その日の夜、俺はリュックを背負って、自分の部屋を出た。 中には懐中電灯の予備電池、軍手、タオル、飲み物、簡単な食料。腰にはライトと、丸めたロープを引っかけてある。いざという時に役に立つかどうかは分からない。ただ、何も持たずに行くよりはましだと思った。 階段を下りる途中で、リビングからテレビの音が漏れていた。母さんの笑い声が、番組の笑い声に少し遅れて重なる。いつも通りの夜だった。 玄関へ向かう前に、リビングの扉の横で足を止める。 まともに姿を見せれば、リュックも腰のロープも見られる。そうなれば、散歩なんて雑な嘘で通せるはずがない。 「少し出かけてくる」 扉の向こうへ、声だけ投げた。 「あら? 輝流、どこへ行くの?」 母さんの声が、すぐに返ってくる。 俺は靴箱の前でしゃがみ、なるべく音を立てないようにスニーカーを履いた。 「ちょっと散歩」 「そう。気を付けてね」 「ん」 あっさりしたものだった。 母さんは、俺が夜にふらっと出かけること自体にはもう慣れている。近所を歩くくらいだと思っているのだろう。まさか息子が、町の人間が名前を出すだけで顔色を変える山へ向かおうとしているなんて、考えもしないはずだ。 鍵を開ける音が、夜の家の中でやけに大きく響いた。 俺は一度だけ振り返った。リビングの扉の隙間から、暖色の光が細く廊下へ伸びている。その光を踏まないようにして、外へ出た。 向かう先は、決まっていた。 神鳴山だ。 * 山の麓に着いた時には、町の明かりは背後でだいぶ遠くなっていた。 目の前には、大きな鳥居が立っている。夜の中に沈むその輪郭は、昼間に見た時よりもずっと重く、赤いはずの柱もほとんど黒に近い色で沈んでいた。上部には太いしめ縄が張られ、風もないのに紙垂だけがわずかに揺れている。 まるで、ここから先は別の場所だと告げているみたいだった。 俺は鳥居の前で立ち止まり、リュックの肩紐を握り直した。 今回、俺は穂乃果を追いかけさせなかった。 雪峰が本当にこの山へ入ったのだとしたら、その原因の一部は、確かに俺にある。もちろん、穂乃果を止めたこと自体を間違いだったとは思っていない。あの夜、あいつが一人で神鳴山へ入っていたら、雪峰を助けるどころか、穂乃果まで帰ってこなかったかもしれない。
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