جميع فصول : الفصل -الفصل 20

55 فصول

11.秋崎 叶

 その後、俺は穂乃果を家まで送り届けた。  本人は最後まで「大丈夫」と言い張っていたが、どう見ても大丈夫ではなかった。歩きながら何度も目を擦っていたし、玄関先で別れる時には、返事の語尾が半分眠りに溶けていた。  それにも関わらず穂乃果は、祖父の書斎から当時の新聞をいくつも引っ張り出してきて、俺に渡してくれた。 「古いから、破かないようにね」  そう念を押す声だけは、妙にしっかりしていた。  そして現在。  俺は自室の机に向かい、借り受けた新聞を一枚ずつ広げている。  貴重な二十年前の新聞だ。紙は黄ばんでいて、端は少し脆くなっている。印刷の色も薄れかけているが、文字はまだ読めた。  古い紙の匂いが、部屋にじわりと広がる。  スマホで検索すれば一瞬で済むようなものとは違う。指先で紙をめくり、日付を追い、見出しを拾っていく作業は、妙に時間がかかった。  俺は一月、二月、三月と、順番に新聞を確認していく。  地方欄。事故。事件。小さな町の行事。商店街の特売。どこかの小学校の運動会。知らない誰かの暮らしの断片が、薄い紙の上にまだ残っている。  確か、あのあたりの地区の名前は――。 「|稲穂町《いなほまち》……だったか」  小さく呟きながら、記事の中にその地名を探す。  今は田んぼばかりの場所だ。けれど、古い記事の中に出てくる稲穂町は、俺が知っている景色とは少し違う。  田園の中を、線路が通っている。  夕方になると、電車の窓から金色に揺れる稲穂が見えたらしい。地元の人間にとっては、ありふれた景色で、同時に少しだけ誇らしい景色だったのだろう。  記事の端に載った小さな写真には、線路脇に広がる田んぼが写っていた。  夕日を反射した水田。  細い線路。  遠くの山。  そこに、今の自販機はない。  当たり前だ。  けれど、そう思った瞬間、昨日の白い光が脳裏に浮かんだ。  女が立っていた場所。  濡れた足音。  指輪を返して、という声。  俺は新聞をめくる手を早めた。  四月、五月、六月。  そして、七月。  地方欄の隅に、その記事はあった。 「……これだ」  見出しは大きくない。  けれど、そこには確かに人身事故の記載がある。  稲穂町。旧線路付近。若い女性が列車にはねられ死亡。  俺は記事の下にある記者名へ視
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12.時間が止まった家、誘う扉

 夕日は、秋崎邸の屋根を赤く照らしていた。  燃えているみたいだ、と思った。  もちろん、本当に火がついているわけじゃない。傾いた陽が瓦に反射しているだけだ。けれど、周りに家が一軒もないせいで、その赤だけが妙に浮いて見えた。  二階建ての、かなり大きな家だった。  古い。  だが、ただの廃屋という感じでもない。  庭がやけに広く、門から玄関までの距離もある。伸びた草が夕風に揺れていて、誰も住んでいないはずなのに、まるでここだけ時間の流れから取り残されているようだった。 「まさか、直接来ることになるなんてな」  俺がそう呟くと、隣で穂乃果が小さく肩を跳ねさせた。 「そ、そ、そうだね……。で、でも輝流、あの時にも言ったけど、秋崎叶さんのご両親は……」 「分かってる」  秋崎叶の両親は、もう亡くなっている。  それは、穂乃果から聞いていた。叶の死後、この家は長いこと人の手を離れている。けれど、中のものは当時のまま残されているらしい。  その話を聞いた時、正直、気味が悪いと思った。  娘を亡くした家。  主を失った部屋。  二十年前の時間を抱え込んだまま、閉じられた屋敷。  普通なら、近づかない。  でも、普通で済むなら、最初からここには来ていない。 「指輪に関しては、手がかりがなさすぎる。かといって、俺にははっきり見えてる以上、無視もできない。幸い、今の秋崎邸には管理人もいないみたいだからな。せめて外から、何か残ってないか確認したかった」 「そ、それは分かるけどぉ……」  穂乃果は、落ち着かない様子で屋敷を見上げた。  怖いのだろう。  無理もない。俺だって、気分がいいわけじゃない。  勝手に家の中へ入る気はなかった。  死んだ人間の家だろうが、無人の家だろうが、それはさすがに話が別だ。失礼だし、普通にまずい。  だから俺は、玄関先まで歩いていきながら言った。 「とりあえず……念のため確認だ」 「えっ、ちょ、輝流?」  穂乃果の声を背中に聞きながら、玄関の扉に手をかける。  冷たい感触が指先に伝わった。  ゆっくり押す。  動かない。  もう一度、少しだけ力を込める。  やはり扉はびくともしなかった。  当然だ。  俺は手を離し、肩をすくめる。 「鍵は閉まってる。ここの庭、広いからさ。外を少し探して
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13.招き入れたもの

 俺たちが玄関をくぐった瞬間だった。  背後で、扉が勢いよく閉まった。  バタン、と屋敷中に響くような音がして、穂乃果が短く悲鳴を上げる。 「きゃぁっ!」  握っていた手に、ぎゅっと力がこもった。  俺は一度だけ振り返る。  ついさっきまで夕日の赤を背負って開いていた扉は、今は何事もなかったように閉じていた。 「……扉が勝手に閉まったな」 「な、なんでそんなに冷静なのぉ……!」  穂乃果の声は、ほとんど泣き声だった。 「いや、だって俺たちはもう、不自然に開いた扉の中に入ってるんだぜ。今さら閉じたところで、おかしさとしては順当だろ」 「た、たしかに……って、そうじゃなくて! なんでそんな切り分けができるの……!?」  穂乃果が空いているほうの手で、俺の背中をばしばし叩いてくる。 「いて、いてて……落ち着けよ、穂乃果」 「落ち着けるわけないでしょ!」  まあ、それはそうだ。  俺だって内心は、そこまで落ち着いているわけじゃない。  ただ、騒いだところで扉が開くわけでもないし、ここで俺まで完全に取り乱したら、大変なことになる。  そう思った、次の瞬間。  家が震えた。  最初は、床下から小さな振動が伝わってきただけだった。けれどそれはすぐに壁へ、天井へ、階段へと広がっていく。  がたがた、と窓枠が鳴る。  廊下の奥で、何かの家具が軋む。  閉じられた扉が、一枚、また一枚と内側から叩かれているみたいに震え始めた。  家全体が、息を吹き返したようだった。 「な、なになになに!? もうやだ!!」  穂乃果が俺の腕にしがみつく。  その時、鼻の奥を突くような臭いがした。 「っ……なんだ、この臭い……」  思わず顔をしかめる。  古い木材や埃の臭いじゃない。もっと鋭い。鼻に刺さって、喉の奥にざらつきを残すような刺激臭だった。  穂乃果もそれに気づいたのか、青ざめた顔をさらに強張らせる。  空気が変わった。  さっきまで、この家はただ古く、暗く、閉じられているだけだった。  けれど今は違う。  何かがいる。  そう思わせるだけの気配が、廊下の奥から、階段の影から、壁の隙間から、じわじわと染み出していた。  やっぱり、穂乃果を連れてくるんじゃなかった。  胸の奥で、そんな後悔が遅れて湧く。 「穂乃果」 「な
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14.百貌様

 階段は、一段上がるたびに軋んだ。  ぎし、ぎし、と古い木の悲鳴が足裏から伝わってくる。  穂乃果は俺の背中に額を押しつけたまま、ほとんど目を伏せるようにしてついてきていた。  二階へ上がると、廊下には五つの扉が並んでいた。  どの扉も閉まっている。  窓から差し込む夕日の赤だけが、床板の上に細長く伸びていた。  その奥。  一番突き当たりの部屋の前に、またあの老婆が立っていた。  血に濡れた顔。  白く濁った目。  苦しげに歪んだ口元。  老婆は、ゆっくりと腕を持ち上げる。  伸びた人差し指が、目の前の扉を指していた。  ――中へ入れ。  そう言っているように見えた。 「……」  俺は小さく頷いた。  近づくと、老婆の輪郭がすうっと薄れていく。血に濡れた袖も、伸ばされた指も、白く濁った目も、夕闇に溶けるように消えていった。  間違いない。  あの老婆は、俺を導こうとしている。  俺は扉の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけた。  金属は冷たかった。  妙に湿っているようにも感じた。  ゆっくり押す。  扉は、抵抗なく開いた。  そこは、広い書庫だった。  壁一面に本棚が並んでいる。天井近くまで詰め込まれた本の背表紙が、薄暗い部屋の中で静かにこちらを見下ろしていた。奥には長机が置かれていて、古い椅子が一脚だけ引かれている。  きっと、そこで読んでいたのだろう。  誰かが。  長い時間をかけて。 「……すごい本の量だな」  思わず呟く。  本棚に近づき、背表紙を目で追った。  霞沢県の歴史。  古代信仰の変遷。  郷土史。  山岳信仰の民俗学。  そして、神鳴山の起源に関する本。 「秋崎さんって、考古学者だったのか?」 「えっと……確か、そう。お母さんの方が考古学者だったはず……」  穂乃果が、俺の背中から少しだけ顔を離す。 「なんで分かったの?」 「ここ、本の種類が偏ってる。地理から歴史、民俗学まである。趣味で集めるにしては、量が多すぎるんだ」  ただ、古い本ばかりというわけでもなかった。  比較的新しい装丁の本も、何冊か混じっている。  その中で、一冊の背表紙が目に留まった。  ――霊との向き合い方。  著者、櫻井悠斗。 「……」  気づけば、その本を手に取っていた。
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15.叶の日記

 老婆の後に続くと、書庫のさらに奥へ出た。  本棚と本棚の間に、細い通路がある。人ひとりが通るだけで肩が触れそうな幅だった。両側から古い本の背表紙が迫ってきて、埃と紙の匂いが濃くなる。  その突き当たりに、もうひとつ机があった。  長机ではない。もっと小さな、誰かがひとりで座るための机だ。窓から離れているせいで薄暗く、机の上だけが影の中に沈んでいる。  老婆は、その机の前で足を止めた。  俺が近づくと、また姿が薄れていく。血に濡れた肩も、皺だらけの手も、白く濁った目も、静かに空気へ溶けていった。  あとには、机だけが残された。 「……これは」  机の上には、一冊のノートが置かれていた。  埃をかぶっている。長いあいだ、誰にも触れられなかったことが一目で分かった。けれど不思議なことに、そのノートだけは本の山に埋もれていない。まるで、誰かが意図してそこに置いたように、机の真ん中にあった。  俺は指先で表紙の埃を払った。  その瞬間、脳裏に映像が流れ込んできた。  あの老婆が、ここに座っている。  今のような血まみれの姿ではない。もっと生きていた頃に近い、痩せた背中の女性が、震える手でこのノートを開いている。何度も何度も同じページを読み返し、唇を噛み、涙を落としている。  見たはずのない光景だった。  それなのに、なぜかありありと分かってしまった。  この机で、あの人はこれを読んでいた。 「輝流……?」  背後から、穂乃果の不安げな声がする。 「大丈夫だ」  そう答えながら、俺はノートを開いた。  古ぼけた紙に、丸みのある文字が並んでいる。若い女性の筆跡だった。  叶の日記。  そう理解した瞬間、指先が少しだけ重くなった。  俺は最初のページへ目を落とした。  ――五月一日。  もうすぐ夏が来る。  こんなふうに日記を書き続けて、もう何年になるんだろう。特別なことなんて何もない日の方が多いのに、それでも書かないと一日が終わった気がしない。  でも今日は、少し違う。  朝からずっと、胸の奥がそわそわしている。  たぶん、あれを見てしまったからだと思う。  あの人の鞄の奥に入っていた、小さな四角い箱。  見間違いじゃなければ、きっと、あれは――。  そこで文章は途切れていた。  俺は無意識に息を詰め、次のペー
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16.白石孝之の調査録

 俺と穂乃果は、その場に立ち尽くしていた。  開かれた日記の最後のページには、もう何も書かれていない。  七月六日。そこで、叶の言葉は途切れていた。  妙な居心地の悪さが、胸の奥に沈んでいく。  白紙のページは、ただ白いだけだ。  なのに、そこには何かがびっしりと書き込まれているような気がした。  書かれなかった言葉。  書けなかった理由。  そして、その翌日に起きたこと。  背中を、冷たい汗が一筋流れた。 「輝流……これ……」  穂乃果の声も、ひどく小さかった。  考えたくはない。  でも、そういうことなのだろう。  叶は、その次の日に死んだ。  本来なら、新婚旅行に行くはずだった七月七日。七夕の日に。  電車に轢かれて。 「輝流、見て……」  穂乃果が震える手でスマホを取り出した。  画面をこちらへ向ける。そこに映っていたのは、古い新聞を撮影した画像だった。端が少し歪んでいて、画面の光に反射して読みにくい部分もある。 「これは?」 「一応、私も……輝流に渡した新聞とは別に、調べてたの。そしたら、やっぱりおじいちゃんの書斎にいろいろ残ってて」  穂乃果は画面を握る指に力を込めた。 「おじいちゃんは、間違いなくこの事件を追ってたんだと思う。たぶん、不審に思うところがあったんだよ」 「読んだのか?」 「……ううん」  穂乃果は首を横に振る。 「輝流と一緒に見るべきだと思ったのと……あと、怖かったから。なんとなく、ひとりでは読めなかった」  その気持ちは分かる。  この家に入る前なら、少し大袈裟だと思ったかもしれない。  でも今は違う。  叶の日記を読んだあとでは、この画面の中に写っている文字が、ただの過去の記事には見えなかった。  俺はスマホの画面へ意識を集中させる。  そこには、叶の最後について書かれていた。  七月七日。  秋崎叶さんが婚約者と共に歩いていたところ、列車が近づいてきた。  その直後、叶さんは安全柵をくぐり抜け、線路へ飛び込んだとされている。  事故当日、叶さんは本来予定していた新婚旅行を取りやめ、来年へ延期していた。  また、家族の証言によれば、叶さんは婚約者と共に、急遽他県へ移る準備を進めていたという。  そこで記事は一度切れていた。  穂乃果が指で画面を滑らせる。
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17.残された言葉たち

 部屋の中は、嫌なほど静かだった。  古い紙の匂い。  埃の積もった机。  閉じられた日記。  それらの全部が、俺たちの前で黙っている。  けれど、黙っているだけで、何も語っていないわけじゃない。  むしろ逆だ。  ここに残されたものは、あまりにも多くを語りすぎていた。 「……一回、整理しよう」  俺がそう言うと、穂乃果はびくりと肩を揺らした。 「整理……?」 「ああ。このままだと、情報が多すぎる」  俺は叶の日記に手を置いたまま、できるだけ落ち着いた声で続けた。 「まず、叶さんは六月二十六日に、黒い人影を見てる」 「うん……」 「その時点では、まだ気のせいかもしれないと思ってた。でも七月一日には、はっきり“何かが自分を見ている”って書いてる。しかも、家の中には入ってこない。外から覗いていた」  穂乃果が、自分の肩を抱くようにして頷く。 「それで、七月六日……」 「姿がはっきり見えるようになった」  俺は日記の最後のページへ視線を落とした。 「身体に、いくつもの顔が張りついている。叶さんはそう書いてる」 「それって……おじいちゃんのメモにあった言葉と同じだよね」 「ああ」  顔を貼りつけた何か。  叶が見たもの。  婚約者が見たもの。  そして、白石孝之が手がかりだと考えたもの。  同じものだ。  そう考えるのが自然だった。 「次に、叶さんのお母さんだ」 「お母さん……」 「叶さんが“身体に顔がある”って話した途端、顔色を変えた。遠くへ行け、この町から離れろ、と言ってる」  穂乃果が、唇を噛んだ。 「つまり、お母さんは知ってたんだよね」 「たぶんな」  俺は頷く。 「少なくとも、ただの幻覚だとは思わなかった。叶さんに何が迫ってるのか、ある程度は分かっていたんだと思う」 「でも……だったら、どうしてもっと早く逃げなかったんだろう」 「そこが分からない」  俺は日記の表紙を指で軽く叩いた。 「叶さんは七月七日に新婚旅行へ行く予定だった。でも実際には、それを取りやめて、婚約者と他県へ引っ越そうとしていた」 「逃げようとしてた……ってことだよね」 「ああ。旅行じゃなくて、避難に近い」  新婚旅行の延期。  急な引っ越し。  母親の忠告。  そして、その翌日に起きた人身事故。  並べ
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18.幼い頃の約束

 ――探すべきなのは、叶さんの母親が残したものだ。  そう考えた瞬間、俺は日記から顔を上げた。  けれど、すぐには動かなかった。  先に、やらなければならないことがあった。 「穂乃果」 「……なに?」  穂乃果は、まだ青ざめた顔をしていた。  怖がっている。それなのに、俺の隣から離れようとはしない。  俺は少しだけ迷ってから、彼女と正面から向き合った。 「やっぱり、お前は――」 「帰れ、って言うんでしょ?」  俺の言葉を遮るように、穂乃果が言った。  その声は震えていた。  けれど、弱くはなかった。 「……ああ」  俺は短く認める。 「お前も分かってるだろ。この件を追いかけるってことは……」  そこから先は、口に出さなくても分かるはずだった。  秋崎叶。  その婚約者。  そして、白石孝之。  少なくとも三人。  もっと多い可能性だってある。  顔を貼りつけた何か。  叶を追い、婚約者を狂わせ、孝之さんの死にまで繋がっているかもしれない存在。  確証なんてない。  でも、確証がないから安全だなんて言える段階は、とっくに過ぎていた。  これは危険だ。  今まで読んだどんな怪談よりも、調査記録よりも、はっきりと危険だった。 「輝流」  穂乃果が俺の名前を呼んだ。 「それなら、輝流も一緒に帰ろうよ……」  正しい。  彼女の言っていることは、何一つ間違っていなかった。  見ず知らずの誰かのために、自分の命を危険に晒す必要なんてない。二十年前に死んだ女性。変死した家族。発狂した婚約者。そんなものは、俺たちが背負うべきものではない。  警察に言えばいい。  大人に任せればいい。  そもそも何も見なかったことにして、この屋敷を出ればいい。  それが、普通だ。  正しい。  けれど。  俺の足は、もう出口の方を向いていなかった。 「穂乃果も知ってるだろ」  俺は、自分でも驚くほど平坦な声で言った。 「俺は昔から、恐怖を感じない」  穂乃果の目が揺れた。 「……輝流」 「不気味だとは思う。嫌なものだとも分かる。今の状況がまともじゃないことも分かってる」  血の跡。  勝手に開いた扉。  老婆の霊。  叶の日記に残された、顔を貼りつけた何か。  それらを思い返しても、胸の奥にあるべ
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19.未練の在り処

 それから、どれくらい経ったのだろう。  三十分は過ぎていた気がする。  けれど、正確な時間は分からなかった。  書庫の壁に掛かった古い時計は、針が止まっている。  スマホを確認しても、なぜか圏外の表示が出ているだけだった。時刻を見ることはできるはずなのに、画面の数字さえ信用できないような気がした。  この家に入ってから、時間の感覚が少しずつ曖昧になっている。  それは、俺たちが必死に探し続けていたせいかもしれない。  本棚を端から確認し、机の引き出しを開け、古い書類の束をめくる。  埃が舞い、喉の奥がざらつく。穂乃果は何度も小さく咳き込みながら、それでも手を止めようとはしなかった。  ただ、それでも限界はある。  ここにある本は、あまりにも多すぎた。  一冊一冊を開いていたら、夜が明けても終わらない。 「……駄目だな」  俺は本棚の前で息を吐いた。  その時だった。  目の前の空気が、ひやりと冷えた。  反射的に顔を上げる。  そこに、あの老婆が立っていた。  血に濡れた姿。白く濁った目。苦しげに歪んだ口元。  けれど、さっきまでより少しだけ輪郭が薄く見えた。 『こっ……ち……』  掠れた声が、空気の奥で鳴った。  穂乃果には聞こえていないらしい。少し離れた棚の前で、背表紙をひとつずつ確認している。  俺は小さく息を吸い、老婆に向き直った。 「……ありがとうございます。案内、お願いします」  老婆はゆっくりと背を向けた。  俺は穂乃果に気づかれないよう、静かに動き出す。  やはり、この老婆に敵意はない。  見た目だけなら、今でもまともに直視したくない。血まみれで、白目を剥き、苦しげに呻く姿は、人を怯えさせるには十分すぎる。  だが違う。  この人は、俺たちを脅かしたいわけじゃない。  導こうとしている。  何かを伝えるために。  もう自分では触れられないものへ、俺の手を届かせるために。  老婆は、本棚の前で足を止めた。  そこにあったのは、さっき俺が一度手に取った本だった。  ――霊との向き合い方。  著者、櫻井悠斗。 「えっ……?」  思わず声が漏れる。 「これに、あなたの記録が?」  老婆は、悲しげに顔を歪めた。  そして、ゆっくりと首を横に振る。  違う。  けれど、指は
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20.泥と暗闇

 泥は、思ったより冷たかった。  スマホのライトを足元へ向けるたび、黒い水を含んだ土が鈍く光る。田んぼの畦道は狭く、少し足を踏み外すだけで靴底がぬかるみに沈んだ。制服の裾はとっくに汚れている。手も、膝も、ひどい有様だった。  それでも、俺たちは探し続けていた。  かつて線路が走っていた場所。  もう電車の音はしない。踏切も、レールも、まともな形では残っていない。廃線になったその周囲には、田んぼと暗闇だけが広がっている。  ここで、叶は死んだ。  そして、その時まで身につけていたはずの指輪が消えた。  手記には、そう書かれていた。 「……くそ」  俺は畦道の端にしゃがみ込み、ライトを左右に動かした。  草の根元。ぬかるみ。石ころ。錆びた空き缶。誰かが捨てたビニールの切れ端。  どれも違う。  探しているのは、そんなものじゃない。  けれど、頭の奥ではさっきから同じ考えばかりがちらついていた。  二十年前だ。  二十年も前に落ちた指輪が、今もここにあるのか。  誰かに拾われたかもしれない。雨に流されたかもしれない。農作業の途中でどこかへ紛れたかもしれない。そもそも、この場所に残っているという考え自体が、都合のいい願望なのかもしれない。  そう思うたび、胸の奥がざらついた。  今になって、ようやく不安が追いついてくる。 「穂乃果」  俺は顔を上げた。 「そっちにはあったか?」  少し離れたところでしゃがんでいた穂乃果が、スマホのライトをこちらへ向ける。頬にまで泥が跳ねていた。髪の一部も湿って、こめかみに張りついている。 「ま、まだ……さすがに、ないね」  穂乃果は苦笑いのような顔をした。 「夜だし、本当は昼間の方がいいんだけど……」  そこで、言葉が途切れた。  その先を、穂乃果は言わなかった。  昼まで待とう。  普通ならそう言うべきだった。こんな暗い中、スマホのライトだけで指輪なんて探せるわけがない。足場も悪い。今は撤去された廃線跡の近くで、夜にうろつく理由としては最悪だ。  けれど、俺にも分かっていた。  穂乃果も、あの手記を見てしまった。  叶を助けてほしいと願った、母親の最後の言葉を見てしまった。  あれを読んだあとで、明るくなるまで待とうなんて言えるほど、俺たちは器用じゃなかった。  俺は何も
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