将暉は睡蓮の寝息を確認し、寝室の軋むドアをそっと閉め、書斎へと向かった。廊下を進むその足取りは重く、スリッパの音が静かな家に鈍く響いた。月夜に照らされた「花梨」の部屋のドアを横目に、彼の表情は暗く冴えなかった。そこには、彼女のいないベビーベッドが静かに佇み、かつての希望が凍りついたように沈黙していた。埃が薄く積もったベビーベッドの柵が、月光に冷たく光り、将暉の胸に「花梨」の喪失を突き刺した。彼は目を逸らし、ゆっくりと書斎へ足を踏み入れた。暗闇の中、マホガニーのデスクに灯るランプの仄かな光が、部屋にぼんやりとした輪郭を描いた。その光に照らされた将暉の目には、躊躇いと疲弊が浮かんでいた。 彼は静かに重い引き出しを開け、書類の束を取り出した。その奥には、緑枠の離婚届がひっそりと眠っていた。木蓮の父親から届いたのは一ヶ月も前のことだ。証人欄には、すでに両親のサインと印鑑が捺され、冷たい墨が決断の重さを物語っていた。将暉は何度も署名しようとボールペンを握ったが、その指先は小刻みに震え、インクは紙に触れることなく乾いた。それは木蓮への僅かな情だったのか、腹の双子......和田コーポレーションの後継への執着だったのか、彼自身戸惑っていた。木蓮の冷たい視線、病室で叩きつけられたヒナギクの花びら、睡蓮の憎悪に満ちた叫びが、頭の片隅で交錯した。書斎の窓から差し込む月光が、離婚届の緑枠を冷たく照らし、まるで彼の決断を急かすようだった。将暉はペンを置き、額に手を当てた。睡蓮との殺伐とした生活、ゴミ袋がぞんざいに置かれた玄関、冷凍食品の並ぶ食卓が、彼の心に重くのしかかった。
Last Updated : 2025-10-20 Read more