All Chapters of 去りゆく後 狂おしき涙: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

黒川家。翌日の夜八時。薔薇が咲き誇る裏庭にはすでに多くの人々が集まり、賑わいを見せていた。晩餐会が正式に始まる前、客たちはいくつもの輪を作り思い思いに談笑している。話題の中心は、もちろん今日の主役だった。隼人と紗季である。「隼人さんと紗季さん、ご結婚されてもう七年になるのに、今でもあんなに仲睦まじいなんて。記念日までこんなに盛大にお祝いされるなんて、本当に羨ましいわ」「ええ、本当よ。うちの夫なんて、記念日なんて祝ってくれたこと一度もないわよ。せいぜい形ばかりのプレゼントひとつだけ。やっぱり隼人さんは、ハンサムでお金持ちで、それに奥さま思いなのね」「私がずっと羨ましいと思っていたのは、むしろ紗季さんよ。だって見る目があるもの。だからこそ、あの時あんなに一生懸命に追いかけて、ついに隼人さんを射止めたんでしょう?結婚してからは幸せそのものじゃない」彼女たちは口々にそんなふうに語り合っていたが、紗季の車がすでに塀際に停まっていることには気づいていなかった。鮮やかな真紅のドレスに身を包んだ紗季は、車を降りると同時に耳に飛び込んできた噂話に、思わず唇を歪めて自嘲めいた笑みを浮かべた。――羨ましい?私が?夫との結婚が偽りで、初恋の人とはすでに入籍済みだったなんて事実を、死の間際になって初めて知る女を?実の息子にすら好かれず、夢の中でさえ「別の女性を母に」と願われる母親を?「紗季奥さま、そろそろお入りいただけますか」運転手の声に我に返った。紗季は赤い唇をきゅっと結び、ゆっくりと門をくぐった。今日のために特別に施された精緻な化粧。真紅のドレスは裾を引き、腰まで届くゆるやかな巻き髪。まるでポスターに映る女優のように凛と美しく、病に侵されている気配など微塵も感じさせなかった。紗季が姿を現した瞬間、会場は驚きと歓声に包まれ、人々は一斉に彼女へと歩み寄っていった。居間では。隼人が陽向を連れて、親戚たちと挨拶を交わしていた。時折腕時計に視線を落とし、どこか落ち着かない様子を見せる。――本当に紗季は、約束どおり来てくれるのか。この数日、隼人は何も手につかずに美琴の誕生日に誘われても「残業だ」と嘘をつき、陽向に代理を頼んでしまうほどだった。「パパ!ママが来たよ!」陽向が隼人の手を強く引いた。隼人はハッと
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第82話

隼人が手にして現れたのは、美琴ではなく――一巻の巻物だった。紗季には、ますます事態の意味が分からなかった。紗季が想像していた場面はいつまで経っても訪れなかった。隼人は巻物を胸に抱き、ゆっくりと歩を進めると紗季から三メートルほどの距離で立ち止まった。そして静かに巻物を広げた。そこに現れたのは――星の瞬きを思わせるダイヤを散りばめ、流れるようなフリンジをあしらった、極上のウェディングドレスのデザイン図だった。人々の間から、一斉に驚きの声が上がる。紗季は呆然とその図面を見つめ、ふと過去の会話を思い出した。――あのとき、自分は隼人に打ち明けていた。慌ただしく執り行われた結婚式を悔やみ、ウェディングドレスを着られなかったことを残念に思っている、と。それにいつかは自分だけのドレスが欲しい、と。できればフリンジのついた伝統的なスタイルで、星明かりのようにきらめき、裾には小さなダイヤを散りばめたようなものがいい――と。あのときはただの世間話のつもりで気まぐれに口にしただけだった。たとえ本心だったとしても、叶うはずのない夢のような言葉にすぎなかった。まさか隼人の手にあるこの図面が、その言葉どおりのものになっていようとは――隼人はさらに紗季へと歩み寄り、まるでこの世に二人しかいないかのように語りかけた。「お前、言ってたよな。結婚式でウェディングドレスを着られなかったのが残念だって。それに――もしできるなら、フリンジのついたドレスを着て、俺と一緒にバージンロードを歩きたいって。家にチャペルを建てることはできないし、このドレスもまだ仕上がっていない。だから今日はせめて、設計図だけでも先に見せたくて。伝えたいんだ、紗季。俺にとってお前は、この世界で唯一無二の伴侶だと。これからの人生も……いや、来世までも一緒に歩んでいきたいんだ」最後の言葉を告げながら、隼人は紗季の目の前に立った。その瞳には、溢れるほどの愛情が宿っていた。紗季は完全に立ち尽くし、息を呑んだ。想定していたことは、何ひとつ起こらなかった。隼人の揺るぎない真摯な眼差しを前にして、紗季は一瞬、現実感を失った。――なぜ今日、この記念日なのだろう?――美琴が戻ってきたというのに、なぜ隼人は皆の前であえて愛情を示し、入念にウェディングドレスまで用意して?
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第83話

美琴は陽向を抱きしめ、微笑みながらその頭を優しく撫でた。「いい子ね。ママはここにいるわ」その光景に周囲の人々は驚愕の眼差しを向けた。二人の女性――どちらもよく似た赤いドレスをまとい、それぞれ隼人の隣に立つ姿は、誰が本当の黒川家の奥様なのか判別できないほどだった。場の空気はたちまち奇妙で気まずいものとなり、誰もどう振る舞えばいいのか分からなくなった。紗季の両脇に垂れた手が、ゆっくりと拳を握りしめる。先ほどまで胸を占めていた「設計図を手に取ってよく見たい」という衝動は、完全に消え失せていた。――これなら宴を無事に終えられると思っていたのに。――隼人も陽向も、あそこまで無神経にはならないと信じていたのに。結局のところ、自分は人を信じすぎたのだ。結婚記念日だのデザイン図だの――すべては虚構にすぎない。陽向の存在さえも、紗季には吐き気を催させるほどだった。紗季は目を閉じ再び開いたとき、その瞳には冷たい憎悪が宿っていた。「美琴、どうして来たんだ?俺、来るなと言ったはずだ」隼人はすぐに陽向を引き離し、心配そうに紗季の方を振り返った。小声で慌てて弁解した。「俺だって知らなかったんだ……服装がこんなに似てるなんて。紗季……」隼人の言葉が終わるより早く、紗季が口を開いた。「美琴さん、あなた……もう陽向の『ママ』になったの?」「ち、違うわ。私は陽向くんの『名付け親』よ」美琴は少し照れくさそうに笑った。「陽向くんが私を名付け親に選んだの。あなた、まだ知らなかったのでしょう?でも大したことじゃないわ。今日はあなたが主役。私はただ、あなたと隼人を祝うために来ただけ」そう言いながら、美琴は真紅のドレスの裾を軽くつまみ、背筋をすっと伸ばす。その立ち居振る舞いは堂々としており、まるでこの場の女主人であるかのようだった。「こんな偶然もあるのね。私たちが同じような服を着るなんて……やっぱりどちらも『陽向のママ』だからかしら」美琴はウインクし、満面の笑みを見せた。表面上は奪うつもりなど微塵も見せていない。だが紗季の目には、その奥に潜む得意げな挑発がはっきりと映っていた。――陽向が別の女を名付け親に選んでいたことを、自分に隠していた。隼人もまた、それを黙っていた。これはつまり、自分がすでに「捨てられる人間」と
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第84話

紗季はふと気づいた。自分が電話でドレスを注文したあの店――そこは玲子もよく出入りしていた。だからこそ美琴が紗季とほとんど同じドレスを着て現れたのだ。――これは仕組まれた罠だ。紗季を誘い込み、恥をかかせ、周囲の噂の種にするための。では隼人はその中でどんな役割を担っていたのか。「な、なによ……どうしてそんな目で私を見るの?質問してるでしょ、宴会はもう終わったの?」玲子は羽織っていた上着を胸に抱きしめ、苛立ちをそのまま紗季にぶつけてきた。紗季は冷ややかに笑った。「いいえ、まだ終わっていないわ。あなたが繰り返し望んで呼び戻した美琴が、いま下で来客をもてなしている。今日から彼女は陽向の母であり、黒川家の女主人であり、隼人の妻よ。それで満足?」「なっ……」玲子は愕然として口を開いたが、言葉は続かず、背後に立つ隼人へ視線を向けた。隼人は部屋の扉口に立ち、何を考えているのか読み取れない顔で、拳を固く握りしめていた。紗季は一瞥だけして、すぐに目を逸らした。「出て行って」玲子は目を泳がせ、うつむいたまま足早に部屋を出ていった。通りすがりざま、隼人の肩を叩き、吐き捨てる。「見なさい、この女の有様を!年長者を敬う気持ちもなく、品位のかけらもない!」それだけ言い捨て玲子は冷たい鼻息を残して立ち去った。扉が閉まった。紗季は隼人に背を向けたまま、こめかみを押さえた。「これが、あなたの用意してくれた『サプライズ』なのね?」隼人は即座に否定した。「違う!俺は美琴が来るなんて知らなかった。本当に止めたんだ。陽向と仲がいいから、もし来たら……お前が傷つくかもと思ったから……」「でも結局、美琴は来たじゃない」紗季は冷ややかな目で振り返り、言葉を失った隼人を見据えた。その一瞬、渡されたウェディングドレスの設計図が、真心からの贈り物だったのではないかと錯覚しそうになった。「あなたは陽向に美琴を『名付け親』と認めさせた。あなたの一番大事な車を美琴に運転させた。昨日は彼女に、数千万円もする宝石を贈った」紗季は小さく笑い、昨夜受け取った写真を思い出した。それは美琴が送ってきたもの。テーブルにはまばゆいばかりの宝飾品が並び、送り主には隼人の名前が記されていた。今夜の出来事も含め、ひとつひとつを思い返
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第85話

「紗季、どうしたんだ?本当に怒ってないのか?」隼人は紗季を凝視し、彼女の表情のひとつひとつを見逃すまいとしていた。大声で責め立て、泣き叫ぶだろうと予想していた。だが紗季は一切の感情を見せず、まるで糸で操られる人形のようだった。その笑みも、決して心からのものではなかった。紗季は隼人をそっと押し離し、静かに告げた。「私が怒るわけないでしょう。さあ、下に行って来客のお世話をして。私は本当に少し疲れたの、休みたいわ」「でも……」隼人はなおも弁解しようとしたが、今は不適切だと悟り、言葉を飲み込んだ。小さく頷き、言葉を続けた。「じゃあ俺を待っていてくれ。宴が終わったら必ず戻る。今夜、どうしてもお前に話したいことがある。だから――絶対に待っていてくれ」紗季は微笑んだ。――やはり隼人は、今夜すべてを打ち明けるつもりなのだ。紗季は彼が部屋を出ていくのを見届けた。扉が閉まるのを確認した。すると、その笑みはすぐに消え去った。彼女は華やかなドレスを脱ぎ捨て、最も目立たない黒い服に着替える。手に小さなスコップを持ち、音も立てずに階下へ。客たちは皆ホールに集まっており、その地味な姿に気づく者は誰ひとりいなかった。紗季は裏庭へ出ると、咲き乱れる薔薇を踏み越え、銀杏の木の下へと向かった。しゃがみ込み、スコップで土を掘り返した。ほどなくして、ひとつのタイムカプセルが姿を現した。紗季はそれを抱き上げ、力いっぱい蓋を回した。中に入っていたのは――数日前に自ら収めた「親子絶縁証」だった。それを取り出し、別れの手紙とともに手にすると、隼人の書斎へ向かった。机の引き出しに静かに置き、何事もなかったように部屋を後にした。ホールは依然として賑わっていた。皿を手に笑い合う声、杯を交わす人々。隼人は上の空でグラスを合わせ、美琴は陽向や玲子と談笑していた。屋敷は明かりに包まれ、皆が「紗季と隼人の七周年記念」を祝っていた。だがその宴の主役は、いつの間にか美琴へとすり替わっていた。紗季の脳裏には、見てしまった結婚記録が浮かんだ。――隼人は自分と結婚する半年前に、美琴とすでに入籍していた。そう考えれば、今夜は隼人と美琴にとっても「七周年」なのだ。その事実を思い出し、紗季はゆっくりと目を閉じた。「――
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第86話

紗季はこの大きな裏切りをひとりで抱え込み、ずっと耐えてきた。それはあまりにも長い時間だった。だからこそ、兄の声を耳にした瞬間、本能的に甘えたくなり、抑えてきた弱さが一気にあふれ出してしまった。「紗季……泣いてるのか?向こうで辛い思いをしてるんだな?」隆之の声は低く沈み、胸の痛みがそのまま伝わってきた。「すぐに剛士にチケットを取らせて、俺が直接迎えに行く」「大丈夫よおに、お兄ちゃん。ただ、あなたに会いたくなっただけ」紗季は目尻の涙を拭い、震える声で言った。押し込めてきた感情が、堰を切ったように胸に溢れ出していた。紗季は必死に涙を堪えた。「お兄ちゃん、これからの私には、あなただけが唯一の支えよ。体を大事にして。すぐに会えるから」これ以上話せば完全に崩れてしまう――そう悟り、紗季は慌てて電話を切り、隼人の番号を着信拒否に設定した。……同じころ……黒川家。宴が終わるにはまだ早かったが、隼人はさりげなく合図し、客をすべて帰らせた。広い別荘は、一転してひどく静まり返った。陽向が口を尖らせ、父の後ろに駆け寄った。「パパ、どうしてこんなに早くみんな帰しちゃうの?俺、まだ藤本一誠(ふじもと いっせい)くんと遊び足りなかったのに!」隼人はゆっくりと振り返った。その目は、これまで見せたことのないほど冷たかった。少し離れた場所で、美琴と玲子が互いに目配せを交わした。玲子が慌てて咳払いし、口を開いた。「隼人、あなた……」――パシンッ!隼人は突然、陽向の頬を叩いた。力を抑えたつもりだったが、陽向は耐えきれず、そのままよろけて床に崩れ落ちた。頬は瞬く間に赤く腫れ上がる。陽向は顔を押さえ、呆然としたまま、泣くことも動くこともできなかった。美琴も凍りつき次の瞬間には駆け寄り、陽向を抱き上げた。「隼人!何をしてるの?どうしてこんなに強く叩くの?まだ子どもなのよ!」「子ども?」隼人は唇を固く結び、鋭い目で美琴を見下ろした。「子どもなら、間違いを犯しても叱られないのか?勝手に大人の許しもなく、別の女を『名付け親』にしていいのか?」その一言に、美琴の瞳がみるみる赤く染まった。彼女は苦笑して涙を溢れさせた。「分かったわ……あなたは私に怒っているのね。私があなたや紗季さんに断りもなく、陽向の『
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第87話

隼人は険しい顔のまま階段を上っていった。一階では玲子がふてくされたように唇を尖らせ、気だるげに言った。「そもそも紗季なんて、本当の黒川家の奥様じゃないじゃない。法律的に見れば、あなたと陽向は同じ戸籍に載ってるんだから、陽向が紗季の許しもなくあなたを『ママ』って呼んだって、何の問題もないのよ!」美琴の瞳に一瞬得意げな光が宿る。だが顔には、わざとらしい困惑を浮かべた。「でも……まあいいわ。陽向くんは紗季さんが十月十日かけて身ごもり、生んだ子よ。怒ったり悲しんだりするのも無理はないでしょう」「紗季に怒る資格なんてある?産んだからって何よ!子どもが誰をどう呼ぶかは自由なの。実の母親だって口出しなんてできないわ!」その言葉が終わった瞬間隼人が険しい表情で部屋を出てきた。その目には、今まで見せたことのない動揺が走っていた。「紗季がいない」「え?」玲子は目を丸くし、意味が分からず聞き返した。隼人は拳を握りしめ、震える声で繰り返した。「紗季が部屋にいない。いつ出て行ったのか分からない」胸を締めつけるような恐怖が一気に押し寄せた。隼人はすぐに洗面所、裏庭……思いつく場所を探し回った。だが、どこにも紗季の姿はなかった。そのとき――裏庭の銀杏の木の下が掘り返されているのに気づいた。隼人は歩み寄り、掘り返されたばかりの新しい土を見て、眉をひそめた。「陽向……ここはお前とママが『タイムカプセル』を埋めた場所じゃないのか?」陽向が近づき、一目見るなり驚愕の声を上げた。「タイムカプセル!ママが持って行っちゃったんだ!」隼人は唇を固く結び、スマホを取り出すと同時に外へ向かった。美琴が呆然とし、問いかけた。「どこへ行くの?」「俺が紗季を見つけるまで、誰ひとりここを出るな!全員、必ず紗季に謝罪しろ!」隼人の声音は反論を許さず、言い捨てると無表情のまま去っていった。その背中が遠ざかるのを見送りながら、美琴と玲子は視線を交わした。玲子がぼやいた。「本当にここで待ってろって?こんな真夜中に、人が見つかるわけないじゃない……」「玲子おばあさん、美琴さん、一緒にプレゼント開けようよ!ママのことなんて放っておけばいいんだ。きっとわざと家出して、パパに迎えに来させたいんだよ」陽向は無邪気に笑いながら、大き
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第88話

航平は二秒ほど黙り、スマホを受け取って言った。「彼女を探す必要はありません。彼女はもう二度とお前に会わないと言ったんです。俺に迷惑がかかるのを恐れて、行き先すら教えてくれなかったんです。だからお前がどんなに俺を追い詰めても、俺は知らないんです」その言葉に隼人の顔色はさらに暗く沈み、胸の奥に不安が広がっていいた。「どうしてだ?紗季は俺に会わない理由を、何も言わなかったのか?」航平は隼人を仰ぎ見て、あからさまな嘲りを浮かべた。「本当に知らないんですか?それとも知らないふりをしているんですか?お前はこの間ずっと、彼女が不倫しているんじゃないかと疑い、子どもに挑発させ、別の女にばかり目を向けて、彼女を無視し続けました。そんな中で彼女が姿を消したのに、平然と『どうしてだ』なんて言えるんですか?どこまで自分勝手で冷血ですか」隼人は大きく息を吸い込んだが、胸が詰まり、呼吸すら苦しい。その顔には自信も覇気も消え失せていた。「違う……お前の言う通りじゃない。もし彼女の目に俺がそう映っていたのなら、それは誤解だ。俺はちゃんと説明できる。だからせめて、どうすれば彼女と連絡が取れるのか、それだけでも教えてくれ」隼人は車で病院に向かう途中、何度も紗季に電話をかけていた。だが案の定、二つの番号はどちらも着信拒否に設定されていた。今となっては何を言うにしても直接会わなければ始まらない。ただ――もし本当に紗季が心の底から怒り、今後一切自分を拒絶するのだとしたら。そう考えただけで、言葉にできないほどの恐怖と苦痛が胸を襲った。航平は眉間を押さえ、もう隼人に言葉をかける気にもなれなかった。「本当に知らないんです。帰ってください。これ以上邪魔するなら、警備員を呼びます」そう言い捨て、航平は席に戻って資料を手に取り読み始めた。隼人は拳を握りしめたがどうすることもできず、背を向けて病室を出た。病院の廊下を歩きながら、隼人の目は複雑に揺れていた。最近起きた出来事の数々が、脳裏で渦を巻いた。嫉妬心から紗季と航平の関係を誤解したこと。陽向と美琴の親しさを見ても、強く制止しなかったこと。思い返せばそれくらいのこと。それなのに、なぜ紗季は自分の前から完全に姿を消したのか。隼人は病院を出ると車に腰を下ろし、スマホを手に取って考え込む。紗季
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第89話

【紗季……どこにいるんだ?どうか、一度だけでいい、俺に会ってくれないか】【子どものしつけを怠り、この間はお前の体調も気持ちも無視してしまった。本当に申し訳なかった。信じてくれ、美琴や陽向が今夜あんな行動に出るなんて、俺にはまったく予想できなかったんだ】【話し合おう。お前がどれほど俺を突き放しても、俺は何度でもお前のもとへ駆け寄る。愛しているんだ】そう綴られたメッセージを目にしても、紗季の瞳は冬の雪のように冷たく、揺らぐことはなかった。自分が崩れ落ちていたとき――隼人は美琴と笑い合っていた。そして今、自分が追い詰められこの家を去った後になって、隼人は、こんな言葉を並べれば心を動かされ、すぐに戻るとでも思っているのか。紗季は鼻で小さく笑い、一瞬でそのメッセージを削除した。「航平先生、隼人に強引なことをされないよう気をつけてください。それから、私のところに来る回数も減らした方がいいですわ」航平の目には複雑な色が宿り、心から紗季を気の毒に思う気持ちが滲んでいた。けれど航平は知っていた。紗季は強い意思を持つ人間だ。痛みに耐えてでも、決して人に弱さを見せようとはしない。もしかすると――この世で本当に彼女を心から気遣っているのは、今そばにいない兄ただ一人なのかもしれない。航平は苦い表情を浮かべ、低く言った。「もし誰かがそばに必要なら、俺はいつでもいます」紗季は黙ってうなずいた。人が出ていくと、紗季はベッドに身を横たえ、テレビから流れるドラマの音に耳を傾けた。偶然にも画面では――癌を宣告された女性が、泣きながら夫に別れを告げる場面が映し出されていた。夫と子どもは声を上げて泣き、必死にすがりつき、どうしても彼女を手放そうとしない。その声を聞きながら、紗季の心は荒涼としていく。――演じられた夫婦の情、母子の絆。たとえ作り物でも、それはあまりに真に迫り、涙も言葉も胸を打った。けれど。もし自分の病が知られたとき――隼人も陽向も、果たして泣いてくれるだろうか。いいえ、陽向はきっと、一滴の涙すら流さない。そう思うと、紗季の胸には皮肉な笑いがこみ上げた。身体の怠さも募り、いつしか意識は沈んでいった。静まり返った病室。どれほど時間が過ぎたのか――突然、鋭い着信音が響いた。紗季は目を開け、しばらく天井を見つめ
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第90話

隼人が夜になっても家に戻らず、車を走らせてはさまよい、そして事故を起こした――それは自分を探していたからなのだろうか。紗季の胸中は大きく揺れ、どうすればいいのか分からなかった。理性は告げていた。隼人がどうなろうと、自分には関係ない。二人の間には婚姻届すら存在せず、そもそも法的には夫婦ですらないのだから、と。だが心はその理性に逆らい続けていた。もし隼人の事故が自分と関わっているのだとしたら……そう考えるだけで、不安が胸を締めつけた。そのとき、病室のドアがノックされた。航平がためらいなく入ってきた。「隼人が……」言いかけて、ベッドに腰を下ろしている紗季の顔色に気づいた。「もう知ってるんですか?」「ええ、知ってますよ」紗季は布団を強く握りしめた。瞳には茫然とした光が宿っていた。「私……やっぱり彼に会いに行きます」航平は深く息を吐いた。「報道によれば、もう助からないかもしれません。今は黒川家の私立病院で治療を受けているそうです。このまま行かなければ、最後の対面すら叶わないかもしれません。ただ……今のお前の身体で耐えられるんですか?」その時すでに、紗季の全身は小刻みに震えていた。七年間愛し続けた男を、ようやく心から追い出したばかり。なのに――隼人が事故に遭ったという知らせは、再び彼女の心を深く抉った。愛していようと、憎んでいようと――二人の間には陽向という子がいる。もし会わずに後悔するのなら、それだけは避けたい。紗季は震える手で上着を掴み、ベッドを下り、靴を履いて病室を出た。航平は朦朧とした様子の彼女を心配し、後に続いた。二人は病院を出て、航平の運転する車で黒川家の私立病院へと向かった。道中、紗季は無表情のまま窓の外を見つめていた。その胸中がどのようなものか、誰にも窺い知ることはできなかった。航平も理解できず、ただ何度も横顔を盗み見ながら、迷いを抱えつつ目的地へと車を走らせた。私立病院の正面玄関前。すでに多くの記者たちが押し寄せ、競うように報道していた。危うく車を降りた紗季が見つかりそうになり、慌ててドアを閉める。彼女は航平に合図し、裏口から入るよう指示した。裏口は地下駐車場を抜けた先にあり、黒川家の者しか知らない通路だった。航平は巧みに記者を避け、紗季を病
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