平安初期の貞観年間(865年前後)、不死の名を冠する富士山は大噴火を繰り返し常に噴煙を上げていた。その不死の山を西方に臨む最果ての地、武蔵の国に関東検非違使所はあった。国衙(=国の役所)に隣する検非違使所の館は貴顕の住まいもかくやというほど豪壮だ。 檜皮葺きの巨大な母屋に東西の対屋を従え、白砂を敷き詰めた御前の向こうは滔々と池水が広がり、須弥山を模した峻厳極まる中島が浮かんでいる。館の主は地獄判官様。その名は、悪逆の咎を受け死罪となりながら地獄より蘇ったことが由来だという。本来の長官、別当は京の都にあって武蔵国には下向しないゆえ、在所で政を司るのが判官である。判官は辺境の地にあって衛門尉、従五位下という官位を持ち、さらに軍事・警察・裁判を統べるがゆえに、大守(国司)を凌ぐ権勢を誇る。 その館の一角、東の対屋は上臈の御方々の居所で、母屋並びに廂の間には御簾や屏風、几帳で仕切られた局室が並んでいる。東廂の簀子を通って一番奥まで行くと漆喰壁で囲われた一室、塗籠だ。そこは間口が格子になっていて、まるで檻のような設えなのだった。それでもこの離れの局室という扱いになっているが、居るのは上臈ではない。格子から中を覗くと、光がうっすらと射し込む藁床の上に襤褸のようなものが載っていることに気づくだろう。その襤褸は藁の上で全く動かないのだが、飽きずにじっと見ていると、かすかに上下に動いているのが分かる。息をしているのだった。 足音が近づいて来る。しっかりとはしているが調子の崩れた足音が格子の前に停まる。その音に反応して襤褸が頭をもたげ、炯炯と光る眼を格子の外の人影に注いだ。「クサビ、地獄様がお召しだ」 クサビというのがその襤褸の名だった。この関東検非違使所で走り隷の役につく女だ。走り隷とは野盗や罪人の追捕を担うものを言う。それならば上臈の住まう東の対屋でなく、域外の隷長屋にいるのがふさわしいが、クサビは判官様の命で去る夏からず
最終更新日 : 2025-09-01 続きを読む