All Chapters of 去りゆく後 狂おしき涙 : Chapter 381 - Chapter 390

陽向の顔色がさっと暗くなった。拒否されるとは思っていなかったようだ。彰はその様子を見て、慌てて言った。「君のお母さんが仰る通りだと思うよ。お父さんは今、状態が良くない。これからもっとひどくなるかもしれない。君がそばにいてあげるべきだ」その言葉を聞き、陽向は唇を結んだ。心中、少し不快だった。こんなことで彰の意見は聞きたくなかった。ママの家に住むかどうか、隆之おじさんたちと一緒に暮らすかどうかは家族の問題で、彰には全く関係のないことだ。そう思うと、陽向は少し不満そうに唇を尖らせた。「そっか……わかったよ、ママ。僕がそっちに住むのが嫌なら、おじさんのところに遊びに行ってもいい？ママが忙しくない時に」素直で物分かりの良い様子を見て、紗季は一瞬ためらったが、やはり無情に拒否することはできなかった。彼女はそっとため息をついた。「ええ。今は休んでなさい」彼女は食事を手に取り、彰と外で食べながら話そうとした時、病室の外に、不意に嫌な人が現れた。隼人がドアを開けて入ってきた。紗季が彰と一緒にいるのを見て、顔色を沈めた。だが、彼は構わず、まっすぐ陽向のベッドの前まで歩いて行った。「陽向。後でお前の大叔母が見舞いに来るぞ」その言葉に、陽向は固まった。紗季ははっと振り返った。聞き間違えたかと思った。彼女は思わず尋ねた。「大叔母って？黒川玲子のこと？」紗季がその名前を口にするのを聞き、隼人は眉を吊り上げ、少し驚いたようだった。「どうして知ってるんだ？俺を口説き落とすために、そんなことまで調べ上げるとは。大したもんだ」紗季は拳を握りしめた。かつて玲子に執拗にいじめられた記憶が、目の前に蘇ってきた。彼女の唇が震える。隼人の笑うでもなく笑うような表情を見つめ、必死に冷静さを保とうとした。やがて、彼女は一歩、また一歩と隼人の前に歩み寄った。「どうして、あの人が急に現れたの？」自分は覚えていた、以前の隼人が言っていたことを。自分が去った後、隼人は過ちに気づき、玲子と美琴をまとめて海外のどこかへ放り出し、戸籍を抹消し、路頭に迷わせ、ブラックバイトや物乞いで食いつなぐしかない状態にした、と。それが今、玲子が突然戻ってきたとはどういうことか？まさか、隼人の記憶が錯乱しているのを知って、この機に乗じて苦しい

紗季が視線を向けたその時、玲子も同様に彼女に気づいた。視線が交わり、二人ともはっと動きを止めた。玲子の眼差しが揺れ、足早に彼女へと歩み寄ってきた。かつて手を変え品を変え自分をいじめ、不快にさせた女が近づいてくるのを見て、紗季の瞳に氷のような冷たい光がよぎった。彼女は無意識のうちに全身をこわばらせ、相手の次の一手に備えた。しかし、玲子は彼女の前に来ても、何の攻撃的な素振りも見せず、ただ口元を歪めて笑った。「隼人が私をここへ戻したのを見て、驚いたでしょう？こうなると、あなたに感謝しないといけないわね。あいつがあなたを探しに行って、頭を怪我しさえしなければ、どうして昔のことなんか忘れて、私を身内として丁重に扱うようになることはないでしょう」数ヶ月ぶりに見る玲子は以前の気品ある華やかな様子とは比べ物にならず、やつれて弱々しく、見る影もなかった。しかし、そうであっても、その瞳は爛々と輝き、顔には得意げな笑みが浮かんでいた。明らかに、彼女はもうすぐ良い生活が送れるのだ。祝い事があれば、自然と気力も充実するというものだ。紗季は唇を固く結び、冷ややかに玲子を睨みつけた。この女の顔など見たくなかったし、これほど悪事を重ねた人間が、何の罰も受けずに済むことなど望んでいなかった。しかし、この件は自分が決められることではなかった。そう思うと、紗季は目を細め、その眼差しには冷たさが宿った。「三浦美琴は？」玲子は一瞬固まり、それから高笑いした。「あなた、やっぱり美琴が良くするのが許せないのね！でも、残念だったわ。美琴も今や呼び戻されて、もうすぐよ。あの子がちゃんと体調を整えたら、また綺麗になって隼人の前に現れるわ」紗季は間髪入れずに言った。「今の隼人の記憶には三浦美琴と籍を入れた事実はない」「でも、あいつは知ってるわよ。美琴が、自分のおばあさんの命の恩人だってね」玲子はそう言い返し、腕を組んで、余裕綽々で彼女を見つめた。その言葉を聞き、紗季は息を呑み、その瞳に氷のような光が宿った。しばらくして、彼女はきっぱりと言った。「三浦美琴が私にしたことは枚挙に遑がない。彼女がまた表舞台に出て、やり直す機会なんて、私が絶対に与えない」紗季は言い終えると、振り返りもせずに玲子とすれ違った。彰も玲子を一瞥し

彰は一瞬固まった。紗季がここまで見つけに来るとは思っていなかった。彼は押さえつけられた美琴を一瞥し、肩をすくめた。「あなたが彼女を懲らしめたいのは分かっていました。ただ、正体を暴いて画家の身分を失わせるだけでは生温いです。私は彼女の顔を傷つけてやろうと思ったのです。まだ黒川隼人に取り入って、黒川夫人になる機会を徹底的に失わせます」自分のために憤る彼の言葉を聞き、紗季は確かに心を打たれた。だが、物事には焦ってはいけないこともある。隼人の心の中では美琴は祖母の命の恩人であり、自分はただの平凡な追いかける者に過ぎない。両者が揉めれば、隼人は必ず自分と、兄の会社に手を下すだろう。今、彰がこんなことをすれば、隼人も彼と、どちらかが死ぬまでやり合うに違いない。「これは私自身の問題です、桐山さん。こいつを始末する方法は私にだってあります。今は彼女を放してください。隼人がこの機に乗じて、あなたを徹底的に攻撃するのを見たくありません」「しかし……」彰が言い終わらないうちに、美琴が紗季を必死に睨みつけ、狂気に満ちた表情を浮かべた。「あなただったのね。やっぱり！白石紗季、本当に死んでなかったんだ！」その言葉に、紗季は彼女を冷ややかに一瞥し、気のない様子で言った。「あなたさえ死んでないんだから、私が死ねるわけないじゃない」美琴は彼女の皮肉を意に介さず、かえってふんと鼻を鳴らした。「あなたが死んでなくて、ちょうどよかったわ。隼人が私を呼び戻して、昔みたいに大事にするのをその目で見るといい。もう一度、あの死ぬほど辛い味を思い知るがいいわ！どうせあなたは一生、隼人の心を手に入れられなかったんだから」その言葉を聞いても、紗季の心は微塵も揺れなかった。彼女は静かに美琴を見つめ、気のない笑みを浮かべた。「昔は隼人を好きだったから苦しかった。でも、今の私、彼に何の感情もないの。あなたと彼がどうなろうと、もう私を傷つけることはできないわ」美琴は彼女が強がっているだけだと思い、眉を吊り上げて尋ねた。「そう？傷つかないって言うなら、私をここに縛り付けてるのはどういうつもり？私の顔を傷つけようとしたのは？結局、まだ隼人に未練があって、私が現れたら、あなたたちに影響が出るのが怖いんでしょ？」その挑発的な様子に、紗季はもう言い返すのも億

隼人の車が彰の車にあと数センチというところまで迫っていた。紗季は車から降り、ドアを叩きつけるように閉めると、隼人の前まで歩み寄り、冷ややかに問い詰めた。「いったい何がしたいの？本当に何がしたいの！」隼人は彼女を見下ろし、きっぱりと命じた。「俺と来い。今すぐにだ」「ありえない！いったいどうしろと？三浦美琴は無傷で、何もなかった。私たちは彼女にひどいことをするつもりはなかったの。それでも、あなたは満足できないの？」紗季の瞳には苛立ちと拒絶が満ちていた。その言葉に、隼人は唇を固く結び、その顔色は次第に陰鬱になった。「お前は俺の命の恩人に手を出した。たとえ彼女が無事だったとしても、俺が説明を求める権利がある？」「説明ですって？何が望みなの？」紗季は腕を組み、我慢の限界といった様子で問い詰めた。隼人は一歩前に出て、彼女に迫った。「俺と来い。今すぐ」紗季は彼のこの氷のように無情な様子をまっすぐに見つめ、途端に滑稽だと感じた。彼女はわずかに口元を吊り上げ、皮肉を込めて言った。「私を連れ去って、あなたの可愛い命の恩人様に、土下座でもしろと？是非もわきまえず、あの女の言うことを信じて、私を責め立てるの？これから先、あの女が少しでも傷を負ったら、全部私のせいにするつもり？」隼人は一瞬固まった。紗季の顔色はさらに深く翳り、その瞳には冷たい光が揺らめいていた。「教えてちょうだい。あなた、今、本気でそう思ってるの？」隼人は深く息を吸い込み、必死に冷静さを保った。「紗季！俺はお前に無理やり謝らせようだなんて言っていない。お前が勝手に、そんな大げさな芝居を頭の中で作り上げているだけじゃないか！」「作り上げてる……」紗季は低く呟き、不意に笑いたくなった。「かつて私にしたことをあなたはそうやって忘れてしまった。全部、私の心の傷なのに、それを私が作り上げた妄想だと言うのね。ここ数年の記憶を失うことなんて、あなたにとっては大したことないんでしょう。でも、私がどれほど屈辱的だったか、誰が想像できるっていうの」言い終えると、彼女は隼人を深く見つめた。「もう、どうでもいいわ。あなたがどう思おうと、私とは関係ない」隼人は一瞬戸惑った。どういうわけか、彼は紗季の今の言葉に、何か得体の知れない感情が隠され

美琴は隼人がこの後、自分のために何とかしてくれるだろうと期待していた。だが、彼女の予想は完全に外れた。隼人は自分が思ったように、自分のために不満を晴らそうとはせず、むしろ不満げな表情を浮かべた。「この件はこれで終わりだ。もう騒ぎ立てるな」美琴は一瞬固まり、呆然と彼を見つめた。隼人はそれ以上何も言わず、彼女を一瞥した。「お前はここで少し休め。後で、陽向に会いに行け。あいつも、お前に会えば喜ぶだろう。何しろ、お前たちが顔を合わせるのは初めてだからな」その言葉を聞き、美琴は先ほどの怒りも忘れてしまった。陽向が今や完全に過ちを認め、紗季にべったりで、玲子にさえ会おうとしないことを思い出し、途端に警戒心を抱いた。本当に陽向に会いに行って、あの子に嫌悪され、拒絶されたら、隼人に昔の異変を勘付かれてしまうかもしれない。そこまで考えると、美琴は苦々しく口元を吊り上げた。「私、明日にでも自分で陽向に会いに行くわ。今はあまり良いタイミングじゃないと思うの。何しろ、今、すごく気分が優れないし、心の調子も、あまり良くないの」彼女がそう言うのを聞き、隼人は無理強いはせず、ただわずかに頷き、好きにするよう合図した。美琴は冷静になると、隼人と少し別の話をして話題を逸らし、紗季の件をそれ以上追及しなかった。隼人が立ち去った後、彼女はすぐに玲子に電話をかけた。三十分後、玲子が病院にやって来た。二人は顔を合わせ、どちらの目にも憂慮と喜びの色が浮かんでいた。玲子は慌てて駆け寄り、美琴の手を掴んだ。興奮を抑えきれない様子だった。「本当によかったわ。やっと会えた。あなたがどれだけ苦労したか……もし神様が味方して、隼人の記憶を錯乱させ、昔のことを忘れさせてくれなかったら、私たち、二度と這い上がれなかったわ！」美琴は頷き、彼女もまた興奮していた。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」ということだ。玲子が言ったように、神様は自分たちのことを見捨てなかった。自分と隼人の間の縁はまだ完全には断ち切られていなかったのだ。彼らはまだ、一緒になれる可能性が十分にある。今の隼人の記憶錯乱はその何よりの証拠だ。美琴は冷静さを取り戻し、息を吐き出した。「今一番大事なのは隼人が記憶錯乱のうちに、昔のことを思い出せないうちに、彼と紗季が二度と一緒になれないよ