、逆に問い返した。「いいも悪いもないでしょ。お兄ちゃんに会いたくないの?それに当日は菜穂子も来るのよ」それを聞いた千尋は、すぐに声色を改めた。「美玲ちゃん、誘ってくれてありがとう」用件を伝え終えると、美玲は長話をするつもりもなく、そのまま素っ気なく電話を切った。プツリという通話終了の音を聞きながら、千尋はしばらくしてようやくスマホを下ろした。窓辺に立ち、暗闇に包まれた外の景色を見つめる。だが、その表情は夜の闇に溶け込み、窺い知ることはできなかった。空には月が煌々と輝いている。月だけは昔と何も変わらず、同じ場所に浮かんでいるというのに、それを見上げる人間はもう、あの頃のままではなかった。千尋だって、美玲の態度が変わったことに気づいていないわけではない。かつては自分の後ろをついて回り、親しげに「千尋さん」と呼んでくれた幼い少女。その少女は今や大人になり、昔のような憧れや敬意はすっかり消え、残されたのは冷めた視線と軽蔑だけだった。それでも、千尋は諦めることができなかった。---そしてあっという間に、傘寿の祝い当日の朝を迎えた。須藤家の一族は早朝から会場入りし、客を迎える者、案内を担当する者と、それぞれの役割に分かれて忙しく動き回っていた。バンケットホールには、華やかな会話と酒杯を交わす音が絶え間なく響いている。菜穂子は祖父である重夫と共に会場へ足を踏み入れた。二人を迎えるため、幸雄自らが出迎えに向かった。重夫は親しげな笑みを浮かべ、挨拶を交わす。「相変わらず若々しいな。数年前より、ずっと元気そうじゃないか」幸雄もまた、満面の笑みで応じた。「お前のその口の上手さも、昔から少しも変わらんな」重夫と冗談を交わしながらも、幸雄は隣にいる菜穂子への気遣いを忘れなかった。「菜穂子さん、会社での働き心地はどうじゃ?何か困ったことはないか?面白くないことでもあれば、遠慮なく俺に
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第669話

「お兄ちゃん」美玲の声が、千尋の意識を現実へと引き戻した。こちらへ歩み寄ってくる司野の姿を目にした瞬間、彼女の瞳がぱっと輝く。「つかやん」司野は淡々とした視線を向け、感情のこもらない声で尋ねた。「なぜここにいる」本来なら、彼女のもとに招待状など届くはずがなかったのだ。千尋が口を開くより先に、隣にいた美玲が言葉を挟んだ。「千尋さんを招待したのは私よ」司野の黒曜石のような瞳には、はっきりと不満の色が浮かんでいた。しかし、美玲は気にする様子もなく続ける。「千尋さんは、私の友人として来てくれたの」まるで、お兄ちゃんには関係ないことでしょう、と言わんばかりの態度だった。「司野」その時、少し離れた場所から幸雄の声が響いた。声のした方へ目を向けると、祖父がこちらへ手招きしているのが見えた。幸雄の向かいに立つ人物へ視線を移した瞬間、司野は気づかれないほどわずかに眉間をひそめた。だが、結局何も言わず、静かに足を踏み出していった。重夫は、隠しきれない称賛の眼差しで彼を見つめる。「立派な男になったな。数年会わないうちに、ますます精悍になったじゃないか」司野は軽く頭を下げ、礼儀正しく挨拶を返した。重夫は羨ましそうに笑う。「幸雄さん、本当によくできた孫を育てたものじゃ。うちの頼りない連中が司野ほどの器量を持ってくれていたら、わしもとっくに隠居できておるよ」幸雄は愉快そうに笑った。「孫が頼りないんじゃなく、お前さんが権限を手放したくないだけじゃろう。わしらはもう年寄りじゃ。これからの時代は、あいつら若い者の天下じゃよ」重夫は隣にいる菜穂子へ顔を向け、言い聞かせるように告げる。「司野は優秀な男じゃ。これからもそばでしっかり学ばせてもらえ。必ずお前自身の糧になる」「おじいちゃん、分かってるわ」菜穂子は司野へ視線を向け、愛嬌のある笑みを浮かべながら、少しおどけた口調で言った。「司野さん、これからご迷惑をかけることもあると思うけど、大目に見てね。できるだけ早く成長するから、そう長くは手を煩わせないわ」一日でも早く、司野の隣に立てるだけの力を身につける――そんな決意が込められた言葉だった。ここにいる誰一人として愚か者はいない。その言葉の裏に隠された意味など、全員が理解していた。
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第670話

少し離れた場所から、絶えず司野の様子を目で追っていた千尋は、素羽の姿を目にした瞬間、顔からすっと血の気が引いた。驚きに目を見開き、立っていることすらままならないほど、身体が大きくよろめく。素羽……あいつが、まだ生きていたなんて!どうして生きているの?どうして、こんなことになってしまったの?あいつが戻ってきたら、私は一体どうすればいいの?千尋は無意識のうちに司野へ視線を向けた。横顔を見ただけでも分かる。彼の表情には、抑えきれない高揚と、溢れんばかりの喜び、そして激しい興奮が滲み出ていた。司野がこれほど鮮やかに感情を露わにする姿など、もう長い間見たことがなかった。そんな彼の姿を見ること自体は嬉しい。だが、その胸を震わせている理由が、自分ではないという現実が、千尋の心を容赦なく打ち砕いた。その瞬間、彼女は深い無力感と、どうしようもない絶望に沈んだ。心の奥にぽっかりと大きな穴が開いたようだった。ずっと追い求めてきたものが、また一歩、自分の手の届かない場所へ遠ざかっていく。驚愕に凍りつく千尋とは対照的に、美玲は「やっぱり私の見間違いじゃなかった」と言わんばかりの表情を浮かべていた。ほら、やっぱりそうだった。以前見かけたあの女は、間違いなく素羽だったのだ。だが次の瞬間、美玲の表情は一気に曇った。そして、陰鬱な視線を素羽へ向ける。死んだふりをしていたのなら、どこか人目につかない場所でひっそり生きていればいいものを。よくもまた、堂々と姿を現す気になったものだ。会場には、素羽の顔を知る者が少なくなかった。何しろ彼女は以前、司野のパートナーとして数多くの社交の場に姿を見せていたのだ。同じ世界に身を置く者なら、彼女を覚えていて当然だった。もっとも、死んだはずの素羽が再び現れたことに対して、彼らが抱いたのは純粋な驚きよりも、むしろ野次馬としての興味だった。素羽の死後、司野がまるで人が変わったように、狂気じみた行動を取っているという噂は、彼らの耳にも届いていたからだ。司野の喉仏がゆっくりと上下する。その瞳の奥では、激しい感情が渦巻いていた。果てしない想いを込めた、低く熱を帯びた声で、彼は一歩前へ踏み出す。「素羽……」奏はわざとらしく首を傾げ、尋ねた。「司野さん、
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