All Chapters of 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜: Chapter 1 - Chapter 10

55 Chapters

1.神鳴山

 白く焼けたアスファルトが、陽炎の中で揺らめいていた。  耳の奥では、飽和した蝉時雨が鳴り続けている。窓を閉め切った教室の中にいても、その音はどこからか染み込んできて、脳の芯までじわじわと痺れさせた。  汗で肌に張りつくワイシャツの感触が、気持ち悪い。  息をするだけで、体の奥に熱が溜まっていく気がした。  夏。  この季節が、どうしようもなく嫌いだった。  思考も身体も、何もかもが熱に溶けて、輪郭を失っていく。何かをする気力も、何かを考える集中力も、全部まとめて削られていく。  その気怠さの象徴みたいに、教室の窓の向こうには、一つの山塊が横たわっていた。  神鳴山。  ここ、霞沢県にありながら、まるでその美しい名前を嘲笑うかのように、不吉な響きを持つ山。  夏草の深い緑に覆われているはずの山肌は、遠目には黒々と淀んで見えた。  まるで、この世ならざるものが滲み出した巨大な染みだ。  地元では有名な山だった。  ただし、観光名所としてではない。  畏敬の念をもって語られるわけでもない。  今、あの山は人を“招く”。  そんな噂が、町には昔からある。  行方不明者の報せが流れるたび、町の人間は誰も口には出さない。出さないだけで、きっと同じものを思い浮かべている。  あの黒い山。  神鳴山に、喰われたのだと。 「おーい、|輝流《あきる》ぅ!」  背後から聞こえた間の抜けた声に、思考が現実へ引き戻された。  振り返らなくても分かる。  鬼龍院智哉だった。 「……なんだよ」  俺が顔だけ向けると、智哉は机に片手をつきながら、いつも通りの人懐っこい笑みを浮かべていた。 「また随分と気怠そうだな、相変わらず」 「気怠そう、じゃない。気怠いんだ。俺はもともとこういう性質だろ」 「ちがいねぇ!」  太陽みたいに笑って、智哉はそんな俺をあっさり肯定した。  その屈託のなさが、少しだけ眩しい。  こいつはいつもそうだ。  こっちの湿った気分なんてお構いなしに、勝手に明るい場所から声をかけてくる。 「でさ!」  智哉は身を乗り出した。 「今日の約束、覚えてるよな?」 「……一
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2.頂上の社

  舗装された道は、とうの昔に闇に溶けて消えた。今はもう、月明かりすら拒む木々の合間を縫う、湿った獣道が続くだけだ。腐葉土の甘い匂いと、土の生々しい気配。それはまるで、山そのものの呼吸が、濃密な空気となって肺腑を満たしていくかのようだった。   一歩、また一歩と足を踏み出すたび、心臓が肋骨の裏でやかましく脈打つ。その音だけが、自分がまだこの世界の輪郭の内側にいることを証明しているようだった。   「はぁ……っ、はぁ……!  おい、輝流……!  少し、待てって……!」   ほとんど悲鳴に近い声が、背後で揺れる。振り返れば、智哉が木の幹に両手をつき、ぜいぜいと苦しげに肩で息をしていた。その姿は、この山の深淵に呑まれまいと必死にもがく、小さな生き物に見えた。   「……情けないなぁ」   「うるせぇ!  元サッカー部のお前と、生粋の帰宅部を一緒にしてんじゃねぇ!  少しは気を遣え!  気を!」   「くだらないことで胸を張るなよ…」   智哉の叫び声すら、この深い静寂に触れた瞬間、音もなく吸い込まれて消える。日暮れと共に急速に冷えていく空気が、汗ばんだ首筋を撫で、ぞくりと肌を粟立たせた。   ああ、そうか。   この感覚は、悪くない。色のない教室の椅子に沈み込み、ただ過ぎていく時間を殺すより、よほど、自分が「生きている」と感じられる。   「……早くしろ。置いていくぞ」   そう短く告げて、再び斜面に向き直る。背後で「悪魔ー!  人でなしー!」という情けない声が聞こえたが、不思議と心は凪いでいた。   どれほどの時間、そうして登り続けたか。   木々の隙間から覗いていた空の色が、深い藍色に沈みきった頃、息を切らして最後の斜面を登りきった。   不意に木々の天井が途切れ、満天の星が、まるで音もなく降ってくるかのように目に飛び込んできた。   「……ぁ」   思わず、喉の奥で息が止まる。   街の喧騒も、その偽りの光も届かない山頂だからこそ許される、神々しいまでの夜空。天の川が白くぼやけた光の帯となって空を横断し、手の届きそうなほど近くで、無数の星屑が玻璃の粒のように瞬いていた。   流れ星が一つ、神様が気まぐ
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3.謎の石仏

「……ふぅ。綺麗になったな」 社を見上げ、手に付いた最後の蜘蛛の巣を払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。分厚い埃の化粧を落とした社は、満天の星の光を浴びて、どこか誇らしげに、静かにそこに佇んでいる。 「ああ……。心なしか、さっきまでの淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでる気がするぜ」 智哉の声も、先程までの怯えた響きが消え、穏やかな|安堵《あんど》が滲んでいた。 風が、山の稜線を撫でる音がする。その音色ですら、どこか優しくなったように感じられた。 この不思議な|静寂《しじま》の中で、ふと、疑問が湧いた。臆病なくせに、誰よりも真っ直ぐなこいつが、なぜ、この|禁足地《きんそくち》に俺を誘ったのだろうか。 「そういえば、智哉」 「ん?」 「なんでお前、そんなに怖がりなのに、こんな山で肝試しなんてやろうと思ったんだ?」 俺の問いに、智哉は少しだけ黙り込んだ。その視線は、夜空の|星屑《ほしくず》の海を彷徨い、やがて、自嘲と、ほんの少しの|期待《きたい》が混じり合った、歪な笑みをその口元に浮かべる。 「……俺はさ、輝流が言ったように、才能ゼロだから」 「……」 「親父みたいに霊は視えないし、仏様の難しい話とか、全く分からなくてさ。……だから、ここに来て、そういうヤバい体験の一つでもすれば、もしかしたら……何かが、開花するんじゃないかって。そう、思ったんだよ」 その言葉が、喉の奥に張り付いたガラスの破片のように、息をするたび鈍い痛みとなって胸に広がった。自分にないものを|渇望《かつぼう》し、自分ではない誰かになろうとするその姿が、ひどく危うく見えたから。 「……馬鹿か、お前は」 「え……」 「霊能力者の才能がないなら、別の才能を信じろ。人には、得手不得手がある。光の当たる場所が、それぞれ違うだけだ。日陰でしか咲けない花があるだろ。無理して日に当たったら、お前みたいなのはすぐ干からびる」 それは、俺の偽らざる本心だった。 「おぉぉぉぉ〜……|輝流ぅぅ……! お前、やっぱ良い奴だぁぁぁ……!!」 感極まった智哉が、両手を広げて突進してくる。俺はそれを、ひらりと半身を引いて躱した。 「おま、避けんなって!」 「男と抱き合う趣味はない」 「なんだよそれ! じゃあ穂乃果ちゃんならいいのかよ!?」 穂乃
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4.ポケットにあったもの

「いやー、それにしても智哉くんは相変わらずいいリアクションするねっ!」  鳥居の影から姿を現した穂乃果は、悪戯が成功した子どもみたいに、にひっと口角を上げた。  月明かりに照らされたその顔は、見慣れたものだった。見慣れているのに、こんな場所で見ると少しだけ現実感が薄い。神鳴山の闇の中から、いつもの幼馴染がひょっこり出てくる。普通なら安心する場面なのかもしれないが、直前まであの石仏どもの視線を浴びていたせいで、どうにも頭の切り替えがうまくいかなかった。  俺は智哉が消えていった山道を指差す。 「あの怖がりをこれ以上怖がらせてやるなよ。見ろ。山の中にまで入って行っちまった」 「あはは。でも、ずっとここで待ってたんだから、それくらいはいいでしょっ?」  穂乃果は頬をぷくっと膨らませる。  その仕草はいつも通りだった。学校帰りに寄り道を咎められた時も、俺が適当に返事をした時も、こいつはよくこんな顔をする。けれど、口調の軽さに反して、その目の奥にはまだ緊張の名残があった。  俺はようやく、そこに気づいた。 「……俺たちが山に入ってから、ずっと待ってたのか?」 「そうだよ? だって、心配だったんだもん」  当然みたいに言われて、返す言葉が一瞬だけ遅れた。  神鳴山は、地元の人間なら誰でも知っている禁足地だ。冗談半分で名前を出すことはあっても、本当に夜中に入る奴なんてまずいない。ましてや、こんな麓でひとり待つなんて、普通に考えれば笑えない。  それを、こいつはしていた。  俺と智哉が戻ってくるまで。 「……そうか。悪いことしたな」  頭を掻きながら言うと、穂乃果は少しだけ目を丸くした。それから、ふっと力が抜けたように笑う。 「無事に戻って来れたみたいだし、ほっとしたよぉ……」  その苦笑に、妙な居心地の悪さを覚えた。  心配されることに慣れていない、というより、心配されるほどのことをしたという実感が、今さら遅れて足元から這い上がってきたのかもしれない。  そうしていると、背後の山道から、情けない声が近づいてきた。 「お、おい……。さっきの声、なんだったんだよ……?」  戻ってきた智哉は、半泣きの顔でこちらを見ていた。膝に手をつき、肩で息をしている。どうやら途中で我に返って、引き返してきたらしい。  穂乃果はすばやく俺の背中に回り込むと
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5.返して

  じり、じり、と。   脳髄を直接焼くかのような蝉時雨が、窓の外から絶え間なく降り注いでいる。熱を帯びた空気にチョークの粉が混じり合い、汗ばんだ腕が机のニスに張り付く。思考も、身体も、教室に澱むこの気怠さの中にゆっくりと溶けていく。   あぁ……暑い。   ほんとうに、この季節は嫌いだ。   机の上に突伏し、意識を飛ばしかけていた俺の頭上に、不意にいくつかの影が落ちた。   「浅生〜!  悪い……!  今日、サッカーの応援頼めねぇかなぁ……!」   汗を光らせたサッカー部の主将の声。それに被さるように、別の声が響く。   「おい!  この間も浅生に来てもらっただろ!  今日はうちの練習試合だ、こっちが先約だ!」   野球部の主将が、俺という駒を挟んで睨み合っている。   「頼むって!  野球部も大変なのは分かるけど、こっちはマジで人が足りてないんだ!  キーパーが熱中症で倒れたんだよ!」   サッカー部主将の切実な声に、野球部の主将がぐっと言葉を詰まらせる。   「……ったく、しょうがねぇな。今回だけだからな」   「サンキュ!!  助かる!」   その熱量が、この茹だるような暑さの中で、ひどく億劫だった。   「……おい。俺の意思はどこにいったんだ」   俺が気怠く顔を上げると、二人が悪びれもなく笑った。   「お前はいつも気だるそうだけど、なんだかんだ言って、最後は手伝ってくれるからな」   はぁ……。返す言葉もない。   期待されることの面倒さと、それを断れない自分の性分に、うんざりする。   「……わかったよ。サッカー部な?」   「おう!  頼むぜ!」   嵐のように、二人は去っていった。その喧騒が消えた机の前に、ひょっこりと智哉が顔を出す。   「相変わらず人気者だねぇ、輝流は」   「……うるさい。誰もこんな人気は望んじゃいない。   「まぁまぁ、いいじゃねぇか!  じゃ、俺は先に帰るんで!」   「おい、待てよ帰宅部」   俺は、帰ろうとする智哉の肩を掴んだ。   「お前も来いよ。体力作りのいい機会だろ?」   すると智哉は、まるで世界の終わりでも見るかのような顔で、ぶんぶんと
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6.欠落

 翌日の教室は、昨日と同じように暑かった。  開け放たれた窓からは、朝から遠慮のない蝉の声が流れ込んでくる。扇風機が首を振るたびに、ぬるい風が教室の後ろまで届いて、机の上に広げられたプリントの端をかすかに揺らした。  俺の席は、教室の左側後方。  その机を囲むようにして、智哉と穂乃果が立っていた。 「お、お、お、お前……そのタイミングで振り返ったのかよ!?」  智哉の声が、朝の教室にやけに大きく響いた。 「ああ」 「ああ、って! お前、ああで済む問題じゃないだろ!? なぁ、穂乃果ちゃん!?」  智哉が縋るように隣の穂乃果を見る。  穂乃果は鞄を胸の前で抱えたまま、少し青ざめた顔をしていた。いつもの柔らかい雰囲気は残っているが、肩がわずかに強張っている。 「血だらけの女の人って……浅生くん、怖くなかったの……?」 「まあな」  俺は窓の外へ視線を向けた。  グラウンドの向こうで、体育の準備をしている生徒たちが見える。白いシャツが陽射しに滲んで、どこか現実感が薄かった。 「だって、元は同じ人間だろ。死んでるか生きてるかの違いでしかないし」  言った瞬間、二人の沈黙が落ちた。  智哉が、ゆっくりと穂乃果の方を見る。 「……穂乃果ちゃん。どう思う?」 「いやー……。さすがに私は、振り返るなんてできないかな……」 「そうだよな。そうだよな。それが普通だよな!!」  智哉は全力で頷いた。まるで自分の正気を確認するような勢いだった。  穂乃果は困ったように笑ってから、もう一度俺を見た。 「そ、それで……その後、どうなったの?」 「消えていったよ。目の前で、すうっと」 「ぎゃあああああああああっ!!」  智哉の絶叫が、教室を真っ二つに裂いた。  ざわついていたクラスの空気が、一瞬で止まる。前の席で話していた女子も、黒板の前にいた男子も、プリントを配っていた委員長も、全員の視線が智哉に集まった。  智哉は固まった。  それから、ぎこちなく背筋を伸ばす。 「こ、こほん……」  何事もなかったように咳払いをしたが、無理がありすぎた。  俺はため息をつき、頬杖をつく。  それにしても、と。  教室中から向けられる視線の中で、俺はぼんやりと思った。  やはり、俺はどうしようもないほど壊れているのだろう。  人が生きるために
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7.廃線の影

 放課後。  俺たちは、昨日の夜にあの女を見た場所へ来ていた。  昼間に見る田舎道は、拍子抜けするほど普通だった。昨日は闇に沈んでいた田んぼも、今は西日に照らされて、風が吹くたびに水面をきらきらと揺らしている。道端の自販機も、夜に見た時ほど不気味ではない。蛍光灯も点滅しておらず、ただ黙ってそこに立っているだけだった。  けれど、俺は知っている。  昨日の夜、この場所で。  濡れた足音が、俺の後ろをついてきた。 「輝流は、ここで女の人を見たんだね……?」  穂乃果が少し不安そうに周囲を見回しながら言った。 「ああ」 「ああ……じゃねーよ!」  智哉がすぐさま噛みついてくる。 「こんな、夜になったら何も見えない場所で、血だらけの女が出るとか普通にちびるわ!」 「まあ、その話は置いといて」 「置いとくな!!」  こいつの反応は相変わらずいい。  俺は智哉を適当に流して、穂乃果の方を見る。 「どうだ? 穂乃果。何かわかるか?」 「うーん……」  穂乃果は真剣な顔で辺りを見渡した。  田んぼ。畦道。電柱。自販機。遠くに民家の屋根。  俺も同じように周囲を見たが、そこにあるのは本当にそれくらいだった。見れば見るほど、ただの田んぼ道だ。血だらけの女が現れる理由なんて、どこにも転がっていない。 「見た感じ、田んぼしかないよね」 「だよな」 「なんでその人が現れたのかを探るには、まずここで何があったのかを知らないといけないけど……」  穂乃果の言葉に、智哉が腕を組んで唸る。 「田んぼだらけで血だらけになる要因を探せって言われても、無理じゃねーか?」 「……そうだな」  たしかに、今の景色だけを見ればそうだ。  ここには、何もない。  けれど。 『返して』  あの時、女の唇はそう動いた。  声は聞こえなかった。けれど、俺にはそう見えた。いや、そうとしか見えなかった。  返して。  何を。  何を返してほしがっている。 「なあ、穂乃果」 「なぁに?」 「俺、昨日その女を見た時に、返してって言われた気がするんだ」  穂乃果の表情が、すっと変わった。  怖がっているだけじゃない。頭の中で、今の言葉を何かと結びつけようとしている顔だった。  代わりに、智哉が両肩を震わせる。 「おいおい……! お前、何か持って来
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8.二十年前の写真

展開は、俺が思っていたよりも早かった。  翌朝。教室に入って自分の席へ向かう途中、隣の席に突っ伏している見慣れた後ろ姿が目に入った。  穂乃果だ。  いつもなら俺より先に来て、誰かしらと話しているか、窓の外を眺めてぼんやりしているかのどちらかなのに、今日は机に頬を押しつけたまま動かない。 「おはよう」  声をかけると、穂乃果はゆっくり顔を上げた。 「おはよ〜……」  ふにゃ、と力の抜けた声が返ってくる。  その顔を見て、俺は少しだけ眉を寄せた。 「おはよう……って。その目の下の隈はどうした」 「これ?」  穂乃果は自分の目元を指で触ってから、困ったように笑った。 「これね、実は……あの件を調べてたら、ちょっと夢中になっちゃってさ。えへへ」 「えへへ、じゃないだろ」  思ったより声が低くなった。 「大丈夫か。結構ひどいぞ」 「大丈夫、大丈夫。私が頑丈なの、知ってるでしょ?」  胸を張ってそう言う穂乃果は、いつもより明らかに眠そうだった。  頑丈、ねえ。  俺の記憶にある穂乃果の“頑丈”は、だいたい無理をしたあとで風邪を引くまでが一セットだ。小学生の頃も、中学の頃も、本人だけが本気で「平気」と思っていて、周りが気づいた時には熱を出していた。  そういうところは、あまり変わっていない。 「とりあえず」  穂乃果は鞄をごそごそ探ると、一枚の写真を取り出した。 「ねえ、浅生くん。この人を見てくれないかな」  差し出された写真を受け取る。  古い写真だった。少し色褪せていて、端が白く擦れている。  写っているのは三人。四十代か五十代くらいの男女と、その間に立つ若い女性。二十歳前後だろうか。柔らかく笑っているのに、どこか儚い印象があった。 「これは……」  言いかけて、そこで止まった。  あの夜、自販機の白い光の下に立っていた女。  濡れた髪。血の気のない顔。こちらを見つめる目。  写真の中の女性と、完全に同じとは言えない。夜だったし、相手は血に濡れていた。けれど、目元の形と、口元の薄い笑みの名残に、引っかかるものがあった。  俺は写真の中の若い女性を指で示した。 「たぶん、俺が見たのはこの人だ」 「……やっぱり」  穂乃果の声が、小さく沈む。  眠気でぼんやりしていた顔から、ふっと柔らかさが消えた。怖がって
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9.赤い服の女

 放課後。  俺たちは、昨日と同じ田んぼ道に来ていた。  昼間の熱をまだ抱えたアスファルトから、むっとした匂いが立ち上っている。遠くの山際に沈みかけた夕陽が、田んぼの水面を赤く染めていた。  蝉の声がすごい。  鳴いている、というより、空気そのものが蝉の声で埋め尽くされているみたいだった。  その中を、穂乃果が隣でゆっくり歩いている。  学校を出る時は「平気」と言い張っていたくせに、やっぱり少し足取りが重い。眠気のせいもあるだろうし、これから向かう場所のせいもあるのだろう。  俺は横目で穂乃果を見た。 「そういえば、穂乃果」 「んー?」  穂乃果がこちらを見る。 「俺のこと、二人きりの時は輝流って呼ぶくせに、学校とか他の奴らの前だと浅生くんって苗字呼びなのはなんでなんだ?」  何気なく聞いたつもりだった。  けれど、穂乃果はぴたりと足を止めた。 「えっ……?」  そして、信じられないものを見るような顔で俺を見上げる。 「輝流、覚えてないの?」 「えっ」  その反応に、こっちが一歩引いた。  まずい。これは何かを踏んだ。 「むむむむっ……!」  穂乃果の頬が、分かりやすく膨らんでいく。 「輝流が、小学生の頃に言ったんだよ。みんなの前で名前で呼ぶのやめてくれって」 「……」  げ。  そう言われてみれば。  いや、確かにそんなことを言った気がする。小学生の頃。周りの男子にからかわれて、妙に恥ずかしくなって、それで――。 「そ、そうだったか?」 「そうだよぉ!」  穂乃果が俺の腕を軽く叩いた。 「私はずっと、輝流って呼びそうになるのを我慢してたんだからね?」 「悪い」  観念して謝る。 「ほら、俺も多感な時期だったんだよ。いくら幼馴染でも、その……そういうのが恥ずかしい時期があったんだ」 「ふーん」  穂乃果はじっと俺を見る。  目の下にはまだ隈があるのに、こういう時だけやたら鋭い。 「じゃあ、今は?」 「今は別に気にならねーよ。あくまで子供の頃の話だ」 「今もまだ子供だけどねっ」  穂乃果が少しだけ得意げに笑う。 「……それもそうだな」  否定できなかった。  俺たちは、たぶんまだ子供だ。  けれど、あの頃とまったく同じでもない。  名前を呼ばれるだけで周りの目が気になった昔の俺と
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10.苦悶の声

 俺には、はっきりと見えていた。  自販機の白い光の端に立つ、女の姿。  折れ曲がった手足。濡れた髪。血に染まった服。歩くたびに揺れる、もう身体としての形を保てていない輪郭。  けれど――。 「あ、足音が……止まったけど……」  隣で、穂乃果が震える声を出した。 「どうなったの……?」  俺は穂乃果を見る。  彼女の目は、自販機の前を必死に探っていた。俺が見ている場所と同じ方を向いている。なのに、その瞳は女の姿を捉えていない。  見えていないのか。  俺には、こんなにも鮮明に見えているのに。  女は俺を見ていた。  いや、見ているというより、縋っているのかもしれない。血の気のない唇が、ゆっくりと動く。 『痛ァい……もう……解放されたい……』  声が聞こえた。  耳に届いたというより、頭の内側を直接撫でられたような声だった。掠れて、濡れて、どこかで途切れかけている。  穂乃果には、聞こえていないらしい。  彼女はただ、不安そうに俺の横顔を見上げている。  俺は一歩、前に出た。 「あなたは、なぜこの世に留まっているんですか?」 「えっ……」  穂乃果が息を呑む。 「も、もしかして……目の前にいるの……?」 「ああ」  俺は女から目を逸らさずに答えた。 「酷い怪我だ。いや、もう怪我とかそういう次元じゃないか。手足は折れ曲がってるし――」 「ひっ……! い、言わなくていいよ……!」  穂乃果が俺の袖をぎゅっと掴む。  その指が震えていた。  俺はそこで口を閉じた。たしかに、見えていない相手に細かく説明する必要はない。穂乃果の想像力に余計なものを渡すだけだ。  女は、こちらの会話など聞こえていないみたいだった。 『痛い……苦しい……なんで……どうして私がこんな目に……』  同じ場所で、同じ苦痛をなぞり続けている。  二十年。  穂乃果が調べた通りなら、この人は二十年近く、この道に縛られている。  死んだ瞬間の痛みを、何度も、何度も。  終わったはずの身体で、まだ終われないまま。 「……俺に、何かできることはありますか?」  聞くと、女の首がわずかに傾いた。  ぎしり、と骨の軋むような音がした気がした。  そして、濡れた唇が動く。 『指輪……』 「指輪?」 『指輪を……返して……』  その声
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