All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 671 - Chapter 680

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第671話

面目を潰されたからといって、さすがにこれほど大勢の人間の前で怒りを露わにするわけにはいかない。進之介の顔を立てないわけにもいかず、彼は無理やり笑みを浮かべた。「まあ、ご縁ですな」幸雄の視線が素羽へと落ちる。そして、意味ありげな口調で言った。「お前も運のええやつじゃな」素羽は底知れない笑みを浮かべる。「ええ、あなたのおかげよ」二人の間に、見えない火花が散った。進之介が取りなし、さらに幸雄が場を収めたことで、素羽の突然の登場はただのハプニングとして処理された。人々の心にはまだざわめきが残っていたものの、わざわざ本人の前に出て騒ぎ立てるような者はいなかった。何しろ、今日の主役は幸雄なのだ。彼の顔に泥を塗るような真似は、誰もできない。ずっと話題の中心から外れていた夕里は、まるで死人にでも遭遇したかのような驚愕の表情を浮かべていた。「どういうこと?あの女、死んだんじゃなかったの?なんで生きてるのよ」翔太は胸の内の驚きを隠し、口角を上げた。その瞳には、濃密な興味が浮かんでいる。「閻魔様が可哀想に思って、見逃してくれたんじゃないか」そう言いながら、彼の視線は三人の間を面白そうに行き来する。退屈で味気なかった彼の日常に、また新しい見世物が増えそうだった。翔太が面白がるその視線は、まるでドブの中を這う薄汚れたネズミのようだった。レーダーでも搭載しているかのように、その目は素羽へとねっとり絡みつき、彼女のすべてを見透かそうとしている。奏の美しい瞳に、ほんのりと殺気が走った。「あいつの目玉、くり抜いてやりたいよ」素羽は人差し指を彼の眉間に当て、寄ったシワを優しく撫でて伸ばした。「あなたが眉をひそめるの、好きじゃないわ」奏は身を乗り出し、背中を丸める。まるで大型犬のように素羽の手へすり寄ると、唇を尖らせた。「じゃあ、キスしてよ」素羽は彼の眉間に当てていた指を顎へ滑らせ、その顎を軽くつまんで上を向かせた。奏は素直に目を閉じる。だが、素羽はふっと首を傾け、彼の肩へ顎を乗せただけだった。「帰るわよ」欲しかった柔らかく甘い感触は得られなかった。それでも、『帰る』という一言だけで、彼の心は十分に満たされていた。奏は素羽の腰に腕を回し、その体をぎゅっと抱きしめる。
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第672話

「お兄ちゃん、ちょうどよかった!この二人、私をいじめてるの。お兄ちゃん、やっつけてよ!」美玲はすぐさま大声で騒ぎ立てた。しかし、彼女が頼みの綱として縋った相手は、決して彼女の味方にはならなかった。今の美玲など、司野の目にはまったく映っていない。彼の意識はすべて素羽だけに向けられており、一度たりとも瞬きをしなかった。まるで、ほんの一瞬でも目を離せば、素羽がまた自分の前から消えてしまうとでも思っているかのようだった。司野は素羽をじっと見つめ、無理やり口元に笑みを浮かべた。それは長い間会えなかった旧友に向ける表情のようでもあり、心の奥底に大切にしまい込んできた宝物を前にしたようでもあった。込み上げてくる激しい感情を必死に抑え込み、司野は喉を鳴らすと、かろうじて平静を保った声で告げる。「帰ってきたんだな。この数年、元気にしてたか」素羽は生きていた。それなのに、なぜ自分のところへ会いに来てくれなかったのか。自分がどれほど彼女を想い続けていたのか、素羽は知っているのだろうか。素羽は口元に薄い笑みを浮かべ、穏やかな表情のまま、久しぶりに会った友人へ向けるような何気ない口調で答えた。「ええ。あなたがいない日々は、私の人生で一番幸せな時間だったわ」奏は思わず背筋を伸ばした。やはり、自分がそばにいるからこそ、彼女は幸せなのだ。その言葉を聞いた瞬間、司野の胸に鋭い痛みが走った。唇を震わせながら、この数年の間に一度でも自分のことを想ってくれたことがあったのかと問いただしたかった。そう思った瞬間には、司野の口からその言葉がこぼれていた。「俺のことを、想ってくれたことはあるか」司野の漆黒の瞳には、わずかな期待と希望が宿っていた。しかし、素羽が答えるより先に、隣にいた奏が口を挟んだ。「ゴミの行き先はゴミ捨て場って決まってるんだよ。薄汚いクズのくせに、高嶺の花に手を伸ばそうなんて図々しいにもほどがあるだろ。お前の母親、妊娠中に何か問題でもあったんじゃないの?脳みそまで発育不良みたいだけど。『恥』って言葉を知らないのか?」司野は奏の嘲笑も皮肉も、まるで耳に入っていないかのようだった。彼の視線は、五年間ずっと想い続けてきた素羽だけに向けられていた。だが、その期待が無残に打ち砕かれることを、彼はまだ知らな
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第673話

そう言いながら、奏は司野の肩越しに視線を向け、ちょうど追いかけてきた千尋と目が合った。千尋は奏の冷たい視線に射抜かれた瞬間、足を止め、怯えたように後ずさった。まるで、突然日の当たる場所へ引きずり出された陰湿なピエロのように、もう二度と覗き見る勇気すら失ったかのようだった。奏は冷笑を浮かべ、鋭い声で言い放つ。「お前の女が後ろにいるじゃないか。自分の女がいるくせに、他人のものまで欲しがるなよ。その汚い目玉、さっさと引っ込めな」その時になってようやく、司野は奏の存在に気づいたようだった。彼の瞳からは、激しい憎悪と嫌悪が一気に噴き出す。司野にとって、奏はただの泥棒だった。身の程知らずで、大胆不敵な泥棒。自分の大切な宝物を奪った男だった。司野の視線は凍るほど冷たく、今にも奏を殺してしまいそうな殺意に満ちていた。しかし、奏は口角を上げるだけで、少しも怯まなかった。それどころか、挑発するような視線を真正面から返した。その時、素羽の柔らかな手が、奏の乾いた大きな手をそっと握る。そして、優しい声で告げた。「帰りましょ。誠矢が家で待ってるわ」彼女に手を引かれた瞬間、奏はまるで「優しさ」というスイッチを押されたかのように、先ほどまで漂わせていた殺気をすっかり消し去った。そして一瞬にして、穏やかな青年の表情へと戻る。「うん、帰ろう」二人が繋いだ手を見た瞬間、司野の胸に鋭い痛みが走った。頭の中を占めるのは、ただ一つの思いだけだった。この二人を引き離したい。素羽は俺のものだ。俺だけのものだ。他の誰にも、指一本触れさせない。素羽が立ち去ろうとする姿を見て、司野は焦り、無意識のうちに引き止めようと手を伸ばした。「素羽、行くな……」「ぐっ……」司野が近づこうとした瞬間、奏の強烈な蹴りが炸裂した。凄まじい力に、司野の体はそのまま数歩後方へと吹き飛ばされる。奏の瞳には、凶暴な殺気が満ちていた。さらに追撃しようと前へ出かけたその体を、素羽の両手が優しく制する。素羽の声は羽のように軽やかで、一瞬にして奏の荒ぶる感情を静めた。「どうでもいい人のために、自分の手を汚さないで」奏の瞳の奥に、わずかな笑みが浮かぶ。胸の奥で燃え上がっていた怒りを、彼はゆっくりと抑え込んだ。「分かったよ。
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第674話

高級住宅街、地下駐車場。素羽がシートベルトを外そうとした瞬間、ふいに視界が暗くなった。次の瞬間には、温かく、どこか懐かしい腕の中に抱きしめられていた。駐車場は明るい照明に照らされ、車内にまで光が差し込んでいる。素羽は少し動きを止め、不思議そうに尋ねた。「どうしたの?」奏は彼女の肩に顎を乗せ、暗がりに瞳の奥の複雑な感情を隠しながら答えた。「なんでもない。ただ、君を抱きしめたくなっただけさ」素羽は口元を少し緩めて笑った。「あなた、誠矢になったつもり?」「それ、俺のこと馬鹿にしてる?」素羽は笑いながら返した。「どうしてそう受け取るのよ」「俺が三歳の子どもみたいだって言いたいんじゃないか」素羽は誠矢の代わりに訂正した。「誠矢は四歳半よ」奏は唇を尖らせる。「どっちにしても、まだ何も分かってないただのガキじゃないか」素羽は微笑んだ。「今のあなたも、あの子と大して変わらないわよ」奏は拗ねたように、ぶつぶつと不満を漏らした。「直接バカにしてるわけじゃないけどさ、その遠回しな言い方って、結局バカにされてるのと変わらないじゃないか」素羽は彼の背中を軽く叩いた。「はいはい、もう離して。夜は誠矢と一緒にご飯を食べるって約束したでしょ」奏は名残惜しそうに彼女から離れたが、それでも文句を言うことは忘れなかった。「ちびっ子って、本当に面倒くさいんだから」あの子にまとわりつかれてどうしようもなかったから、仕方なく譲ったのだ。もしそれがなければ、今頃は間違いなく素羽を連れて、キャンドルディナーを楽しんでいたはずだった。「あいつ、全寮制の学校に入れようかな」「……」素羽は呆れたような目で彼を見つめた。その視線は、「あなた、本気で言ってるの?」と雄弁に語っていた。幼稚園に通う年齢の子どもを、いきなり全寮制の学校に入れるなんて。素羽は彼に釘を刺す。「誠矢は四歳半よ。まだ幼稚園に通っているの」しかし奏は、さも当然のことのように真剣な顔で言い放った。「俺が誠矢くらいの頃には、もう小学校の勉強を始めてたよ。食いしん坊なのは百歩譲って許すとしても、知能まで豚みたいになったら困るからね。今のうちからしっかり英才教育を受けさせる必要があると思うんだ」あのお邪魔虫さえいなければ
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第675話

窓の外は凍えるほどの寒さで、吐き出す息はすべて白く染まっていた。しかし、肌を刺すような冷気ですら、彼の胸の奥から込み上げる底冷えするような寒気には到底及ばなかった。車をどれほど走らせただろうか。司野はふと路肩に車を停め、タバコに火をつけた。赤い火種が、彼の指先でジリジリと明滅している。司野は岩治へ電話をかけた。ようやく早めに仕事を切り上げることができた岩治は、今まさに悠々自適にビールを飲みながら、残業のない至福の時間を噛み締めていた。人間というものは、あまりにも快適な環境に慣れすぎると危険だ。羽を伸ばしすぎれば、ろくなことにならない。そんな彼の安らぎの時間を、耳障りなスマートフォンの着信音が無情にも打ち砕いた。画面に表示された発信者名を見た瞬間、岩治は思った。きっと前世で、よほど司野に大きな借りでも作ったに違いない。そうでなければ、今生でこんなにも馬車馬のように働かされるはずがない。いっそのこと耳を塞ぎ、聞こえなかったことにしたかった。だが、毎月振り込まれる高額な給料と、年末のボーナスの存在を思い出し、岩治は「まだ自分は頑張れる」と無理やり気持ちを奮い立たせた。「社長、ご用件は何でしょうか」司野は単刀直入に命じた。「奏の妻の、この五年間のすべてを徹底的に洗い直せ。それから、あの二人が夫婦としてどんな関係だったのかも調べろ」岩治は絶句した。「……社長、あの二人の夫婦関係には興味がないと仰っていませんでしたか」まさか、自分が以前口にした言葉すら、すっかり忘れてしまったのだろうか。司野はその問いには答えず、ただ事実だけを告げた。「素羽は生きていた。あいつは今、奏の妻になっている」その言葉が落ちた瞬間、電話の向こうに深い沈黙が流れた。岩治はしばらく言葉を失った。恐る恐る自分の腕をつねってみる。「痛っ」思わず小さく息を呑む。ちゃんと痛い。外はすでに暗くなっているが、決して夢を見ているわけではない。社長が寝言を言っているのか。それとも、自分が幻聴を聞いているのか。岩治は恐る恐る口を開いた。「社長、念のため今夜、谷口先生に一度診てもらったほうがよろしいのでは……」これは十中八九、また病気が再発したに違いない。そうでなければ、こんな常軌を逸したことを言うはずがない
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第676話

司野がこれまで見落としていた点が、今になってすべて一本の線で繋がった。どうりで、亘が奏と知り合いで、一緒に食事までしていたのだ。そして自分に会った時、あれほど後ろめたそうな顔をしていた理由も、ようやく分かった。すべての元凶は、ここにあったのだ。怒りの炎が司野を焼き尽くし、彼の拳はさらに激しさを増していく。もはや亘を完全にサンドバッグ扱いしていた。司野の言葉を聞いた瞬間、亘の動きが止まった。その瞳の奥に、一瞬だけ罪悪感がよぎる。どうしてバレたんだ?だが、頬に走るヒリヒリとした痛みと、口の中に広がる鉄臭い味が、そのわずかな後ろめたさをすぐにかき消した。そもそも、一連の出来事は決して自分のせいではない。どうして自分が、こんな目に遭わなければならないんだ?それに、殴るにしても顔を避けるのが暗黙の了解というものだろう。こいつはわざと顔ばかり狙ってきやがる!ついに亘も堪忍袋の緒が切れ、反撃に出た。大通りの真ん中で、二人による激しい殴り合いが始まった。その喧嘩はあまりにも凄まじく、通行人は誰一人として止めに入ろうとはしなかった。死人が出るのではないかと恐れ、さらに自分の店に悪評がつくことを嫌がったクレープ屋の店主が、こっそり警察へ通報していた。こうして、司野と亘は揃って警察署へ連行されることになった。警察は当初、二人を拘留して説教をし、罰金を科すつもりだった。しかし、二人の身元を知った瞬間、用意していた説教の言葉はすべて喉の奥へ引っ込んでしまった。「……」本当に暇を持て余した金持ちというものは、ろくなことをしない。夜になっても家に帰らず、こんな場所で殴り合って一体何になるというのか。これでは、ただ警察の仕事を増やしているだけではないか。身元引受人として署へやって来た岩治も、まったく同じことを考えていた。ボールペンの先で紙を突き破りそうな勢いで、引受書にサインをする。うちの社長は、本当にろくでもないことばかりしてくれる!警察署を出ると、司野と亘は入口の左右に分かれて立ち、それぞれそっぽを向いたまま、一言も口を利かなかった。岩治は二人の背後に立ち、司野から見えないのをいいことに、思いきり白目を剥いた。いい歳をして、何をやっているんだか。岩治は大きく深呼吸をし、顔に絶妙な
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第677話

亘は恨めしそうな目で、まるで捨てられた犬のように哀れっぽく彼女を睨みつけた。「お前って本当に、血も涙もないな」楓華は呆れたように返した。「……どうして私が血も涙もないってことになるのよ?あんたのその言い分、おかしくない?クレープを買ってきてって頼んだだけで、人でなし扱いされるわけ?嫌なら最初からそう言えばよかったじゃない。こっちでデリバリーを頼んだのに」そう言いながら、彼女の視線は彼の手元へと向かった。両手は空っぽだ。楓華は眉をひそめた。「私のクレープは?まさか、買いに行ってくれなかったなんて言わないわよね」買いたくないなら、最初からそう言えばいい。無理強いするつもりはない。だが、約束をすっぽかすのは話が違う。亘は拗ねた夫のように、恨めしげな口調で彼女を責めた。「クレープ、クレープって……お前の頭の中はクレープのことしかないのかよ。俺のことなんて、これっぽっちも気にしてないじゃないか。俺はお前のせいでこんなにボロボロにされたっていうのに、心配の一つもせずにクレープのことばかり気にするなんて、ひどすぎるだろ」楓華は困惑した。「……私のせいで?あんたが殴られたことと、私に何の関係があるのよ」亘は言い返した。「関係大ありだ。司野の奴、俺が素羽の生きていることを隠していたって知った途端、顔を見るなりいきなり殴りかかってきやがったんだ。お前のために買ってきたクレープを守るために、俺はあいつに何発も殴られたんだぞ。せっかく買ったクレープだって、あいつに叩き落とされたんだ」それを聞いた瞬間、楓華の表情が険しくなった。「あいつ、頭おかしいんじゃないの?なんであんたが殴られなきゃならないのよ?あいつにあんたを殴る資格なんてあるわけないじゃない。文句言ってやるわ」そう言うと、楓華は今にも飛び出して司野と取っ組み合いをし、亘の仇を討たんばかりの勢いを見せた。亘は口角をわずかに上げ、満足げな表情で楓華を引き止めた。「いい、いいって。もう思いっきり殴り返してやったし、散々言い負かしてやったからな。あんな孤独なイカれ野郎の相手なんかしてやる必要はない。あいつは俺たちが仲良くやってるのが羨ましくて、嫉妬してるだけさ」悪くない。どうやら楓華も、完全に血も涙もない人間というわけではないらしい。少な
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第678話

そう思うと、森山は顔に笑みを浮かべ、静かに頷いて承諾した。司野はキャットタワーの上でうつ伏せになっているだんごを見つめながら、ゆっくりと歩み寄り、その頭を撫でた。口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。「お前のママが、もうすぐ帰ってくるぞ。嬉しいか?」そう言いながら、彼の視線は窓越しに庭のブランコへと向けられた。そこに素羽が座り、楽しそうにブランコを漕いでいる光景が、まるで映画のワンシーンのように、一コマずつ鮮明に脳裏へ蘇ってくる。穏やかな姿。おどけた表情。優しい微笑み。どの記憶も色褪せることなく、素羽は今もそこにいるかのようだった。司野は我を忘れたように見入っていた。その瞳には、温かく柔らかな光が宿っていた。---素羽と奏は一緒に誠矢を幼稚園まで送り届けた。幼稚園に到着したというのに、誠矢は車から降りようとせず、形の整った眉をしかめた。「ママ、僕、幼稚園に行きたくない。あんなガキどもと一緒にいたくないよ。うるさいんだもん」素羽が何か言うより先に、運転席に座る奏が口を挟み、鼻で笑った。「自分だってただのちびっ子のくせに、よく他人の文句が言えるよな。さっさと降りなよ。そんなにグズグズしてると、日が暮れちゃうよ」誠矢はまん丸な目で奏を睨みつけ、鼻を鳴らして怒った。「パパの意地悪。大っ嫌い」奏はふっと笑った。「結構だね。俺も君のこと嫌いだからさ」「ママぁ」誠矢は唇を尖らせた。その尖り具合といったら、何かを引っ掛けられそうなほどだった。素羽は呆れたように額を押さえた。「あなたたち、四六時中口喧嘩してて疲れないの?」二人がこれ以上、闘鶏のように張り合う隙を与えず、素羽は誠矢を車から抱き下ろした。「ほら、子どもが幼稚園に行かないでどうするの。早く入りなさい。夕方になったら迎えに来るからね」もう逃げられないと悟った誠矢は、大人しく引き下がった。それでも自分の利益を確保することは忘れず、甘えた声でおねだりする。「じゃあ、お迎えに来る時、絶対にチョコレートケーキ買ってきてね」素羽は彼の襟元を整え、すべすべした頬を軽くつまんだ。「分かったわよ、食いしん坊さん」誠矢はすぐに口角を上げると、車内にいる奏を勝ち誇ったように睨みつけ、小さな顎をツンと上げながら幼稚園へ入っていった
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第679話

個室病室。雅史はベッドに横たわり、筋肉の萎縮を防ぐため、看護師による全身マッサージを受けていた。記憶の中にある、あれほど活力に満ちた小柄な老人の面影は、今ではすっかり消え失せ、見る影もないほど痩せ細っていた。「曾根先生……」素羽の声は小さく、まるで相手を驚かせることを恐れているかのようだった。その声を聞いた雅史は、ゆっくりと、力なく首を巡らせた。視線が重なった瞬間、濁った水のように生気を失っていた瞳がピタリと止まり、やがて瞬きすら忘れたように彼女を見つめ続けた。素羽は微笑みを浮かべた。「先生、ただいま戻りましたよ」その言葉が落ちても、病室には静寂が広がったままだった。壁掛け時計の針が刻む、カチカチという音さえはっきり聞こえるほどの静けさだった。数十秒が過ぎた頃、雅史はようやく反応を見せた。瞳の奥に光が揺らめき、まるで静まり返った水面に突然波が広がるように、激しい感情がゆっくりと込み上げてくる。彼は目を大きく見開き、それと同時に感情も激しく揺さぶられていった。「ううっ……君、君は……」雅史はすっかり薄くなった唇を震わせ、顔の筋肉を引きつらせた。だが、まともな言葉を一つ口にすることすらできなかった。素羽は歩み寄り、雅史が必死に持ち上げようとしていた腕を、両手でそっと握りしめた。「先生、ごめんなさい。帰ってくるのが遅くなってしまって」雅史の喉からは、ゼーゼーと苦しそうな息遣いが漏れた。いつもは枯れ井戸のように乾いていた瞳には、今、ありとあらゆる感情が溢れ返っていた。驚き、喜び、そして責めるような思い。どんな言葉を並べても、今の彼の心情を正確に表すことなどできなかった。二人が久しぶりの再会を果たしていると、病室の入り口から慌ただしい足音が響いた。勢いよくドアが開かれる音に気づき、素羽は反射的に顔を向けた。視界に飛び込んできたのは、息を切らした清人の姿だった。彼は入り口に立ったまま、ドアノブを強く握りしめている。「素羽……?」清人は喉仏を上下させ、まだ現実を受け入れられないような表情を浮かべていた。看護師から電話があり、「素羽」という名前の人物が療養施設を訪れたと聞いた時、彼は最初、聞き間違いだと思った。だが、雅史がその訪問者の姿を見て、興奮のあまり涙を流し
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第680話

素羽が自ら世間の前から姿を消した理由は、それしか考えられなかった。清人は尋ねた。「誰なんだ」ここまで気づかれてしまった以上、隠し通す意味もない。素羽は静かに口を開いた。「幸雄だよ」その名前を聞いた瞬間、清人の表情が引き締まった。意外ではあった。だが、同時に納得できる話でもあった。須藤家の人間がそんなことを企てたとしても、決して不思議ではない。幸雄がなぜ自分にそんなことをしたのか、素羽には驚きもなかった。その理由も、十分に想像できていた。一つは、司野がこれ以上自分に付きまとい、須藤家をかき乱すことを防ぐため。もう一つは、素羽を身代わりとして差し出し、その命で別の命を償わせるため。だからこそ、素羽を死なせることが最も効果的で、被害を最小限に抑えられる方法だった。……いや、須藤家にとっては何一つ失うもののない、都合のいい方法だったのだ。素羽さえ消えれば、須藤家にとってすべては元通りになる。そんな偽りの平穏を守るための選択肢を、彼らが利用しないはずがなかった。素羽はこれ以上過去に囚われたくなくて、自ら話題を変えた。「先生は、いつ脳卒中で倒れたの?」雅史は毎年欠かさず健康診断を受けていた。身体機能も実年齢よりずっと若く、医師からも「年齢を感じさせないほど元気だ」と太鼓判を押されていたほどだった。そんな人が、たった五年の間にここまで変わってしまうなんて。素羽はどうしても胸が締めつけられるような思いになった。その問いに、清人は一瞬言葉を詰まらせ、わずかに視線を伏せた。そして、核心を避けるように答えた。「歳を取れば、そういうこともあるよ」素羽はすぐには返事をしなかった。ただ黙って、じっと彼を見つめる。数秒後、彼女は静かに口を開いた。「私は五年間姿を消していただけで、五年分の頭まで置いてきたわけじゃないよ」清人が自分の誤魔化しに気づいたように、自分も彼の隠し事に気づかないはずがない。素羽は続けた。「教えて。一体、何があったの?」互いに勘が鋭い。簡単に誤魔化せる相手ではなかった。清人は観念したように息を吐き、口を開いた。「君が交通事故に遭ったと知って、先生は大きなショックを受けて倒れたんだ。それが原因で、今の状態になった。でも、心配しなくていい。医
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