جميع فصول : الفصل -الفصل 40

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31.神鳴山、夜の入山

 その日の夜、俺はリュックを背負って、自分の部屋を出た。  中には懐中電灯の予備電池、軍手、タオル、飲み物、簡単な食料。腰にはライトと、丸めたロープを引っかけてある。いざという時に役に立つかどうかは分からない。ただ、何も持たずに行くよりはましだと思った。  階段を下りる途中で、リビングからテレビの音が漏れていた。母さんの笑い声が、番組の笑い声に少し遅れて重なる。いつも通りの夜だった。  玄関へ向かう前に、リビングの扉の横で足を止める。  まともに姿を見せれば、リュックも腰のロープも見られる。そうなれば、散歩なんて雑な嘘で通せるはずがない。 「少し出かけてくる」  扉の向こうへ、声だけ投げた。 「あら? 輝流、どこへ行くの?」  母さんの声が、すぐに返ってくる。  俺は靴箱の前でしゃがみ、なるべく音を立てないようにスニーカーを履いた。 「ちょっと散歩」 「そう。気を付けてね」 「ん」  あっさりしたものだった。  母さんは、俺が夜にふらっと出かけること自体にはもう慣れている。近所を歩くくらいだと思っているのだろう。まさか息子が、町の人間が名前を出すだけで顔色を変える山へ向かおうとしているなんて、考えもしないはずだ。  鍵を開ける音が、夜の家の中でやけに大きく響いた。  俺は一度だけ振り返った。リビングの扉の隙間から、暖色の光が細く廊下へ伸びている。その光を踏まないようにして、外へ出た。  向かう先は、決まっていた。  神鳴山だ。      *  山の麓に着いた時には、町の明かりは背後でだいぶ遠くなっていた。  目の前には、大きな鳥居が立っている。夜の中に沈むその輪郭は、昼間に見た時よりもずっと重く、赤いはずの柱もほとんど黒に近い色で沈んでいた。上部には太いしめ縄が張られ、風もないのに紙垂だけがわずかに揺れている。  まるで、ここから先は別の場所だと告げているみたいだった。  俺は鳥居の前で立ち止まり、リュックの肩紐を握り直した。  今回、俺は穂乃果を追いかけさせなかった。  雪峰が本当にこの山へ入ったのだとしたら、その原因の一部は、確かに俺にある。もちろん、穂乃果を止めたこと自体を間違いだったとは思っていない。あの夜、あいつが一人で神鳴山へ入っていたら、雪峰を助けるどころか、穂乃果まで帰ってこなかったかもしれない。
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32.神鳴山の夜

 それから俺は、雪峰を探し続けた。  川の音を頼りに、周囲をライトで照らして回る。足元には濡れた石が転がり、木の根が地面を這っていた。少しでも気を抜けば、滑って転びそうになる。  時折、山の奥から動物の鳴き声が聞こえた。  ただの獣の声だ。  そう分かっているはずなのに、夜の山で聞くそれは、妙に人の叫び声に似ていた。遠くで誰かが泣いているようにも、喉を潰して笑っているようにも聞こえる。  けれど、それ以上に、この場所へ軽い気持ちで入ってはいけなかったのだと、嫌でも思い知らされた。神鳴山はただ暗いだけじゃない。足を踏み入れた人間の感覚を、少しずつ狂わせてくるような気配があった。 「雪峰ー! いるか!? いるなら返事をしてくれ!」  喉の奥が痛むほど声を張った。  もし、この山のどこかに雪峰がいるなら。  もしまだ、俺の声が届く場所にいるなら。  返事をしてくれ。  頼むから、何か言ってくれ。  それからしばらく、俺は川の周りを探し続けた。ライトを左右に振り、足場を確かめ、木々の影を一つずつ潰していく。 「雪峰!」  返事はない。 「雪峰、聞こえてるか!」  声は掠れ、息だけが荒くなっていく。  それでも、彼女からの返答はなかった。  その時だった。  ライトの光が、不意に何かを捉えた。  川の手前。木々の影が濃く溜まった場所に、何かがある。  最初は倒れた枝か、岩かと思った。  けれど違う。  それは、人の形をしていた。 「……雪峰?」  自分の声が、思っていたよりも小さく出た。  慌ててもう一度、光を向ける。  濃紺の布。白い襟。泥に汚れたスカート。  セーラー服だった。 「雪峰っ!? 雪峰か!?」  心臓が跳ねた。  俺はライトを握りしめたまま、そこへ駆け寄る。近づくにつれて、影の輪郭がはっきりしていった。  雪峰葵が、そこにいた。  川の手前で、体育座りのように膝を抱えて座り込んでいる。身体は小さく揺れていた。寒さに震えているようにも、風に動かされているようにも見えた。 「おい、雪峰! 大丈夫か!?」  丸二日ここにいたのだとしたら、まともに食べていないはずだ。水だって飲めているか分からない。怪我をしているかもしれない。意識が混濁しているのかもしれない。  俺はできるだけ刺激しないように、正
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33.左手の熱

 視界の端が、じわじわと黒く滲んでいく。  息ができない。  喉の奥で潰れた音だけが空しく震えて、肺は痙攣したみたいに空気を求め続けていた。雪峰の指は細いくせに、信じられないほど強く俺の首へ食い込んでいる。引き剥がそうとしても駄目だ。指先に力が入らない。腕も、脚も、もうまともに言うことを聞かなかった。  まずい。  このままだと、本当に――  意識が遠のきかけた、その時だった。  左手の甲が、急に熱を帯びた。 (あつ……っ……!)  焼けた鉄でも押し当てられたみたいな熱だった。皮膚の下を、何かが無理やり走っていくみたいに、じりじりとした痛みが広がる。  けれど、その熱は苦しさを塗り潰すように、沈みかけていた意識を一瞬だけ引きずり戻した。 「っ、ぅ……!」  まだ動ける。  本当に、ほんのわずかだけだった。けれど、そのわずかで十分だった。  俺は残った力をかき集めるようにして腕を持ち上げ、雪峰の二の腕を掴んだ。折れそうなくらい華奢なその腕を、指が沈み込むほど強く、思いきり。  次の瞬間。 「ぎゃあああああああっ!!」  山の静けさを引き裂くような絶叫が響いた。  それは雪峰の声だった。けれど、雪峰のものとは思えないほど濁っていて、耳障りで、何か別の生き物が腹の底から搾り出した悲鳴みたいだった。  首を締め上げていた手が離れる。 「っは……! げほっ……ごほっ、ごほっ……!」  俺はその場に崩れ落ち、咳き込んだ。潰されかけていた喉が焼けるように痛い。肺に空気が流れ込むたび、胸の奥まで針を刺されたみたいにひりついた。  一方で雪峰は、地面の上でのたうち回っていた。 「ぁ、あああ……っ、あああああっ!!」  腕を押さえ、身体を捩り、泥にまみれながら苦しげに転がっている。その様子は、掴まれたことが痛いなんて程度じゃない。もっと別の――触れてはいけないものに触れられたような、そんな狂った暴れ方だった。  なんだ、今の。  何をした、俺は。  咳き込みながら顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こうで、雪峰の身体がゆっくりと起き上がった。  膝をつき、それから、ぎこちなく立ち上がる。  その動きは、ひどく不自然だった。糸で吊られた人形が無理やり起き上がるみたいに、関節のひとつひとつが噛み合っていないように見える。 「……っ」  
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34.残った熱と消えた命

 その日の朝。  俺はほとんど眠れないまま家に戻り、シャワーで泥だけを落として、いつも通りの顔をして学校へ向かった。  鏡に映った自分は、ひどい顔をしていた。首には赤黒い痕が残っている。制服の襟で隠れる位置だったのが、せめてもの救いだった。  眠い、という感覚はなかった。  ただ、頭の中に薄い膜が張っているみたいで、何を見ても現実味がなかった。通学路を歩く人の声も、自転車のベルも、信号の音も、全部どこか遠い。  それでも俺は学校へ行った。  もしかしたら、雪峰があのあと無事に帰ってきているかもしれない。  そんなこと、あるはずがない。  分かっていた。分かっていたのに、考えてしまった。  教室の扉を開けたら、いつもの席に雪峰が座っているかもしれない。少し疲れた顔で、でもちゃんと生きていて、昨日のことなんて何も覚えていないみたいに、ノートを開いているかもしれない。  そんな都合のいい光景を、俺はどこかで探していた。  祈っていたのだと思う。  雪峰が最後に浮かべていた顔が、頭から離れない。  山の奥へ引きずられていく直前、俺を見たあの目。  何が起きているのか分からず、ただ怖くて、不安で、助けを求めていた目。 (俺が……もっと早く見つけてやれれば……)  そんなことを考えても意味がない。  もし、なんてものは存在しない。俺がどれだけ悔やんだところで、あの瞬間に戻れるわけじゃない。  それでも、そう思うことしかできなかった。  教室に入ると、いつも通りの朝がそこにあった。  鞄を机に置く音。誰かの笑い声。前の席で課題を写している男子。廊下から聞こえる足音。窓際で髪を結び直している女子。  全部、いつも通りだった。  その普通さが、気持ち悪かった。  俺だけがまだ、神鳴山の夜に取り残されているみたいだった。 「輝流」  授業が始まる少し前、穂乃果が俺の席までやってきた。  顔を上げると、彼女は不安そうに眉を寄せていた。いつもの軽い調子ではない。俺の顔を見た瞬間に、何かを察したみたいだった。 「大丈夫……? ひどい隈だよ。どうしたの?」 「……大丈夫だ。なんでもない」  自分でも驚くくらい、声が掠れていた。  穂乃果の目が、さらに曇る。 「嘘だよ。輝流がそんな隈作るなんて、絶対何かあったでしょ」 「なんでもない
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35.伝えられなかった想い

 昼休みの屋上は、妙に静かだった。  いつもなら誰かの笑い声や、購買で買ったパンの袋を破る音くらいは聞こえてくる。けれどその日の屋上には、そういう日常の音がひどく遠かった。  空は晴れている。  夏の陽射しは強くて、フェンスの影がコンクリートの床にくっきり落ちていた。なのに、空気だけが重い。吸い込むたびに、肺の奥へ沈んでいくみたいだった。 「雪峰が死んで見つかったなんて、信じらんねぇよ……」  フェンスにもたれた智哉が、ぽつりと言った。  いつもの調子じゃなかった。  軽口を叩く時の、あの雑な明るさがない。声の端が乾いていて、言葉を出すたびに何かを削っているみたいだった。 「そう……だな」  俺はそれだけ返した。 「だって、一昨日まで一緒に過ごしてたじゃねぇか……。それが……死んだって?」  智哉は自分で言って、自分で受け止めきれなくなったみたいに、顔を歪めた。 「……信じられねー」  俺は黙っていた。  言えることなんて、何もなかった。  俺のせいだ。  胸の奥で、その言葉だけがずっと回っている。  本当は違う。そんなことは分かっている。俺はただの高校生で、あの山で起きたことに対して、できることなんてほとんどなかった。  それでも。  俺は雪峰を見つけた。  確かに、この目で見つけた。  あの時、手が届く場所にいた。声も聞いた。助けてと、俺の名前を呼んだ。  なのに、連れて帰れなかった。  その事実だけが、喉の奥に刺さったまま抜けなかった。 「……輝流?」  智哉の声で、意識が戻る。  気づけば、俺は自分の左手を見下ろしていた。あの熱はもうない。けれど皮膚の奥に、まだ何かが残っている気がした。 「……わりぃ。なんでもない」 「お前も落ち込んでんのな……」 「そりゃそうだろ」  俺は視線を逸らしながら言った。 「たいして絡むことはなかったけど、クラスメイトだったし」  嘘ではない。  でも、本当でもなかった。  智哉はフェンスの向こうを見たまま、しばらく黙っていた。それから、ぽつぽつと言葉を落とす。 「……そうだよな。雪峰、すげぇ良い奴だったんだぜ。宿題教えてくれたりさ。俺が忘れ物した時も、何も言わずに貸してくれたり。めちゃくちゃ優しかった」  違う。  智哉。  雪峰は、お前のことが――
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36.葬儀の朝に

朝から、首元が妙に窮屈だった。  黒い喪服に袖を通すのは初めてじゃない。けれど、学生服とも普段着とも違うその重さは、やけに肌にまとわりついた。  鏡の前で何度かネクタイを直してから、俺は家を出た。  空は晴れていた。  それが、余計に気に入らなかった。  雪峰の葬儀の日だというのに、町はいつも通り朝を迎えている。車は走るし、どこかの家からは味噌汁の匂いがして、通学途中の小学生たちが眠そうな顔で歩いている。  世界は、誰か一人が死んだくらいでは止まらない。  そんな当たり前のことが、今日はひどく腹立たしかった。  智哉の家は、善福寺という寺でもある。  見慣れた山門の前まで来て、俺は一度だけ足を止めた。黒い門柱。掃き清められた石畳。朝の空気に混ざる、線香と古い木の匂い。  何度も来た場所だ。  なのに今日は、その全部が少しだけ遠く見えた。  俺は玄関の前に立ち、軽く扉を叩いた。 「智哉ー。来たぞ」  奥から、すぐに声が返ってくる。 「お! 輝流〜! 俺の部屋に来てくれー!」 「ったく……」  家主でもないくせに、相変わらず遠慮のない呼びつけ方だった。  俺は小さく息を吐いて、横開きの扉に手をかけた。 「お邪魔します」  声だけは一応かけてから、中へ入る。  何度も通った家だ。勝手は分かっている。玄関で靴を脱ぎ、廊下を抜け、寺の奥へ続く方ではなく、住居側の階段へ向かった。  木の階段は、踏むたびに少しだけ軋む。  二階へ上がると、並んだ扉の一つに『智哉』、もう一つに『燈子』と書かれたプレートがかかっていた。  昔から変わらない。  俺はそのまま智哉の部屋の扉を開けた。 「来たぞ」 「よっ!」  中では智哉が、姿見の前で喪服に着替えているところだった。  白いワイシャツに黒いズボン。ジャケットはまだベッドの上に放り出されていて、智哉は鏡を睨みながらネクタイと格闘していた。 「今見ての通り、喪服に着替え中だ」 「見れば分かる」  俺は部屋の中を軽く見回した。  雑誌。ゲーム機。机の上に置きっぱなしの菓子の袋。いつもの智哉の部屋だった。  それが少しだけ、救いのようにも思えた。 「そういえば、燈子はどうした?」 「あいつは今、学校だよ」  智哉は鏡を見たままネクタイを締め直す。 「大丈夫。ちゃんと元気
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37.恐れ敬うことを忘れることなかれ

「悪神……」  自分の口から出た声が、思っていたより低く聞こえた。  悪神。  その二文字は、仏像の並ぶ静かな部屋にはひどく似合わなかった。けれど、和正さんは表情を変えない。ただ、穏やかな目の奥だけが、少しだけ暗く沈んでいる。 「そう。その名はね、ここらでは恐怖の対象だ」  和正さんは、諭すように言った。 「決して、軽々しく口に出さないようにね」 「……分かりました」  そう答えながらも、喉の奥に小さな棘が残った。  口に出すな。  恐れろ。  敬え。  そんな言葉で、あれを済ませろというのか。 「なぁ、親父」  智哉が、少し怯えた顔で口を開いた。 「悪神って、何をすんだよ……? 何をもって悪神なんだ?」  和正さんはすぐには答えなかった。  仏像の前に置かれた灯明が、小さく揺れる。沈黙が落ちるたび、線香の匂いだけが妙にはっきりと鼻についた。 「……どうして、百貌様は百貌様と言うのか」  和正さんは静かに尋ねた。 「それは、なぜだと思う?」 「えっ……」  智哉は少し困ったように眉を寄せた。 「百の貌……だろ? つまり、顔が百個ついてるとかか?」 「ううん……」  和正さんは、困ったように首を横へ振った。  その仕草は柔らかかった。  けれど、否定された内容は、たぶん智哉の想像よりずっと悪いものなのだと分かった。 「輝流君は、幸子さんの手記を見たのなら、知ってしまったのではないかな?」  視線が俺へ向く。  言いたくなかった。  口にすれば、あの山の闇がまたこの場へ入り込んでくる気がした。  けれど、知らないふりをするには遅すぎる。 「ええ」  俺はゆっくり息を吐いた。 「確か……山に食われた人の顔を被る。それが一つではなく、百の顔を持つことから、百貌様と……」  言ってから、改めて背筋が冷えた。  人の顔を被る。  言葉にすれば、それだけだ。  けれど、その意味を想像した瞬間、昨夜見たものが頭の奥に貼りつく。  雪峰の顔。  その背後に重なった、老婆の姿。  もしかしたら、あれも誰かだったのか。  山に食われた、誰かの成れの果てだったのか。 「な、なんだよ、それ……」  智哉の声が震えていた。 「怖えーな……」 「そう、智哉」  和正さんは、息子を見る。  その声は穏
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38.失われた声

 俺たちは、どうにか葬儀場までたどり着いた。  重たい扉を押し開けた瞬間、むせ返るような線香の匂いと、菊の花の甘く湿った匂いが鼻の奥に入り込んでくる。  智哉と並んで中へ入ると、そこには黒と白だけで作られたみたいな空間が広がっていた。  遺族席のあたりから、誰かのすすり泣く声が聞こえる。大人たちは皆、声を殺すように肩を震わせていた。クラスメイトたちも、いつものように騒ぐ者は一人もいない。ただ俯いて、手元を見つめたり、床の一点を見つめたりしている。  その中に、穂乃果がいた。  礼服に身を包んだ彼女は、ひどく小さく見えた。ぽつんと立ち尽くしている姿が、周囲の黒に飲み込まれそうで、俺は何も言わずにその隣へ立った。 「……大丈夫か?」  他に言葉が見つからなかった。  穂乃果は、少し遅れて俺を見る。 「うん……。心配してくれて、ありがと……」  かすれた声だった。  見るからに、大丈夫そうではなかった。  目元は赤く腫れていて、頬には拭いきれなかった涙の跡が残っている。それでも穂乃果は、俺を安心させようとするみたいに、弱々しく笑った。  その笑顔は、少し触れただけで崩れてしまいそうだった。  俺は、それ以上何も言えなかった。  下手な慰めなんて、今ここでは薄っぺらいだけだ。何を言っても、雪峰が戻ってくるわけじゃない。そんな当たり前のことだけが、やけにはっきりしていた。  自然と、俺たちの視線は祭壇へ向かう。  中央には、棺が置かれていた。  その中に、雪峰がいる。  いや、正確には――雪峰だったものが、そこに横たえられている。  棺の中の彼女は、真っ白な布で覆われていた。顔も、手も、何も見えない。安らかな寝顔だとか、最後に綺麗な顔を見せてくれただとか、そんな言葉で片付けられる状態ではないのだろう。  クラスメイトの誰かが、小さな声で言っていた。  雪峰の亡骸は、家族の意向で、誰にも顔を見せないことになったらしい。  それが優しさなのか、残酷さなのか、俺にはわからなかった。  ただ、白い布に覆われたその輪郭を見ていると、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。  あれが雪峰なのだと、頭ではわかっている。  でも、俺の知っている雪峰は、こんなふうに黙っているやつじゃなかった。どちらかと言えば、何を考えているのかわからないもののこちら
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39.恨みの行先

『ねぇ……浅生君』  雪峰が、ぽつりと言った。  その声には、さっきまでの悲しみとは違うものが混じっていた。泣き疲れた少女の声ではない。行き場をなくした怒りが、血の涙と一緒に少しずつ溢れ出しているような声だった。 『私は、どうしたらいいのかな……』  俺はすぐに答えられなかった。  当然だと思った。  雪峰は死んだ。これから先の人生を、誰かに突然奪われた。学校へ行って、智哉と顔を合わせて、家に帰って、両親と食卓を囲んで、そんな当たり前の明日を迎えるはずだった。  それを、奪われた。  怒るなと言えるはずがない。憎むなと言えるはずもない。  それでも、俺の中には、さっきから消えない嫌な感覚があった。 「……分からない」  俺は目を伏せた。 「俺には、お前に何をしろなんて言える立場じゃない。だけど、もしお前を殺したものが、百貌様にまつわる何かなら……」  言葉を選ぶ。  間違えれば、雪峰をさらに傷つける。  分かっていて、それでも言わなければならないと思った。 「たぶん、恨みに身を任せるのは駄目だ」  雪峰の表情が、凍りついた。 『そんな……っ』  次の瞬間、その瞳から血の涙がぼろぼろと零れ落ちる。 『じゃあ、私は……私は誰を憎めばいいの……ッ!』  悲鳴だった。 『私は何を恨めばいいの!? 何もしてないのに……ただ、山に入っただけなのに……! なんで私が死ななきゃいけなかったの!?』  御手洗の空気が、冷たく震えた。  蛍光灯が、じりじりと嫌な音を立てる。鏡に映る雪峰の姿が一瞬ぶれて、濡れた髪の先から落ちるはずの血が、床に触れる前に黒い靄へ変わって消えた。  俺は拳を握った。  分かってる。  お前の怒りは当たり前だ。  それを抑えろなんて言う方が、きっと間違っている。  けれど、それでも。 「雪峰」 『ひどいよ……浅生君まで、そんなこと言うの……?』 「違う」  俺は顔を上げた。 「お前が恨むことを、責めてるわけじゃない」 『じゃあ、どうして……!』 「嫌な感じがするんだ」  それは、理屈ではなかった。  神だとか、祟りだとか、そんなものを俺は本気で信じていたわけじゃない。信じたくもなかった。けれど神鳴山に足を踏み入れて、渡瀬川の音を聞いて、あの場所に溜まっていた何かの気配を思い出すと、どう
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第四十話:智哉の以外な一面

海の家の炊事場は、どこか懐かしい匂いがした。使い込まれた調理器具と、ほんの少しだけ残る、前の宿泊客が作ったであろう料理の香り。俺たちは、買ってきた食材を広げ、早速、夕食の準備に取り掛かった。「よし! 力仕事は俺たちに任せろ!」智哉の号令で、自然と役割分担が決まる。大きな鍋を運んだり、野菜の皮を剥いたりするのは、俺と智哉。食材を洗ったり、食べやすい大きさに切ったりするのは、穂乃果と燈子だ。「うっわ、智哉、お前の剥いたじゃがいも、元の半分くらいの大きさになってねぇか?」「バカ言え! これは、食中毒を防ぐための、完璧な皮むき術だ!」ピーラーを片手に意味不明な言い訳をする智哉の横で、俺は黙々と作業を進める。女子チームの方に目をやると、穂乃果が楽しそうに鼻歌を歌いながら、リズミカルに人参を切っていた。その隣では、燈子もまた、静かに、しかしどこか楽しげに、慣れた手つきで玉ねぎを刻んでいる。時折、穂乃果と顔を見合わせては、小さく微笑み合っていた。(……なんだか、いい雰囲気だな)そして……ここまでは、いつも通りの智哉だった。だが、本当の見せ場は、ここからだった。全ての食材が鍋の中に投入され、ぐつぐつと煮込まれていく。そして、仕上げのルーを入れる段階。「よし、火、少し弱めるぞ。穂乃果ちゃん、ルー入れてくれ」先ほどまでのガサツな様子が嘘のように、智哉が的確な指示を出す。大きな木べらを手に、鍋の底が焦げ付かないよう、ゆっくりと、しかし絶え間なくかき混ぜ始めた。その手つきは、明らかに料理をやり慣れている者のそれだった。(……そういえば、こいつ、昔から料理は上手かったな)普段の姿からは想像もつかないが、智哉の母親は、夜遅くまで働くことが多い。だから、昔から夜食や簡単な食事を作るのは、自然と智哉の役目だったと、前に聞いたことがある。普段はあんなに大雑把なくせに、こういうところは妙に手際がいい。そのギャップに、俺は思わず感心してしまった。「わ、智哉くん、すごい! とっても手際がいいね!」穂乃果が、素直に賞賛の声を上げる。その隣で、燈子は「ふふん」と、どこか誇らしげに鼻を鳴らした。その表情は、「うちのお兄ちゃん、これくらいできて当然でしょ」と、雄弁に物語っていた。……普段、あれだけ智哉に対して辛辣な言葉を並べるくせに。こういう、兄が誰かに褒められた瞬
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