جميع فصول : الفصل -الفصل 30

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21.解き放たれる想い

自販機の白い光だけが、夜の端に浮かんでいた。  周囲には民家の明かりもほとんどない。田んぼの向こうから湿った風が吹き、泥の匂いと、草の青臭さを運んでくる。さっきまで排水路に腕を突っ込んでいたせいで、指先にはまだ冷たい感触が残っていた。  俺たちは、その自販機の前で待っていた。  秋崎叶が、現れるはずの場所で。  指輪を見つけてから、およそ二十分。  けれど、彼女は来なかった。 「……おかしいな」  俺はスマホの画面で時刻を確認する。  二十時四十分。  辺りはすっかり暗い。廃線跡へ続く道も、田んぼの水面も、夜に沈んで輪郭を失っている。自販機の明かりだけが不自然に白く、その周囲だけが現実から切り取られたように浮かんでいた。 「来ない」  ぽつりと呟くと、隣で智哉が両腕をさすった。 「お、俺としては複雑な心境だぜ……! こんなにも来てほしいのと来てほしくない心境が合体するなんてよ……」 「そ、そうだね……」  穂乃果も困ったように笑った。頬にはまだ泥の跡が残っている。けれど、その目は自販機の光の外側をじっと見ていた。 「私も、その気持ちは分かるよ? でも……あの日記とか、叶さんのお母さんの想いを見ちゃったからかな。少しだけ……ううん、結構、来てほしい方に傾いてるかも」  言いながら、穂乃果は自分でも戸惑うように眉を下げた。  怖いのだろう。  智哉も、穂乃果も。  それは正常な反応だと思う。  俺には、その感覚がやっぱりうまく掴めなかった。  来てほしい。  来なければ困る。  叶にこの指輪を返さなければ、ここまで来た意味がない。  俺の中にあるのは、ただそれだけだった。  俺は手の中にあるハンカチへ視線を落とす。そこには、泥を軽く落とした指輪が包んであった。完全に綺麗になったわけじゃない。それでも、銀色の輪は確かに光を返している。  叶が失くしたもの。  二十年も、彼女をこの場所に縛りつけていたもの。 「……おかしいな」  もう一度、同じ言葉が口から出た。  すると智哉が、ちらりと俺を見る。 「とりあえずさ、見つけたんだし、今日じゃなくてもいいんじゃね?」 「だ、だめだよ!」  穂乃果がすぐに首を振った。 「それこそ、指輪を盗んだと思われたら大変なことになるかも……」 「たしかに……?」  智哉は
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22.黒い影

 嫌な考えが、脳裏を掠めた。  黒い影。  手記の中にも、それらしい記述は何度かあった。  百貌様に魅入られた者が見るもの。  顔を貼りつけた、得体の知れない何か。  叶が消えた直後に現れたあの影が、偶然そこに立っていただけとは思えなかった。  気づいた時には、俺は走り出していた。 「えっ!? ちょっと、輝流!?」 「お、おいおいおい! 輝流ぅ!?」  背後から穂乃果と智哉の声が飛んできた。  けれど、返事をしている暇はなかった。  自販機の光を背中に置き去りにして、田んぼ道を駆ける。泥を含んだ地面が靴底を掴み、足を取ろうとしてくる。それでも構わず前へ出た。  あの影を、見失うわけにはいかない。  それが何なのか分からないまま放っておくには、あまりにもタイミングが悪すぎる。  叶が成仏した。  未練がほどけた。  その直後に、あれは現れた。  なら、関係がないはずがない。  ある程度まで近づいた瞬間、黒い人影が揺らいだ。  輪郭が崩れる。  夜の闇に、水が染み込むみたいに、その姿がすっと薄れていく。 「おい!」  俺はさらに足を速めた。 「待てよ!」  叫び声が田んぼの上に響いた。  けれど、影は止まらない。  追いつく前に、闇の奥へ溶けていった。  そこに残ったのは、湿った風と、草の擦れる音だけだった。 「……くそ」  俺は足を止めた。  息は少し上がっている。けれど、胸の中を占めていたのは疲労ではなかった。  あれは、百貌様なのか。  それとも、別の霊か。  分からない。  分からないが、少なくともいいものではない。  叶が消えたあとに現れて、こちらを見ていた。  それだけで十分だった。 「あ、輝流っ! 待ってよ!」  穂乃果が遅れて駆け寄ってくる。  その後ろから、智哉も息を切らしながら走ってきた。 「お前……急に走り出すなよな! めちゃくちゃこえーんだからよ!」 「悪い」  短く返す。  けれど、二人はあの影について、そこまで深く考えていなさそうだった。  無理もない。  叶が成仏したという出来事だけで、十分すぎるほど現実離れしていたのだ。目の前で霊が消えた直後に、さらに別の異常まで冷静に受け止めろという方が難しい。  けれど、俺の内側は静まり返ってはいなかった。
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23.日常の裏側で

それから数日が経っても、俺の日常は何も変わらなかった。  朝になれば学校へ行く。授業を受ける。昼休みには智哉がくだらない話をして、穂乃果がそれに笑う。放課後になれば、三人で同じ道を歩いて帰る。  何も変わっていない。  そう見える。  けれど、俺の中だけは、まだあの夜の自販機の前に取り残されていた。  あれは、現実だ。  夢なんかじゃない。  秋崎叶は確かにそこにいて、指輪を受け取り、俺の目の前で消えた。  分かっている。分かっているはずなのに、どうにも現実感が伴わなかった。足元だけが、ほんの少し地面から浮いているような感覚が、今も体の奥に残っている。  夕暮れの田んぼ道を、俺たちは並んで歩いていた。  蝉時雨が、本格的な夏の近さを知らせるみたいに、そこらじゅうから降っている。稲の葉は夕陽を受けて赤く光り、遠くには農家の屋根が低く見えた。  道の脇には、林に囲まれた小さな鳥居が立っている。  その奥にある社は、夕闇の中でひっそりと沈んでいた。 「そういえばさ」  智哉が、肩に掛けたリュックを揺らしながら口を開いた。 「なんであの夜に指輪なんて探してたんだよ? 持ち主の霊に渡すことはできたみたいだけどさ。どこでそんな情報を?」 「ああ、それは――」  俺が答えるより先に、穂乃果が少し気まずそうに笑った。 「実はね、あの日、放課後にいろいろあって、その人の実家に行ってたんだぁ」 「はぁっ!?」  智哉が素で叫んだ。 「あはは……まあ、そんな反応になるよね……」 「いやいやいや! この道に夜来るだけでも怖いのに、その人が住んでた家に向かうとか怖すぎだろ……!?」 「実際、すごく怖かったよ」  穂乃果は小さく息を吐いた。 「なんだか勝手に扉は閉まるし、家鳴りは酷いし。輝流なんて、急に『そこにいる』とか言い出すんだから」  そう言って、穂乃果が少しだけ俺を睨む。  別に、俺が悪いわけじゃない。  事実だったんだから、仕方ないだろ。 「俺が知らない間に、そんなことしてたのかよ……」 「まあな」  俺が短く答えると、智哉は呆れたように口を開けた。  だが、俺はそれ以上説明する気になれなかった。  叶のことは終わった。  少なくとも、彼女の未練はほどけた。  けれど、気になっていることはいくつも残っている。  
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24.不思議な二人組

 そこに、秋崎邸はなかった。 「え……?」  穂乃果の声が、ひどく小さく落ちた。 「これは……ど、どういうこと……?」  目の前に広がっていたのは、家ではなかった。  古びた門もない。軋む玄関もない。薄暗い廊下も、書庫も、あの老婆が立っていた場所もない。  そこにあったのは、ただの空き地だった。  土が剥き出しになった地面。端に積まれた資材。錆びの浮いた工事用の柵。白地に黒い文字で書かれた木札には、ここが長らく工事予定地として管理されていることが記されていた。  少なくとも、数日前に家を取り壊したようには見えない。  工事の機材には薄く汚れが積もり、立て札の端は雨風に晒されてくたびれている。文字の横には、一年近く前の日付が書かれていた。 「ねぇ……!」  穂乃果が俺の袖を掴んだ。 「輝流……! これって、どういうこと……!?」 「……分からない」  そう答えるしかなかった。  分からない。  けれど、俺たちは確かに入った。  あの家の中に。  あの玄関を開けて、あのリビングを通って、あの書庫で手記を見つけた。  秋崎幸子さんの霊に会った。  叶の指輪のことを知った。  それが全部、なかったことになっている。 「どうしたんだよ……?」  智哉が、俺と穂乃果を交互に見た。 「二人がそんな取り乱すなんて」 「だ、だって!」  穂乃果の声が震える。 「私たち、入ったよね!? あの家に……入ったんだよね……!?」  俺は答えられなかった。  いや、答えはひとつしかない。  入った。  間違いなく。  けれど、目の前の景色がそれを否定している。  俺たちが見たもの。触れたもの。読んだもの。聞いた声。  その全部が、今この場所には存在していない。 「こ、ここに家があったってことかよ……!?」  智哉もようやく状況を理解し始めたのか、顔を引きつらせた。 「でも、様子からして数日前に撤去したとか、そんな雰囲気じゃねぇぞ……!?」 「ああ」  俺は立て札を見たまま頷く。  そうだ。  おかしいのは、家がなくなっていることだけじゃない。  ここは最初から、長いあいだ空き地だったように見える。 「わ、分かった!」  智哉がいきなり声を上げた。 「二人して俺をハメようとしてんだろ! へへ! そうはいかね
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25.存在しない家

「……それで」 俺は、なるべく声を平らにして尋ねた。 「何が見えたんですか?」 男はすぐには答えなかった。 更地の方へもう一度視線を向け、それから、少し困ったように笑う。 「霊視は終わったけど、今の状況では僕にも全貌までは分からない」 その言い方は、できることを誇るでもなく、分からないことを誤魔化すでもなかった。 分かるものは分かる。 分からないものは分からない。 ただ、それだけを言っているように聞こえた。 「だから、何があったのか、詳しく聞かせてもらえるかな?」 穂乃果は、まだ青い顔をしていた。 無理もない。 数日前に自分の足で踏み込んだ家が、最初から存在しなかったみたいに消えている。しかも目の前には、初対面の霊能者を名乗る男と、その隣に立つ不思議な女の人。 状況だけを並べれば、パニックにならない方がおかしい。 智哉も智哉で、あの家に入ったわけじゃない。俺たちの話を聞いているだけの立場だ。今ここで起きている異常を、同じ温度で理解しろという方が無茶だった。 だから、俺が話すしかなかった。 あの日、穂乃果と秋崎邸へ向かったこと。 玄関の扉が勝手に閉まったこと。 家の中には、明らかに人が住まなくなってから長い時間が経った気配があったこと。 叶の母親、幸子さんの手記を見つけたこと。 百貌様。 その名前を知ったこと。 そして。 血まみれの老婆を見たこと。 白目を剥き、全身を赤黒く濡らして、それでもこちらを見ていたあの姿。 俺がそれを口にした瞬間、隣の気配が変わった。 横目で見ると、穂乃果と智哉がそろって顔を青ざめさせていた。 ああ、と思った。 そういえば俺は、あの日、穂乃果に詳しくは伝えなかった。 霊がいたことは言った。 けれど、どんな姿だったのかまでは言わなかった。 怖がらせる必要はないと思ったからだ。俺自身、あれを見た直後に平気だったわけじゃない。見慣れるようなものでもないし、他人に軽く話せる類いの光景でもない。 けれど今、俺は話してしまった。 穂乃果も智哉も、あの日俺が見たものを知ってしまった。 「……と、いうわけなんです」 最後まで話し終えると、喉の奥が妙に乾いていた。 男は黙って聞いていた。 途中で茶化すことも、驚いて口を挟むこともなかった。ただ一つ一つ、俺の言葉を受け取るように頷いていた
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26.進む日常

 本格的に夏が始まった。  教室の窓は朝から開け放たれているのに、入ってくる風は涼しさよりも湿気を運んでくるばかりだった。カーテンがだらしなく揺れ、黒板の端に貼られた予定表の紙が、ぱたぱたと気の抜けた音を立てている。  あと二週間もすれば夏休み。  そう考えたところで、特に胸が弾むわけでもない。むしろ、長い休みという言葉の方が、妙にぼんやりして聞こえた。  叶のこと。  消えた秋崎邸。  あの霊能者を名乗った男と、美琴という女性。  日常は勝手に進んでいくのに、俺の中では、まだいくつものことが宙ぶらりんになっている。  そんなことを考えていると、机の前に影が落ちた。 「おはよう。浅生君」  顔を上げると、|雪峰《ゆきみね》|葵《あおい》が立っていた。  綺麗に切り揃えられた短い黒髪。夏服のセーラー服が妙に似合う、涼しげな印象の女子だ。目の下にある小さなほくろのせいで、ただ整っているだけではない、不思議と目に残る顔をしている。  雪峰葵。  俺のクラスメイトで、学級委員長。  そして、穂乃果の親友でもある。 「おはよう」  俺は頬杖をついたまま返した。 「どうした?」 「これ、学級委員長として書類を渡しているの」  そう言って、雪峰は抱えていたプリントの束を軽く持ち上げた。  クラス全員分。  見るからに面倒くさそうな量だった。 「なら、俺も手伝う。ひとりだと大変だろ」  別に、特別な理由があったわけじゃない。  目の前で人が荷物を抱えている。手が空いている。なら少しくらい手伝ってもいい。俺の中ではその程度の話だった。  雪峰は一瞬だけ目を丸くして、それから、くすりと笑った。 「やっぱり浅生君は優しいわね」 「そうか?」 「ええ。とってもそう見えないところが、すごく勿体ないけど」  ん?  なんで今、俺は批判された? 「どういう意味だよ」 「なんでもないわ」  雪峰は楽しそうに目を細める。 「じゃあ、こっちの半分、お願いできるかしら?」 「……まあ、いいけど」  差し出されたプリントを受け取ったところで、廊下の方から明るい声が飛んできた。 「私も手伝うよっ!」  振り向くと、穂乃果が教室の入り口からこちらへ駆け寄ってくるところだった。  朝の光を受けた髪がふわりと揺れる。昨日までの不安を無理
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27.口論

 俺は、教室の扉に手をかけたまま動けなくなった。  中にいるのは、穂乃果と雪峰だ。  それだけなら、別に珍しいことじゃない。二人は親友だ。放課後の教室で話し込んでいる姿だって、これまで何度も見たことがある。  けれど、今の声は違った。  穂乃果の困ったような声。  雪峰の、抑えきれない怒りを含んだ声。  俺は反射的に扉を開けるのをやめて、廊下の壁際に身を寄せた。  盗み聞きなんて、褒められたことじゃない。  分かっている。  けれど、あの雪峰が声を荒らげている。  普段は涼しい顔で人をからかい、何でもそつなくこなすあいつが、だ。  ただ事じゃない。 「あ、葵、落ち着いてよ……。私はそんなつもりじゃ……」  穂乃果の声が聞こえた。  いつもの柔らかさは残っているのに、そこには明らかな戸惑いが混じっていた。 「ずっと私は我慢してたの!」  雪峰の声が、教室の中で跳ねる。 「でも、そんなのって……! そんなのって、あんまりじゃない!」  胸の奥が、嫌なふうにざわついた。  言い合い。  それも、ただの軽い口論じゃない。  夕焼けの差し込む教室で、二人の影が机の間に長く伸びている。俺の位置からは、雪峰の横顔が少しだけ見えた。  唇を噛んでいる。  手は、制服のスカートを握りしめていた。  あの雪峰が、こんな顔をするのか。 「彼の気持ちを踏みにじってることに、気がつかないの!?」  彼。  その言葉が、妙に耳に残った。  誰のことだ。  俺は眉をひそめる。  穂乃果は息を呑んだようだった。 「葵……聞いてよ……! 私たちはそんな関係じゃ――」 「聞きたくないっ!!」  雪峰の声が、それを切り裂いた。  その瞬間、俺はもう隠れていられなかった。  このまま聞いていていい話じゃない。  それに、これ以上続けたら、たぶん二人とも引き返せなくなる。  俺は扉を開けた。 「おい」  二人が、同時にこちらを見る。 「何してるんだ」  教室の空気が、一瞬で固まった。  夕方の光が、やけに濃く見える。窓際の机の上に残された誰かの消しゴムが、赤く染まっていた。 「……輝流」  穂乃果が、小さく俺の名前を呼んだ。  その声は、ほっとしたようにも、困ったようにも聞こえた。 「浅生君……」  雪峰も俺を見た
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28.絆の亀裂

 次の日、学校はいつも通りに始まった。  朝の教室には、いつもの騒がしさがあった。誰かが宿題を写し、誰かが購買の新作パンについて話し、窓際では男子が眠そうに机へ突っ伏している。  夏の空気は、朝からもう重かった。  開いた窓から入ってくる風は、涼しさの代わりに蝉の声だけを運んでくる。黒板の上の時計は、ホームルームまであと少しを指していた。  何も変わらない朝。  そのはずだった。  けれど、俺の目には、どうしても一か所だけ引っかかるものがあった。  穂乃果と雪峰。  二人は普通に席についている。  会話をしていないだけなら、別におかしくはない。朝はそれぞれ友人と話していることも多いし、学級委員長の雪峰は何かと忙しい。  けれど、違う。  空気が違った。  正確に言えば、雪峰から穂乃果へ向けられる視線が、やけに強い。  怒っている、というほど単純じゃない。責めているようで、傷ついているようでもある。見ないようにしているのに、どうしても見てしまう。そんな視線だった。  穂乃果も、それに気づいている。  机の上の教科書を開いているが、目はほとんど文字を追っていない。時折、雪峰の方を見ようとして、途中でやめる。そのたびに、指先が落ち着きなく筆箱の端をなぞっていた。  まだ、落ち着いていないのか。  昨日の夕方、教室で聞いた言葉が頭に残っている。  彼の気持ちを踏みにじってることに、気がつかないの。  彼。  あれが誰のことなのか、俺はまだ知らない。  知らないまま、勝手に踏み込むのはやめた方がいい。  そう思っているのに、視界の端で穂乃果が少し俯くたびに、胸の奥が妙にざらついた。  その時だった。 「おっはー!」  背後から、やけに明るい声が飛んできた。  次の瞬間、首に腕が回される。 「ぐっ……おま……!」  反応が遅れた。  智哉の腕が、俺の首を見事に捕まえていた。本人としてはじゃれついているつもりなのだろうが、こっちは朝から首を持っていかれかけている。 「朝から何してんだ、お前……!」 「いやぁ、今日もいい朝だな、輝流!」 「首を絞めながら言うことじゃねぇだろ」  俺が腕を外そうとしている間に、智哉はそのまま穂乃果の方へ顔を向けた。 「穂乃果ちゃんもおはー!」 「あ、お、おはよう。智哉くん」 「ん
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29.取り返しのつかない選択

『葵が、神鳴山に行っちゃったの……っ!!』  その名前を聞いた瞬間、椅子の軋む音がやけに大きく聞こえた。 「はっ?」  思わず、間の抜けた声が出る。 「なんでそうなった?」 『わ、私……! 昨日から葵と喧嘩しちゃってて……!』 「ああ」  そこまでは分かっている。  昨日の夕方、俺は二人が言い合っているところを見た。雪峰が声を荒らげ、穂乃果が必死に宥めようとしていた。  普通の喧嘩じゃないことくらいは、見れば分かった。 「それは……分かってる。でも、どうして神鳴山なんて話になる?」  言いながら、俺は机の上に置いていたシャーペンを無意識に握りしめていた。  神鳴山。  この町で、その名前はただの地名じゃない。  近づくな。  入るな。  見ても、呼ばれても、応えるな。  子供の頃から、そう言われてきた場所だ。  雪峰が本当にそこへ入ったというなら、もう尻込みしている場合ではないのかもしれない。  俺は息を吐き、声を落とした。 「穂乃果。教えてくれるか」 『……うん』  電話の向こうで、穂乃果が震える息を吸った。 『葵、智哉くんのことが好きなの……!』  言葉が、耳の奥で少し遅れて意味を持った。  智哉。  雪峰が。 「……そうなのか」 『うん。でも、葵から見た私たちって、どうも快くないみたいで……』  穂乃果の声が、また揺れる。 『私が、智哉くんの気持ちに気づいていながら、智哉くんの気持ちを蔑ろにしてるんじゃないの……って……』  その瞬間、昨日の声が頭の中で蘇った。  夕焼けの教室。  長く伸びた机の影。  雪峰の、張り詰めた声。  ――彼の気持ちを踏みにじってることに、気がつかないの!?  ああ。  なるほど。  彼、というのは智哉のことだったのか。  ようやく、いくつかの線が繋がった。  智哉は穂乃果に妙に懐いている。本人は隠しているつもりもないのだろうが、見ようによっては好意に見える。  雪峰は智哉が好きで。  その智哉が、穂乃果に向いているように見えて。  しかも穂乃果は、俺に――。  そこまで考えて、俺は一度思考を止めた。  今はそこじゃない。 「恋か……」  口の中で、小さく呟く。  恋。  たった一文字で片づけるには、面倒で、厄介で、重いもの。  人か
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30.責任と涙の午後

 翌日は、最悪な形で始まった。  雪峰葵の姿が、朝から教室にない。  最初は、体調不良だと思った。いや、違う。そう思いたかった。  昨日、あんなふうに教室を飛び出していったのだ。家に帰って、泣いて、怒って、眠れなくて、朝になって熱でも出したのかもしれない。そういう、まだ取り返しのつく理由であってほしかった。  けれど、ホームルームの時間になって入ってきた担任の顔を見た瞬間、その希望は嫌な音を立てて崩れた。  いつもの、馬鹿みたいに明るい声ではなかった。  担任は出席簿を教卓に置き、教室を一度だけ見渡した。  それだけで、ざわついていた空気が少しずつ静まっていく。 「えー……少し、大事な話がある」  その声で、胸の奥が冷えた。 「昨晩から、雪峰葵さんがご自宅に帰っていないそうだ。現在、心配したご両親が捜索願いを出している」  は?  帰って、ない?  言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。  昨日の夜。穂乃果からの電話。神鳴山。山の方へ歩いていった雪峰。  ばらばらだったものが、一気に繋がる。  胃の底が、音もなく沈んだ。  思わず目を見開く。  けれど、隣を見ることはできなかった。  穂乃果の方を、見られなかった。  昨日、俺が言った。  まだ山に入ったと決まったわけじゃない。  今は様子を見よう。  今日はもう寝ろ。  俺もそばにいるから。  穂乃果は、それを信じた。  俺の言葉を信じて、一度、立ち止まった。  その結果がこれだとしたら。  今、穂乃果がどんな顔をしているかなんて、考えなくても分かる。  教室のあちこちから、小さな声が漏れた。 「雪峰さんが?」 「嘘でしょ……」 「あの委員長が?」  みんな、信じられないという顔をしていた。  当然だ。  雪峰は、そういうことをするような生徒じゃない。  学級委員長で、成績もよくて、先生からも頼られていて、いつも涼しい顔で物事を片づける。少なくとも、周りからはそう見えていた。  でも、俺は昨日の雪峰を見ている。  怒っていた。  傷ついていた。  何かに耐えきれなくなっていた。 「まあ、昨日の今日のことだそうだ」  担任は、空気を少しでも軽くしようとしたのか、頭をかきながら続けた。 「ご両親が心配するのも分かるが、葵だって、
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